身体に馴染んだ揺れが心地いい。
薄目を開ければ丸窓から柔らかな朝の光が差し込んでいて、時折きらめく波模様が反射して天井に映る。
サンジが好きな、朝の景色だ。
―――帰ってきたんだな
改めてそう感じて、サンジはもう一度目を閉じた。


昨夜、どんちゃん騒ぎの中でこっちに帰って、ゾロとの会話で混乱した。
無性に腹が立って興奮が収まらなくて、一睡もできなかった気もするのに、気が付けば朝になっている。
なにもかも夢だったらいいのに。
家族がいて友人がいて、平和な世界に暮らすもう一人の自分なんて、海賊暮らしの合間に見た一時の
夢だったらどんなにかいいだろう。
幸せな記憶として、胸の中に大切に仕舞っておけたらそれだけでいいのに。
現実には、もう一人の自分はこっちに来てしまったらしい。
それどころか、そいつが本当の自分だという。
そして俺は、あっちの世界の住人だって。
大混乱だ。



なら俺は何故、ここにこうして存在するんだ。
片目を失って、親の顔も知らず、幼い頃から働いて、飢餓の島で死に掛けて、恩人を殺そうとして―――
母親の呪いだと?
高価な宝石がなんだってんだ。
国同士の争いがどうしたって?
俺に残されているのは、飢えに対する怯えとじじいの夢を奪った罪悪感だけじゃねえか。
サンジはハンモックに横たわったまま両手で顔を覆った。

なにもかも理不尽だ。
本来なら自分はまだ17歳で。
日本って国で家族に囲まれて、親友のゾロに守られて生きているんだ。
料理なんてろくに作れず、学校とか言うところでたくさんの友達に囲まれて、戦うことを知らず飢えることも
知らず、毎日笑いながら過ごしていたんだ。
そんなこと・・・望んじゃいねえけどよ。

ごしごしと目を擦る。
眼球のない左眼は頼りなくて、、すぐに前髪で覆い隠した。
ゆっくりと身体を起こしてため息をつく。
部屋の中にクルーの姿はない。
みんなあのまま甲板で寝くたれているんだろうな。
サンジは手早く着替えると、キッチンに向かった。





「サンジの飯だ―――!」
開口一番そう叫んで起きたルフィは、嗅覚だけを頼りにキッチンに飛び込んだ。
その声に、毛布に包まって寝ていたそれぞれが目を覚ます。
「あらやだ、こんなところで寝ちゃってた」
「だめだぞ、こんなとこで寝てると風邪ひくぞ」
「チョッパーもじゃんか」
「顔洗って出直して来―い!」
ラウンジの扉が開くと、サンジに蹴りだされたルフィが勢いよくメリーの頭まで飛んで跳ねている。
「ふふ、いつもの朝ね」
ロビンは幸せそうに微笑んだ。



「あー美味い、やっぱりサンジの飯は最高だなあ」
いつも以上に忙しいルフィの手があちこちに伸びては、縦横無尽に食べ捲くっている。
一応、これを見越してサンジも今朝は多めに作った。
見張台で寝くたれていたゾロも時間に間に合うように起きてきて、黙々と箸を動かしている。
「まあな、あのサンジの飯も美味かったけど、やっぱこの腕には敵わねえよな」
「サンジ君はプロだもの、当たり前じゃない」
「ああっナミさん〜vさっすがボクのことよく理解してくださってるv」
サンジは温かいスープをよそいながら、手元を揺らさずに身体だけ器用にくねらせた。
「けど、ちょっとやっぱ寂しいよな。僅かな時間とは言え、一緒に旅した仲間だ」
ウソップがほんわかと目を細めた。
ナミの表情も柔らかくなる。
「そうね、なんでも一生懸命な、いい子だったわね」
「あっちでも元気にやってるかな。一応帰るときの覚悟はできてたから、大丈夫だと思うけど」

サンジは黙って給仕をしながら、聞き流した。
なんとなく、この話題は早く終わって欲しいと思う。
自分がいない間の話なんて、聞きたくない。
「サンジも、ものの位置とか在庫とか随分変わってると思うけど、適当に直してやってくれな」
「ああわかった、ほら、パンケーキ追加だぞ」
わーいと欠食児童たちが群がる。
その様に満足して目を細めると、サンジも改めて食卓に着いた。



キッチンを片付けて、倉庫の整理も済ませた。
思っていたより荒らされていなくて、なんとなく肩の力が抜けてしまう。
島で仕入れた食材も、必要なものは揃えられていて、文句のつけようがない。
―――なんでだ?
首を傾げながら、イスに座ってタバコに火をつけた。
ルフィ達のはしゃぐ声が甲板から遠く響いてくる。
ゆっくりと煙を吹かすと、ふと思いついて引き出しを開けた。
最近は何も書かずに入れっぱなしになっていたはずのレシピノートが、えらくくたびれた感じで入っている。
手に取って広げると、いくつもの開き癖が付いていた。
―――こいつを読んだのか
所々に粉や染みがついていて、ちっと舌打ちした。
けれど、本当は確かにこんな風に読んでもらうために作ったものだ。
そういう意味では、ちょっと悪い気はしない。

ルフィに誘われてこの船に乗って、オールブルーを探す旅に出た。
もしも、もしもこの目で見つけたなら、自分はそこで船を降りるつもりだ。
そこが絶海の孤島であっても、その地に降り立ち骨を埋めるつもりでいた。
そのために作り始めたノートだ。
いつ自分が船を降りても、もしくはいつ命を落としても、次にこの船のコックとなる誰かに、できる限りの
情報を残しておいてやりたかった。
明日をも知れぬ海賊暮らしだ。
命の終わりは突然に来ることを知っている。
いつ自分が消えてもいいように、準備を万端にしておいたつもりだった。
―――けれど・・・
段々そういう気にならなくなってきたんだよなあ。



奇跡の海への憧れは尽きない。
けど、見つけてしまったらそこで終わりにできそうにない。
そこで料理を作って、仲間たちに食わせて・・・それから、その後もルフィが海賊王になるところを、ナミさんが
海図を書き上げるところを、ウソップが勇敢な海の戦士へと成長するところを、チョッパーがすべての病を
治す立派な医者になるところを、ロビンちゃんが古代の謎を解き明かすときを―――
なんかすべてを見届けてえなんて、思ったりして・・・
一人で夢を追ったガキの頃とは違う、共に喜びを分かち合いたい仲間がいる。

サンジはこきんと首を傾けた。
そん中に、あのクソマリモなんかも入ってたりしたんだが・・・
奴から見たら、そんなのは多分馴れ合いでしかない。
元々鷹の目を追うために船に乗っているだけの男だ。
鷹の目が陸に下りて山にでも入れば、奴は迷うことなく船を降りる。
仲間には一瞥もなしに。
そういう男だ。
未練がましく共にありたいと願うのは、俺だけだ。

サンジは短くなった吸殻を灰皿に押し潰して、深いため息をついた。
わかっていても、身体だけでもって思っちまった。
酔った弾みで誘いをかけたら、思いもかけずあっさり食いついてきた。
それからは当然のように求めてくるし、別に拒む理由もないからズルズルと関係を続けている。
けれど・・・
さすがに、今回のことは堪えたぜ。

ゾロは、この身体を抱いたという。
サンジではない男を。

最初からわかってはいたことだけど、さすがにショックが大きい。
所詮、身体だけの関係なんだ。
ゾロにとって中身なんて関係ない。
馴染んだ身体をいつものように抱いただけだ。
それどころか、真剣になんて言いやがった。
真剣に、だと?
そいつはマジでゾロを受け入れたって言うのか?
もしかして、好意を持ったのか?



扉の開く音に、びくりと背中を震わせた。
平静を装って振り向けば、ウソップが目を丸くしてこっちを見ている。
「悪い、転寝してたのか」
「いや、ちょっとな・・・」
誤魔化すつもりで、二本目のタバコに火をつけた。
「そろそろおやつの時間だな」
「ああ、ルフィが腹減ったってうるさいんだ。けどあいつがここに飛び込むと、またうるさいだろう。俺が代わりに
 取りに来た」
他人の心理状態に聡いウソップは、サンジが内心かなり動揺していることに気付いているのだろう。
そんなちょっとした心遣いはありがたいが、時にはちょっと鬱陶しくもなる。

「冷蔵庫の二段目に冷やしてあるから、持ってってくれ。一人ワンホールずつだ」
小ぶりサイズのアントルメが見事にデコレートされて並んでいて、ウソップは素直に感嘆の声を上げた。
「さっすがだなあサンジ。見た目も極上なら味も最高だ。やっぱ違うよなあ」
そう言ってから、あ、と口を歪める。
「・・・比べるつもりはないんだけどな、許せ」
「別に、俺はなんとも思わねえぜ」
煙草を吸いながら目を眇める。
平和育ちの坊ちゃんなんだから、未熟なのは当たり前だろう。

「そうだな、あいつはあいつだ」
何かを思い出しているのだろう。
ウソップの表情は心なしか大人びて見える。
ナミといい、ウソップといい、よほど庇護欲を掻き立てるようなボンボンだったんだろうか。
「なんでも一生懸命だったってか。俺の面して不器用だったのか」
なんとなく、話を振ってしまった。
本当は聞きたくもないのに。
「ああ、そのレシピ肌身離さず持ってたぜ、すごく感心しながらな。なんとか役に立とうと必死だった。けど
 さすがにお前だよな、根っこが強えよ。ちゃんと自分で決断して、帰ったんだ」
「帰った?」
あっちの世界に帰ったのは、俺がこっちに戻ってきたのは、意図的だったのか?
ウソップはあちゃ、と顔を顰めた。
余計なことを言ったって顔だ。

「まあ、結果オーライだから・・・」
んじゃそういうことで、と手を上げて立ち去ろうとするウソップをひと睨みで引き止める。
「ちゃんと話さねえと、てめえの分のケーキはねえぞ」
そんなあと泣き言を言う。
とりあえずルフィ達の分は配り終えて、ついでにゾロのは冷蔵庫に仕舞いっぱなしにして、ウソップを
ラウンジに軟禁した。
ケーキを人質に取られ、ウソップは渋々全てを白状した。



その場で義眼を嵌めて、元に戻る選択肢があったのだ。
彼がそれを選んでいたら、自分は一生向こうで過ごすことになっていたのかもしれない。
けれど、彼はその道を選ばなかった。
「そりゃまあ、当然だろう」
サンジは椅子に凭れて仰向き、天井めがけて煙を吐いた。
あんな、のんべんだらりとしたところに住んでいたんだ。
何もこんな物騒な世界で生きていきたいなんて思わないだろう。
「けど、あいつなりに葛藤はあったんだぜ」
なぜだ。
何を迷うことがある。
いきなり放り出されたこんな世界に、彼が執着するような理由なんてある筈が―――
ふと思い当たって、サンジは顔を強張らせた。
ゆっくりとウソップに視線を移せば、ウソップはゆっくりと視線を逸らしている。

「本当は、そいつも帰りたくなかったのか?」
独り言のように見えて、まっすぐウソップに投げかけられた問い。
ウソップはだらだらと脂汗を流しながら、曖昧に笑っている。
「あのクソアホ腹巻が、俺の留守中に俺の身体に悪さしたってのはもう知ってんだよ。それで、そいつは
 ゾロに惚れちまったのか」
サンジは笑いに口を歪めながら、肩を揺らした。
「それで、帰りたくねえとか駄々を捏ねたりしたのか」
努めて軽く問うのに、反対にウソップは難しい顔になる。
口をへの字に曲げて、サンジを睨み返した。
「そんな風に言うな。あいつはあいつなりに真剣だったんだ」
「へえ、そりゃ驚いた」
サンジは大げさに目を見開いて、煙草を挟んだ手を上げた。
「男に掘られて惚れちまったのかよ、とんだ坊ちゃんだな。しかも純情一直線か。ゾロも面倒なのに惚れられて・・・」
そこで一旦切って、ああーと首を振った。
「違うな、そういうのがタイプなんだ、クソマリモは。はは、初心ちゃんだったからさぞかし従順だったんだろうよ」
「よせ、サンジ」
短く、ウソップが叱咤する。
「確かに、自分と全然違う人間が自分の中に入って過ごしてたってのは、面白くないかもしれねえ。いい子
 だった、一生懸命だったって言われれば、嫌な気分にもなるだろう。けど、少なくとも俺はあのサンジも
 好きだったんだ。だからそんな風に侮辱することは許せねえ」
ウソップが本気で腹を立てたのは、サンジにもよくわかった。
わかったからこそ、余計嘲りは止まらない。

「へー、で、てめえも絆されたの。俺の面して可愛いこといったのか。よっぽど素直ないい子ちゃんだったんだな」
サンジは笑いながら、立ち上がった。
これ以上口を利くと自分が惨めになりそうだ。
「いいんじゃねーの。けど俺が帰ってきちまったんだから、仕方ねえよな」
「サンジ、誤解するな。俺達はお前に帰ってきて欲しかった」
「そりゃそうだろ。美味い飯、食いたいもんなあ」
「そうじゃないって、聞けよ」
「聞いてるよ、でかい声出すな」

サンジは煙草を押し潰して、ポケットから箱を取り出す。
中身は空っぽで腹立ち紛れに握り潰した。
「確かに、そのサンジは素直で可愛くて皆から愛された。ゾロも恐らく憎からず思ってただろう。けど俺らに
 とって、あいつはサンジじゃないんだ。料理の腕だけじゃない、一流のコックで凶暴な蹴りを持ってて口が
 悪くて女好きの今のサンジだけが、お前だけが俺らのサンジなんだ。だから、元に戻ってほんとに嬉しいんだ」
ウソップは一息にそう言った。
あんまり必死に話すものだから、サンジはまともに顔を見られない。
ウソップに、そこまで言わせる自分のバカさ加減が嫌になる。

「・・・わかってる、悪かった」
「サンジ」
「俺ちょっと、外の空気吸ってくるわ」
俯いたままラウンジのドアを開けた。
ウソップは黙って見送ってくれたようだ。




後甲板に人気はなく、サンジは船縁に凭れてぼんやりと海を眺めた。
一人で冷静に考えれば考えるほど、自分のガキ臭さに嫌気がさした。
なんてことない、嫉妬しているのだ。

あっちのゾロが心から愛していたサンジ。
こっちでも不器用なくせに皆に愛されて、・・・多分ゾロにも愛されたサンジ。
何一つ満足にできない坊ちゃんのくせに、役に立たない子どものくせに―――

実際、料理のできないサンジが受け入れられたことに、ものすごいショックを受けていた。
一流のコックで、美味い飯を作って、皆の健康管理がちゃんとできるからこその自分だった。
アイデンティティが根こそぎ奪われた感じだ。
あのレシピノートさえあれば、誰だってそこそこできるのか。
もう俺がここにいる理由なんて、どこにもねえのか。

サンジだってわかっている。
こんな考え方自体が、あまりに幼稚だってことくらい。
けれど、そう思ってしまわずにはいられないほど、ショックだったのだ。
ゾロが、自分じゃない誰かに心惹かれたってことが。


もしかしたら、クソマリモも真剣だったのかもしれない。
こんな憎まれ口しか叩かない、可愛げのない男より、身体だけ馴染んで心はまっさらな、素直なサンジの
方が好ましいに決まっている。

本当は―――
俺は、こっちに帰って来ない方がよかったんじゃないか?

そこまで思い至って、サンジは一人唇を噛み締めた。










空に星はなくとも

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