一瞬、何が起こったのかわからなかった。

部屋で寝転がっていたはずなのに突然視界が反転して、気が付けば眼前には満天の星空が広がっている。
立ち込める潮の匂いが懐かしい。
けれどそれ以上に、今自分が置かれている状況に愕然とした。
揺れる見張台の上で思い切り抱き締められている。
こともあろうに、マリモ頭に。


背中に回されたぶっとい腕は肩と腰をしっかりと掴んでいて、密着した胸からはゾロの呼吸に合わせて
上下する動きと、えらく忙しない鼓動とが響いている。
身動きできない状況のまま、それでも首だけ巡らして見ると、ゾロは俺の首筋に鼻先を埋めて目を閉じていた。
マストに押し付けられる形で抱き付かれているから、膝蹴りすらできやしない。
「どけ、クソマリモ!」
とりあえず俺は怒鳴った。
その声に驚いたように目を開けて、ゾロがこちらを向いた。
「どういう体勢だこりゃあ。ともかく、離れろセクハラ腹巻」
ゾロは俺の顔をまじまじと見て、す・・・と目を眇めた。
怒ったような面じゃあない。
どこか嬉しそうに?
そしてこともあろうに、力を緩めるどころか益々ぎゅうとしがみ付きやがった。
「って、なにしてやがんだ。離せボケ!」
「好きだ」
唐突に、実に唐突にとんでもない台詞が目の前のゾロの口から飛び出した。
俺はもう、一個しかない目を限界まで見開いて、その瞬間を凝視する。
「てめえが好きだ」
俺の目を真っ直ぐに見据えて、ゾロは顔を近付ける。
目を閉じず睨み合ったまま唇を合わせ、舌を絡めた。
―――こりゃあ全部、夢かもしんねえ





おかしな世界に行っていた。
ゾロがなんか可愛いガキみてえなところで、海賊も戦争もねえ国で、車だかテレビだかわかんねえもんが
あって、俺には家族がいて、ゾロと親友で―――
そんな世界は全部夢で、ついでに今も俺は夢の中にいて・・・

うっかり現実逃避して、エクトプラズムでも鼻から吐き出しそうになった頃、ようやくゾロが唇を離した。
名残惜しそうにもう一度軽く口付けて、額を合わせる。
なんだ、なんだなんだなんだこの甘ったるい夢は!
「こんのタラシ野郎!」
俺は一声吠えて、力いっぱい頭突きをかました。
ゾロ以上のダメージを受けて目の前に星が散った。
この痛みは、夢じゃねえだろ。

呻きながら手すりに凭れると、下から賑やかな歓声が響いてきた。
「ひゃっほう〜っ伸びる、伸びるぞう!」
「ルフィ、ルフィ!俺、俺なあ、言いたいことが一杯ある、俺なあ!」
「ってことはあ・・・」
ウソップが上を見上げた。
俺と目が合う。
何か、ものすごく何か言いたそうだ。
「あんだぁ?長っ鼻」
まさか今の見られてやしねえだろうなと、少々慌ててガンを付ければ、気持ち悪いほどにんまりと笑いやがった。
「やったやった!サンジが帰ってきたぞ!」
「サンジだ!」
「サンジが帰ってきた!」
「おかえりー」
「おかえりなさい、コックさん」
いつの間にか全員が甲板に集まって、俺を見上げてニコニコと笑っている。
足元に酒瓶やら皿やらが散乱しているから、宴会の途中だったんだろうか。
それにしてもこれは一体―――

俺と同じように額を押さえて呻いていたゾロが、性懲りもなく背中に懐いて来やがった。
後ろ蹴りにもめげず俺を背後から抱きこむと、耳元で低く囁く。
「おかえり」

またふっと、意識が遠退きそうになった。











ほぼ全員が酔っ払い状態の中でみなの意見を総合的に判断すると、どうやら自分は見事に入れ
替わっていたらしい。
元の自分に戻るということで悪魔の実の能力を失ったルフィ達と、異世界に跳んでいた自分・・・
いや、あれが元々の俺の育つべき場所だったってか?

美しい母がいた。
愛らしい妹もいた。
会えなかったけどひょうきんそうな父親がいて、親友のゾロがいて―――

「サンジは、どうだったんだ?」
チョッパーの弾んだ声で我に返る。
「俺はな、俺は色々話したいことが今ならあるのに、そん時は全然そんな気にならなかった。みんなに
触られるのも嫌だった。今から思うと、そんなこと全然ないのに・・・」
そう言って、サンジを見上げる。
「あん時のサンジとも、話してみたかったな」
「いやー見事な素ボケっぷりだったぞ、サンジがあんなに可愛いとは思わなかった」
相当酔いが回っているらしい。
ウソップの大胆な発言に、他の酔っ払いたちも同調した。
「そうねえ、色んなことが初体験って感じで、初々しかったわね」
「なんでも一生懸命だったぞ」
「でも不器用だったよなあ」
「それで、サンジの方はどうだったんだ?お父さんとかお母さんとかに会ったのか?」
サンジはふと目を逸らした。
それでも煙草を咥えた口端をにっと上げる。
「まあな〜、親父ってのは留守で会えなかったけど、それは麗しい母上がいたぜ、それに可愛い妹も。
 だが・・・」
一旦切って、ルフィに振り向く。
「つまんねー世界だった。俺はやっぱこっちがいい」
ルフィもにかりと白い歯を見せて笑い返す。
「だろー?当ったり前じゃねーか!」
うわおっとまた宴会が再開した。



ゾロの腕から逃げるように見張台を飛び降りたサンジは、仲間と盛り上がった後キッチンに引っ込んだ。
冷蔵庫の中や戸棚なんかを点検して、適当につまみを作る。
粗方出来上がっているから、それほどの量は必要ないだろう。
両手にトレイを乗せて甲板に出れば、匂いで察知したルフィが「サンジの飯だ〜」と叫びながら飛びついて、
ぐるんと巻き付いた。
全員変なノリのまま飲んで食って笑って、糸が切れたみたいにぱったりと倒れ伏す。
ルフィ、チョッパーそれにウソップ。
ロビンはデッキチェアに凭れて舟を漕ぎ、ナミは酒ビンを握ったまま眠り込んでいる。
サンジはそれぞれにそっと毛布を掛けて回って、ほっと息をついた。



絶え間なく揺れる感覚が懐かしい。
潮の匂い、波の音、湿気た風。
水平線の彼方まで続く、黒く深い海原と空の闇。
―――帰ってきたんだ。

不思議と、それほど感慨は沸かなかった。
日本とか言う国にいたのが、一時の夢のようだ。
足元に転がる瓶を拾い上げて、ゾロが大股で近付いてくる。
サンジはなんとなく身構えた。
さっき、突然こっちに戻った自分を抱き締めてキスして、このマリモヘッドは「おかえり」と言いやがった。
「おかえり」だと?
どの口が言いやがるんだ。
そんな台詞。
一瞬、あのゾロが頭を過ぎって酷く混乱してしまった。
あいつはきっと今頃、あっちのサンジにそう言っているんだろう。
抱き締めるくらいはしてるだろうか。





「おい」
声を掛けられて我に返った。
ゾロがすぐ真横に立っているのに気付いて、無意識に肩を引く。
「てめえに、言っておかなきゃならねえことがある」
サンジは目だけ寄越してゾロの顔を窺った。
酔っ払った勢いで手を出してくることはよくあったが、こんな風に冷静に、ここまで近付かれたことはない。
喧嘩をする時は触れ合わない程度に拳や蹴りを繰り出すし、SEXする時は殆ど雪崩込むような勢いだ。
こんな間近に、会話をする距離で向かい合ったことは今までなかった。

「なんだよ」
どうしたって身構えてしまう。
ゾロの顔は、なんだか四角ばって見えた。
見たこともない表情だ。
まるで緊張でもしているかのようで、サンジはふんと鼻で笑って見せた。
「なんだ、なんか告白する気か?俺の留守中に悪さでもしたんじゃねえだろうな」
ゾロの眉毛が微妙に斜め上に上がった。
サンジは煙草を弄ぶ手を、ふと止める。
「何、マジ?マジでてめえ・・・」
じっと見返すが、ゾロは口を引き結んで睨み返すだけだ。
言うことがあるのならとっとと言えばいいのに、弁解と取られるのが嫌なのか。
「はー・・・呆れたね。まさかとは思ったが、マジでてめえこの身体に手え出したってのか?中身は、俺
 じゃねえのに?」
サンジの口元には、ニヤニヤ笑いが張り付いたままだ。
だが頭の中は酷く冷めて、顔から血の気が引いていくのが自分でもわかる。
「溜まってるから即やらせろ、とかそんなんじゃねえんだな。溜まってねえのか、もしかして。俺の意識が
 ねえうちに、やりまくりか?」
「そんなんじゃねえ」
「けど、やったんだろーが!」
叫んだら、後から興奮がついてきた。
心臓はバクバク言って、こめかみの辺りが熱くなる。

息が上がったのか肩が上下してしまって、それを誤魔化すためにゾロに背を向けて煙草に火を点けるふりをした。
ゾロは何も言わない。
サンジに指摘されたから、もう言う必要がなくなったか。
「・・・別に、俺は構わねえけどよ。てめえにすりゃあ、いつものことだよな。中身がどうだろうが、馴染んだ
 身体だしよ。てめえには関係ねえか」
「そんなことはねえ」
ようやく口を開いても、ゾロの言葉は端的で要領を得ない。
じっとサンジを見つめて言い出し難そうに唇だけを動かしているから、余計に苛々する。

「それとも、初心で新鮮だったか。どうやら随分と間の抜けた坊ちゃんだったらしいじゃねえか。あっちの
 てめえは、俺にぞっこんだったぜ」
サンジがそうせせら笑うと、ゾロの顔色が変わった。
「てめえ、まさか向こうで・・・」
「自分と一緒にすんじゃねえ」
ぴしりと冷たく言い放つ。
なぜだか無性に腹が立った。
「誰もが、てめみてえに穴さえあれば野郎でも、気に食わねえ相手でも構わねえってケダモノじゃねえん
 だよ。あっちのゾロは、そりゃあサンジが好きで、大事で全力で守りてえなんてほざく、大勘違い野郎
 だった。なのに・・・」
サンジは、風と共に流れる黒い海面の飛沫を目の端に映しながら、ふとこれも夢ではないかと思った。
本当は全部夢で、目が覚めれば自分の部屋のベッドにいて、あのゾロが迎えに来て―――

「なのにてめえは、そんな奴の気持ちも踏み躙って、俺の身体と一緒くたに犯したのか?」
あっちのゾロの、ちょっと強張って硬く見える表情になった時は本当は照れているのだと、それがわかる
程度に近くにいた。
あの誠実なゾロの想いを―――

「確かに中身の違うてめえを抱いた。それは認める。けど、半端な気持ちじゃなかったんだ。あいつも真剣で・・・」
なんだとお―――
完璧に頭に血が昇った。
サンジは冷静さを装うことも忘れて煙草を投げ捨てると、靴を鳴らしてゾロに振り向く。
「真剣、だと?なにが?なにをだ。殆ど純粋培養のサンジを誑かしたんじゃねえか」
ゾロは何か言おうと口を開けるが、その度にぐっと詰まる。
「それともなにか、てめえから無理やり手え出して身体から手懐けたんじゃねえだろうな」
「・・・」
完璧な沈黙。
図星なんだな。

「・・・てめえ、最低」
サンジは緩く首を振ると、ふらりと身を翻してゾロから離れた。
一呼吸遅れて、ゾロが追いかける。
「待て、俺の話はまだ・・・」
「聞くことねえ。聞きたくねえ」
振り向かず大股で歩く。
殺気も含めて全身から拒否オーラを出してやる。
これ以上話し掛けるな、俺を見るな。
「てめえは、中身の違う俺を抱いて、そいつもてめえに絆されちまったってことだろが、違うのか」
背後から追う足音が止まった。
サンジは唇を噛み締めながら、俯いたまま振り向く。

「良かったじゃねえか。素直で可愛い俺だったんだろ。たまにはそういうプレイもいいよなあ」
からかって、笑いものにしたかった。
けれど自分の口から漏れる声は異様に乾いて響いて、シャレにもならない。
「それが事実なら、もうてめえとは何も話すことはねえ」
ゾロは立ち止まったまま動こうとはしなかった。
その目は、もうサンジを見ていない。
置き去りにされた子どものように、視線を落として佇むゾロの姿なんて見たくなかった。
サンジはそんなゾロに背を向けると足早にその場を立ち去り、早々に男部屋に引っ込んでしまった。









空に星はなくとも

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