サンジは最近、なんだか毎日泣いているような気がする。
 いや、男たるもの涙は見せていない。
 いわゆる、顔で笑って心で泣いて、というやつだ。心の涙がだだもれだ。
 やたら短い制服のスカートの裾を引き伸ばしながら、サンジは今日もため息をついた。
 その色はなんとも優しげなサーモンピンク。


×     ×     ×     ×     ×


 れっきとした男であるサンジが、女の制服を着て女として会社に勤めるようになってから、はや一ヶ月半。
 ピンクのベストとスカート、やたらとさらさらする肌触りのストッキングや薄化粧にも、ようやく慣れてきた。
 新入社員レベルを言うなら、やっとこさ殻からでてきたひよこちゃんだ。
 そのひよこちゃんは給湯室で今日もため息をついている。

 全ての発端は、サンジが大好きな大好きな、ナミの言葉だった。
 サンジがそりゃぁ大好きな大好きな大好きなナミが、卒業二週間前の教室で、安っぽいコーヒーを前にうつむいて
憂い顔だったのだ。
 当然慰めるべく、サンジは彼女の向かいに座った。
「どうしたのさナミさん、可愛い貴方の憂い顔は風情があるけど、君の笑った顔はもっとすばらしいと思うよ?
俺相談にのるよ、なんでもするよ、だからなんでも言ってよ」
「そういうしゃべり方馬鹿っぽいからやめろって言ったでしょ。あたしは幼稚園児じゃないの。もっとちゃんと一個人
相手だと思ってしゃべりなさいよ。オンナコドモって決め付けられてるみたいで嫌いなの」
 ナミは机に肘をのせ、組み合わせた手で額を押さえてうなだれていた。
「うんわかったよ。それで、どうしたの?」
「…困ったことになってるの」
 本当に参った様子の彼女はサンジに弱音を吐いた。

 高校三年間の友達付き合い、こっそりある飲み会で酔っ払ったときさえ、気持ち悪いの一言もサンジに漏らしたことのない彼女が。
 どんなときも挑戦的な笑顔で、どんな難問だってなんともないというように全てを軽々いなしてきた彼女が。
 サンジは内心、ものすごく焦った。これは尋常ではない事態のようだ。
「…お金?…30万くらいなら、あるけど?」
 金の問題でそれが何とかなるなら、理由の如何は問わずサンジは協力しようと思った。
 返ってこなくてもちろん構わない。
「そういうことを軽々しく言うなってあたし言ったでしょ。大学生になったらあんたあっという間にタチ悪いのにむしられるわよ」
「うん。気をつけるよ。ナミさんはむしったりなんかしないからさ、特別だよ」
「あのね、それはともかく、お金の問題じゃないの。義理。義理なのよ。これはあたしの仁義の問題なの」
「…うーん、よかったら説明してくれる?俺に何かできることがあるかもしれないしさ」
「女がちょっと暗い顔してたからって、そういうこと簡単に言っちゃだめよ。マグロ漁船に乗せられたり、売春させられたりするから」
「わかってるよ」
 サンジは笑顔だ。ナミはようやく、うつむいた顔を上げた。
 ナミはサンジにいつも説教して。サンジはいつも笑顔で、彼女の小言と、彼女を受け止める。
「………」
 ナミは顔をあげてサンジをようやく見た。
 そしてぽつぽつと話し出す。
「就職が決まったの。×××の×××で、××航路を通る××研究船の×××事務員の×××が……」
 サンジにはそういう難しい専門的な話は、よくわからない。
 しかし、彼女がずっといつもサンジに語ってくれていた、なにやら難しいので実現不可能だと思われていた夢が叶うということらしい。
「なんだ、そりゃよかったじゃねぇの!」
「よくないの」
 彼女はまずいコーヒーをすすった。自販機のコーヒーは水っぽくてやたらと苦い。
 ああポットにコーヒー入れてくりゃよかった、とサンジは思った。
 俺のコーヒーの方が全然うまいのに。
「あたし、叔父さんに就職先世話してもらったって言ったでしょ」
「うん知ってる」
 ナミがどうやらなにやら大変な人生を送ってきて、叔父さんには並々ならぬ恩があるらしいというのを聞いたことがある。
彼女が辛そうなのでそれ以上をサンジは聞かないし、聞きだすつもりもない。
「恩があるのよ。断れないのよ。断るのはそりゃ簡単よ?でも礼儀ってものがあるでしょ。今さら、高校生の小娘が、
夢を叶えたいからゴメンナサイなんて、現実の見えてない夢みたいな話に乗って、しかも斡旋してもらった就職
蹴るなんて不義理、できるわけないじゃないの…叔父さんに…叔父さんなのよ…」
 くだを巻いているようだった。どんなに酔い潰れても愚痴だけは口にしない彼女が、コーヒーの一杯で酔っている。

「じゃ俺がその会社行くよ」
「え?」
「ナミさんの代わりに。俺が就職ですげぇ困ってるから、泣きつかれて譲ったって言えばいいよ。
あんまりかわいそうだったからそうしてあげたいんだけどって叔父さんに言ってみなよ」
 ね、それがいいよと言ってサンジはぽやぽやと笑った。
 いつもナミが、馬鹿に見えるからやめろと言う笑い方だが、今日のナミは何も言わなかった。
「でも…サンジくん、おじいさんのレストラン、手伝うんじゃないの?」
「大丈夫大丈夫!二、三年、社会勉強もしなきゃなって思ってたんだよね」
「ほんとに…いいの?」
「でも、やっぱ俺コックになりたいし、一生勤めることはできないからそのくらいで辞めさせてもらいたいんだけど…いい?」
「いい!うん、いい!それでもいい!」
 彼女の顔がぱっと明るくなっていく。ああナミさんやっぱり笑った顔の方が素敵だぜとサンジは呑気に思った。
「そんなすぐ辞めたら、いい加減な友達だなって思われちゃうかな」
「いいの!当面繕えさえすればいいんだから!半年くらいで辞めちゃっていいから!うわあ一気に解決だわ!ありがとうサンジくん!」
 その日初めての、彼女の明るい笑顔を見て、もうサンジは天にも昇る心地だった。
 この笑顔のためなら、会社勤めくらい屁でもない。二、三年の辛抱だ。それからでもコックにはなれる。
 社会勉強も人生のいい糧になるだろう、と思っていた。
 真実を知るまでは。

 ナミの部屋にサンジは初めて招かれた。制服とその他もろもろを渡すから、と。
 ナミの香りのするナミの部屋で、サンジは制服を見せられるまで、確かに有頂天だった。
「なななななナミさん…これって…」
「ん?制服」
 ピンクのベストとスカート、真っ白のブラウスに、淡いオレンジ色のリボンタイ。
 ストッキングと、サンジのサイズに合わせた薄い桃色のパンプス。
「靴は私からのお礼。サンジくん27センチだったわよね?」
「女物…ですよね…」
「会社が採ったのは女の子なのよ。事務員だもん」
 ナミはあっさり言った。言ってくれちゃった。
「だから女の子として勤めてね」
 サンジは卒倒しそうになった。
「あ、パンプス、踵低いの選んだから、大丈夫よ」
 大丈夫と言われても。
 問題はそこではない。


×     ×     ×     ×     ×


 そういうわけでサンジはOLになった。
 オフィスに勤めるレディーだから、オフィスレディーである。OLである。アルファベット二文字である。
 自慢のすね毛もあごひげも綺麗にそり落とし、ストッキングもいさましく、毎日低めのパンプスをかつかつ言わせて会社に通う。
 自分的チャームポイントの左目を隠す長い前髪は、かきあげて今はピンでとめてある。そのピンも、制服の色と揃えた桃色だ。
 金髪にピンクって意外と似合うわね、とナミはサンジを褒めてくれたが、あまり嬉しくなかった。
 最初はめちゃくちゃ抵抗があった。情けなかった。
 しかし自分は幸いにも、割と整った顔立ちをしている。
 女っぽくはないけどそれなりに中性的だし、まるきりこれじゃドラッグクイーンじゃねぇかと自分では思った女装も、それなりに悪くないように見えるらしい。
 少なくとも、今のところ会社でばれてはいない。
 オフィスのある階の、フロア共用の給湯室でサンジはため息をつく。
 二、三年の辛抱だ。それまでがんばれば良いのだ。
 このため息は、女として会社に勤めているから、だけではない。

「あ、お湯沸いた」
 入れるお茶は二つだけ、サンジと、課長の分だ。他の課員はみんな営業に出る。
 部署の人数はサンジと課長を入れて全部で10人。
 サンジの会社…そう、サンジの勤める第二営業課は自社ビルの五階にある一室がそのオフィスで、女性社員はサンジだけだ。
 …男だけど。
 サンジ以外は全員男なのだ。
 …サンジも男だけど。
 なんとなく、そんな日々の潤いに事務員の女性社員を入れたかった気持ちもわかる気がする。
 …実は男だけど。
 ため息をとりあえず今日の分全部吐き出して、サンジはお茶を入れてオフィスへ戻った。

「お茶です」
「おう」
 お茶を出すなり、課長に尻をさらりと撫でられる。
「やめてください!」
 毎日のことで、もう慣れてしまった。慣れてしまったことは慣れたが、触られるたびにどうしても悲鳴があがってしまう。
 このセクハラおやじめ、と毎日心の中でつく悪態を今日も繰り返す。
「あんだ、撫でても減るもんじゃねぇだろが」
 この緑アタマのセクハラおやじめ、ともう一回繰り返す。
 苔みたいなアタマしやがって、人のケツ毎日毎日撫でてんじゃねぇ。
「もともとぺたんこなんだ。それ以上磨り減りゃしねぇ」
 何百回思ったか。
 …ああ、一度でいい。踵落としをきめてやりたい。
 俺ぁ男だ、ケツなんてぺったんこでいいんだよ、と叫んでやりたい。
 唇をかみ締めて我慢する。しかし怒りは湧き上がる。
「そんなことよりお茶をどうぞ!」
 サンジは乱暴に湯のみを指差す。
「なんだ、生理か?ブルーデーか。いや旗日か」
「違います!!」
「お前はなんて呼んでんだ?」
「そんなこと、仕事に関係ありませんから!!」
 課長はウルトラスーパー・ダイナマイトマグナムに金メダル級のセクハラ大王だった。
 サンジのため息の原因はこのミドリ虫である。


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 サンジに毎日セクハラを繰り返しているロロノア・ゾロは第二営業課の課長だった。
 サンジは、初めて紹介されたとき、いかにも仕事のできそうな大人の男だと思ってちょっと見とれた。
 顔立ちは野性的だけどどことなく品があるようで、29歳だと言われたが、納得できるようなできないような、独特の雰囲気がある。
 若そうでもあるし、老成しているようにも見える。かといって老いている印象はかけらもない。
 スーツを着ているのがもったいないくらいのいいガタイなのに、全然その筋肉は窮屈そうではない具合に洋服の中に納まっている。
実にスマートにスーツを着こなしていた。そのスーツも、よく見れば他の奴らのスーツとはものが違う。
 生地の光沢からしてどこかが違う。もしかしたら海外ブランドなのかもしれない。
 この課長はおしゃれにも気をつかう有能ないかした男前のサラリーマンらしい。そう思った。
 俺もこれくらいの年になったらこんなになれるかなぁ、とも思った。
 が、その第一印象は三日持たずに崩れた。というか30秒くらいで崩れた。
 とにかく、猛烈なセクハラおやじだったのだ。

 初対面で部長に、何か聞くことはある?と水を向けられ、セクハラ野郎はまず第一声、こう言った。
「彼氏とかはいるのか?」
 あ、俺口説かれてんのかな、とサンジは思った。
 それはちゃんと女に見えているということだ。こっそり胸中で安堵のため息をついた。
「いません」
 それから、セクハラ野郎は第二声にこう言った。
「いいセックスしてるか?」
「…………………はい?」
 サンジは耳を疑った。
「おいおいおいロロノア、いきなりそれはないだろう」
 部長はそうロロノア課長を諌めた。
 サンジは驚いた。動揺した。
 せせせせせセクハラだ。これがセクハラか。初めてだ。初対面からセクハラされるとは、社会って思ったより試練に満ちている。
 そして部長はこう言った。
「せめてそういうのは歓迎会まで待っとけ」
 ふぅん、歓迎会では聞かれるんだ。聞いていいんだ。そうなの?そういうものなの?
「……」
 社会って厳しい、と改めてサンジは思い知った。


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 しかしロロノア課長は仕事ができた。もの凄くできた。課員のもぎとってきた営業先の仕事をうまくさばいていくのは彼の仕事だ。
 受けた報告を書類に起こすのも手際がいいらしいし、課長の前にある問題はざっぱざっぱと右に左に仕分けられていく。
 第一営業部との毎日ある打ち合わせも、課長一人で行っている。
 部長は基本的に第一営業部にしかおらず、第二営業課はその下にある組織で、厳密に言えば『部』ではないらしい。
 それでも仕事内容は第一営業部とほとんど同じだ。実質的な立場も同等らしい。
 それなのに、ロロノア課長は第二営業課にいるからという理由だけで、『課長』なのだ。第一営業部の部長は『部長』なのに。
 だけど、ロロノア課長はそんな不満は顔にも態度にも出さず、毎日精力的に仕事をしている。

 サンジはもう、慣れないエクセルやらワードやらで、やれグラフを挿入してくれだの表を作れだの、仕様書の訂正をして
プリントアウトして冊子を作り直せだの言われて、タイピングさえ満足にできないのに初日からそんな作業をさせられ、
もういっぱいいっぱいである。
 へとへとになって一息つくと、コピーまだできてないの?と外回りから戻ってきた課員に尋ねられる。
 外回りで疲れている中、資料を受け取るためだけに戻ってきた課員に、嫌な顔なぞできない。
 平謝りしながらまだできてませんと伝え、半泣きでサンジはコピーに走る。
 その間に、あ、これとこれとこれ、やっといてね、明日までに頼むね、とか言われて、本当に泣きそうになる。
 全員が営業に出ていて周りに誰もいないのが幸いである。入門書片手に、毎日試行錯誤しながらの作業であった。
 ロロノア課長はそんなサンジを黙認してくれている。
 しかしロロノア課長の机からは、猛烈なタイピングの音が聞こえてくる。嵐のようである。
 ちょっと恐ろしくなるくらいの勢いでばちばちばちばち!と音がする。
 筋肉まみれだからきっと力任せにキーボードを叩いているのだ、とサンジはひがみ混じりに思った。
「茶ぁくれ」
 無造作な声がかかると、サンジは作業を中断して給湯室へと向かう。お茶を淹れるのは嫌いではない。
 むしろ、一息入れられる貴重な時間だ。声をかけてくれてありがたいとさえ思う。
 そしてまた、ため息をつくのだ。

 会社には慣れたが仕事には慣れない。初日に、エクセルもワードもメールできないというと、信じられない、と誰もがそういう顔をした。
 露骨に軽蔑の目も向けられた。おいこれどうすんだよ、という空気が漂って、男性陣は目線で会話しあっていた。
 いたたまれなくて、サンジはただ椅子の上で小さくなっていた。
「できないもんに文句言ったって仕方ねぇだろ」
「でも課長!この子なんにもできないって言うんですよ!?」
 悲鳴のような声があがった。営業補佐の事務員であるサンジが、使い物になりません、では困るのだ。
 ロロノア課長はそれから言った。
「ほら、急ぎの分だけは今のところ俺が片付けといてやる。これやるから、見てからやってみろ。」
 サンジの前に本がばさりと置かれた。
「まだ若いんだ、覚えは早い。それまでお前らも我慢しろ」
 本は、エクセルとワードの入門書。
「できるな?」
 机に手をついた課長に顔をのぞきこまれて確認され、サンジは慌てて何度もうなずいた。
「は、はい、なんとかします!がんばります!」
「おう、いい返事だ」
 課長はにやりと笑った。

 サンジはその日、速攻でパソコンを購入した。毎日勉強もしている。
 しかし未だに、あまり仕事には慣れていない。
 ため息が出る。
 満足にできるのはお茶汲みくらいだ。
 給湯室から戻ってみれば、課長はほおづえをついてタバコを吸っていた。サンジは愛煙家だが、一応今はOLなのでタバコは我慢している。
「お茶です」
「遅い」
「すみません」
 遅くても、茶葉を開かせて温度を落ち着かせておいしいお茶を淹れようと努力しているのだ。
 でも説明という名の言い訳はしない。それは見苦しいから。
「遅いが、お前の茶はうまい」
「……ありがとうございます」
「熱さもちょうどいいしな」
 なんだ、こいつわかってくれてんじゃん、と思ったとたん、課長はにんまり口元を緩めて、ふー…とサンジの顔に煙を吹きかけた。
 むせて嫌がるとでも思っているのか。サンジは冷めた目つきで煙をはらった。なるべく冷静に口を開く。
「煙いです。やめてください」
「なんだ、ケムリ慣れてんのか。男が吸ってたか?」
「違います!吸ってるのは自分です!」
 思わず言ってしまって口を押さえる。課長はにやついたままだ。卑猥な感じに唇が歪んでいる。こんな笑い方しなければもっと男前なのに。
「あぁ?いいガキ産めねぇぞ」
 未成年なのに吸ってるのか、とかありきたりで陳腐なことを言わないところはまぁ、好感が持てるが。
「一生産めませんから安心してください」
 サンジが別段妙なことを言ったはずでもないのに、ロロノア課長は目を丸くして黙ってしまった。指に挟んだタバコもそのままに、煙が上がっている。
「…なんですか?」
「…いや…」
 このセクハラ発言連発のミドリ頭が黙るのは珍しい。何を言ってもセクハラで返してくるのに。
「………悪いこと、聞いたな」
 歯切れの悪い口調に、何を誤解されたか合点がいった。
 別にサンジは婦人病でも不妊症でも子宮が悪いわけでも身体機能に支障があるわけでもない。男だから当然なのだが。
「違います!!そんなんじゃないです!全然違います!なに考えてるんですか!!!!」
 いったい何を邪推されたのかと思うと、首を絞めて揺さぶりたい気分だが、上司相手ではそうもいかない。真っ赤になってサンジは反論した。
「なに考えてるか、教えて欲しいのか?」
 つばを飛ばし怒鳴るサンジに、調子を戻したらしい課長がまたにやつき始めた。
「結構です!!!」
 ぷりぷり怒りながらサンジは席へ戻る。エクセルで円グラフを作らなければならないのだ。
 おまけに、手書きで渡された二年前から現在までの製品機能データの推移をそれぞれ打ち込んで機能別に分類して
並べ替えて表にしなければならないのだ。手書きの文字はいい具合に判別しにくい汚さだ。
 もちろん仕上げはコピーをとって、営業で使える冊子にしなくてはならない。仕事はまだまだたくさんある。
 …でもあの課長、いいところもあるのだ。
 たぶん。


×     ×     ×     ×     ×


 それはサンジの歓迎会のこと。
 ビールを飲まされ酎ハイを飲まされビールを飲まされまたビールを飲まされ、サンジはけっこういい具合にできあがっていた。
 へらへらむやみに笑っていた。そういやナミさん俺が笑うと馬鹿っぽく見えるからやめろとか言ってたなぁ、俺男前でニヒルな笑いを
目指してんのになぁ、どこが悪かったのかなぁ、ナミさん今頃何してっかなぁ、とか、少しだけそういうことも考えていた。

「サンジくん、彼氏はいるの?」
「いませんー」
「前はいたの?」
「いませんー」
「じゃあ男のヒトとつきあったことないの?」
「ありませんー」
 隣のロロノア課長がそこで、声を低めて耳元でささやいてきた。
「ということは、お前処女か?」
 酔いを言い訳にして思い切り肘打ちを返してやった。
「へー…サンジくんっていうか、そう、サンちゃんって呼んでいい?やっぱ馴染むにはあだ名が一番だよねー」
「いいですよー」
 ああOLっぽいなぁ俺…とか思っていた。なによりちやほやされるのはけっこう面白い。
 男相手に、やに下がった顔をさらしている男たちは馬鹿みたいだ。セクハラ課長はむかつくけど。

 サンジはもちろん制服ではない。男性陣は全員スーツだが、サンジは服はジーパンとストライプのシャツ。
 私服もなるべく中性的に見えるよう心がけている。
 初日にセクハラ発言をかましやがった課長は、課長のくせして上座にも座っていない。
 なぜかサンジの隣で、黙々とタバコを吸い水のようにビールを流し込んでいた。
 周りの人間はそろそろ顔が赤くなったり上体が揺れたりし始めているというのに、顔色一つ変えていない。
 きっと酒に強いのだろう。サンジが見た感じでは、相当強そうだ。
「飲んでるか?」
 隣の相手と話していた課長がふと唐突に顔をこちらに向け、サンジに聞いてきた。
「えっ、あっ、はい…飲んでます」
「飲みすぎんなよ。終電ちゃんと考えとけ」
 てっきりセクハラ発言をされると思っていたサンジは意表をつかれた。
「あ…はい」
 ちょうどそのとき大量の徳利が到着した。
「はーいポン酒いただきまーしたー!!!」
 誰かの号令で、座に日本酒がまわった。向かいに座った部長が、サンジにしきりに酒をすすめる。
「ほら、サンジくん、飲みなさい飲みなさい飲みなさいったら飲むんだよ」
 おお初めて見た、これが絡み酒か。
 サンジは感心した。
「はい」
 お猪口を手に取ったサンジに、部長が首をふる。
「だめだめ、そんなちっさいので飲んで酔うわけないでしょ」
 部長はさっきまで酎ハイの入っていたサンジのコップに直接日本酒を注ごうとした。そんなに大量に飲んだらサンジは間違いなく
酔いつぶれてしまう。
 サンジはどう対処すればいいかわからなくて動けなかった。しかし、上司の酒は飲まなくては…いけないだろう。
 でも飲んだあとがどうなるかわからないし、そんなに飲んだこともない。酔いつぶれて吐いたらどうしよう。
 ちゃんと自分の面倒を見て一人で帰れるだろうか。終電に間に合わなかったら、タクシーを拾うのか。
 困ってしまったサンジのコップに、横から伸びたでかい手が、すう、と蓋をした。
「部長、ポン酒なら俺にください。飲み足りません」
 課長の手だった。
 まだビールが入っている自分のコップを、課長は反対の手で部長に差し出していた。
 サンジは驚いて課長を見た。彼は部長の方を見ているし、無表情なので顔色が読めなかった。
「ってロロノア、ビールがまだ入ってるぞ。わはははは」
「チャンポンくらいじゃ酔えませんよ。煮詰めて濃くしたポン酒とかありませんかね」
「言うねぇ。潰すぞ潰すぞ。さあ飲め飲め。酔ったお前をたまには見せてみろ。ん?」
「一升瓶でくださったら考えます」
「わはははは。まぁ飲め」
 部長はごきげんでロロノア課長のコップに日本酒をどばどば注いだ。ゆうに徳利一本分、コップに注がれている。
 ではご返杯、と課長は部長とそのまま、さしつさされつ。
 すっかりかやの外のサンジは、ぽかんと二人を交互に眺めていた。

 もしかして、課長は自分を助けてくれたのだろうか、と酒でぼんやりしながら思っていた。
 コップに蓋をしたままの手を見る。やたらとでかくて関節のところがいやにごつごつしてでっぱっている。グローブみたいな手だ。
 サンジの手は繊細で細くてしなやかな料理人の手だから、この手とは全然違う。
 それを見ながら、少しだけ、いいやつかもしれない、とセクハラ課長を見直した。






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