その事件は、オフィス内に課長とサンジが二人きりの、いつもの午後に起こった。
 なぜ、ああいうものは気づいてしまうものなのだろう。
 ふいっとサンジは理由もなく顔を横に向けた。嫌な予感とか気配とかは、別に感じていなかった。
「………!!!!!!」
 時間が止まった。手が止まったから、打ち込んでいたディスプレイの中の文字列もストップした。髪が逆立ったような気がした。
 黒くて脂ぎって光ってて触角が二本ながーいのが生えていて足がわさわさわさ……
 サンジは気が遠くなりそうになった。しかし気絶するわけには行かない。目が離せない。
 今は動いていないが、きっと動く。動くだろう。いや永遠に動かないでくれ。
 脂汗が額に噴き出したころ、それは唐突に飛んだ。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁああ!!!!」
 サンジはフロアに響く大きさで絶叫した。
 席を立ち部屋の奥へと走り出す。

「どうした!?」
 パーテーションで区切られたブースの中から飛び出してきたサンジに、課長が仰天して立ち上がる。
「うわあああ!あああ!いやー!!ぎゃー!!」
 壁に張り付いたサンジを見、部屋の中を見回す。
「何があった?」
 ぶーんと部屋の中を飛び回り、ゴキブリは課長の机まで飛び、そこに止まった。
「かっかっかかか課長、それ、そこ!!そこ!そこ!!」
 志村、後ろ!
「ん?」
 涙目のサンジから、机に止まるゴキブリに視線を移して、課長はまたサンジを見た。
「だから、何があったんだ」
「だからだからだから!!!!」
 そのゴキブリが!!
「あぁ?」
 課長はサンジに視線を止めたままで、ばん!と平手で机を一度叩いた。
「はっきり言え。何があった」
「だから、ごき…ぶりが…」
「もう仕留めた」
「はい?」
 サンジは壁に張り付いていたのだが、その言葉を聞き返す。
 仕留めた?
 だって、フマキラーもコンバットもホウサンダンゴも使ってないのに?
「仕事に戻れ」
 課長の指示はとにかく厳守。
「…はい、仕事に戻ります」
 復唱は新入社員の義務。これは課長の教えである。
 わけがわからないまま、サンジはおそるおそる自分のブースに戻ろうとした。はたとそこで気がつく。
 課長は、平手で机をたたいた。
 あれは話の要領を得ないサンジに怒っての動作だと思ったのだが。
 仕留めたと課長が言ったが、その間に課長はその動作しかしていない。
 つまり、ということは、あの平手で……
「……!!!」
 間違いなく、今度こそサンジの金髪は逆立った。
 ゆっくり振り返ると、課長が机を叩いた方の手のひらを眺めている。
 おおげさでなく本当に眩暈がして、人生を放棄したい気分になった。
「おい、ティッシュ持ってるか」
「………!!!!!」
 サンジは泣きそうになりながらありったけのポケットティッシュを机から取り出し、デスクの島の中、課長のデスクから三つ離れた机の上にそれを置いた。
その距離が限界だった。
「こここ、ここに置きますっ」
「おう」
「俺、ちょっと気持ち、悪いから、外で空気吸って吐いて吸ってたりしてきますっっ」
 自分を俺、と言ったことも、文脈が支離滅裂なことも、このさい仕事も現実も世界平和も宇宙の膨張率もロズウェル事件の真相も、全部どうでもよかった。
 ひたすら逃げ出したかった。
 サンジは課長の返事も聞かず、半泣きで一目散に逃げ出した。
 課長の左手には一生触らねぇ、絶対今日はゴミ捨てもしねぇ、と固く誓いながら。


×     ×     ×     ×     ×


 サンジの勤め始めた会社では、一月に一度の割合で飲み会があるそうだ。
 日中ほとんど顔をあわせることのない同僚同士なので、せめてこういう形で交流させようという狙いなのだろう。
 今回は居酒屋だった。この会社での飲み会は二回目だが、今回は部長のいない、第二営業課だけでの飲み会である。
 上司は気心の知れたロロノア課長のみで、あとは全員横並びの平社員である。
 だからだろうか、場所はチェーン展開の居酒屋で、安っぽい中にも気安げな雰囲気が漂っている。
 飲み会は毎回、翌日が休みの金曜日に企画されるらしい。休日出勤はない会社だし、土日もきちんと隔週で休みになる。
 今回の飲み会は、その隔週休みの土曜の、前日に企画されていた。

「サンちゃん、飲んでるー?」
「はい、いただいてます」
「今日はほら、部長もいないし、サンちゃんも酔っちゃおう!」
「そうそう、ほら飲んで、ポン酒飲んで」
「ありがとうございますー、いただきますー」
 ちやほやと普段あまり言葉を交わさない同僚に囲まれ、サンジも彼らを観察する。
 いつも営業に出てしまっているので、同僚と言われてもあまり実感が湧かないのだ。
 いつも、手短に仕事をいいつけてぱぱっと彼らは去っていく。後はできた書類を手渡す時と、修正事項を伝えられるくらいだ。
「ほらほら、イッキイッキ」
「はーい、いただきますー」
「おおおおステキな飲みっぷりじゃん」
「さては部長がいるから猫かぶってたね」
 毎回男囲んでちやほやして、こいつら馬鹿だなーと思うのだが、申し訳ないとも同時に、本当に、心から思う。
 だからせめて酒でも飲まされてやって、喜ばせてやろうとサンジは思ったりする。
 結局、気がつけばかなり酔わされていた。

「も、もうだめでっす…」
「じゃ、最後にもう一杯だけ、ね、ほらほらもうついじゃったし」
 サンジの隣に座っているグレーのスーツの、たしか田崎とかいう名前だったスポーツ刈りの男が、サンジのおちょこに無理やり日本酒を注いだ。
 サンジと同じ、高卒入社した男で、今21だと言っていたはず。
「これ、いっぱい、だけですよ…」
 サンジは、くっと杯を空けた。
「お、じゃほら、もう一杯くらいいけるよね」
「だめ、だめです…」
 調子に乗るんじゃねぇ、この野郎とサンジが額に青筋立てかけたときに、タイミングよく終わりの声がかかった。
「あ、お開きだってサンちゃん、ほら、大丈夫、立てる?」
 おお、意外とやさしい。
「だいじょうぶれす…」
「二次会、行ける?」
「無理れす。帰ります…」
「ああそうだよね、じゃ、俺送ったげるよ」
「れんしゃ…駅まれ…」
「電車?無理無理、こんなんで乗れやしないよ。俺送ってあげるから。ね?」
「たくしー…?」
「うんうん。でもさ」
 腰を上げるが、力が入らずもたれかかるサンジの体を抱きとめて、田崎はサンジの耳元で囁いた。
「サンちゃん酔ってるし、ちょっとどっかで休んでから帰った方がいいよ?ね?そうしよ?」
「うーん…」
 確かに、少し気持ち悪い。吐きそうなほどじゃないけど、これほど酔った経験はない。どこかで休みたい。立っているのが難しい。
「はい…」
「え、ほんと?いいの?じゃ、行こう行こう、すぐ行こ、ね?」
「あれ、みんなは…」
 かっくり垂れていた頭をサンジが上げてみれば、誰もいない。まだ店を出ていないのはサンジと彼の二人だけらしい。
 大テーブルの上では、宴会の残骸が死屍累々と。

「もう二次会、行っちゃったみたいだね」
「会計…」
「ああ、明日払えばいいよ」
「あい……」
 頭がぼんやりしてうまく考えられない。隣に田崎がいてくれるから、よりかかれるのでありがたい。
 このままこいつを頼りにして帰ろう。いっそのことおぶってくれないだろうか。
「さ、行こう」
 気をつかってくれるのをいいことにありがたく甘え、田崎にべったりもたれかかり、誘導されるままにサンジはふらふらと足を運ぶ。
 店の出口にへたりこむと、靴箱から、知りもしないだろうに、どこからかサンジの靴を見つけてきて、田崎がはかせてくれた。
 こいつは親切でいいやつだとサンジは思う。
 腕を引かれ立ち上がったが、もう体が言うことをきかず、田崎に正面から抱きつくような形でぐったりよりかかりサンジは体を預けた。

「ほらサンちゃん、ホテルまででいいから、なんとかもたせてよ」
 ホテル?ああもう終電終わったのかな。どっか泊まるのかな。たぶん割り勘だよな。金あったかな。
「ホテルだと?」
 あ、セクハラミドリの声だ。
「あ、か、課長」
 野郎にもセクハラしてやがんのかな。
「おう、手間かけたな、もうみんな二次会行ったぞ、そこの角のカラオケだとよ」
「あ、いや、俺は…」
「そいつは俺が送ってく。タクシーの方向が同じなんでな。乗せてやるって言ってたんだ」
 田崎はいいやつだから尻とか撫でてやんじゃねーぞ、このデコハゲ。
「で、お前は?二次会行くんだろ?」
「…あ、その…」
「そいつどこ連れ込む気だった?」
「いえ、あの」
「新入社員だが仕事も仕込み始めてる。せっかく教育してんだからアホな理由でやめさせられちゃこっちが困るんだよ。そういうことは合コンでやれ」
「あ、は、はい…このことは…」
「未遂だったから不問にしてやる。さっさと行け」
「ははは、はい!」
 田崎がどこかへ行ってしまったので、サンジはまたその場にしゃがみこむ。
 体が熱い。息をふうふう吐いて体を冷まそうとするけれども、うまくいかない。目も開けているのがだるいので、さっきからつぶったままだ。
 なんだか頭と体が揺れているみたいで水の中にいるようだ。
 ここはまるで海の中。

「くそ、飲ませやがって…」
 課長が舌打ちしている。せっかくいい気分だったのに、嫌な感じだ。田崎はもっと親切だったのに。
「おい、立て、行くぞ」
 頭をぐらぐら揺らしているサンジを、課長は腕を引いて乱暴に立たせた。締め付けられた腕が痛みを訴える。
「痛い…」
「文句言うな。やられるとこ助けてやったんだ。礼くらい言え」
 あまり気がすすまないまでも、課長にもたれる。
「歩けるな?歩けよ」
「ふぁい…」
 課長が腰を抱えてくる。もつれる足を懸命にサンジは動かした。
 はっと記憶がよみがえる。

「左は!ひだりては、いやです!!」
「あぁ?…触ってんのは右手だが…左がなんで嫌なんだよ、おい」
 目をかすかに開くと、課長の左手がサンジの眼前に迫っている。
 あの、虫を潰した左手が。
「嫌です!左は嫌!」
 一瞬酔いが冷めた。
「なんで嫌なのか言えって」
「…ひだり、ひだりは…」
 言ったが最後、絶対このセクハラ野郎は喜んでこのネタでサンジに嫌がらせを仕掛けるだろう。
 考えただけでおぞましさにサンジは涙がにじみそうになる。
「ヒンズー教では不浄の手だから…」
 酔っ払った口からあほの極みの答えが飛び出した。
「ん?お前ヒンズー教だったのか。そうか」
 一笑に付されてからかわれると思ったのだが、課長は静かに答えた。
「わかった。左じゃ触らねぇよ。だからちゃんと歩け。ほら、右、左、右、左」
 みぎ、ひだり、とろれつの回らない口でくり返しながら、よたよたとサンジは歩く。
 腰を抱える課長の右腕は、田崎よりずっと太くて、確かだった。
 

×     ×     ×     ×     ×


 気がつけば、というか、気がつかないままサンジはぐったりとただ、されるがままになっていた。
 足を出せ、と課長の声が命令するから、なんとか足を動かした。
 いつからかサンジは何かによりかかって眠っていた。
 どうやら、椅子のようなものに座っているようだ。
「おねえちゃーん」
「いや、男だろ」
「くちべについてんぜ」
「あ、ほんとだ」
「どうしたのー、酔っ払ってんのー」
「ねー、寝てるの?」
 うーむ、むむむ…とサンジは返事をした。
 何かしゃべろうと思ったのだが、そんな言葉しか出てこなかった。
 何人かに話しかけられているような気配がする。
「俺らが送ってあげようか?」
「つーかもういいだろ、聞いてねーよ」
「とりあえず、どこ行く?お前んち?」
「車ん中でいーだろ」
「山方面?海方面?」
「いや山の方が後始末楽じゃん」
「ああまーね」
「ほら立って。行くよおねえちゃん。お嬢ちゃんかな?」
「ハタチいってねーだろこれ」
 また腕を引っ張られた。サンジは立ち上がる。
「おおいいなりじゃん。薬打たなくていいかもな」
「いーや打ったほうが楽しい絶対」
「俺もそっちの方が好き」
「注射器まだあったか?もうねーだろ?」
「サトシが使ったやつがダッシュボードん中なかったっけ」
「使ったら捨てろっての。エイズうつるぜ」
「誰がエイズだっつーの!」
 両側から腕を取られて、サンジは半分ひきずられながら、どこかへ連れて行かれる。
 歩く。歩く。歩かないと、ちょっと待って、歩くから。
「ほら乗って」
 乗る。乗り込む。乗り物。電車。タクシー?
 そう思ったサンジの腕が急に離され、がくんとサンジはその場に崩れ落ちた。


×     ×     ×     ×     ×


 サンジを連れてタクシーに乗ろうと思ったゾロは、タクシーを拾えず道に迷った。
 店を出た時点で、下心みえみえの部下に酒を飲まされまくったサンジは、動かした間にさらにアルコールが回ったらしく前後不覚になっていた。
 履歴書の住所をうろ覚えにしか覚えていないので、サンジの正確な住所をゾロは知らない。
 帰る方向が同じだと田崎に言ったのは方便だ。
 とりあえず少し休んで酔いを醒まさせて住所が言える状態にして、それからタクシーをまた探そうと思い、見かけた公園のベンチに
サンジを置いて、ゾロは自販機を探しに行ったのだ。
 ついでに自分の醒めかけたアルコールも補充しようと酒の自販機を探していたら、思ったより時間がかかって。
 缶ビールを二本とコーヒーを手に戻ってみればサンジはおらず、学生らしい5人ほどの男に両側から抱えられ、公園の隅に
停めてあるワゴン車に連れ込まれそうになっていたのだ。
 連中の漏らした会話を聞いた。

 『薬』。『打つ』。『注射器』。『その方が楽しい』。『山の方』。『後始末が楽』。
 慌てて駆けて追いつき、サンジの右腕を抱えて車に押し込みかけている男の頭をわしづかんで、運転席の窓にたたきつけた。
 片腕の支えをなくしたサンジが、反対の腕をつかまれた中途半端な姿勢でくたりと崩おれる。柔らかいマネキン人形のようだった。
 ガラスにひびが入った。
 車のガラスというのは、上下にスライドして開くものだから、嵌め殺しの窓のようにきっちり固定されているものではない。
 ためしに半分下げてガラスをつまみ、内外に揺らしてみるといい。遊びが設計されている。
 だから完全に窓が閉まっている状態でガラスをたたいても、遊びの部分が少量だがショックを吸収して、簡単には壊れない。
 しかし、ゾロが男の頭をもう一度打ち付けると、ガラスには簡単に、拳大というにもかなり大きな穴があいた。

「お、お前…」
 ゾロは無言で、サンジの腕をつかむもう一人の男の顔を軽く拳で打つ。
「うがっ」
 腹を二発殴って、最後の一発で車の中へと吹き飛ばした。
 二人とも気絶している。
「俺の連れだ」
 一言告げて、完全に地面に崩れたサンジを、ゾロは片腕で抱き起こす。
 息も乱さず、声も荒げず、状況も調べず、圧倒的とも言える暴力を使って話しかけられた男達は、完全に怯えていた。
 運転席の残ったガラスをこぶしでこんこんと叩く。
「開けろ」
 明るい薄笑いを浮かべるゾロに、男は怯えながら言いなりになった。
 高い座席に座っていたその相手を、ゾロは顎へのパンチ一つでのす。
 残った二人の男に、ゾロは話しかけた。

「どうした。ナイフでも出すか?それで俺に勝てるか」
 楽しそうに嗤った。
 相手は二人とも震え上がっている。スーツを纏ってはいるが、ゾロが完全なる武闘派だということは伝わったようだった。
 おやじくさくてゾロは好きではない表現だが、学生時代、ゾロも少しは『やんちゃ』だった。
 チーマー崩れの、酔った女しか拉致れない軟弱レイプ集団なんて相手にもならない。
 二人は固まったまま、ふるふると首を振る。
「今日はもう家に帰れ。それとも、全員殺してばっくれてほしいか」
 陽気ささえ漂わせる微笑で、ゾロはそう言う。
 スーツを着た会社員とも思えない言葉である。サラリーマンのただのハッタリだが、なぜか聞き流せない凄味と、真実味があった。
 ふるふるとまた首を振る二人組。
 ゾロはそれに、うなずいた。
「おらいくぞこのアホ」
「うー、んんん…」
 車に背を向け、サンジを抱えて、ゾロは缶ビールを置いていたベンチまでサンジを連れて戻った。
 二人の男は、後部座席までふっとばされた仲間にようやく視線を落とす。
 ゾロに殴られた男は、鼻筋が奇妙な具合にねじれていた。


×     ×     ×     ×     ×


 真夜中、公園のベンチでゾロはビールを飲み、サンジはその隣で眠り込んでいる。
 大また開きで眠っているので、ゾロは右手でそっと足を閉じさせた。
 ジーパンとはいえ、若い女が、公園でその姿勢はいただけないと思ったからだ。
 ゾロが缶ビールを一本飲み干したところで、サンジが薄く目を開け、うめく。
「おい、意識はあるか?住所は?」
「…」
「住所!!!!」
「…はいぃぃ!」
 ゾロが怒鳴りつけると、サンジは弾かれたように背筋を伸ばして上半身を起こした。
 散々体育会系なやり方で敬語関係をしごいたおかげで、怒鳴ればサンジは反応するようになっている。
 もはや条件反射である。ゾロは、犬を仕込んだパブロフはこんな気分だろうかと思った。
「名落市×××○○○15-3、レストランバラティエです!!」
「うし」
 ゾロがうなずくと、安心したようにまたベンチに沈む。
 ゾロはサンジを抱えて、大通りにちょうど通ったタクシーを呼び止めた。幸い、深夜の空車に運良く当たり、乗り込む。
「名落市×××○○○15-.3、レストランバラティエ」
「あいよ。メーラクね」
 静かにタクシーが走り出す。
 ちらりと目を開けて運転席を見たサンジは、また目を閉じた。
 そしてがばりと起きる。
「違います!名落市名落町×××28-4、メゾン名落401!」
「ん?なんだ、住所違ってたのか?」
「バラティエは実家です!!」
 サンジは、祖父であるゼフに、女として会社に勤めることを告げていない。告げられるわけがない。
 社会人になるから、自立の一歩として一人暮らししたい、敷金礼金は頼る形になるが、かならず月賦で、できるかぎり迅速に
返す、と、過保護に渋る祖父を説得したのだ。

「一人暮らしか」             
「そうです…」
「じゃあ、さっき言ったところに変更で頼む」
「あいよ!」
 ドライバーが答えた。
「その前に、ちょっとそこらへんの大通り、二、三べんぐるっと遠回りしてから行ってくれ」
「…?深夜料金ですよ?」
「構わない」
「…いいですけどね。了解しましたよ。」
 深夜の道路をタクシーが滑っていく。


×     ×     ×     ×     ×


 だんだんサンジの酔いも醒めてきた。まだ頭はぐらぐらして姿勢も定まらないが、思考はそれなりにまとまっている。
さっき怒鳴られたのと、実家に連れて行かれそうになったのに驚いて目も少しだけ覚めた。
「課長、あの、おかね…」
「俺が持ってるから心配するな」
「はぁ…」
 タクシーがたいした衝撃もなく静かに止まる。ドライバーの腕はなかなかのものらしい。
「あ、じゃあ、その、ごめいわくおおかけしました。ありがとーございます」
「おう」
 サンジは課長が料金を支払っているのを横目に、タクシーから降りる。萎えた足に力が入らなくて、よろけて壁に手をついた。
座っている分には問題ないが、歩くのはまだ難しい。サンジの部屋は四階で、マンションにエレベーターはない。
ちょっと…部屋まで戻れるかどうか怪しい。思考がまたぼやけてくる。やっと家に帰れたと思ったら、とたんにすごい眠気もやってきた。

 あれ?
 かちょうが。
 …料金を。
 『しはらって』?
 さっき見た光景を思い返す。
「え?」
 ニ、三歩進んだところでそれに気づいて、サンジは振り返った。
 タクシーはない。
 課長が立っている。
「…かちょう?」
「401、だったな」
 壁にすがってやっとこさ立っている状態のサンジの腰を抱き支え、課長はマンションへずかずかと入って行く。
「あ、あの、課長?」
 酔いが少し醒めてきたサンジは、そこでようやく状況に気づいた。腰に手を回されているのは恥ずかしい。
女性ならこれはかなり恥らうべき場面だ。サンジは男だが、なおさらなんだか恥ずかしい。しかもこいつはスーパーセクハラ課長なのだ。
 これはやはり、介抱にみせかけたセクハラの一環なのだろうか。

「一人でらいじょーぶ、ですから」
「そうか?」
 課長がぱっと手をはなす。
 へちゃ、とサンジは腰が立たずに崩れた。
「ほら見ろ」
 課長に腕を引かれまたサンジはまた腰を抱かれ、エレベーターのないマンションの階段を上る。
一足ごとに眠気は重たくまとわりついて、四階についたころには、サンジはほとんど完全に眠っていた。課長がそれを引きずって部屋の前まで行く。

「おい、鍵どこだ、だせ」
「んー」
「鍵だ鍵。サイフの中か?」
 サンジが持っていた小さなカバンの中をゾロが探る。鍵を見つけ、扉を開ける。
「ただーいまー…」
「それが言えるくらいなら鍵を出してくれりゃよかったんだがな」
 律儀に誰も居ない室内に挨拶するサンジに、ゾロは苦笑した。

 狭いワンルームマンション。一通りの家具はそろっている。
 ゾロはネクタイを緩めながら上がりこみ、部屋の半分を占領しているシングルベッドにサンジを横にした。
 ゾロが掛け布団をそうしてやる前に、もそもそとサンジは布団をはぐって自ら中に潜り込んだ。
 それから、改めて部屋を見回す。ベッドとテレビの間を埋めるように、ガラスの天板の低いテーブル。
 それと小さな本棚。部屋はきれいに片付いている。
 近寄って本棚のラインナップを見る。ほとんどが料理関連だった。エッセイも、食べ物が絡んだタイトルのものばかり。
 ゾロからは、サンジは食欲旺盛なタイプではなさそうに見える。体も細身だし、食も細そうに見える。弁当箱も小さめだった。
 と、いうことは、料理が好きなのだろうか。だとしたら、いい趣味だとゾロは思う。大変結構だ。

 フローリングの床にあぐらをかき、ネクタイを外して背広の上着を脱いだ。壁にある扉を開くと、クローゼットだった。
 女のプライベート、洋服箪笥であるから、極力中を見ないようにして、ハンガーを一つ取り出す。
 ネクタイと上着をそれにかけて、壁の桟にひっかけた。ポケットに一本残っていた缶ビールを開ける。少し温まっている。
 壁にかかっている時計は、珍しいデザインだった。指している時間は、一時半。
 座布団に座り、テレビを付ける。
 ちょっと考えて、位置を変え、ベッドに背中をあずけてよりかかってみると、持っている物はテーブルに置けるし、テレビの真正面なので見易い。
 ベッドがあって、寄りかかるゾロがいて、テーブルがあって、テレビがあって、全部が直線状に並んでいるという位置関係だ。
 座布団が元々置いてあった位置からして、ここがベストポジションのようだ。

 ゾロは小腹が空いてきた。
 自分はこいつの貞操の恩人である。とゾロは考える。
 もしもゾロがいなければ、今頃は田崎にラブホテルに連れ込まれ、合意もなしにずこばこ犯されて好き勝手されていたはずである。
 あの調子だと避妊もしたかどうか怪しいものだ。
 そうでなければ、公園であの男たちにどこかへ連れ去られ、嬲り者にされたあげく、正気のまま五体満足で帰れるのが奇跡に近いような状態にされたはずだ。
 これは柔らかい言い方で、具体的に言えば、最低でも強姦と打撲と骨折と陰部裂傷と急性薬物中毒は免れなかったはずだ。
 それを思えば、少々家を漁って食べ物を失敬したって、罰は当たらないだろう。

 ゾロは、部屋に入った時は無視していた入り口横の狭いキッチンへ行ってみた。冷蔵庫には、何本かのチューハイと発泡酒。
 しょぼいアルコールだ。まぁ高校卒業したばかりのガキには似合いの酒だ。ビニール袋に入ったわからない何かを見つける。
 色は醤油色だが、漬物ぽい。側の戸棚から器を出してそれを空ける。はさみは見つからないのでビニール袋は引きちぎった。
 つまんでみれば、ぴりっとしてなかなかうまい。どうやら大根のようだった。
 何を探すでもなく、好奇心でシンクの下の戸棚を開けてみると、一升瓶が見つかった。
 ガキのくせしてポン酒かよ、と思ったが、これこそ一番嬉しいので、失敬することにした。
 ちなみにそれはサンジの料理酒なのだが、そんなことゾロにはわからない。
 貞操の礼が飲みかけの一升瓶で済めば、向こうも気が楽だろう。もう礼はもらったから気にするなとこっちも言ってやれる。
 コップも拝借する。
 コンロにかかっていた大きな鍋の中には、何やら白く固まった気味の悪いぶつぶつと、大根と肉らしい煮物。色は茶色い。
 味の濃い煮物はゾロの好物である。しかし量が少しばかり、多い。
 男のための料理だろうか、とゾロは考える。
 一人で食べるには、少し多すぎる。
 泊まりにくる男にいいところを見せるべく料理を作ったけど、予定はブッチされてやけくそで参加した会社の飲み会で酒が過ぎた
散々な週末、といったところだろうとゾロは予測した。なんだ、男がやっぱりいたのか。

 火を付けて温めてみると、蝋のような白いぶつぶつは溶けた。これも器によそった。箸も失敬する。
 ワイシャツのボタンをいくつか外して、ベッドによりかかって音量を絞ってテレビを見た。テレビショッピングしかやっていないので、つまらない。
 漬物はうまかった。煮物はもっとうまかった。角煮のようなごろごろした豚肉と大根、濃い味付けがなんともいえない味だった。
 ゾロは確かに三十前だが、まだまだ、肉も揚げ物も濃い味付けも好きである。塩分摂取量も気にしていない。
 日本酒をかぱかぱと煽った。外で飲む酒はやはり、ゾロにとって仕事の一部なのである。
 こうしてくつろいだ状態で好きに飲む酒が、一番うまい。
 コップに移す一手間が面倒くさくなったので、一升瓶の首をつかんでラッパ飲みする。
 座興だと思われてしまうので普段は自重しているが、実はこれが、べこ杯以上にゾロの好きな酒の飲み方である。
 目を閉じ、ベッドにもたれて、回ってくる酔いを楽しむ。
 これも普段は自重していることだが、今は誰も見ていないので、ゾロは遠慮なく愛しい愛しい一升瓶を抱きかかえた。

 すうすうと寝息が聞こえた。
 首を回すと、ゾロの鼻先、すぐそこにサンジの寝顔があった。くうくうと、いかにも作ったような寝息まで聞こえた。
 先天的な身体的特徴をあげつらうのは社会人というより人間失格であるからゾロは指摘しないし、見間違いだと自分に
言い聞かせていたが、眉毛はやはりどう見ても、おかしな具合に巻いている。
 金髪が乱れて顔にかかっている。まつげが金色なのに初めて気がついた。顔は穏やかだ。
 微かに口元が、笑った形になっている、ような。気がする。
 半開きの唇から漏れる酒臭い匂いが届いた。
 股関節とわきの下あたりに、じわりと劣情が生まれてしびれた。

「………」
 ぐっとゾロは顔を近づける。小さな寝息が顔にかかったが、ビールと日本酒とチューハイらしい柑橘系の匂いの混じった酒臭い息だった。
 ちゃんぽんでさんざんやりやがったな、とまたゾロは舌打ちする。今回は席が離れてしまったから、注意してやれなかった。
 ここで欲望にまかせて寝ている部下を犯すほど最低の男ではない。
 が。
「………」
 ゾロは無言でコップに残った日本酒を飲み干し、ズボンを脱ぎ捨て下着だけになって、それからワイシャツも脱いだ。
 華奢なベッドをぎしりと鳴らして乗り上げ、サンジの被った布団に自分も潜り込んだ。






■しとつ再開発■

-2-