Lunatic

夜は暗いばかりじゃないと、知ったのはあの島でだ。

何にもない、ただ波がさざめくだけの海原を毎日眺めて、最初は腹減っただの怖いだの寂しいだの…
湧き上がる負の感情を押さえつけるのに必死だったけど、それでも目の前の景色は変わらず朝が来て
日が暮れて夜が来る。
雨が降ったって風が吹いたって嵐が来たって昇るものは昇るし沈むものは沈んだ。
月のない夜に夜光虫が光ってさざめく時もあった。
燐のように青白い光がいくつも寄せては返す様はそれは綺麗で、それを綺麗だと感じる自分にほっと
したりして―――

荒れ狂う嵐の夜はすべてに飲み込まれる感覚を恐ろしいとは思わなかった。
いっそ闇に包まれて消え失せたいと、本気で望んだものだった。
焼け付く太陽より、自由に吹き抜ける風よりどこまでも続く青い空より夜の闇は心地よかった。
たった一人いつ果てるとも知れない小さな命ごと、抱かれているような気持ちになれた。
ただ―――
月の夜だけは、なぜかひどく心がざわめいた。
忘れていたなにもかもを不意に思い出したり、孤独と絶望と言うとうに手懐けた筈の感情に
襲われたりして、落ち着かなくて情けなくて。
枯れ果てた涙ですらまた湧き上がってサンジを打ちのめした。

どうしてか、月の光を見ると心が惑う。
形が真円に近付けば近付くほど、その光が白く明るく強くなればなるほど心が乱れた。
どうしようもなく泣き喚き、誰かを呪いたくなった。
島の向こう側にいる憎い海賊に縋り付いて、寂しい、怖い、助けてと叫びながらしがみ付きたくなった。

だからサンジは、月夜は苦手なのだ。












月夜に浮かれるのは狸だと相場が決まっている。
どうにも狸と形容しがたい男は、満月を肴に手酌で杯を傾けてずっと甲板を占領していた。
酒だけ飲まれるとペースが速くてすぐ空にしてしまうから、サンジは仕方なくつまみを作る。
別に酒だけだと身体に障るとか、刺身の切れ端を取っておいたからだとか、そんな理由では決してない。

食料のストックを守るのはコックの仕事だから、冷やした皿を手に、それでもしばし足を止めてしまった。
まんまるな月は降り注ぐというより、浮かび上がらせる光だ。
波間の闇も、帆先の影も一切合財照らし出して、すべてを曝け出されてしまっている。
そんな中、月に向かって胡坐を掻いて空を見上げるゾロの背中だけは真っ直ぐに伸びて、凛として美しい。
胸底の奥の闇まで暴かれる恐ろしさを、この男は知らないのかもしれない。
―――いやそもそも、こいつに闇などないのか
己が生きてきた道の跡に後悔や懺悔、後ろめたさなんて微塵も残されてないのだろう。

片手に乗せた皿が体温で温まるのを恐れて、サンジは歩を進めた。
これで背を撓らせて遠吠えの一つでもすりゃあ、可愛げがあるんだが…。
ゾロはグラスを置いて、静かに後ろを振り返った。



さも当然といった風に皿に手を伸ばすのが癪に障る。
それでもサンジの口元に笑みが浮かんでいるのに気付いて、不審そうに眉を顰めた。
「あんだよ」
「いやあ…馬鹿は羨ましいなと思ってよ」
「・・・」
誰が馬鹿だと言い返してくるところだが、ゾロは片眉を上げただけで皿を受け取るとまたグラスを手に取った。
昼間なら確実に喧嘩に持ち込まれる些細な言葉も、こんな夜は肴にしかならない。
「なんだ、馬鹿をとうとう自覚したか?」
つまらなくて、サンジはゾロの隣に腰を下ろした。
別に構って欲しいわけではないが、シカトされるのは気に食わない。

ゾロは黙って刺身の切れ端を指で摘まむと垂れるのも構わず口に運ぶ。
「箸を使え、このケダモノ」
サンジは身体を寄せて抗議した。
それでも真っ直ぐ前だけ見て咀嚼するゾロが腹立たしい。
口を閉じて何度か噛んでこくりと飲み下した。
いかつい喉仏が面白いように動く。
グラスになみなみと酒を満たしてくいーっと3分の2ほど飲み干してしまう。
また酒を注いで刺身を摘まんだ。
「箸…使えって」
サンジは焦れてゾロの真横まで顔を近付けた。
本来食事をする人間の横で、あれこれ指図するのは好まないのだが、なぜだか今は目が離せない。

美味いのだろう。
美味いはずだ。
ゾロの口は止まることなく咀嚼を続け、時折舌を出して口端に垂れた汁気を舐め取る。
たれで汚れて指を舐めて、酒を飲みまた摘まむ。
完全無視な状況に腹を立てて、サンジは後頭部を蹴ってやろうと思った。
ら、ゾロが唐突にこちらを見た。
ばちんと音を立てたみたいに視線がかち合う。

「お前は、なんでそんな目で俺を見る」
そっくりその台詞をてめえに返したい。
そう軽口を叩きたいような目をして、ゾロはサンジを見据えている。
「てめえも、俺に食われてえのか」
言葉を理解する前に、ゾロの指がサンジの唇に触れた。

指の腹で下唇を撫でて、軽く引っ張って歯の表面に触れる。
塩気がする。
刺身の、たれの味だ。
サンジはゾロの目に見入られて動けなくなっていたから、ゾロはそのままべろりと舌を出して
自分の指を舐めた。
そのままサンジの唇も舐める。
舌先を尖らせて口端から頬まで舐め上げ、瞬きもできず目を見開いたままのサンジを覗き込んで笑った。

笑ったままその身体を月明かりの下に押し倒した。









その後のことは正直サンジはよく覚えていない。
男に組み敷かれること自体初めてだったはずなのに、異常に感じてしまった。
そのことだけは自覚している。
痛みと熱に身体を焼かれながら、悦びの声を上げた気がする。
しまいには涙を流して縋り付いた気もする。
なにもかも、夢うつつだ。

あれはきっと満月だったからだ。
月は俺を狂わせる。
だからサンジは、すべてを月のせいにした。