
−4−
ガキの時、海で遭難したことがある。
世界から取り残されたような小さな島で、たった一人で餓えて過ごした。
実際にはもう一人、一緒に遭難して俺をずっと助けてくれていた男がいたが、俺はその時そいつを仇のように
憎んでいて縋ることはなかった。
今思い出せば、その時死んでしまっていたらよかったと思うくらい恥ずかしくて居たたまれないが、あん時は
その気力で生き延びることができたんだろう。
この広い海の只中で一人ぼっち。
誰も俺の存在に気付かず、誰も俺を必要としていない。
このまま息絶えても誰も悲しんでくれないちっぽけな命。
寂しくて哀しくてどうしようもないまま、恨みだけを抱えて泥水を啜って生き延びた経験があるせいか、
奇跡的に救助されたときからもう俺は自分のことはとんと省みなくなった。
これからの俺はオマケで貰った人生みたいなものだ。
その代わり、誰かに何かをしてやることに無上の喜びを覚える。
コックという職業はまさに天職だ。
誰かのために食事を作り、それが味わわれ喜ばれる時、生きていることを実感する。
よくウソップは俺を働き者だと誉めそやすが、単なる自己満足にしか過ぎねえことを俺は知ってる。
だから本当に誰かに求められたなら、それがどんなことであっても俺は拒むことができない。
朝から強烈な日差しが甲板に降り注いでいる。
夏島に近いのだろうか。
「洗濯日和だよなあ。」
なんて所帯じみたことを呟いていたら早起きなナミさんが一番にキッチンに入ってきた。
「おはようサンジ君。どうやら無事みたいね。」
天使のような清らかな笑みで、そんな心配をしてくれる貴女も朝から眩しいv
「ナミさんのお陰です。でも今夜からはお部屋に避難させてくださいv」
「今日ウソップに頼んで部屋の鍵増やしてもらうわね。サンジ君は自分で自分の身を守りなさい。」
にこやかに拒否されて俺は乾いた笑い声で答えた。
やっぱりなんとかしなきゃ、いけねえか。
「じゃあナミさん、次の島に着くのはいつ頃になります。」
せめてそっちに希望をつなごう。
男専門だろうがなんだろうが、溜まってっから暴挙に出るんだ。
上陸して発散してもらえばこっちの被害も減るんだろうし。
なのに―――
「一昨日出航したところでしょ。あと3週間は無理よ。」
すげなく応えられて、涙ぐみそうになった。
俺としては一刻も早く次の島に着いて欲しいのに、今日も天気はぽかぽか陽気で風も吹かない。
GM号は暢気にたゆたいながら、長閑な航海を続けている。
例のごとく甲板になにやら広げてせっせと作業しているウソップに飲み物を差し入れすると、見たこともない
モノを作っていた。
「なんだ、それ。」
「ああゾロに頼まれたんだ。素振りするんだと。」
・・・素振り?
この重そうものでか?
頑丈そうな鉄の棒にこれでもかというくらい重たそうな錘がいくつも付けられている。
「こんなもん、どこで手に入れた。」
「昨日の海賊船からゾロがかっぱらってきたんだと。」
たやすくかっぱらえるような代物じゃねえぞ。
ちょっと持ち上げるのも一苦労じゃねえのか?
「勿論今適当に組み立てたんだけどよ、これくらいじゃねえと鍛錬にならねえんだと。ゾロって力が
すげえんだよ。さっき錨を素手で持ち上げたから、大騒ぎだったんだぞ。」
俺はくらりと眩暈を感じた。
凄腕の剣士で、冷徹で、ホモで馬鹿力かよ。
無敵じゃねえか。
「さ、できた。おーいゾロ!!!」
ウソップの声にひょこりとみかん畑から緑色の頭が起き上がった。
保護色か。
「これでいいか?試してみろよ。」
案外身軽に飛び降りて、片手でそれを持ち上げる。
ウソップが両手で腕を震わせながら立てかけたそれを、だ。
「・・・うん、錘はこれから足せるのか。」
「ああ大丈夫だ。調節可能だぜ。」
「恩に着る。」
感謝してんだか喜んでんだかわからない無表情のまま口だけで例を述べて、ゾロはそれを肩に担ぐと
広いところまで歩いて行った。
両手で高く持ち上げて真っ直ぐに振り下ろす。
数度試して満足げに頷くと、なにかぶつぶつ言いながら素振りを始めた。
「・・・ほんとに素振りしてるぞ、おい。」
「な、すげーだろv」
なんつーか、一緒に見ているウソップの目がきらきらしている。
気が付けばチョッパーも釣りをしながら同じような目でゾロを見ていた。
単純な憧れの眼差しって奴だ。
「あんなもん、化け物じゃねーか。」
腕を組んで首をすくめる俺にウソップは視線を移すと、ふと目を眇めた。
それはもしや・・・哀れみの眼差しでは―――
「なあサンジ。」
ぽんと馴れ馴れしく両肩に手を置く。
「悪いことは言わねえ。命あっての物種だ。その時が来たら、まあ悪い犬にでも噛まれたと思って諦めろ。
絶対死に物狂いで抵抗したり、するんじゃねえぞ。」
「・・・はあ?」
危うく取り出した煙草を落としそうになる。
「だってよお前。ゾロは多分、お前の首なんざ片手で簡単にへし折れるぞ。」
ウソップの目がマジだ。
それを正面から見返して、俺は口端を上げた。
ウソップはゾロの強さって奴を目の当たりにしてすっかり失念していたようだが、俺もそれなりに強いん
だってことをその身体に叩き込んでやる。
「ったく、どいつもこいつも。」
床に沈んだウソップの傍らで煙草に火をつけて、一服する。
強いからなんだってんだ。
所詮、人殺し野郎じゃねえか。
圧倒的な「強さ」って奴を見せ付けられると人間ってのは単純に憧れを持っちまう。
ウソップやチョッパーは特にそういった傾向が強いだろう。
それは仕方ないだろうが―――――
「だからって、なんで俺が奴にカマ掘られんの黙認するんだっての!」
むかつく。
マジでむかつく。
さっきまで阿呆みたいにブンブン錘を振ってた筋肉馬鹿は姿を見せない。
またどっかで寝くたれていやがるのか。
無性に腹が立って収まらなくて、俺はわざわざ奴を探しに船を歩き回った。
後甲板の廊下の隅に丸くなってる奴を見つける。
なんだってこんなとこでも寝てんだよ。
ムカムカしながら足を振り上げようとして、小さな蹄に止められた。
「あんだ、チョッパー。邪魔すっとお前も一緒に蹴り上げちまうぞ。」
ぎろりと睨みつけたが、怯えながらもチョッパーはその手をどけない。
普段臆病なこいつがこんな目をするのは、医者になってる時だ。
「サンジだめだ、起こしちゃいけない。ゾロには、眠りが必要なんだ。」
小さな、でも厳しく叱咤するような声。
思わず気勢を削がれる。
「…って、こいつ寝てばっかだぞ。」
「それでもだ。頼むから、眠らせてやってくれ。」
ドクターチョッパーの言葉は重い。
俺はそれ以上我を張る事もできなくて、仕方なく舌打ちしてその場を離れた。
チョッパーは何か知っているんだろう。
ルフィも、知っているんだろうか。
別に俺はゾロにどんな事情があろうが何者だろうが知ったこっちゃない。
ただ力を振りかざして俺を襲おうとさえしなけりゃ、仲間として認めてやったっていいと思ってるだけだ。
ポケットに手を突っ込んでつまらなそうに歩く俺は、我ながら拗ねたガキみたいだと思う。
−5−
いつものごとくまるで舐めたように綺麗に平らげられた皿を手早く洗いながら、俺はさりげなく後ろの気配を窺った。
夕食後の後片付け。
チョッパーは見張り台へ、女性陣は早めの就寝、ルフィとウソップは風呂へ部屋へとそれぞれに行った。
ゾロ一人を置いて。
さっきから不躾な視線が背中に痛い。
酒をかっ食らいながらぼうっと俺を見てるらしいゾロが気になって、うざくて腹が立つ。
だがここで声を荒げて奴を刺激するのも避けたいところだ。
俺は極力静かな声音になるように気をつけて、奴を見ないで顔だけ向けた。
「お前も、もう休んだらどうだ。いくら昼間惰眠ばっか貪ってたとは言え、夜は寝るもんだ。
もう俺も大体片付けたから、とっとと寝てくれ。でねえとそっちが片付けかねえ。」
結局最後の台詞は刺々しくなったが仕方ない。
俺の苛々する気持ちを知ってか知らずか、ゾロは殊更ゆっくりグラスを傾けている。
「てめーと違って俺は昼間も働いてっから、夜くらいゆっくり休みてえんだ。邪魔すんなっつうか、
人のケツジロジロ見てんじゃねえよ!」
気の長い方じゃない俺は、終いにはぶち切れてイスを蹴りながら怒鳴っていた。
が、ゾロは衝撃で身体が揺れても平然としている。
「・・・お前のケツを見ていたわけじゃねえぞ。」
「じゃあ何見てんだ、鬱陶しいっ!」
お玉を握ったまま腕を組んで仁王立ちする俺の前で、ゾロはついと指を指した。
「手・・・かな。」
「は?」
少し考えるように首を傾ける。
「お前の手・・・すげー面白いな。よく動く。器用だ。それにいい匂いがする。」
「はあ?」
――――なんだ、新手の口説きか。
「匂いって・・・」
ルフィ並みかよ。
食いモンの匂いに釣られるタイプか?
「そういやお前、みそ汁の匂いで起きて来たな。」
「ああ、みそ汁ってんだな。美味かった。」
お、俺のアンテナが反応しちまったぜ。
俺って『美味かった』って単語に無条件で反応しちまう。
「ああ、ありゃあこないだの、お前が乗ってきた島で仕入れた味噌で作ったんだ。あと醤油とかもあったぞ。
大豆も買い込んだから、豆腐とか作ってやろうか?」
「豆腐?」
「味噌汁に入ってたろ。白いの。俺も作れるんだぜ。」
ゾロの目が俺の手と顔を行ったり来たりしている。
あの茫洋とした瞳ではない、目的を持って辿る生きた目線。
「納豆にもチャレンジすっかな。お前好きそうだしなあ。イーストブルーの北の料理がいいんだろうな。」
こいつは、俺と違って生まれ故郷って奴を持っている。
やっぱ郷土料理が恋しいなんて、人斬りも人の子だったってことか。
いかなる相手でもついサービス精神を発揮してしまうのは俺の長所であり、短所でもあるかもしれない。
バラティエでも飢えた海賊に飯を食わせて、元気になった途端居直られたことは何度もあった。
それでも他のコックどもに言わせれば学習能力のない俺は、与えることを止められない。
自分が出来うる限りの施しをせずにはいられないんだ。
明日にでも大豆を炊いて・・・
いやまず水に浸しておかなきゃな。
豆腐を作ったらおからができるな。
ルフィたちにはそれでドーナツを作ってやろう。
ざる豆腐もいいが、残ったら揚げにして・・・
いやその前に揚げ出し豆腐で・・・
すっかり料理に思考が行っていた俺は、近付いて来たゾロに気がつくのが遅れた。
不意を付かれて、振り向いた時には、すでに両手で背中と腰を抱えられていた。
ご丁寧に足を踏んづけてくれている。
「な!お・・・まっ」
いくら俺の蹴りがジジイ直伝とは言え、至近距離では威力を発揮できない。
正直ここまで接近されると俺にはなす術がない。
辛うじて武器になりそうなお玉を振り上げようとしたら手首を掴まれた。
痛みに思わず身を竦める。
「手、手はよせっ」
ゾロが不思議そうな顔で俺を見つめる。
「乱暴にすんな、筋でも違えたらどうしてくれんだ。俺の手はコックの手だぞ。」
「コック・・・」
またオウム返しだ。
だがこういう時のゾロは扱いやすい。
「ああそうだ。俺の大事な手だ。だから俺は戦いの時、手を使わない。」
納得したようにゾロは手首を掴む力を緩めた。
けど相変わらず体全体を使ってがっちり動きを止められている。
背中に回された手が肩甲骨の下辺りから背筋を辿るように何度も上下する。
反対側の手は俺の腕を抱えたまま腰に廻っているからなんだか抱きすくめられてるみたいだ。
「・・・あ、あのよ。おま・・・いつもこうか?」
「いつも?」
「その・・・なんだ、男とやる時…」
ゾロがまた不可解な目の色で見る。
「んなことねえな。いつも適当に買って突っ込むだけだ。」
「買ってって、男娼・・・とか?」
「ああ。」
うわあ、本物なんだなあ。
ってことは、俺は男娼の代わりかよ。
また沸々と怒りが湧いてくるのに、ゾロはお構いなしに俺の頬に触れてきた。
がさついた指の腹で何度か撫でる。
「・・・なんだ、男相手にんなことすな。気色悪い。」
「・・・こんなこと、しねえ。」
俺を触ってるのはゾロなのに、なぜだかゾロは不思議そうだ。
「やる相手にこんなこた、しねえぞ。突っ込めりゃそれでいいんだ。なんでだか、てめえに触りてえ。」
そう呟いて、俺の手をゆっくりと自分の口元に持って行く。
匂いを嗅がれているだけなのに、まるで口付けされているようで顔が熱くなった。
この手を振り払えないのは、こいつが馬鹿力のせいだ。
抵抗できないのも、仕方ない。
俺は必死でそう思い込もうとした。
目を閉じて、少し眉間に皺を寄せて俺の手に顔を寄せるゾロは、男の俺からみても整った顔立ちをしている。
細い眉も意志の強そうな口元も精悍な印象を与えて、多分レディなら誰でも放っておかないだろう。
「・・・お前って、ほんとにレディがだめなのか?」
なんだか俺は哀れに思えてきた。
人の性癖をとやかく言うつもりはないが、なんか勿体無い。
「てめえみたいなマッチョ野郎に多そうだけど、レディのこと馬鹿にしてんだろ。あんなに柔らかくて
優しくて綺麗な生き物はいねえのによ。」
俺の言葉にゾロは静かに薄目をあけた。
「馬鹿になんざ、してねえぜ。俺は――――女が強いことを知ってる。」
眇めた瞼から覗く瞳はどこを見てるのかわからない。
まるで独り言みたいにゾロは続けた。
「俺の幼馴染は女だったがえらく強かった。一度も勝てなかった。」
「なんだ・・・なら、その子のことが忘れられねえ、とか?」
ゾロがずっと俺の手を口元に当てたまま目を閉じた。
「くいなを斬ったのは俺だ。それから女は抱けねえ。」

「―――・・・」
俺は言葉を失ってしまった。
下手な慰めなんて、言うべきじゃないだろうしそんな台詞も持ち合わせちゃいないけど、
ただゾロがは真性って訳じゃなくて何か事情があってそうなったってのは、なんとなくわかった。
けどそれとこれとは話が別だ。
「・・・だからって、俺のケツを弄るんじゃねえ。」
いつの間にか背中を抱いていた手が腰の下まで下りてきている。
「人の身体を、気安く触るんな。」
あんまり密着されるとさっきからバクバク鳴ってる鼓動が気付かれそうで困る。
別にこいつに迫られてどきどきしてる訳じゃねえぞ。
息が上がってんのも、腹を立ててるせいだ。
焦る俺にお構いなしに、ゾロはまた俺の手を鼻先に当てた。
「・・・お前の匂いを嗅いでると・・・思い出す。」
「な、なにを・・・」
「わからねえ。けど思い出す。」
ゾロの眉が切なげに顰められた。
言ってる言葉とは裏腹に、顔に表れたのは苦悶の表情だ。
「・・・辛えのか。」
思わず問うた言葉に、ゾロが至近距離から見つめ返す。
俺の目の前にあるのに、何も見てないような虚ろな瞳。
壁に押し付けるように密着して、手を握って、身体ごと抱きこんでいるのに、ゾロの意識はどこか遠くを
彷徨っている。
「ゾロ、思い出すのは辛えのか?」
俺はもう一度問うた。
どうしてもゾロの意識をこっちに引き戻したかった。
俺を見て欲しかった。
だがその声に答えず、ゾロは振り払うようにきつく目を閉じると、唐突に俺から身体を離した。
よく見れば額に汗が浮いている。
肩だって呼吸に合わせて大きく上下してる。
「ゾロ?」
「・・・寝る。」
そう言い残すと、呆気に取られるほどあっさりゾロはキッチンから出て行ってしまった。
残されたのは、壁に沿って馬鹿みたいに突っ立っている俺と、踏みつけられてた足の痛みだけだ。
「・・・なんだってんだよ。」
その先に進まなくて残念だと思っている訳じゃねえ。
それは決してない。
訳じゃねえが、あの、どこ見てんだかわかんねえ瞳を捉えてみたいと思った。
