ゾロと一緒 小なす編 -1-



雨に濡れたアスファルトに、ところどころ赤い色が滲んでいた。
それを踏まないようにと、黄色い長靴がぎこちない動きで水溜りを避けて歩む。

手負いの獣――――
言葉を知っていたなら、そんなセリフが真っ先に頭に浮かびそうな剣呑な目つきだ。
荒く息を吐きながら半眼で見上げる男は、生垣の中に身を潜めるように横たわっていた。
両手で隠された胸元は真っ赤に染まり、流れ落ちた血がジーンズに染み込み路面まで濡らしている。
叩きつけるように激しく降る雨が、辛うじてその毒々しさを和らげていた。

「けが、してるの?」
問いかける声は幼く、透き通って響く。
サンジがそうっと静かに近付くのは男を恐れてではなく、男を驚かせないためだ。

小さいころから犬や猫が好きで、近所に動物の友達も多い。
初めての犬との挨拶の仕方も、ちゃんと心得ている。
自分が思っている以上に相手は怖がりだから、まず驚かせちゃいけない。
怯えさせてもいけない。
自分はこんなんだと、ちゃんと知ってもらってからじゃないとお友達にはなれない。

だからサンジは、犬に対してすぐに手を差し伸べたりなんかしなかった。
急に手を差し出されると、犬はびっくりして反射的に噛み付いてしまうこともある。
それをわかっているからまずそうっと近付き、できれば背を向けて存分に匂いを嗅がせてあげる。
そして、犬が安心したところで初めて、挨拶を交わすのだ。

サンジはそろそろと近付き、男の目の前でしゃがむと背中からにじり寄った。
少しずつバックして、男が至近距離からまじまじとサンジを見つめるのに任せている。
「だいじょうぶ?」
ほとんど男の懐にまで潜り込む形で腰を下ろして、もう一度問いかけた。
男は無言で、こくりと頷く。
サンジが目深に被った合羽の庇から、パタパタと雨だれが落ちた。
それが男の手を濡らし、それを拭うようにサンジの手が触れる。
ほんのりと、柔らかく温かい感触に男の目がわずかに和む。
冷え切った男の指をきゅっと握ってから、サンジは青い瞳を丸くして顔を覗き込んだ。
「さむいだろ?おれんちくる?」
いいや、と首を振ったつもりだったのに、サンジは「よし」と笑って男の手を引いた。



  *  *  *



「今日からここが、てめえん家だ」
先にタクシーから降りた老人は、足を引き摺って歩く。
それを気遣いつつ、バッグを一つ抱えて後に続いた。
瀟洒なレストランの真横に立つ、こじんまりとした一軒家だ。
以前にもここに来たことがあったが、その時は意識が朦朧としていたから正直ほとんど覚えていない。
「いま帰ったぞ、チビなす」
からりと玄関を開けると、甘い匂いが鼻を掠める。
中から「チビなすいうなー!」と甲高い声が飛んできて、次いでピンクのエプロンを身に付けた子どもが軽い足取りで飛び出してきた。
「おやつ食べようとおもったのにジジイがもどってきたから、食う気なくなっちまった。かわりにかってに食えよな」
いかにも憎々しげに悪態を吐いているが、声が可愛らしいから迫力もないし言ってることも意味不明だ。
ゾロは老人の後ろからそっと覗き込むと、子どもははっとして片方だけ覗く目をまんまるに見開いた。
「ゾロ?!なんで」
なんではこっちのセリフだ。
なぜ、自分の名前を知っている。
「退院したから連れてきた。今日からここに住まわせるぞ」
「えええっ?!ほんと?ほんとに?!」
途端に、子どもはパアッと花が咲くみたいに笑顔になって、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「ほんと?ほんとに?ジジイありがとう、ありがとう!」
そう言って老人に抱き着き、額をぐりぐりと擦り付ける。
「コラてめえ止めやがれ。んなことしてねえで、こいつにもなにか食わしてやりな」
「あ、そうだ!とにかくあがってまってて」
そう言って、ゾロの手をがしっと掴む。
「病院からかえってきたんだから、ちゃんと手をあらってな。ゾロ、おかえり!」
「・・・ただいま」
面食らいながらもなんとか声を出すと、子どもは得意気に笑って、来た時と同じように鉄砲玉みたいな勢いで台所に戻って行った。
「・・・たく、はしゃぎやがって」
玄関横に置かれた椅子に腰かけ、靴を脱ぐ老人に倣いゾロも家に上がる。
甘い匂いに誘われるように台所に入れば、子どもは小ぶりのフライパンを両手で持って振り返らずに指図した。
「そっち、廊下まっすぐ歩いたら洗面所あるから。ジジイ、ちゃんと案内してやれよ」
「うるせえよ、クソガキが」
随分と口の悪い家族だが、険悪な雰囲気ではない。
ゾロは廊下にバッグを置いて、洗面所で手を洗った。
ついでに嗽もして、鏡に映った自分の顔をじっと見る。
未だに頬はこけ、顔色は悪い。
普通にしているつもりでも険のある目つきだ。
およそ、子どもに懐かれる面相ではないのに、あの子はなぜか最初から物怖じしない。
「ゾロ―、できたぞー」
早く早く―と、親しげに呼び付ける。
ほとんど初対面にも拘らず全面的に大歓迎されていることに戸惑いながら、ゾロは台所に戻った。

「じゃーん」
子どもが小さな手を広げて見せたテーブルには、こんがりとキツネ色に焼けたホットケーキがあった。
2枚、ずらすように重ねられてカットしたフルーツが乗っている。
それに生クリームとイチゴソースとチョコレートとが掛けられていて、豪華と言うよりやや乱雑だ。
だが、目いっぱい手を掛けて飾り付けられたことはわかった。
「…すげえ」
「だろ?えへへ、うまいぞう」
「いいから、てめえは座れチビなす」
「チビなすいうな!」
4人掛けのテーブルに、いつもは向かい合わせで座るだろう二人の間に、ゾロは腰掛けた。
老人が子どもの前にホットミルクを置き、ゾロの前にはブラックコーヒーを置いてくれる。

「チビなす、今日からこの家に住むロロノア・ゾロってんだ」
「ロロロアゾロ?」
「ゾロでいい」
ゾロがぼそっとそう言うと、子どもはキラキラした目でうんと頷いた。
「おれはサンジ。ジジイの孫だ」
「俺はゼフ、孫のチビなすと二人暮らしだ」
ここにきてようやく、ゾロはこの場にいる人間の名前を知った。
退院の日に迎えに現れた老人の名さえ、いままで知らなかった。
その異様さも気にならないくらいゾロはすべてに関心がなかったのに、今は彼を取り巻く世界がまったく違う。
「さ、自己紹介もおわったし食べようぜ」
「ああ、いただきます」
「・・・いただきます」
ゾロがホットケーキを口に運んだのを見届けてから、サンジも安心したように大口を開けて頬張った。



ゾロはどこにねるんだ?と至極まっとうなサンジの質問に、ゼフはしばらく考えてからお前の部屋、と返した。
「よく考えたら、この家には客間もねえ。客でもねえしな」
「ちっ、しょうがねえなあ。しかたねえから、おれの部屋においてやるよ」
どこまでも俺様な口ぶりながら、サンジは口元をゆるめてゾロを見上げた。
「にもつあるだろ?おれの部屋こいよ」
「ああ」
廊下に置きっぱなしだったバッグを持って、サンジについて二階に上がる。
ゼフは足が不自由なようで階段には手すりがつけられ、二階はサンジだけのスペースのようだ。
「ここがおれの部屋だ!」
どうだと言わんばかりに、サンジは堂々と扉を開けた。
子ども部屋だと思っていたのに案外と広い。
そして、およそ子どもらしくなく綺麗に整頓されていて、ベッドも大きかった。
「でかい部屋だな」
「だろ?おれももう小学生だから、ひとり部屋ひつようだって」
学習机に教科書と子どもの辞典。
備え付けのクローゼットには、そう多くない衣類が整然と仕舞われている。
子どもらしいゲームや漫画、DVDの類が一切見当たらない。
「にもつそんだけか?きがえはあるか?」
おれのパジャマ貸そうか?とまで言われたから、ゾロは面食らいつつ首を振った。
サンジが真面目な顔をしているので、茶化すのは悪いと思う。
「あー、俺にはちょっとだけ小さいと思う。大丈夫だ、着替えは買ってきた」
「でも、そんだけだろ?」
「また改めて、買い揃える」
下着類は退院するときに売店で揃えたが、寝間着までは考えていなかった。
当分シャツにジーンズでいいだろう。

「じゃあゾロのにもつはこのスペースな。あとでせいりして、タンスの上2段はゾロが使うようにあけとくから」
「ありがとう」
なんともテキパキとした動作に、ゾロは内心感嘆している。
どう見ても小学生低学年くらいなのに、随分しっかりした子どもだ。
「ゾロ、風呂はいれる?」
「ああ」
入浴の許可はもう下りている。
そう思って返事したが、サンジの意図は違ったようだ。
「しばらくおれが一緒にはいってやるな。お前の世話はおれがちゃんとみてやるから、おとなしくしてるんだぞ」
「―――― …」
なんと答えていいかわからず、ゾロは無言でこくりと頷いた。
なにせサンジの表情が真剣そのものだから、怒るとか呆れるとか言った感情が湧いてこない。


サンジの言葉通り、夕食の後二人で風呂に入った。
傷を見て怖がらせるかと思ったが、サンジはわかっていたのか服を脱いだゾロをじっと見つめ、それからくにゃりと眉尻を下げた。
ゾロの胸の傷は塞がったが、まだ縫い目がぼこぼことして肌の色も斑だ。
なにより、肩から脇腹にかけてざっくりと切れ目が入っていて傷自体が大きい。
何の予備知識もない子どもが目にしたら、軽く泣き出すレベルのグロさだろう。
「――――いたい?」
「もう痛くねえ、むしろ痒い」
あちこち瘡蓋ができていて、つい無意識にぽりぽりと掻いてしまう。
そうすると知らぬ間に血が滲んでいるが、この家に来たからにはそれも気を付けなければならないだろう。
布団や衣類に血を付けては申し訳ない。

「よし、おれがちゃんと洗ってやるからな」
サンジは本当にゾロの世話を焼くつもりのようで、甲斐甲斐しく頭から洗い出した。
小さな指が地肌を擦るのがくすぐったくて、自然とゾロの表情も和らぐ。
「きもちいいか?」
「…ああ」
「かゆいところはありませんか?」
「傷が痒い」
「そこはダメ」
傷口は、サンジが丁寧に指で擦ってくれた。
いつも、痒さに負けてタオルでガシガシ擦っては出血を繰り返していたゾロにとって、なんともむず痒くある意味拷問のような生ぬるさだったが、サンジがとても真剣な表情だったので好きにさせておく。
その代り背中は思い切りごしごしと擦ってもらい、入院生活の垢をさっぱり落とせた気がした。

「ああ、気持ちいいな」
「そうか。よーくつかれよ、肩まではいれ」
大きめの湯船に、二人でゆっくりと浸かる。
浴室内はゼフのためにかあちこちに手摺が付けられ、湯船の深さはそれほどない。
だがその分幅が取られていて、ゆっくりと足を延ばすことができた。
「じいさん、足が悪いのか?」
「うん、片足をせつだんしてんだ。義足つかってるから、風呂はいったり寝るときは足をはずす」
「そうか」
サンジの、年に似合わぬしっかりした物腰は、身体の不自由な祖父との二人暮らしのためかもしれない。
ゾロはそう思いながら、透明な湯でざぶりと顔を洗った。



毛布一枚でフローリングに寝転がるつもりだったが、けが人にそんなことさせられるかとサンジが怒り、強引にベッドに寝かされた。
将来サンジが大きくなると見越してか、ベッドはセミダブル仕様でゾロが寝ても窮屈ではない。
しかも隣にサンジが潜り込んできて、触れるか触れないかの微妙な感覚で寝そべった。
「けががなおるまで、こうしておいてやってんだからな。けががなおったら、床で寝ろよ」
「おう」
「よく寝てたくさん食べて、はやくけがをなおせな」
「…おう」
久しぶりの、病室ではない柔らかなベッドに横たわり、ゾロはほぼ条件反射で眠気に誘われた。
加えて、サンジの細くて高いおしゃべりの声が鳥のさえずりに似ていて妙に耳に馴染む。
「でな、学校ではな…」
相槌を打つ真似すらできないまま、ゾロはすうっと眠りに落ちた。



―――――ゾロ。
呼ばれて、はっとして目を覚ます。
いつの間に眠っていたのか、部屋は明かりが消されて真っ暗だ。
ベッドサイドに目をやると、デジタル表示は10時30分を差している。
まだ寝入りばなで、うとうとしたくらいのようだ。
身体を起こそうとして、傍らのぬくもりに気付いた。
確かに、寄り添うように寝転んでいたサンジが今は肩にしがみついてくうくうと寝息を立てている。
柔らかくて暖かい子どもの身体が右肩に張り付いていて、その重みは心地よかった。
このまま再び寝入ってしまいそうだが、確かに今呼ばれたと眠気を覚ます。

サンジを起こさないようにそうっと腕を外し、身体を起こした。
布団を掛け直してベッドから足を下ろし、音を立てないように扉を開けて廊下に出る。
足音を忍ばせて階段を下りると、台所にゼフが待っていた。
「…起きたか」
「すんません、寝てました」
「ちょっと呼んだだけで気付くなんざ、たいしたもんだ」
サンジを起こすと思ったから、ゼフは大きな声は出さなかった。
ただ、階段下でゾロの名を呼んだだけだ。

「起こして悪かったな」
「いえ、きちんとお話してないのに寝てしまった俺が悪いんです」
ゾロの言葉に、ゼフはうむと頷く。
「まあ座れ」
ゼフは香ばしい匂いを漂わせながらコーヒーを煎れて、ゾロの前に置いた。


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