デイ・ドリーム・ビリーバー -1-
<またたび史瀧様>


――ゾロの家にサンジがやって来たのは、ゾロが24歳、サンジが9歳のときのことだった。
ゾロの大きな手の中で、サンジの手はとても儚く小さくて、それでもしっかりとゾロの手を握っていた。
まるで、決してこの手を離すまいとでも言うように。
これは、親子と言うには歳が近すぎて兄弟と言うには歳が遠すぎる、そんなふたりの話。


     ◇  ◇  ◇


「最近また、レパートリーが増えたな」
夕食に舌鼓を打ちながらゾロが言うと、向かい側に座るサンジは、へへん、と得意げに笑った。
「ジジイに新しいレシピを教えてもらえたんだ」
「へェ。まあおれにしちゃ、美味ェモンが食えて助かるな」
「何だよ、それだけかよ。クソジジイは厳しいから、レシピひとつ教えてもらうのも大変なんだぜ」
「それをおれに言われても知らねェよ。てめェで決めたことだろうが」
ゾロの言葉に、サンジはむむ、と悔しそうにその奇妙に巻いた眉をしかめた。
拗ねたときに浮かべるその表情は、ガキの頃から変わらねェな、と内心ゾロは思った。
高校を卒業したサンジは、『コックになりたい』と調理師学校に通い始め、それももう1年半が過ぎた。
そしてこの春からは、『バラティエ』というレストランでアルバイトも始めた。
何でもそこのオーナーの料理の腕が抜群なようで、初めて食べに行ったそのレストランの味に惚れ込んだサンジは、翌日には
アルバイトの申し込みに行ったようだった。
その店ではアルバイトの募集すらしていなかったようなのだが、熱意で説き伏せたらしい。
その割には、尊敬するオーナーのことを『クソジジイ』呼ばわりしているが。
しかしサンジの話では、オーナーはサンジのことを『チビナス』と呼んでいるらしいので、何だかんだで気に入られているのかも知れない。
この半年で、サンジの料理の腕は格段に上がっていた。
「そうだゾロ、来月誕生日だろ。今年は腕をふるうぜ」
「……おう」
『お互いの誕生日は、必ず一緒にお祝いをしよう』。
それは、10年前にサンジがこの家に来たときに決めた約束事のひとつだ。しかし今年でゾロは34になる。
サンジも19歳になった今、いつまでこの約束事は続くのだろう、と思う。
34と19の男ふたりでバースデーパーティー。あまりに不毛だ。
サンジが高校生になった辺りから、ゾロはそろそろこの約束事だけは終わりにしてもいいのではないかと思うようになっていた。
サンジだって、誕生日を友人や彼女と過ごしたいと思うようになるだろうと。
しかしサンジは、一向にそのような気配を見せなかった。

来年の3月、サンジの20歳の誕生日でこの習慣は終わりにしてやろう、とゾロは思った。
自分から言ってやらねば、サンジから言い出されることはきっと永遠にない。
小さかったサンジはいつしか立派な青年になっていて、もう自分の好きなところで、好きなことをして生きていけるのだ。
そして、そうさせなければならないのだ。
――自分を慕うサンジの視線が、歳をとるにつれて少しずつ変わってきていることに、ゾロは気付いていた。


     ◆  ◆  ◆


その日は、夕日のきれいな秋だった。地面に伸びたふたりの影。
「なあ、アンタはおれの親父になんのか?」
丸い大きな青い目でゾロを見上げて、9歳のサンジは言った。
「親父か…おれはまだ24だからな、親父って歳でもねェ」
「じゃあ、兄貴になんのか?」
「てめェの兄ちゃんって言うには歳くってるだろ」
「じゃあ、アンタはおれの何になるんだ?」
子供のくせに、どこか大人びた口調でサンジは言った。
「何だろうな。とりあえず、家族だ」
「ふーん…よく分からねェけど、おれアンタのこと何て呼べばいいの?お父さん?お兄ちゃん?おじさん?」
「おじさんと呼ばれるような歳でもねェんだが…まあ、好きに呼べばいい」
サンジの手を引きながら、ゾロは答えた。サンジの歩幅はゾロの半分くらいしかなくて、それに合わせてゆっくり歩く。
「じゃあ――ゾロ」
「呼び捨てかよ…」
「だって好きに呼べばいいって言ったじゃねェか」
「そりゃ、言ったけどよ」
呆れ顔でサンジを見下ろすと、サンジはへへ、と照れ臭そうに笑った。名前を呼んだのが、内心では恥ずかしかったのか。
笑った顔は、子供らしくて可愛いな、と思った。
ゾロの家に到着するなりサンジは、『おれ、何をすればいい?』と訊いてきた。
「何、って?」
「食事の支度とか、風呂の用意とか、掃除洗濯、一通りは何でもできるぜ、おれ」
「――…あのな」
こつん、とゾロはサンジの頭を軽く小突いた。
呆れた。サンジの立場からすればそう考えてしまうのも無理はないのかも知れないが、心外だ。
「おれは別に、身の回りのことをしてもらうためにてめェを連れて来たわけじゃねェ。今日からここが、てめェの家だ。普通にしてりゃ良いんだよ」
「普通、って言われても…おれはずっと、そうしてきたんだけど」
サンジは困ったように俯いた。
児童養護施設の中には悪徳なものがあるという話も聞くが、サンジがいた施設は良心的な場所のようだった。
しかし、食事や風呂などの日常業務は避けては通れない。
職員と共に、ある程度年長になれば家事を交替で手伝う決まりになっていたようだ。だからサンジにとっては、それが『普通』だった。
「…じゃあ、今日は何もしなくていい、おれがやる。明日からは、おれとてめェと、交替で当番制にしよう。おれ達は、親子でもなければ兄弟でもねェ。他人が家族として一緒に暮らしていくためには、お互いに努力が必要だ。だから、これからふたりで長く一緒に暮らしていくために、幾つか『約束事』を決めよう」
ゾロが言うと、サンジはしばらくポーッとゾロの顔を見ていたが、やがて笑って頷いた。

その日の夕食は、ゾロが知っている数少ないレシピの中で、それなりに頑張って作った。
嫌いな食べ物はあるかと訊いたら、特にないとサンジは言った。サンジは初めての場所で、緊張したように食事を大人しく食べていた。
「遠慮しなくていいから、好きなだけ食え」
「――うん。カレーの味、施設のとまた違っててびっくりした」
「辛すぎるか」
施設では子供が多い。自分の味覚に合わせて作ってしまったが、子供には辛かったかも知れない。
ゾロがそう思って訊くと、サンジはプルプルと首を何度も横に振った。
「ううん、すごく美味しい。施設のはさ、チビたちに合わせて作るからさ。おれにはちょっと甘いかなあ、って思ってたんだ。だけどさあ…」
サンジはそこで言葉を切って、ふふ、と笑った。
「何だ」
「何て言うか…全体的に茶色いなあ、と」
メインディッシュはカレーだ。冷凍しておいたタネを焼いただけのハンバーグが載っている。
それから、昨日知人におすそ分けしてもらったきんぴらごぼう。福神漬けも赤いより茶色い方が好きだった。
「男の料理なんて、こんなもんだ」
確かに茶色い、と思いながらも、納得してしまうのも悔しくてゾロは言った。
サンジは楽しそうに笑って、それでも美味しそうにカレーを食べていた。

食事と風呂は一日交替で、部屋の掃除は週末だけでいいから一緒にやる、洗濯は2日に1回でいいから交替。
揚げ物はひとりではやらないこと。ごみ出しはゾロが仕事に行く途中でやるから、前日までに自分の部屋のも出しておくこと。
分別はしっかりしておくこと。どんなにケンカしていたとしても、おはようとおやすみと、行ってきますとただいまは必ず言うこと。
――誕生日はひとりでは過ごさないこと。
「それって、おれの誕生日のこと?」
「そうだ」
サンジの誕生日は3月だと施設で聞いた。年度末で仕事が忙しい時期ではあるが、1日くらい何とかなるだろう。
ゾロはそんなことを考えながら頷いた。
「ゾロの誕生日は?」
「おれはもう大人だから、別にいい」
「やだよそんなの、おれだけなんて」
ゾロの誕生日も、一緒がいい。
そう言われて、別段一緒に過ごす予定の相手も居なかったゾロは、無下に却下するのもサンジが可哀想に思えて承諾してしまったのだ。
まさかそれが、10年も続くとは思わずに。


     ◇  ◇  ◇


土曜日の朝、休日出勤のゾロを見送ったサンジは、自分の部屋の窓を開け放った。
秋晴れの空を見上げる。澄んだ空気が気持ちいい。
掃除は週末に一緒に、というのが10年前からの決まりごとであったが、ゾロが仕事に行っているときは別だった。
30歳になった辺りで昇進したゾロは、たまに休日出勤するようになっていた。
どうせひとりでやることもないし、今日はバラティエのアルバイトも休みだ。
元来綺麗好きのサンジは、今日はこってり家の中を掃除するか、と伸びをした。1階に降りて、家じゅうの窓を開けまくる。
ついでにゾロの部屋もやっとくか。サンジはもう一度2階へ上がる。
自分の部屋の向かい側にゾロの部屋がある。基本的に鍵はかかっていない。
ゾロはその辺りは無頓着で、掃除の際にサンジが勝手に入っていても全く気にしないようだった。
サンジもまた、ゾロの部屋にあるものは極力触れないようにしていた。
掃除をするときも、明らかに要らなさそうなものでも勝手には捨てなかったし、動かしても元の位置に戻しておいた。
「いい天気だし、シーツ洗おうかなァ」
窓を開けながら、ゾロのベッドを見下ろしてサンジは呟いた。

ベッドの縁に腰かけ、パフパフ、と枕を叩いてみる。つい1時間ほど前までここで寝てたんだよな、なんて考えてしまったらもうダメで、欲求に逆らえずにサンジはそのままゾロのベッドの上に横たわった。
枕をギュッと抱きしめて、顔を埋める。
ゾロの匂いがする。温かい、太陽のような。小学生のころは、たまに一緒に寝たこともあったな、とサンジは思い出す。
この匂いが傍にあると、サンジは安心する。
あの腕に、強く抱きしめられたい。そんなことを考える自分がおかしいことは分かっている。
初めてそれを自覚したのは、高校生になってすぐの頃だった。
サンジが中学に上がるまでは一緒に風呂に入っていたが、中学生になってさすがにそれもなくなり、自然な流れでサンジの方が先に風呂に入る習慣ができていた。
その日も同じように、サンジが先に風呂に入り、ゾロを呼びにリビングに行くと、ソファの上で仰向けになってゾロは寝息を立てていた。
そのとき、サンジの中に何かが芽生えた――と言うよりは、ずっと自覚のないままに胸の奥にくすぶっていたものが、溢れ出た。
唇で、そっとゾロの頬に触れてみる。
規則正しく上下する厚い胸板のリズムは変わらない。一度触れてしまったらもう止まれなかった。今度はそっと、指先で唇に触れてみた。

初めてゾロに出会ったとき、子供心に何てきれいなひとなんだろうと思った。
真っ直ぐ伸びた背筋や、凛とした視線や、すっとした鼻筋や、綺麗に筋肉のついた腕や、緑色の髪や、そのすべてが。
そんなひとが、どうしてかは分からないが、沢山子供のいる中で自分を選んでくれた。
唇で、唇に触れてみた。そして自覚した。自分は、この男を愛している。
 「――ゾロ」
枕に顔を埋めたままで、サンジは呟いた。何万回『好きだ』と言っても伝えきれないくらい、好きで好きでたまらない。
ゾロが残業で日付が変わるまで帰って来ない夜に、自分で自分を慰めたことが何度もあった。
初めてそうした日の翌朝は、罪悪感でまともにゾロの顔を見られなかったりもしたが、ゾロは、サンジの機嫌でも悪いのかと、別段気にも留めていないようだった。
おれはホモじゃないし、男に性的な意味で触れられるなんて虫唾が走る。
サンジは思う。ゾロだけが特別なのだ。
だが、自分にとってゾロが特別な人間にならないはずが無かったのだ。まさかこんな形で特別になるとは思いもしなかったが。
家族、帰る家、温かい気持ちや優しさ。絶対に仲直りできると分かるケンカ。
サンジが欲しかったものを、全て与えてくれたひと。


     ◆  ◆  ◆


 「――おっさん、迷子?どこに行きてェの」
初めて訪れた児童養護施設の中で、用を足しに中座したゾロは、応接室への戻り方が分からずに施設内を彷徨っていた。
そんなとき、斜め下から少し高い声がして、ゾロは立ち止まると声のした方を見下ろした。
キラキラした金髪の、青い目の少年がゾロを見上げていた。眉毛の端がくるんとしている。
「生憎だが、おれは迷子でもねェし、てめェにおっさんと呼ばれるような歳でもねェ」
「えー、でもおれずっと見てたけど、さっきから同じトコぐるぐる回ってるじゃねェか」
ゾロにしてみれば、応接室を探して移動していたはずなのだが。
「…とにかく、おれは迷子じゃねェ。ところでお前、応接室どこか分かるか」
「応接室?それならこっちだよ」
少年は、ゾロの手をギュッと掴んで引っ張った。小さいが温かい手だった。
不思議なもので、応接室はトイレのすぐ近くにあった。
「ここだよ」
少年が手を離す。ゾロが礼を言うと、少年は『じゃあな』と走って行ってしまった。
応接室の中では、施設長のミホークという男と、児童相談所職員のシャンクスという男が向き合って座っていた。
「ああ、やっと戻ってきた。遅いのでどこ行ったかと思った」
シャンクスが言う。迷ってました、とも言えず、ゾロはすいませんと適当に謝った。
「――で、候補としてはこの子たちなんだが」
ミホークとシャンクスの座る椅子の間にある机の上に、履歴書のような書類が5,6枚置かれていた。
ゾロが施設から子供をひとり引き取りたいと児童相談所に行ったとき、担当してくれたシャンクスと共に幾つか条件を決めていた。
まず、ゾロは単身で仕事をしているため、目が離せないような幼い子供は厳しい。
ある程度育っていて分別のつく年齢の子供でないと無理だろうと言うのが、シャンクスの意見だった。
また、男の一人暮らしでもあるし、男の子が良いというのがゾロの意見だった。
書類には、それぞれ8歳から15歳くらいまでの男児の顔写真と、経歴が載っていた。しかし、先ほどの少年の書類は無かった。
あの子も条件には当てはまるはずだが。そう思ったゾロは、訊いてみた。
「さっきそこで、金髪で青い目の男の子と会ったんだが、あの子は?」
すると、シャンクスとミホークが少し眉間に皺を寄せて、顔を見合わせた。
「あー、あの子なあ…」
「彼が気に入ったのか?」
「気に入った、と言えるほどよく知らねェが、できれば」
ゾロの言葉に、シャンクスが目を伏せて、んんん、と唸る。
ミホークも腕組みをして、難しい顔をしたままだ。何かまずいことでも?とゾロは訊いた。
「まずいこと、って言うか……あの子――サンジっていうんだが、あいつはちょっと、扱いが難しい子なんだよ。その――色々あって」
「色々、って?」
自分はあの少年を引き取りたいと思ったし、条件にも当てはまっているはずなのに、最初からあの子は候補にも入っていなかった。
あの子を引き取ることを駄目と言われる理由を、自分は知る権利がある。
「あの子は、まだ2歳のときにここに来た。両親が事故で死んでな。それ自体は、ここではそう珍しい話でもない。問題はその後だ。
 サンジが4歳のとき、一度別の家庭に引き取られた。――…で、7歳のときに、ここに返された」
「引き取った家庭は、なかなか子供に恵まれない夫婦でな。半ば自分たちの子供は諦めていて、それで子供の里親になりたいと相談所に来たんだ。で、おれがここに案内して、サンジのことを一目で気に入った。まあ、あの外見だろ?子供のころはもう、人形みたいだったんだよ。だが皮肉なモンで、それから2年後に、その夫婦の間に子供が生まれたんだ。父親の方は、それでもサンジを大事にしてたみてェだが、母親の方がダメで。もちろん、サンジを返したいと言われて、おれやミホークもはいそうですか、って黙って引き受けたわけじゃねェ。若干揉めたけど、父親に、このままではサンジが可哀想で見ていられないんだと言われてな…何でも、母親の方は自分の子供が生まれてからは、サンジを『居ないもの』として扱っていたみてェだから。それなのに、炊事洗濯から赤ん坊の世話までやらせてた、って。父親が居るときには諌めてたらしいが、四六時中家に居るわけじゃない。しかも、転勤が決まって引っ越すことになった。だからこの機会に、サンジのためにも、と。釈然としねェもんはあったが、どうしようもなかった」
ミホークとシャンクスから事情を聞いたゾロは、他人事ながら憤った。
犬や猫の子ではないのだ、貰うとか返すとか、サンジの気持ちはどうなる。
しかし、シャンクスやミホークが、サンジの引き取り先に関して神経質になる気持ちも分かった。
「事情は分かったが――…それでもおれは、あの子がいい。っつうか…あの子がもしダメだったら、どの子ももう引き取れねェ」
「何故?」
「だって、もし他の子を引き取ったとして、本当はサンジが良かったのにダメだったからその子で妥協した、ってことになっちまう。それじゃ、引き取られる子供に申し訳ねェ」
ゾロのその言葉に、シャンクス達は誠実さを感じたのだろうか、また視線を合わせた。
「絶対に、大切に育てる。途中で放り出したりなんかしねェ。幸せにする。約束する」
重ねてゾロが言うと、ミホークが小さく息を吐いて、シャンクスに言った。
「ならば、本人に訊いてみるしかないな」
「……まあ、それしかねェか。一番大事なのは、サンジの意志だしな」
シャンクスも頷く。
応接室に現れたサンジは、先ほど案内した迷子のおじさんが、子供を引き取るために施設に来ていたお客さんで、しかも自分を引き取りたいと言っていると知ってひどく驚いた顔をした。
しかし、ミホークやシャンクスや、そしてゾロ自身が危惧していたような、拒否する素振りは見られなかった。
ただ少し戸惑いながらも、『おれでよければ…』と、子供のくせにそんな大人びた言葉を言った。


     ◇  ◇  ◇


途中まで行ったところで忘れ物をしたことに気付いたゾロは、自分の部屋に戻ってギョッとした。
家の中にサンジの気配がないから、あちこちの窓を全開にしてどこに行ったのかと思っていたら、あろうことかゾロのベッドで寝ていたのだ。
しかもゾロの枕を抱きしめながら。
「――おい、どこで寝てんだ、バカ。しかもあちこち開けたままで。不用心だぞ」
ゾロがサンジの肩を揺すると、サンジはビク、と体を震わせて飛び起きた。
「あ、あれ?おれ、寝てた?って言うかゾロ、何で居るんだ?」
「忘れ物した」
ゾロは、机の上に置いていたA5サイズの封筒を鞄に入れながら答える。動揺が顔に出ない程度には、歳をとった。
「良い天気だし、掃除しながらシーツでも洗っとこうと思ってたら、そのままうたた寝しちまったみてェ、起こしてくれて助かった」
サンジはそう言いながら、腕の中にあったゾロの枕からカバーを外した。
サンジもまた、動揺を表に出さずに誤魔化せる術を、いつの間にか身につけていた。
「そうか。じゃあ頼んだ。行ってくる」
「おう。もう忘れモンねェか?」
にしし、と悪戯っぽく笑うサンジに、ねェよ、とゾロは返すと、家を出た。
――参った。会社へ向かいながら、ゾロは内心思っていた。
サンジがどんな思いでゾロの枕を抱きながらあそこで寝ていたのか、ゾロは分かっている。
変わったのは、サンジの自分に向ける視線だけではない。
サンジが高校に入ってすぐの頃だ。リビングでうたた寝をしていたら、キスされた。
頬にキスされた時点で目が覚めたが、目を開けることができずにいた。そしたら、今度は唇にキスされた。
ゾロはそのまま、寝たふりをしてやり過ごした。目を開けてしまったら、それまで積み上げてきた何もかもが壊れてしまうような気がした。
その頃からだろうか。サンジは、時折ゾクッとするほど色っぽく見えるときがあった。
寝顔は、子供の頃とあまり変わっていないと言うのに。


     ◆  ◆  ◆


あれは、サンジがゾロの家に来て最初の冬のことだ。
その日はゾロが食事当番で、寒かったので鍋を作った。
いつもは元気よく食べるサンジが、この日はもそもそと少しずつしか食べなかった。口数も少ない。
「どうした?あんまり美味くなかったか」
ゾロが訊くと、サンジはハッとしたように顔を上げ、フルフルと首を振った。
「ううん、美味ェよ。あったかいし」
そう言って笑うが、やっぱりいつもより元気がない気がした。
「学校で、何かあったのか?」
「ん?別に何もねェよ」
施設からゾロの家に住所が移っても学区が変わることは無かったので、サンジは転校せずに済んだ。
友達もそれなりに居るようで、たまに一緒に遊んだりしている。そういう彼らと喧嘩でもしたのかと思ったが、違うのだろうか。
サンジはいつもの倍くらい時間をかけて、それでもゾロの作った食事を残さずに食べた。
ごちそうさまでした、と手を合わせて、食器を流し台まで持って行く。食事の後片付けは、いつもふたりでしていた。
サンジの口数が少ないと、あまり会話がなくなるのだとゾロは気付いた。いつも色々話してくるのに。
何となく気を遣いながら、ポツポツとゾロから話しかけると返事は返ってくるのだが、『うん』とか『ううん』とか、その程度だ。
何だかおかしいということくらいはゾロにも分かるのだが、理由が全く思いつかないのがもどかしい。
「おい、風呂入るぞ」
食事の片づけを終えたあと、サンジはリビングで毎週楽しみにしているアニメを見ていた。
アニメが終わるのを待って、ゾロは声をかけた。この頃はまだ、時間の節約にもなるし、と一緒に風呂に入っていた。
今日はサンジが風呂当番の日で、サンジはアニメが始まる前にきちんと湯を張り、準備をしてあった。
「んー」
サンジが生返事を返す。目元もうつろだ。温かいものを食べて眠いのだろうか。そう思ったゾロは、サンジの肩を揺すった。
「コラ、眠いんならさっさと風呂入って――」
寝ろ、と言いかけて、ゾロはようやく異常に気付いた。熱い。
「おい」
ごつん、と額をサンジの額に当てた。当てながら、首にも触れてみる。物凄く熱い。
体温計はどこに仕舞ったっけ、とゾロはあちこち探した。如何せん、長らく体調を崩したりしていない。
最後に使ったのはいつだったか。ようやく見つけたと思ったら電池が切れていた。
熱があるのは明らかだし、病院に連れて行くしかないか、とゾロは思った。ここには子供用の薬など置いていない。
丁度8時を回ったところで、近所の医院ももう閉まっている。
一番近い総合病院に電話をかけたら、急患がいっぱいでなかなか診られないと言われ、別の病院に連絡するよう言われた。
連絡先を教えてくれただけでも親切だと思うべきか。
次の病院も混んではいるが何とか診てくれると返事をもらって、ゾロは少し安堵しながらタクシーを呼んだ。
30分ほどかけてようやく病院に着いて、1時間ほど待たされて、その間にサンジは夕食に食べたものを全部吐いた。
サンジは泣き言ひとつ言わず、ゾロの隣に座り、ゾロの膝の上に頭を預けている。
夕食のときにはもう、具合が悪かったのだ。食欲もなかったに違いない。
それでも何も言わなかった。ゾロの作った夕食を全部食べて、いつものように後片付けをして、風呂の用意をして。――何故?
まだ9歳だ。言えばいいはずだ。何だか体が変だと。ご飯が食べられないと。風呂の用意をするのも辛いと。
言えなかったのか。言ったら、また施設に返されるとでも思ったのか。そう考えたら、目と鼻の奥が何だか熱くなった。

検査の結果、サンジはインフルエンザだった。熱は39度を超えていた。
『いま流行ってますからねえ』。当直の医師にそう言われるまで、巷でインフルエンザが猛威をふるっていたことすらゾロは知らなかった。
「熱が下がってから2日経ったら、学校に行っていいですよ。それまでは休ませてくださいね」
当時はまだ、気軽にインフルエンザの薬などは出なかった。
子供だということもあり、解熱剤の座薬と、吐いていたので制吐剤の座薬とが出たくらいだった。
そしてまた、30分かけてタクシーで家に帰った。
布団に寝かせて、座薬を入れてやった。サンジはしばらくして、寝息を立て始めた。
ゾロはコンビニで買ってきた冷えピタとかいうシートを額に貼ってやった。
風呂に入りながら、こういうとき、どうすれば良いんだっけ、とゾロは考えた。
自分が子供のころ熱を出したときは、どうしてもらっていたっけ。ゾロの場合は、母が傍にいてくれた。
おかゆだったり、りんごをすりおろしたものや、プリンなんかを食べさせてくれた。
もっと経験豊富な大人だったら、もっと早くにサンジの異変に気付けていただろうか。
もっと巧くやれただろうか。自分はまだまだ、若い。
次の日の朝、ゾロは会社に欠勤の連絡をした。昼前に目を覚ましたサンジは、ゾロが傍に居ることに気付いて驚いた顔をした。
熱は夜中に一旦下がったが、また上がっていて39度に到達しようとしていた。
「ゾロ、何でいるんだ?仕事は?」
はーはーと辛そうに荒い呼吸をしながら、サンジは訊いた。
「休んだ。てめェひとり寝かせて行けるか」
「おれはひとりで大丈夫だぞ…」
「バカ、ろくに起き上がれもしねェのに何言ってんだ。――桃缶、食えそうか」
ゾロが言うと、サンジは首を力なく横に振った。熱が高くて食べられないのだろう。
「水分は摂れ。それも摂れなくなったら入院して注射だって病院で言われたぞ」
ゾロが言うと、サンジは『注射』と言う単語に反応して、怯えた顔になり、ゾロに支えられながら体を起こした。
麦茶をゆっくりと飲んで、また横になる。
ゾロは額の冷却シートを新しいものに貼り換えてやり、嫌がるサンジを叱咤しつつ解熱剤の座薬を入れてやった。
「薬が効いてきたら熱は下がる。そしたらちょっとは何か食え」
「分かった…」
布団を顎の辺りまで引き上げながら、サンジは言った。
「ごめんな、ゾロ…」
「何が」
「仕事お休みさせちまって、迷惑かけて、ごめん…おれ、明日はひとりでも大丈夫だからさ…。それと、昨日、せっかく作ってくれたメシ、
 全部吐いちゃってごめん…」
「ガキが無駄に気ィ遣ってんじゃねェ。病気のときは、思いっきり甘えてわがまま言ってりゃいいんだよ。それが病人の特権だ」
ゾロが言うと、サンジは力なく笑って、暫くしてまた眠りに落ちた。ゾロは少しだけ泣いた。


     ◇  ◇  ◇


切ない恋心はさておき、ゾロの誕生日が迫って来ていたので、サンジはその準備のことを考えねばならなかった。
今年は、『バラティエ』でアルバイトを始めてから初めてのゾロの誕生日だ。
去年までのおれとは違うぜ、とばかりにサンジは準備に余念がない。
「なあジジイ、誕生日祝いに作る料理、何か良いレシピねェか?」
『バラティエ』のオーナーであるゼフにそう訊いてみたら、ゼフは苦虫を噛み潰したような顔でサンジを見た。
「てめェチビナス、それが人にものを教えてもらう態度か」
「おれだって、一から十まで自分で考えてェけど、今年は特別なんだよ」
「特別?」
「――…ちょうど、10年目だし」
サンジは言った。ゼフには、サンジの家庭事情は全て話している。
自分は施設に居たことも、9歳のときに、まだ24歳だった青年に引き取られたことも。
「…普段面と向かってはあんまり言えねェけど、やっぱり感謝してるからなァ」
「ふむ。まあてめェの態度は気に入らねェが、こんなはねっ返りで意地っ張りで可愛げのねェてめェを10年も面倒見てきたってのは全く以て頭が下がる。そんなロロノアさんに免じて、教えてやる」
ゼフはそう言って、暫く考えていたが、『ジビエのローストはどうだ』と言った。
「焼き加減が一番重要だぞ」
レシピ帳を見せてくれながら、ゼフは作り方を教えてくれた。サンジはメモを取りながら熱心に聞き入っている。
「――で、いつだ、誕生日」
「11月11日」
「だったら、10日に良いのを仕入れといてやるから、持ってけ」
「えっ」
「おれからロロノアさんへの、ささやかな祝いだ。失敗して食材を無駄にしやがったら承知しねェぞ」
「ジジイ…!」
サンジはいたく感激した。しかし、ゼフの次のセリフでまた叩き落とされる。
「なあ、チビナス。おれが言う話じゃねェのかも知れねェが、ロロノアさんはもう34になるんだろう。結婚の話とかは無ェのか?」
それはただ純粋に疑問に思っただけなのだろうが、サンジが落ち込むには十分だった。
「おれは、何も聞いてねェけど。……でも、ゾロが結婚しなかったのは、おれが居たからだろうな」
「あー…おれはそういう意味で言ったんじゃねェぞ」
「分かってるよ。――おれだって、そろそろあの家を出なきゃな、とは思ってんだ。来年の3月で調理学校も終わるし。そしたらもう社会人になるわけだしさ。もうゾロを自由にしてやらねェと」
来年の3月で、サンジは20歳になる。独り立ちするには丁度いい。
ゾロは昔から、実にモテる。
サンジがゾロと一緒に暮らすようになって初めて迎えたバレンタインで、紙袋いっぱいにチョコレートをもらって帰ってきたときの、あの衝撃。
当時から毎年、チョコレートの数は減るどころか増えている。
34と言えども、ゾロならばすぐに恋人のひとりやふたり見つかるだろう。
昔からカッコ良かったが、30を過ぎて、何と言うか、貫録が出てきたのかますます魅力を増している。
「そう考えたら、一緒にゾロの誕生日祝うのは今年が最後になるんだよな」
来年からは、別の誰かがゾロの隣に居て、一緒に誕生日を祝うのだ。そう考えると、苦しい。
しかし、サンジの思いはこの先もきっと受け入れられることはない。
ならば、もっと苦しくなる前に、10年かけて築き上げてきたふたりの絆を壊してしまう前に、ゾロから離れた方が良いのかも知れない。
そんなサンジの思いを見透かしたのか、ゼフが言った。
「てめェは、それでいいのか」
「…それでいいも何も、良かろうが良くなかろうが、ゾロのためにはそうした方がいいだろ」
「何が一番いいかは、てめェが決めることじゃねェぞ、チビナス。家を出る出ねェはてめェとロロノアさんの問題だがな、『10年間お世話になりました』って一言で簡単に割り切れるモンじゃねェってことだ。少なくとも、てめェが腹ん中に抱えてるモンを、押し隠したまま姿を消すのはどうかとおれは思うがね」
ゾロの隣に誰かが現れたら、サンジはもうゾロには会えない。
ゾロが会いたいと思ってくれても、サンジが何事もないような顔をしてゾロの前に居られない。
一生会わないくらいの覚悟で、あの手を離さなくてはいけない。ゼフにはそれが分かっている。
しかしゾロにしてみれば、何も言わずにサンジが家を出てそのまま二度と会わないなんて、そんな勝手な話は無い。
ゼフはそう言いたいのだ。しかし、それでも。
「――…あの日、ゾロがおれを迎えに来たあの日から、おれはずっと、夢を見てるみたいだった。ずっと欲しかったものがどんどん目の前で現実になっていって、こんなに幸せでいいのか、ってずっと思ってた。でもおれは、欲張りになりすぎたんだ」
「……てめェはごちゃごちゃと色々考えすぎなんだ、そんなんじゃ早く老けるぞ」
わしゃ、とゼフはサンジの髪をかき回して、呆れたように言った。


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