夢で逢えたら -1-


夢は目から逃げるというけど、消えて惜しい夢の記憶なんてない。


嗅ぎ慣れた甘い風が鼻先を擽り、髪を乱して吹きぬけていく。
白い花弁が散らされるのを横目で見ながら、サンジは今日も軽やかな足取りでオープンテラスを駆け回っていた。
花に包まれたテラスは、レストラン・バラティエの自慢の一つだ。今は香り高いジャスミンの花が可憐なアーチを描いている。

「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」
可愛い女性の二人連れに目尻を下げて、恭しくメニューを手渡す。
花に誘われるのか、バラティエには女性のお客さんが多い。
そのことがサンジを更に幸せな気分にしてくれている。

麗しい花に包まれて、レディが優雅にお茶してる―――最高だぜ。
許されるなら一日中でも眺めていたい美しい光景だが、それは叶わない。
ランチタイムからディナーまで、ひっきりなしにお客さんがやってきて厨房もカウンターも大忙しだ。
「サンジ!4番テーブル入ったぜ」
野太い怒号に否応なしに現実に引き戻されて、サンジは渋々美しい光景から視線を外した。
このレストランは店もお客さんも最高なのに、従業員は全員むさく苦しい野郎ばかりと言うのが一番の難だ。

「お待たせしました」
女性客と男性客とでは、サンジの応対はあからさまに変わる。
女性ならば、たとえティータイムでも最大の賛美と軽いジョークとを交えながら飲み物や料理の説明をするため、平均タイム三分三十秒はテーブルに留まっているらしい。
男性客ならテーブルに置いたら即退却。
所要時間約十五秒。
カルネの記録ではそうなっている。
サンジの態度が男性客では素っ気無いのは周知の事実で、その意味ではどの客も平等の応対なのだが、ただ一人、男性客対応時間の平均を引き伸ばしている男がいた。
先月辺りからほぼ毎日、ティータイムが終わる頃にふらりと一人で現れて、カプチーノ一杯だけ飲んで立ち去る男がいる。
花に囲まれたテラスで、女性客の中に一人でも臆することなく、カプチーノ一杯できっかり一時間を過ごす。
近くの大学の学生なのか、銀縁の眼鏡を掛けチェックかストライプのシャツを着て、セーターを肩に羽織っているのが定番だ。
持ち物はディバッグ一つ。
そこから文庫本を取り出して、カップを傾けながら静かにページを捲っている。
その姿は景色に溶け込み、まるで一枚の絵のようにしっくりと馴染んでいた。

最初、彼の存在に気付いたのは常連のレディ達だった。
チラチラと彼の姿を盗み見て、密やかな声で友人と囁き合う。
積極的なレディであっても、彼に直接話しかけることはなかった。
彼の雰囲気が、そして彼を見つめる数多のレディ達の視線がそれを許さなかったからだろう。
だから彼は今日も一人、夕暮れのテラスで本に目を落とし甘い風に包まれている。

サンジ自身、男に気を遣う気は毛頭ないが、なんとなく彼の邪魔をしたくはなくて、カプチーノをテーブルに置く時はそっと近付き無言で立ち去る。
それもまた素っ気無いと言われればそうだろう。
けれどつい悪戯心も湧いて出た。
なんせ、一人で本を読んでるだけで女性客のハートを鷲掴みにするような憎たらしい野郎なのだ。
だからサンジは、ある日カプチーノにチョコレートで模様を描いてやった。
本来なら、レディのためにだけするサービスなのだけれど、可愛いパンダやウサギ、蜘蛛の巣にマーブル模様なんかを施し持って行く。
そんな悪戯に気付いているのか、男はカップに目を落とし口端だけで笑って見せて、その絵が崩れないように慎重に口をつけた。

今日は実に可愛いらしい一輪の花を描いて持っていった。
テーブルに置いた瞬間、男の視線は本からカップに移り、切れ長の目がほんの少しだけ見開かれる。
薄い唇の端がふと持ち上がりかすかな微笑を浮かべたのを見て、サンジは満足した。
言葉を交わすことも一切ない、ただの店員と客だけれど、サンジはこのひと時が気に入っていた。



サンジは、貧民街に捨てられていた子どもだった。
無論、拾って養ってくれる大人がいるような街ではない。
一人路地裏を彷徨い、泥水を啜り残飯を漁って生き延びてきた。
生まれつき身体が丈夫だったせいか、劣悪な環境にあっても大きな病気に罹ることもなく、やせ衰え目だけがギョロつく貧相な姿で逞しく生きていた。
サンジが、恐らくは十歳くらいになろうとする頃、転機が訪れる。
市長が変わり、その政策の一環として貧民街の解体が大々的に執り行われた。
行く場所を失ったサンジたち孤児は次々と施設へ収容され、その手を逃れるためサンジは隣街へと逃げ込んだ。
初めての路地裏は清潔で、ゴミも汚水も流れてはいない。
残飯を漁ろうにも、ゴミ箱の中にろくに食べ物は残っていなかった。
蓋を開け頭を突っ込んであれこれと漁るサンジの側に音もなく近付いた男は、いきなりゴミ箱ごとサンジを蹴り飛ばした。

突然のことに驚き動転して、サンジは石畳に投げ出されたまま起き上がることすらできなかった。
空腹と栄養失調で目が回り、腕にも力が入らないのだ。
「なんだ小僧」
男は大きな身体をしていた。
それを更に大きく見せるように、奇天烈な山高の白い帽子を被っている。
鼻の下、口髭は長く伸ばされ三つ編みにし、帽子と同じく真っ白な服を着て腕を組み見下ろす姿は鬼のようだ。
「腹、減ってるのか」
その問いに、ちゃんと答えられたのかどうかは覚えていない。
サンジの意識はそこで途切れ、次に目が覚めてからは、彼を取り巻く世界は一変していたからだ。


目覚めれば広い天井。
落ち着いた色合いで統一された部屋の中、真っ白なシーツに包まれてサンジは横たわっていた。
柔らかなベッドの感触なんて初めてで、一瞬本気でここは天国の雲の上かと思ってしまった。
こんなにも清潔で綺麗な場所に足を踏み入れたことさえない。
けれど事実、サンジはここで一人安らかな眠りに落ちていた。

「気付いたか」
太陽とリネンの匂いに、食欲をそそる美味そうな匂いが加わった。
サンジは生まれつき鼻が利く。
そのため食料にありつき生き延びることができたと言っても過言ではない。
サンジを蹴り飛ばした男が、手にトレイを持って近付いてきた。
白い皿の中には、小さく刻まれた具の入った黄金色のスープがゆったりと揺らいでいる。
薦められるまま、サンジは恐る恐る皿を手にとって口へ運んだ。
銀色のスプーンがトレイに添えてあったけれど、サンジはスプーンなど使ったことがないし、温かな飲み物を口にしたこともない。
火傷しない程度に程よく冷めたそのスープはサンジの喉を潤し、味覚に初めての衝撃を与えた。
美味いとは、こういうことを言うのだろう。
喉の奥が引っ張るかのように、もっともっととこの味を求めせり上がり収縮する。

「慌てるな、よく噛んで食え。吐くぞ」
男の言葉に制されながら、なんとか落ち着いてゆっくりと飲み下した。
その次からは歯を使って噛み締め、味わう。
スープが通り過ぎた後は、喉も腹も何故だか温かいもので満たされ、代わりに目元がじわりと滲んだ。
今まで、生きるための手段としてしかモノを食べなかった。
食べ物がこんな風に、何かを与えられ欲して満たされる想いを連れて来るものだなんて、知らなかった。
「・・・う、う・・・」
とめどなく涙が溢れ、空になった皿にポタポタと滴り落ちる。
その涙ごと嘗め尽くそうと顔を埋めるサンジから皿を引っ手繰り、男は痛いくらいの強さで頭を撫でた。
「待ってろ、すぐに代わりを持ってきてやる」
その手の暖かさは、スープと同じくらいサンジの心に染み通っていった。


男の名は、ゼフと言った。
サンジが彷徨い辿り着いたこの街でレストランを経営する、オーナーシェフだという。
サンジはレストランなるものがどんな場所だかさえはっきりとは知らなかったが、ともかくゼフが美味いものを作り出す手を持っていることは知った。 
更に食べさせてもらうことでサンジは次々と新しい味覚を覚え、貪欲なほどに食への欲求が高まっていった。

こんな素晴らしい“料理”ってヤツを、俺も作りたい。
食べる者から食べさせる者へと。サンジの憧れが急速にゼフへと向けられたのも自然の成り行きだっただろう。
最初は家の手伝いから、店の掃除や下働き、皿洗いなどを経て、ゼフの真似事をしながらサンジは少しずつ成長していった。
幼少期の栄養不足の影響で小柄だった身体もいつしか背が伸びて、痩躯だが丈夫になった。
天性の勘の良さからか、料理の腕はめきめきと伸びて、今ではまだ十代にも拘らず、副料理長の任を勤めている。
レストラン・バラティエでサンジは生まれ変わった。
今のサンジにとってこの場所が故郷で、サンジのすべてだ。
改めて、拾ってくれたゼフに感謝の言葉なんて言えないけれど、料理の腕を更に磨いてこのレストランを盛り立てていくことこそが、唯一の恩返しだと思っている。



その日は、朝からしとしとと雨が降っていた。
雨に煙る街もまた美しい。
甘い雫の下で鈍色に染まる空を見上げながら、サンジは緩やかに紫煙を吐いた。

ただ、雨が降るとテラスが利用できない。
あの男がバラティエに来ないのは、こんな雨の日くらいなものだ。
―――今日は天使を描いてやろうと思ったのになあ
正確には天使の翼。
カプチーノの細かな泡の上に一対の小さな翼が浮かんでいたら、あの男とどれだけ不釣合いだろう。
それを想像するだけで笑えてきて、サンジは一人くくっと喉を鳴らした。
こんな風に一人の客に、しかも男にあれこれと想いを巡らすなんてサンジの人生設計上ありえないことなのだけれど。
何故だかとても気になる。珍しい緑頭の、硬質な雰囲気を持つ男。

「うっし、今日も一日頑張ろう」
サンジは煙草を灰皿に揉み消すと、掃き終えた箒を手に踵を返した。
この街の朝は遅い。雨天の日は尚更で、今から目覚める人々の遅い朝食のために、飛び切りのランチを用意しよう。
サンジは真鍮のドアノブに手を掛けて開いた。
その瞬間――――
耳を劈くような轟音が鳴り響き、視界が真っ白になった。






羊雲が群れ飛ぶ青い空の下、麦藁マークの海賊旗がゆらゆらとはためいている。
「見ろよサンジ、大漁だ!」
ウソップ特製の友釣り共倒れ一網打尽漁夫の利釣竿は、イカやらアジやらカツオやらを一緒くたに吊り上げてブルンブルン撓っていた。
「ようし、そのままじっとしてろよ~。ゴムゴムの~~~~」
「止せえルフィ!」
ウソップの悲鳴も虚しく、海面ごと掬われた数多の魚がルフィの腕と一緒に甲板に飛んでくる。
「うっぎゃ~~~~」
複数の悲鳴、ルフィの高笑い、びしょ濡れになったナミがクリマタクトを振り翳し、昼寝の邪魔をされたゾロは寝ぼけ眼で起き上がった。
「「「「ルフィ!」」」」」
多方面から怒鳴られても、悪びれずにししと笑っている。
その両手には、尾っぽだけ噛み千切られた哀れなエレファントホンマグロがピッチピチと跳ねていた。






目覚めれば広い天井。
落ち着いた色合いで統一された部屋の中、真っ白なシーツに包まれてサンジは横たわっていた。
あの時と変わらぬ光景。
けれど、今目に映る天井は見慣れたものより白く冷たい。
視界の端に黄金色の液体を見つけ、そこから滴り落ちる雫のリズムで病院だと悟った。

「サンジ」
傍らには、サングラスを掛けていないカルネがいた。
シーツに手を置いて心配そうに覗き込んでいる。
「・・・なんで、目が覚めたら一番に見るのが、可愛いナースちゃんじゃねえんだよ」
嘆息と共に率直に呟けば、カルネの顔がくしゃりと歪んだ。
口元が笑っている。
「なんだサンジ、よかった。いつもどおりじゃねえかコラ」
だがその声に力がない。
素で見るカルネの瞳は不似合いなほどに小さくつぶらで可愛らしかった。
その目尻に涙が浮かんでいて、サンジの胸の中に急速に得たいの知れない不安が湧き上がった。
「カルネ、俺なんで寝てんだ?お前サングラスどうした?」
「サングラスは割れちまった。それどこじゃねえしよ。お前、吹っ飛ばされて怪我したんだよ」
「・・・吹っ飛ばされた?」
よく覚えていない。
「俺の声、聞こえにくいだろう。片方鼓膜が破れてるからな」
「そうなのか?」
自分ではよくわからない。
だが、カルネが右側にいて話してくれるから普段と変わらないと思うのだろうか。
「店が爆発したんだ。プラスチック爆弾だとよ。そんな小さくて威力の強いもん、仕掛けられてたってわかりゃしねえっての」
「ばく、だん?」
それこそ寝耳に水だ。
なんだってバラティエにそんなもの仕掛けられなきゃなんないんだ。
一体、なぜ―――

「みんな、みんな無事なのか?」
ようやくそこに思い至って、サンジは起き上がろうとした。
だが身体に力が入らず、気が付けば全身を管のようなもので繋がれていて身動きが取れない。
「動くな、てめえは今動ける状態じゃねえ。左手と肋骨と、細かいところも骨が折れてる。内臓に損傷はないらしいが、耳と、目が・・・」
「左手?手は、俺の手は大丈夫なのか?」
「手は大丈夫だ。単純骨折だから手術の必要もなかった。耳も、破れた鼓膜はちゃんと再生する」
「よかった・・・」
サンジはほっとして、それからカルネに首だけ傾ける。
「他の、他のみんなは」
「パティも吹っ飛ばされたが、かすり傷だ。俺はサングラス壊されたしな。後の奴らは厨房にいたから、直接爆発の被害は受けてねえ。開店前だったから、客もいなかったし」
「そうか」
何故爆弾なんて仕掛けられたのかわからないが、ともかく店の仲間とお客さんが無事だったことが純粋に嬉しかった。
笑おうとして、頬が微妙に引き攣るのがわかる。
「・・・俺、顔?」
カルネは中途半端な笑みを浮かべたまま、静かに頷いた。
目尻の涙がつっと頬を伝い落ちる。

「あのな、お前の左目はもうだめだ。眼球が破裂しちまったんだとよ。傷も、頬とかは大丈夫だが、こめかみから左目に掛けてはちょっと酷え」
「そうか」
不思議とショックはなかった。
片目を失くすのは不便かもしれないけれど、それで料理ができなくなるわけじゃない。
顔だって、レディじゃないんだから多少醜くなったって支障はないだろう。
「大丈夫だ、料理はできんだろ」
サンジの言葉に、カルネはただ言葉もなくこくこくと頷いた。
つぶらな瞳から次々と涙が溢れ頬を濡らす。
その異様な光景に、サンジの胸に渦巻いていた不安が一層強まる。

「なあ、じじいは・・・」
「オーナーは・・・」
カルネは絶句し、汚れたコックコートの裾で顔を拭いて毅然とした表情を作り、サンジを見た。
「オーナー・ゼフは死んだ」
「・・・な」

ガツンと、後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
爆発に巻き込まれたことよりも自分が負傷したことよりも、その言葉が強く響く。
「なんで、・・・嘘だ」
カルネが、このような状況で嘘をつくなんて思いもしないけれど、それよりも信じたくない気持ちの方が先に立つ。
じじいが、オーナー・ゼフが、死んだなんて。
「暗殺だよ。爆発で飛び出した時、狙われたんだ。たった一発、こめかみに―――」
「嘘だ!」
サンジは叫び、ベッドから飛び降りようとした。
カルネが飛びつくようにして抑え、騒ぎを聞きつけて部屋の外からも店の仲間たちが飛び込んでくる。
「サンジ落ち着け!」
「お前が今何言ったって、もう遅いんだ。全部終わったんだよ」
必死でサンジの身体を押さえつけるカルネに怒鳴り返す。
「終わったってなんだよ、何がだよ!何が起こったんだ!」
「オーナーは亡くなった」
言いながら入ってきたのはパティだ。
ゼフの側近にして、サンジが幼い頃から面倒を見てくれた古参のコック。
もっとも信頼できる、頼もしい同僚。

「店に爆弾を仕掛けられ、それが爆発したことでオーナーは外に飛び出した。倒れてるお前に一目散に駆け寄ったよ。そこを狙い撃ちされたんだ。たった一発。ありゃあ、プロの手際だろう」
「・・・だから、なんで―――」
ゼフが死んでしまったことは変えようもない事実かもしれない。
けれどなんでそんなことになったのか。
バラティエはただのレストランだったんじゃないのか。
オーナーは腕の良い料理人ってだけじゃなかったのか。

「サンジ、お前は巻き込まれたんだ。すまなかった」
そう言って、パティは深く頭を下げた。
それに倣うようにカルネも、他の従業員たちも頭を垂れる。
サンジはどうしていいかわからず、ただシーツを握り締めて呆然と天井を眺めていた。

ゼフが、レストランのオーナー以外にも仕事をもっているのだろうということは、薄々気付いていた。
まだ幼かった頃、パティやカルネに店を任せて出かけるときなど、ゼフの顔付きが変わっているから難しい仕事なんだろうと子ども心にもそう感じ、そのことに触れはしなかった。
必要があればゼフからサンジに話が来るだろう。
ゆくゆくはサンジにはレストランを任せ、ゼフはもう一つの仕事に専念する日が来るのかもしれない。
漠然とそんな予感はあったが、ゼフが何をしているのかサンジから詮索するような真似はしなかった。
けれど―――

「ドン・ゼフ?」
思いがけない称号に、サンジは驚きを隠せなかった。
あのゼフが、料理一筋に見えたゼフがこの街を牛耳るマフィアのファミリーの、首領だったなんて。
「レストラン・バラティエはあくまでドンの副業としての表の顔だった。実際にはバラティエ・ファミリーのドンとして、周辺のファミリーとの小競り合いや鬩ぎ合いに明け暮れてたってのが事実だ。お前には、ドンは決して知らせようとはしなかったがな」
バラティエ・ファミリーなんて呼称すら、サンジが耳にしたことはなかった。
ゼフに拾われて以来サンジは料理一筋で、学校にも行っていない。
店の人間以外と親しくしたこともなく、言い方を変えれば筋金入りの箱入り息子だなと、よくからかわれもしたものだ。

「そんなこと、俺は全然知らなかった」
ゼフが知らせようとしなかったことならば仕方がないが、胸をつく寂しさと悔しさは誤魔化しようがない。
いくらレストランで副料理長を任されるほどになっても、ゼフの信頼のすべてを勝ち取ることはできなかったのだろうか。
黙ってしまったサンジの肩を、カルネは元気付けるように軽く叩く。
「お前が知らなかったのは無理もないんだ。オーナーはひた隠しにしてたっていっても言い過ぎじゃねえくらい、気を遣ってたからな。お前にだけは、裏の顔を知られたくなかったんだろう」
サンジはふるふると首を振った。
カルネは自分が、ゼフに幻滅したと思って慰めてくれている。
けれどそんなことはない。
バラティエで育っている頃には店のみんなから“アンジェロ”と呼ばれたサンジだったけれど、本当は薄汚い路地裏に這い蹲って、濡れた石畳を舐めて飢えを凌いだ餓鬼だった。
恐らくは誰よりも、醜いものや汚いもの、人の奥に潜む闇をよく知っている。
そんな自分が、ゼフの裏の顔を知って軽蔑などするはずがない。

「オーナーは、じじいは俺のことを信用してくれてなかった」
片手を額に当てれば、ざらつく包帯の感触があった。
左側の感覚はまだない。
涙さえ、滲んでいるのかどうかすらわからない。
「俺はただ、じじいのために・・・じじいだけが、じじいを―――」
何を言いたいのかさえわからなくて、サンジはただ声もなく嗚咽を漏らす。
ゼフは何も告げずに逝ってしまった。
サンジを置いて。厳しくも温かな眼差しで見つめてくれることもなく、黙って独りで逝ってしまった。

「サンジ!」
仲間たちのおうおうと地響きのような唸り声が響く中、パティは目を背けたサンジの髪を掴んで無理やりにでも顔を引き上げさせた。
「これだけは言っておく、オーナーはお前を信用してねえから裏の仕事のことを言わなかったんじゃねえ」
右耳をシーツに押し当てて、聞こえない素振りで目を伏せるサンジの首を傾け、カルネは耳元で怒鳴った。
「オーナーは、オーナーの夢は料理人だった。レストランで美味い飯を食わせることこそが、あの人の夢だったんだ。だから、お前にその夢を託したんだ。オーナーの願いはお前に裏の仕事のことを知らせることじゃねえ、お前に店を継いで欲しかった。お前と共に料理をしたかった。それだけだ」
伏せたサンジの目元から、ハラハラと涙が流れ落ちる。
パティの言うことが真実だろうが口先だけの慰めだろうが、ゼフが逝ってしまった事には変わりはない。
もう戻れない、何も知らなかった幸せな頃には、もう戻ることができない。
ゼフがいた時間を、取り戻すことなんてできない。

「なら俺は、じじいの店を継げるのか!」
右手でカルネの手を叩き、サンジはきっと顔を上げた。
やり場のない怒りがカルネへと向けられる。
「あのバラティエで、じじいが愛したあの店を、俺はこれからも続けていくことができるのか。俺にそれが許されるのか」
副料理長とは言え、ゼフがいたからこそのバラティエだ。
ゼフ亡き後、サンジがその名を継いでいいのならカルネの慰めも受け入れることができるだろう。
けれどカルネは苦しげに顔を歪め、でかい顎を僅かに横に振った。
「・・・サンジ、バラティエはもうねえ」
爆発で大部分が吹き飛んだ。
あの花に囲まれたテラスも光降り注ぐサンルームも、ランプに彩られたシックなカウンターも、客たちの笑い声がさざめいていたテーブル席も、なにもかもが。

「無くなっちまった。バラティエは、もうねえんだよ」
うおおおおおおおおと、獣のような咆哮がそこかしこで響く。
男泣きにむせぶ仲間たちの背中を見つめながら、サンジはシーツに横顔を埋めて目を閉じた。

もう何も聞きたくはない、見たくもない。






酷い嵐で海面が泡立っている。
何度も繰り返す横波にも耐えて、ずぶ濡れになりながらロープを引っ張った。
あちこちで仲間たちが叫んでいるけれど、風音に掻き消されて殆ど聞こえない。
頑張れとか堪えろとか、自分自身、意味もなく奮い立たせるような励ましばかりを無闇やたらと叫んでいた。
不意に、ナミの金切り声が響いた。
すかさずその場に駆け寄りたいけれど、持ち場を離れる訳にも行かない。
その時、彼女の細い腰にゾロの腕が回されて、しっかりと後ろから抱えられた。
それを見届け、ほっとして今度は自分の仕事に専念する。
ナミは、ゾロに任せておけば大丈夫だ。

ルフィがマストに巻きついたまま腕を大きく伸ばした。
光だ、雲が切れる。
それは劇的な光景だった。
狂ったような暗黒の嵐の中に、一条の光が差し込み、瞬く間に光の帯が増えていく。
誰もがしばし時を忘れ手を止めて、その光景に魅入った。






ゼフの葬儀は、しめやかに行われた。
あの日と同じように小雨が降り注ぎ、人々の傘と肩を濡らしていく。
ゼフは、街を仕切るドンとしても、レストランのオーナーとしても慕われていた。
多くの人々が墓地に集い、ただ頭をうなだれてゼフのために祈りを捧げた。
慈悲深く偉大な、我らがドン・ゼフ。美味しく温かな場所を与えてくれた、オーナー・ゼフ。
サンジは包帯だらけの姿だったが、なんとか車椅子で参列し棺に土を掛けた。
ゼフを送るべき人間が自分でいいのかとも思ったが、パティもカルネも、周りのすべての人間がサンジを喪主のように扱ってくれた。

常連の年配のレディがゼフの棺に白い花束をそっと手向け、目に涙をいっぱいに浮かべて振り返り、サンジの顔の左側を柔らかに撫でてくれた。
包帯越しにも、レディの肌の温もりが伝わる。
髪の上からそっと口付けが落とされて祈りの言葉が囁かれた。

―――あなたに、主の祝福がありますように
貴女にもと言いかけて、かさ付いた唇がうまく動かないのを感じた。
祝福などもういらない。
だってゼフはもういない。
俺の、すべてだったのに―――

涙を堪える為に顔を上げたら、どんよりと立ち込めた雲の間から一筋の光が差し込んでいた。
雨の合間を縫う様に、光の筋が幾つも広がって行く。
いつかどこかで。
こんな光景を、目にしたような気がする。





店を失くし、サンジは失意の内にも懸命にリハビリを続けていた。
時折見舞いに来るパティ達の顔色がずっと冴えないことには気付いている。
料理しかできない自分だけれど、何かできることがあるならば手伝いたい。
ゼフはもういないけれど、自分の生きる場所はここしかないのだから。

「平たく言やあ、シマ荒らされてんだよ」
サンジの退院祝いの酒宴で、酔ったカルネが教えてくれた。
「うちははっきり言って小せえファミリーだが、結束は固くて街の人からの信頼も厚かった。この街の治安がいいのもドンの力だって言ったって過言じゃあねえんだ」
なるほどと、サンジは素直に頷く。
自分が始めてこの街に移ってきたときも、今まで暮らした街の路地とは明らかに様子が違っていた。
掃除が行き届き、ゴミだって散乱してなくて、食うための残飯もろくになくて・・・サンジのような孤児にとっては実に住みにくい街だけれど、それだけ暮らしが守られているってことだろう。
「それが今や、ドンが居なくなったからって隣街のドン・クリークが遠慮なしだ。人のシマで薬捌いて女売り込みやがって、俺らがいくら蹴散らしに行ったってそん時だけとっとと逃げてまたやってきて、イタチごっこだぜ」
 カルネは投げやりな態度でグラスを開けて、手酌で注いだ。
相当酔いが回ってきているらしい。
「そうか」
よくわからないが、ゼフがいなくなったことで縄張り争いが激化したってことだろう。
ならばこのままでは、この街もいずれクリークって野郎にメチャクチャにされてしまうのだろうか。

「じじいの、ドンの後釜って決まってないのか?パティは№2じゃねえのか」
「確かにパティはアンダーボスだが、ドンから正式な継承権を受けてねえ。元々カポも少ねえし、うちは少数精鋭だったんだ。それだけに、ドンの後を引き継ぐべき後継者がいなかった」
カルネはいったん言葉を置き、苦そうに酒を飲んだ。
「無論、ドンは自分がいなくなることを想定してなかった訳じゃねえ。もしものことに備えてちゃんと遺言状も作ってあった。だが、組織に関しては、コンシリエーレに任すとしか書いてねえし」
「コンシリエーレって、誰だ?」
「鷹の目だよ。ところがこれが、いま行方を眩ましてて捕まらねえんだ」
鷹の目とはどんな人物か知らないが、なんとも物騒な呼称だ。
「そんなんで顧問、やっていけんのか?」
「これがたまたまなのか、この時期を狙っての暗殺なのか判断がつかねえところだ。時期を狙ったってんなら益々計画的だしな」
サンジは唇を噛み締め、手にしたグラスを握り締めた。

「じじいを、ゼフを狙った奴は誰なんだ」
「今んとこドン・クリークの線が濃いが、断定はできねえ。いっちゃ何だがこの街は小さいながらもこの地域の中心地でもあるから、欲しがる輩は多かった。ドンは概ねどの組織とも表面では友好的に付き合っていたから、どいつが裏切りやがったのかもまだ探ってる状態だ。しかも他の組織の奴ら、揃いも揃ってドンの敵討ちはまだかとせっつきやがる。敵もわからねえのにそう簡単に行くかよ」
最後は自棄のように吐き捨てて、カルネはガリガリと頭を掻いた。
「やべえな、俺あ喋り過ぎだな」
「いいや、話してくれてありがとうカルネ」
サンジはゆっくりと首を振り、酒を注ぐ。
「俺にもなんか、できることはないか?」
その言葉に、カルネはしばし黙ってしまった。
何かあるのだろう。けれどそれを言い渋っている。
「遺言で、何か?」
畳み掛けるように問う。根気よく答えを待てば、カルネはしばしグラスを弄び、意を決したように勢いよく呷ると大きなゲップを一つした。
「レストラン・バラティエはお前に任せる、と」

サンジは開きかけた口を閉じ、歯を食いしばった。
じじいは、ちゃんと考えていてくれた。
俺のこともちゃんと、信用して信頼して、任せてくれようと思っていた。
俯き、嗚咽を堪えるサンジに、カルネは尚も言い難そうに拳を握りながら空のグラスを置いた。
「ドンは、自分の代でファミリーを解体しようと思ってたんだ。お前には店を残し、自分の始末はつけるつもりでいたらしい。だがその幕引きの前に誰だかに消されちまった。無念だったろうよ。あの用心深いドンが、まさかこんな形で・・・確かに、最近不穏な動きがあるってんで、なるべく公の場所に姿を見せないようには気をつけてたんだ。だからこそ、店を爆破なんて乱暴な手段に出たんだろう」
サンジははっとして顔を上げた。
あの爆発が囮だったのなら、まさにゼフは自分の身を案じて駆け付けて、狙われたと言える。
「俺の―――」
「おおっと、おかしな気を回すんじゃねえぞ。お前は巻き込まれただけなんだ。何一つ知っちゃいなかった。ただレストランで働いていただけのことだ。だからお前は何も心配するな」
心配だと?
サンジはカルネの言葉を聞き咎め、さらに眉を寄せた。
これ以上、俺が心配するようなことが起きるってのか?

「カルネ、終わりじゃないのか?」
サンジの言葉に明らかにぎくりとして、カルネはそそくさと手酌で酒を注ぐ。
「何言ってんだ、全部終わったんだ。なにもかも無に帰したが、これからまた俺らが始めるんだ、なあ」
「誤魔化すなよ」
パティが抱えている憂いは、ゼフを失ったことで新たに発生したものだ。
そしてそのことでサンジが「困る」ことにもなりかねない。
逆を言えば、自分が何か関われる問題でもあるということ。
サンジはカルネの腕に縋り、身を寄せた。
弾みでグラスから酒が零れる。
「カルネ、後生だから教えてくれ。俺にも何かできることがあるんじゃねえのか。じじいのやり残したこととか、残された人たちのためとか・・・」
「お前ら、なに話してる」
いつの間に側にいたのか、パティが背後からのそりと顔を出し、押し殺した声でカルネを叱咤した。
それに怯まず、サンジは二人の間に割って入るようにしてパティに向き直る。
「なあパティ、それにここにいるみんなも聞いてくれ。皆はじじいの仕事のことも全部知ってたんだろ?今、ここにいんのはレストランの連中ばかりだけど、本当は他にも仲間がいるんだろ?今更、俺だけ除け者にしないでくれよ。俺が唯一役に立てるはずだったレストランはもうないんだ。店を建て直そうにも、正直それどころじゃねえ状態なんだろ?なら、俺でも何かできるんなら、させてくれよ。でないともう、俺にできることは何もねえんだから」
パティは痛そうに顔を歪め、傍らのカルネを力一杯どついた。
勢いで吹っ飛んだカルネを仲間達が受け止める。
一瞬周りはどよめいたが、すぐには誰も口を開かず、気まずい沈黙が流れた。

「なあ、頼むよ。どの道もう俺に行くところはねえんだ。こんな面相になっちまったし、ここ以外に一体どこが俺なんかを雇ってくれるってんだ?」
サンジは自虐的に笑って、顔に掛かる髪を掻き上げた。
サンジの顔を見て何人かは目を逸らし、パティとカルネは苦渋の表情でサンジを見据えている。
「―――後継者が、いねえんだ」
がっくりと肩を落とし、パティがぽつりと呟いた。
「バラティエ・ファミリーをしょって立つ、ゼフに変わるドンがいねえ。ドンはいずれファミリーを解体させる手筈だったが、今はまだその時期じゃなかった。だが、遺言書に『跡を譲る』と記してあんのは、お前の名しかない」
無論それは、レストランの跡を譲るということ。
「このままバラティエ・ファミリーが瓦解すれば、構成員は路頭に迷い、街は他の奴らによってたかって食い物にされるだろう。俺らファミリーは、街の人達とずっと共存してきた。みかじめ料を取る代わりに街の治安の維持を図って来たんだ。そのバランスが壊れる。無論、血気盛んなチンピラどもはドンの敵討ちだと先走って、すでにあちこちでひと悶着起こしてやがる。ファミリーをまとめるのは俺でもできるが、正式な跡継ぎとしてのシンボルがねえ」
「シンボル?」
「この街の誰もが知っていて、ドンにもっとも近く、ドンの跡目を継ぐに相応しい略歴がある男」
サンジは視線を上げて誰かいないか思い浮かべた。
じじいの側にいて、じじいに恩があり、自ら巻き込まれ負傷した経緯から、復讐するに相応しい―――男。

「・・・俺?」
自らを指差し、まさかと半笑いを浮べて辺りを見渡した。
ほぼ全員の目が、サンジを捉えている。
「え、でも俺みてえな若造が・・・」
「確かにお前は若え。裏の世界じゃまったく顔が知られてねえ。だが、ドン・ゼフに秘蔵っ子がいるってのは既に知られていたことだ。ドンの遺志には反するだろうが、表の顔も裏の顔も、お前が継ぐって道理に無理はねえ」
サンジは視線を落とし口元に手を当てた。
ゼフのために役に立てることがあるならなんだってする。
そうだ、なんだって。

「・・・俺が、ゼフの跡を継いでバラティエ・ファミリーのドンになったら、今の状況は少しはマシになんのか?」
パティは厳めしい表情で緩く首を振った。
「あくまで格好が付くって話だけだ。だが、単なる傀儡としてお前がドン役を引き受けてくれるなら、後は俺らに任せてくれればいい。なるべく早くカタをつけて、しかるべき組織に街ごと移譲させる。どの道、組織の後ろ盾がなけりゃ街の治安が維持できねえのが現状だ」
「カタをつけるって、当てはあるのか?」
パティは頷き、懐から一枚の写真を取り出した。
「情報が入った。ドンをやった実行犯が割れた」
「なんだと」
悄然と項垂れていた男どもがいきり立った。
サンジも表情を固くしてパティを見上げる。
「やはり、クリークから依頼を受けたらしい。ルートはわからねえが、今まで見たこともねえ新手のスナイパーだ。もしかすると、店にも下見がてら顔を出してるかも知れんな」

汚いものでも扱うように、パティは写真を指先で弾いた。
ひらひらと揺れながら落ちる四角い画像の、その中心にあるボケた人影を目にして、サンジは思わず声を上げそうになった。
焦点の合わない写真。
ぼやけた輪郭と不鮮明な色彩。
それでも、そこに映る人物が緑の短髪であることは確認できる。

「そんな・・・」
サンジの脳裡に、最後に見た彼の姿が浮かび上がった。
真っ白なジャスミンの花影で本に目を落とし、独りカップを傾ける彼の姿が。



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