夢で逢えたら -2-


わらわらと、数の勢いだけで海軍兵が攻めて来る。
手にした武器もオモチャ程度の威力しか発揮せず、ルフィの長く撓る脚で一掃されバラバラと海に降り注いだ。
女だからとすぐに標的になるナミは、クリマタクトを駆使して鮮やかな手並みで襲い来る男たちを床に叩きのめしている。
すぐさまその傍に駆け付けて、床に手を着き両足を回転させて群がる敵を吹き飛ばした。

倒立からジャンプ、回転して体勢を立て直す間にも足を振り上げ、敵を蹴り飛ばす。
船縁に着地し、咥えた煙草を指で挟んで見上げる海兵達を不敵に見下ろした。
「虎狩り!」
低い唸り声と共に、一閃が走る。
危ういところで飛び退いて、声高に抗議した。
「危ねぇじゃねぇか馬鹿野郎!」
バタバタと海兵達の動きが慌ただしくなった。
悲鳴が上がった方を見れば、軍艦が煙を上げながらゆっくりと沈み始めている。
海兵達は我先にと海に飛び込み、避難用ボートを目指した。

「た、すけて・・・」
かすかに声がした方を見ると、ボートからは死角になる位置で一人の海兵があっぷあっぷと溺れている。
逃げ惑う海兵達に知らせようと顔を上げたら、上から声が降って来た。
「おい!こっち忘れもんだ」
叫びざま海面を斬った。
切り取られた部分から波が立ち、海兵を木切れごと押し流す。
仲間達のボートにまで漕ぎ寄せられて、海兵は這々の体でボートに乗り込み遠ざかって行った。

荒らされた甲板を見下ろしながら、新しい煙草を取り出し火を点ける。
煙を吐き出しながら仰ぎ見れば、手拭いを外したゾロがマストを降りてきた。
「お優しいこって」
勿論皮肉だ。
力の差が歴然としている海兵相手に本気を出すこともないが、油断すれば命取り。
情けは掛けないにこしたことはないが、見捨てることもできやしない。

―――甘えんだよ
その言葉にゾロは心外そうに片眉を上げて見せたが、何も言い返しはしなかった。
俺が言わなきゃてめえが言ってたろ?
言葉はないが、目がそう言ってる。
そういうとこが、可愛くねえんだ。






ゾロシア―――それが彼の名だった。
ドン・クリークに雇われた殺し屋。
どこの組織にも属さない一匹狼。
痕跡を残さないから、彼の“仕事”の経歴もわからない。
今回はサンジが彼を覚えていたから繋がったようなものだ。
彼は多分、下見をしていたのだろう。
毎日あのテラスに座っていたのは、そこから厨房の窓が見えたから。
だが狙撃するには条件が合わず、結局爆弾を仕掛けてサンジを負傷させ、ゼフを誘きだした。

「畜生」
ゼフの命を狙っていた男に、可愛いらしいカプチーノを出していたのだ。
その表情が和むのを見て楽しんでいた。
なんて愚かな・・・

サンジは長く伸ばした前髪を掴み、俯いた。
今さら歯噛みして悔しがったってどうにもならない。
ノックの音がしてパティが中に入って来た。
「サンジーノ、ドン・クリークから返事が来たぜ」
サンジは左側に手を当てたまま、振り返る。
「バロック・ワークスの事務所で会うとよ」
「なんで、バロック・ワークスが出て来るんだ?」
「クリークにこっちに来いと言ったって来やしねえし、こっちからノコノコ出掛けるのは危険過ぎる。立ち会いを頼んだ」
「証拠もねえのに乗り込もうってのは、こっちの方だろ?」
「クリークの得意は騙し討ちだぜ。それじゃ、飛んで火にいるなんとやらだ。ドン・クロコダイルが立ち会いをしてくれるなら、他の組織の野郎共もガタガタ言うまい」
「クロコダイルってのは?」
「でかい組織とでかい会社を持ってる。表の顔も立派なもんだ、立ち会いしてくれるなら安心だろう」
サンジは裏の組織のことにはまだ詳しくない。
だが、パティがそう言うなら信用できるのだろう。

「じじいは、そのクロコダイルって野郎をどう思ってたんだ?」
パティは鼻の頭に皺を寄せて、くしゃみしそうな顔になった。
「まあ、基本的にドンは裏組織の連中と深く関わっちゃあいなかったな。どいつもクセのある危険人物ばかりだ。クロコダイルにしても、ドンから見たら胡散臭い若造だったんだろう。歯牙にもかけねえ雰囲気だったが、力のあるクロコダイルから見れば、うちのファミリーなんて、それこそ伝統しかないチンケな組織だったろうさ」
バラティエ・ファミリーは歴史こそ古いが貪欲に勢力を延ばす事はしなかった。
そしてゼフは、本気で自分の代でファミリーを解体させるつもりだったのだ。
「まあいい。ともかくクリークと直接会って話をしなきゃ、先に進まねえ」
ゼフが殺されたのは事実だ。無論、警察も一応動いてはいるが、ファミリー同士の抗争事件だと端から捉えているため、どこまで真剣に捜査されているか怪しいものだ。
「話し合いには、俺一人で行く」
「バカな、それこそ自殺行為じゃねえか。それか、クリークに丸め込まれるぞ」
「俺に何かあったら、疑いようもなくクリークが犯人だ。そん時はお前らが総力を上げてクリークをぶっ潰せばいい。俺はじじいと一緒に、生きる場所も店も左眼も無くした男だ。今更クリークにどんな甘言を囁かれようと、誑かされることはない」
きっぱりと言い切るサンジの決意を目の当たりにして、パティはそれ以上引き止めなかった。代わりに懐から銃を取り出しサンジに手渡す。
「護身用だ。俄か仕立てで練習はさせたが、人を相手に撃ったことはないだろう」
「いざと言う時撃てるかどうかも、正直自信はねえな」
サンジは自嘲しながら、トリガーを人差し指に引っ掛けてくるりと回す。
これから、こんなちっぽけな銃一つに命を預けなきゃならない世界に身を置くことになるのだと、改めて実感した。

「人間の一人や二人、いや三十人くらいいっぺんに、蹴り飛ばせるほど力があればな」
「あ?なんだって?」
サンジの身を案じるパティは、眉を潜ませたまま怪訝な顔をした。
「いや、夢の話さ。最近同じような夢をよく見る。まったく同じじゃなくて、出てくる人間とか場面とかが似通ってて、まるで夢の中にもう一人俺が生活してるみたいだった」
「夢、だと?」
銃を懐に仕舞い、サンジはふうと軽くため息をついた。
「なんでだろな。昔は夢なんて見なかったし、見てたとしてもすぐに忘れてた。けど、最近夢を忘れられないんだ。そうだな、この左眼が見えなくなった頃からかなあ」
サンジはそっと左頬に手を当てた。
かすり傷も消えて、頬は元通りの滑らかな手触りだ。
だがほんの少し指をずらせば、目元からこめかみまでボコボコとした縫い跡と引き攣れが続いている。
その感触は指からなのか顔の皮膚から伝わるのか、よくわからない。

「まるで、眼から逃げるべき夢のビジョンが左眼にだけ留まってるみたいだ。だからずっと繰り返し夢を見る・・・」
「サンジ、大丈夫か?」
いきなり遠くを見つめるような眼差しで訳のわからないことを言い始めたサンジに、パティは本気で慌てた。
「今なら日を改めることもできるぞ。お前がもうちょっと落ち着いてから―――」
「俺は大丈夫だ。ちょっと夢の話しただけじゃねえか。夢ん中じゃ俺はすげえ強えんだから、それくらい現実の俺も強くなりてえと思っただけだよ」
「そ、そうか」
血相を変えたパティがおかしくて、サンジは肩を揺すりながら悪戯っぽく笑った。
本当に他愛無い、夢の話なのだ。
この現実の方が夢だったらどんなにかいいだろうに。




今宵は海が凪いで、月明かりが海面を煌々と照らしている。
こんな夜はきっと眠りなどしないだろうと、いつの頃からかそう推し量れるようになった自分がちょっと嫌だ。
そう思って冷蔵庫につまみを用意している辺りがもっと嫌だ。
そんな内心の葛藤など知らないで、予想通りの足音がラウンジに向かって近付いてくる。
無言で扉を開けサンジの姿を認めると、常に宿っている目元の険が僅かに緩む。
その変化は、きっと自分では気付いてなどいないだろう。

奴が知らない自分を、俺が知ってる―――
それがどうしたとセルフ突っ込みしながらも、そのことをちょっぴり嬉しがっている自分がいる。
それがまた、なんとも癪だ。

大股で近寄り、当たり前のようにテーブルに着いた。
このまま無視して仕込み作業を続けてもいいのだが、それもなんとなく大人気ないと思い返し、黙って冷蔵庫を開けつまみを取り出す。
安いワインと一緒にテーブルに置けば、ゾロはなにやら短く唸って顎を動かした。
どうやら謝意を表したらしい。
静かに手を合わせ「いただきます」と唱えてから、黙々と箸を動かす。
その気配を背後に感じながら、サンジは生地を捏ねたり肉を漬け込んだりして明日の欠食児童達の胃袋を満たすべく準備を続けた。

静か過ぎる夜は、波の音がラウンジにまで届く。
自分の鼓動も空気を震わせてゾロの耳にまで届いてしまうのではないか。
そんな馬鹿馬鹿しい怖れまで感じて、サンジは一人首を竦めた。

ゾロはゆっくりと肴を味わい、グラスを傾けている。
瓶ごとラッパ飲みするなとか、酒だけ流し込むんじゃなくてちゃんとつまみも食べろとか、残り物の有り合わせだからてめえのためにわざわざ作って置いたんじゃねんぞとか。
色んな小言や言い訳を並べ立て過ぎてもうネタがなくなってしまった。だから最近はこんな風に、お互いが黙ったままでただ空間を共有している。
沈黙が重いけれど、そう悪い気分でもない。
ゾロの一挙一動に耳を欹てながら、気にしていない素振りをずっと続けて。
このそこはかとなく漂う緊張感は、きっとゾロも感じているのだろう。

けれどこんな風に月明かりが眩し過ぎる夜は、満更でもない自分の気持ちの奥底までが照らし出されそうで、なんとも居心地が悪い。






近代的な本社ビルとは違い、招かれた事務所はレトロなレンガ造りだった。
廊下は軋み、壁色はくすんでしみだらけだが、よく見れば手入れは行き届いている。
隠れてはいるが、セキュリティも最新のものだろう。

「ようこそ、バラティエの若き後継者」
初めて会うクロコダイルは、恰幅のいい色男と言う感じだ。
やや長めの髪を後ろに撫で付け、仕立てのいいスーツを着こなしている。
裏組織のボスと言うより実業家のイメージの方が濃い。
差し出された右手を、サンジは無言で軽く握り返した。
ボディチェックを受けるかと思ったのに、随分と無用心な歓待だ。

「クリークは先に来ている。紹介は改めて」
スマートにそういって、クロコダイルは先を立って歩きだした。
事務所内には数人の社員がいたが、皆一様に視線を寄越さずサンジ達の存在を気にする素振りはない。
無闇に虚勢を張る必要もないと判断して、サンジ達はクロコダイルの後をついて行った。
旧式のエレベーターで三階に上がり、赤い絨毯を踏みしめる。
廊下の突き当たりの部屋で足を止め、クロコダイルは右手を上げた。
「部屋に入るのは君だけだがよろしいか?」
最後の方はサンジの背後のパティに向けられた問いだ。
パティはいかつい顔つきのまま頷いた。

どの道、もう後戻りなどできない。
年若いサンジが俄か仕立てでマフィアのドンの真似事などできる訳もないが、せめてメンツだけは潰さないよう振る舞ってくれと、祈るばかりだ。
クロコダイルが扉を開けサンジを促した。
躊躇いなく、背筋を伸ばして大股で足を踏み入れる。
部屋の中からふと風を感じて、サンジは衝立ての向こうへとゆっくりと歩いて行った。
背後で扉が締まる音がして、空気の流れが止まる。
それと同時に生臭い匂いが鼻をついて、サンジは足を止めた。
風を感じたのは、窓が開いているからだ。
カーテンがはためき、揺れる樹々のざわめきが部屋の中にまで届いている。
ただならぬ気配を感じ、サンジは恐る恐る足を踏み入れた。

衝立ての向こうに巨漢の男が倒れている。
太い首を傾けて反対側を向いているから、顔は見えない。
だがこめかみに小さな穴が開き、そこから血の筋が流れていた。
そしてその男が横たわる床、絨毯は後頭部を中心に血の色が一面に広がり、所々白い脳漿が飛び散っている。
「な!」
サンジは思わず口元を押さえ、後退りした。
とんと背中が当たり、慌てて振り返る。
涼しい顔で、クロコダイルが立っていた。
「赫足の後継者、もしや死体を見るのは初めてか?」
サンジは蒼褪めた自分の顔色を悟られぬように、顔を背けた。
だが背筋を冷や汗が伝い、胃がせり上がって吐きそうだ。
血の気が引いたのか、軽い目眩さえ感じて思わず衝立てに手を掛けた。
足元に目をやれば男の死体。
これがクリークなのだろう。

あまりのことにつっ立ったままのサンジの横で、クロコダイルは身を屈めて絨毯のしみに指で触れた。
指先が朱に染まる。
「私が彼をこの部屋に通してから、君を迎えに出るまで十分と経っていない。その間に窓を開けるとは、無用心な話だ」
やや芝居じみた話に、サンジは警戒して衝立てに身体を寄せた。
「紹介が遅れたね。彼がドン・クリーク。西部を縄張りにするファミリーのドンだが、今年に入って、小競り合いで街を一つ無くしたらしい。そのせいか、バラティエの領土を狙って密かに殺し屋を送り込んだって話だ」
ペラペラと一人喋るクロコダイルを、サンジは奇異の目で見つめていた。
一体こいつは、何を考えている?
「実行犯はゾロシア。狙撃を得意とするスナイパーだ。依頼があればなんでも引き受ける。報酬に見合った仕事をすると、最近評判になっているらしい」
サンジはもう一度クリークの死体を見た。
こめかみの傷が、ゼフのものとダブって見える。
「だが裏切りは許されない。例え依頼人であっても、自分の存在を明かすモノは容赦しないと聞いた」
「・・・だから?」
サンジの声を初めて聞いたことに満足したのか、クロコダイルは笑顔を浮かべて頷いた。
「そう、クリークは彼に消されたのだろう」

そうだろうかとサンジは反射的に思い、開け放された窓に目をやった。
これから敵同士話し合いをしようと言う前に、窓など開けたりしない。
クリークは嵌められたんだ。
誰に?
この、クロコダイルに?

サンジの疑惑に添うように、クロコダイルはゆっくりと立ち上がり、汚れた指先をテーブルの上のナプキンで拭いた。
「幸いにも、この場にいるのは我々二人だけだな、赫足の後継者」
サンジは身構えてクロコダイルを見た。
このまま自分も消されるのか?
「クリークがドン・ゼフの暗殺を企てたのは間違いない。本人がそう自白したと、私が証言してもいい」
一体何を言いだすのか?
「話し合いの席でクリークが逆上し、浅はかな行動を取ったとしよう。結果、君は自分の身を守るため、そしてドン・ゼフの仇を取るため銃を手にした」
クロコダイルはサンジの胸元に手を置いた。
布ごしに固い銃の感触を確かめる。
「こんなもので、殺せねえ・・・」
俯き呟くサンジの顎に手を掛け、軽く上向かせる。
「やるのだよ赫足の息子。お前が見事復讐したと私が証言しよう。そうすれば、お前は堂々とバラティエのドンを名乗ることができる。襲名披露も私に任せるがいい」
「なんで、あんたが―――」
クロコダイルは目を細めた。
「レストラン・バラティエは、私にとっても憩いの場だった。君のことも知っている」
指をずらし、サンジの頬を撫でて長い前髪を梳く。
「可哀想に。美しい瞳だったのに」
哀れみに満ちた目で傷跡をなぞられ、サンジは顔を背けた。
クロコダイルの手は頬に掛かったままだ。

「もう一度撃つがいい、赫足の息子。その時からドン・サンジーノを名乗りバラティエの正式な後継者となれ。私が立ち会おう」
サンジはクロコダイルの手を払い除け、きっと睨み付けた。
「それで、あんたへの報酬はなんだ?あんたにどんな得がある」
クロコダイルは首を竦めて踵を返した。
豪奢な椅子に腰掛けて足を組む。
「私は君の後継人となる。年若いドンを補佐し、助力は惜しまぬ」
「報酬は?」
「沈黙と、服従」
サンジは拳を握り締め、しばし佇んだ。

クロコダイルの申し出を拒めば、クリーク殺しの疑いを掛けられバラティエとクリークの残党とは全面戦争になる。
クロコダイルの証言を得て復讐が成り立てば、少なくとも戦争にはならない。
バロック・ワークスの後ろ盾を得れば収束は早い。
どの道、バラティエの残党はマフィアの世界でしか生きていけないだろうし、遅かれ早かれどこかの組織に吸収されるなら同じことだ。

サンジはしばし瞑目した。
パティやカルネ、それにゼフの面影が脳裏をよぎる。
最後に浮かんだのは何故か、憎い筈の男の横顔。

「赫足の息子よ、決断するがいい。真実を知るのは私とお前、そしてゾロシアのみ。共にゾロシアを葬り、全てを封印するのだ」
開け放した窓から一陣の風が吹き込み、サンジの髪を揺らした。
懐に手を入れ、使い慣れない銃を取り出す。
床に伏した男のこめかみを狙い、躊躇うことなく引き金を引いた。






もうダメか、と何度も思った。
強大過ぎる敵、過酷な運命、苦難の連続の中でも、常に傍らに夢があり仲間がいた。
今さら死を恐れることはないが、仲間の身はいつだって危ぶまれる。
特にゾロは、身体を張って戦う剣士だからこそ生傷が絶えず、信じられない無茶も平気でする。
いくら仲間を守るためとは言え、戦うためとはいえ、自ら身体を損なってどうしようと言うのか。
どれだけ腹立たしく怒り罵ろうと、ゾロは聞く耳など持たない。
ゾロに命令できるのはルフィだけだ。
だがルフィは自分の感情だけでゾロの行動を非難することはない。

いつだって、心揺らされるのは俺だけだ。
腹が立って我慢できなくて、その苛立ちをぶつけているはずなのに途中で悲しくなってしまうのは、俺だけ。
だからだろうか。
お互い包帯まみれの血なまぐさい身体で、先に手を伸ばしたのは俺の方だった。
ゾロは少し意外そうに目を見張ったが、黙って引き寄せ、傷に触らないように気遣いながら触れてきた。
その優しい手つきが意外で、蓋を開けてみればゾロのすべてが俺の知らないことだらけで。
なんだかオタオタしている間に一線を越えてしまったのが現実。
案外と丁寧だとか舌が分厚くて力強いとか、指先が器用に動くとか実は乳首マニアだとかちょっとサディスティックだとか、腰振りながら笑うのは凶悪だぞとか眇められた瞳はともすれば金色の光を帯びるとか、そんな程度のことなのだけれど。





クリーク・ファミリーとの抗争は、表面的には平和裏に終わりを告げた。
突然ドンを失ったクリーク・ファミリーは態勢を立て直す暇もなく、その日の内にバロック・ワークスの加勢を受けたバラティエ・ファミリーによって壊滅させられた。
サンジが手筈を整えていた訳がない。
その周到さに改めて、嵌められたのだなと他人事のように思えるだけだ。
嵌められたのはクリークもバラティエも同じこと。
結局はクロコダイルが漁夫の利を得たのだろう。
そのことを悔しいとは感じなかった。
所詮、自分には裏社会で生きられる経験も度量もない。
他に手立てもないのだから、仲間を助けるためにできることがあるならなんだってするつもりだ。


「サンジーノ、クリークの残党が動きを見せたらしい。今カルネに追わせてるが、しばらく用心してろ」
「用心も何も、俺は屋敷から一歩も出れないじゃねえか。これ以上、どう引きこもってろってんだ?」
ドン・サンジーノを襲名して以来、サンジはバラティエの屋敷からほとんど出ずに日々を過ごしていた。
サンジの元にやって来るのは、パティやカルネなどごく側近からしかもたらされない情報。
そして定期的なクロコダイルの訪問のみ。

地図の上だけで情勢を知り、指図する若き指導者。
恩人を失い、自らの“美しい顔”も失ったため、人の目を避けて隠遁生活を送る哀れな復讐鬼。
サンジを評する世間の噂話はいくらでも耳に届いて来るが、気にもならない。
卓上で小競り合いがあろうとも、死傷者の数が上ろうともどこか他人事で、既に感覚が麻痺してしまった。
ただ、ファミリーを、そしてこの街を守るだけだ。ゼフが愛したこの街を。

投げ遣りなサンジの態度を諫めることもできず、パティはただ悲しげに見つめているばかりだ。
ここ数か月でめっきり老けて、白髪も増えた。
実質的なファミリーのまとめ役として、気の休まることがないのだろう。
「サンジーノ、クリークの残党がお前の命を狙って、ゾロシアに依頼したってえ話が浮上してる」
パティの言葉に、サンジの表情が僅かに揺れた。
「ゾロシアは狙撃の名手だ。用心に越したことはねえ」
カーテンを締め切った薄暗い部屋の中で、サンジの蒼白い顔にほのかに赤みが差した。
目が輝きを帯び、口元に笑みが浮かぶ。
「ゾロシア、だと?」

ゼフの命を奪った男。
サンジから何もかもを奪った男。
夢の中でさえ、サンジの心を捉えて離さない男。

「願ってもない。俺の命を奪いに来い、ゾロシア」
探す手間が省けると言うものだ。
そう呟いて、サンジは一人笑い声を立てた。





なんの変哲もない小さな島で、ログが溜まるまでの間ずっと二人で安宿にしけこんでいた。
朝から晩まで食べることも寝ることも忘れてただ抱き合って。
こんな自堕落で退廃的な毎日を、よもや自分がしかも男と、こうして過ごすだなんて想像すらしなかったのに。
自分だけでなくゾロこそが、こうして過ごすタイプだとは思わなかったから、驚きの連続だった。
硬い身体や扁平な胸を熱心に愛撫し、中に留まることにやたらと執着する。
ゾロはストイックで淡白なんだろうと勝手に予想していたのが悉く覆されて、誰よりも求められている事実に戸惑いながらも嬉しかった。
目的が身体だけでも構わないと、安っぽいメロドラマのように思い込んで悦に入っていただけなのに。
もしかしたらそれだけじゃないんじゃないかと、自惚れてしまいそうになるほど、ゾロは真っ直ぐに自分だけを見つめてくれた。
愛されているのだと、はっきりと自覚できたあの日々。
例えこの後何があろうとも、俺はこの歓びを忘れることはないだろう。






最後に包丁を握ったのはいつ頃だったか。
ランプの灯りを落とし、サンジは羽ペンを地図の上に転がした。
今では人が作った料理にも満足に手を付けず、食への情熱はすっかり無くしてしまった。
昼も夜も部屋に籠もり、暇さえあればベッドに横たわっている。

眠りに就けば彼に逢える。
夢の中では自分は自由な海賊で、日々過酷な航海と戦いに明け暮れている。
だが仲間がいて夢があって、希望に満ち溢れていた。
何よりゼフが生きている。
遠い海の彼方で魚の形をしたレストランが彼の住処だ。

夢の中には、サンジが無くした全てのものがあった。
だから少しでも眠りたい。
バラティエ・ファミリーのことも抗争も料理の夢もゼフの死に顔も、全て忘れてひたすらに眠りたい。
夢の中ならゾロに逢える。

サンジはサイドテーブルに散らばった白い錠剤を口に含み、ワインを瓶ごとラッパ飲みした。
いつもなら、行儀が悪いとゾロを嗜める行為だ。
いつもなら?
それは一体、“いつ”の話だ。

サンジはベッドに横たわり、眠りが訪れるのをただ静かに待った。
もうすぐゾロに逢える。
そう思うと胸が弾んで、なかなか寝付けない。





血と硝煙の匂いが立ち込め、みな“絶望”の二文字に打ちのめされていた。
あの強靭なゾロでさえ、今はもう、立っているのがやっとの筈。
なのにゾロは立ち上がった。
ルフィを庇い、くまの前に立ちはだかって自らの命を投げ出している。
冗談じゃねえよゾロ。
てめえの夢はどうなるんだ。
お前の夢を。
世界一の大剣豪になる夢を。
ルフィのために捨ててしまうのか。

俺は夢中で割って入った。
サシで対峙していようとも、ゾロの逆鱗に触れようとも構うものか。
俺のために生きてくれなんて、口が裂けたって言えやしない。

ただ、己のために生きてくれ。
己のためだけに生きてくれ。






泣きながら目を覚ました。
無くした左眼がしとどに濡れている。
何よりも胸が痛い。
ゾロを失う哀しみと絶望で張り裂けそうだ。

「・・・っく・・・」
溢れる涙を拭いながら起き上がった。
もう夢は見ない。
きっとあの世界にもうゾロはいない。
サンジが気を失う瞬間、垣間見たゾロの眼差しはあまりに優しかった。
「お前は生きろ」と目が語っていた。
あんな表情で、ゾロに見つめられたくはなかったのに。

サンジは寝乱れた顔のまま立ち上がり、部屋のカーテンを開けた。
夜が更けた頃なのか、空は薄墨色に染まりつつある。
灯りを点し、サンジは夜風に声を乗せるかのように呟いた。

「来い、ゾロシア。俺を殺しに」
この世の、現実のお前は―――
「この俺が殺してやる」

ざわりと、樹々がざわめいた。
闇の中に浮かんだ双眸が眇られた。サンジは誘うように一歩退き、開け放した窓から離れる。
「話すのは初めてだな、ドン・サンジーノ」
彼はどんな声で話すんだろうと想像して、予想通りの声で夢の中のゾロは話した。
今目の前にいる彼も同じだ。
「俺にとって、お前がすべての始まりだ。ゾロシア」
静かにカップを傾ける冷徹な横顔は、今は闇に紛れて精悍さを増して見える。
客を装って、学生に扮して、サンジを傷付けゼフを始末する算段を立てていた、無情な殺し屋。
ゾロシアは音もなく窓辺に足を掛けると、部屋の中に踏み込んだ。
全身黒ずくめの装束に、刀を一振り提げている。
「お前が生きていようが死んでいようが、俺にはどうでもいいことだ」
サンジを見返し、ゾロシアは冷たく言い放つ。
「お前を傷付ければゼフが姿を現す。そのことだけは確かだった。だからお前を狙った」

ゾロの非情な言葉にも、サンジの胸は乱されることがなかった。
目の前にゾロがいる。
あれほど心惹かれ、けれど一度も言葉を交わすことのなかった男。
ささやかで密やかな淡い恋慕。
その相手にこうして逢えた、それだけでいい。

サンジは懐から銃を取り出すと、ゆっくりとゾロに向かって構えた。
いつでも反撃できる程度の速度で、間合いも取らずあまりにも無防備に。
だがゾロは、そんなサンジの動きを冷たい目で見守るだけだ。
「生憎だが、俺の狙いはお前じゃない。お前の飼い主クロコダイルだ。今夜、ここに来るんだろう」
ああ、クロコダイルか。
そういえば、そんな男もいたっけな。
「俺が倒すはずだった叔父貴の仇だ。半年も前に客死したと、今頃連絡が入った。鷹の目ともあろうものが――」
「鷹の目?」
どこかで聞いたことがある。
一体誰の呼び名だったか―――

「邪魔立てするならお前から斬る。どうせ人一人撃ったことがないんだろう。お前はただの料理人だ。一時的に祭り上げられただけの、お飾りのドンでしかねえ」
ああそうだ。
俺はコックであって、それ以上でもそれ以下でもねえ。
そのことは俺が一番よく知っている。
それでも、俺は強いし誰にも負けない。
お前と背中合わせで戦い続けていく自信がある。
「迂闊に安全装置に触れんじゃねえぞ。言っておくが、“ゾロシア”は二人組みだ。もう一人狙撃の名手が、別の樹上からお前の頭に照準をつけている。俺の狙いはあくまでクロコダイル。お前が引くなら、クローゼットの中にでも隠れていたらいい」
「俺はバラティエのドン・サンジーノだ」
サンジは乾いた唇を舌で湿らせながら、言葉を紡いだ。
声が震えてないだろうか。
ふと不安がよぎりそんなことを考えた自分が滑稽に思えた。
構えた指先から血の気が引いて冷たくなってしまっている。
上手く引き金をひくことができるのか、それさえも自信がない。

「ドンとして、落とし前をつけさせてもらう。お前も、もう一人の狙撃手も俺がこの手で葬ってやる。ゼフの、仇だ」
誰よりも深く愛した。
胸が張り裂けそうなくらい愛しくて大切だった、孤高の剣士。
夢のために生き、己のために死ぬことだけを願って、ただ見守るしかできないけれど。
ゾロがそうやって逝くためなら、俺はなんだってできる。

この想いは過去のものなのか、前世での未練か妄想の産物か。なんであろうとこの気持ちはもう消せやしない。
俺が愛したのは夢の中のゾロではない。
彼を知る前から、彼に恋し愛される前から心惹かれていたのは目の前のこの男だ。

「俺がお前を殺す。ロロノア・ゾロ」
だからお前が、俺を殺せ。
撃鉄に指を掛けた瞬間、ゾロが目に見えない素早さで動いた。

一閃が視界を横切り、続いて血飛沫が辺り一面を真っ赤に染める。
痛みよりも胸の中で何かが弾けたような熱を感じながら、サンジはゆっくりとその場にくず折れた。


「急げ、表にクロコダイルの車が着いた」
見知らぬ誰かの声がして、ゾロ以外の気配が部屋に降り立つ。
ごぶりと血の泡を吹き横たわるサンジの肩を、ゾロは革靴で乱暴に蹴り退けた。
「こいつの死体をすぐ目に付く場所に置いた方が、効果的じゃねえか。見せしめだ」
「いいねえ、俺たちの宣戦布告だな」
残酷なゾロの提案をどこか遠くに聞きながら、サンジはそれでも幸福な微笑を血まみれの唇に浮かべた。


ゾロを愛したのは俺一人。
しかも独り善がりな夢の中で。
だからゾロは俺のことなど知らない。
なんとも思っていない。
それでいい、失う哀しみは俺だけが抱えればいい。
どんな時でもどこの世界でも、ゾロはゾロの道を行け。





満足する「死」など要らぬ―――
どこかで、女の金切り声が響いた。



嘆き、悲しみ、絶望して恨め。
己の不遇を、思わぬ裏切りを、仇への憎しみを、取り戻せない喪失感を、報われない想いを。
すべて与えてやったのに、なぜお前に空虚は生まれぬ。
なぜそれほどまでに満たされて、どんな時でも幸福に酔いしれることができるのか。
私が求めるものは怒りと哀しみ。
疑いと不和。
絶望と孤独。
恨みと憎しみ。
嫉みと虚しさ。
暗い情念に押し流され我を忘れたならば、余すところなく食らい尽くせたものを!

おのれ、口惜しやあああああああああああ






「サンジ!」
闇を切り裂くような、力強い声が耳を打った。
少し遅れて、身体を揺さぶる振動が伝わる。
頬に熱を感じ、促されるように瞬きをして、眩い光を薄い瞼越しに捉えた。

「サンジ、しっかりしろ」
ちょこまかとピンク色の帽子が近付いてきた。
でかい角、いや、これはチョッパーだ。
「わかるか、これ、見えるか?」
二本の蹄がふるふると目の前で揺れている。
なんとか頷いて見せて、それからしっかりと目を開いた。

眩しく感じたのは、ナミが手にしていたランプの光だ。
辺りは薄暗く、冷たい岩肌が剥き出しになっている。
申し訳程度に嵌められた鉄格子が、石牢を思わせた。
「まったくもう、心配を掛けないで。村の人にはもう手遅れだろうなんていわれて、肝が冷えたわ」
ナミは真剣に怒っている。
心配を掛けてしまったのだろう。
ごめんねと言いたかったけれど、喉がひりついて上手く声を出すことができない。
知らぬ間に嵌められていた手枷をロビンが外してくれた。
引き上げられていた腕は痺れて感覚が戻らない。

「時逆の霧に捕らわれて、一人だけ姿を消してしまっていたの。見つかってよかったわ」
「とき・・・さか?」
「人間の悲しみや怨念とかが、だーい好きな魔女ですって。過去の記憶を蘇らせて、辛かったことや悲しかったことを増幅させてそれを食べるらしいわ。魔女って言うんだから美人に化けたりして、サンジ君自分からついて行ったりしたんじゃないの?」
ナミの皮肉にもクリアな反応ができない。
まったく覚えていないのだ。
一体俺は、どうしたっていうんだろう。

「おいおい、まだサンジはぼうっとしてんだからそう怒るなよ。魔女ってんならお前も同類だろうが」
最後の方は小声だったが、ナミはきらりと目を光らせてウソップを睨んだ。
「あら違うわよ。私がだーい好きなのは、お・か・ね」
「知ってるよ」
途端、仲間達が笑い出す。サンジを無事に救出できてほっとしているのだろう。
その輪の中にあって、サンジは一人まるで取り残されたかのように石の床に座り込んでいた。
「その、魔女ちゃんは?」
やっぱりね、と大げさなため息をついて、ナミはちらりと視線を流した。
「ゾロが斬ったわ。怒らないでね」
刀を鞘に納めるゾロの足元に、小さなトカゲが落ちていた。
斜めに袈裟懸けにされて、赤い目玉がころりと零れ落ちている。

「これが―――」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってとこかしら。長く生きただけの単なるトカゲよ。人の記憶と感情を勝手に掻き混ぜて、怨念だけを増幅させて食べる魔女。悪食ね」
記憶と感情―――
何を思い起こしていたのか、それすら想い出せずサンジはそっと自分の胸を押さえた。
確かに何かがずきずきと痛む。
皮膚を切り裂いたような実質的な身体の痛みと、奥底で疼く胸の痛み。
一体、何を想い出していたと言うのだろうか。

「ともかく、サンジさんが無事でよかった。私なんか過去の孤独を思い起こされでもしたら、今度こそ参ってしまいますヨホホ~」
ブルックの慰めに、皆一様に頷く。
「俺も、辛かったことなんかあんまり想い出したくねえ。しかもそれを増幅されるなんて」
「確かにな、乗り越えてきたことだけど、もっかい穿り返されたくねえよなあ」
「私だってごめんだわ。サンジ君、よく耐えたわね」
ナミに労われて、サンジはぼうっとしたまま大きな瞳を見返した。

「やだ、サンジ君ほんとに大丈夫。ちょっとは何か食べられちゃったのかしら」
想い出せない。
けれど、自分の辛い過去と言えば飢餓の島にいたあの時のことだろうか。
あの孤独と絶望を、ゼフに対する後悔とを、俺はもう一度味わっていたのだろうか。

ゼフ―――
サンジははっとして顔を上げた。
ゼフは、ゼフは生きているのか?

「じじいは、バラティエは・・・」
「記憶が混乱しているようね」
ロビンが前に進み出て、サンジの手を取り軽く握った。
「ゼフはイースト・ブルーで魚のレストランやってっぞ。こないだお前の手配書バラ巻いてたって怒ってたじゃねえか」
ルフィがそう言ってにししと笑う。
「お前はバラティエを出て、俺達と一緒にグランドラインに出てきたんだ。オール・ブルーを見つけるってえ、夢のために。そうだろ?」

――――夢じゃ、なかった。
夢じゃない、俺はバラティエのサンジで、赫足の息子。
オールブルーを見つけるためにグランドラインに漕ぎ出した、麦藁の一味だ。
仲間を増やし、敵と戦って幾つもの死線を掻い潜ってここまできた。
誰一人、欠けることなく。

背後に立った気配に気付き、サンジはゆっくりと振り返った。
すぐ傍に、ゾロがいる。
怒ったように眉を顰め、鋭い眼光で睨みつけながら近付いてくる。
「女と見ればすぐ付け込まれやがって、いい加減学習能力を持ちやがれこの脳タリン!」
「あんだとお」
ほぼ条件反射でカチンと来て、サンジはゾロに足を踏み出した。
「今回は不可抗力じゃねえか。しかも、別にレディに誘われたからってホイホイついていたったわけじゃ・・・ねえだろう、多分・・・よく覚えてねえが」
最後は尻すぼみになったが、ゾロは軽蔑しきったような眼差しでふんと顎を上げた。
「どうだかな、大体てめえは用心が足りねえ。考えが甘っちょろいからすぐに足元を掬われんだ」
「てめえ、ざけんな!」
「はいはいはい、とにかく無事でよかったわ。ゾロも、それ以上のお説教は後で二人きりのときにやってちょうだい。そうでないと、血相変えて一番に飛び込んだことサンジ君にバラすわよ」
ゾロのこめかみにびしっと青筋が立ち、サンジの蒼白かった顔に一気に朱が差した。

「え、あの・・・それは・・・」
「さあさあ、みんなで屋敷中を家捜しよ。お宝があったら残らず頂いていくわよ!」
「おう!」
不穏な流れを変えるように一斉に奇声を発して、仲間たちは屋敷中に散らばって行った。
それに続こうとして足がもつれたサンジの腕を取り、ゾロは前を向いたままぼそりと呟く。
「てめえ、後で覚えてろよ。頭ん中も身体中も異常がねえか隅々まできっちり調べてやる」
「バ・・・」
何か言い返そうとして、けれどうまく誤魔化せなくて、結局赤面したまま黙ってしまった。
ゾロとの今日に至るまでのあれやこれやが、一気に頭の中に蘇って来てしまって参る。
あれって夢じゃなかったんだな・・・って、あれ?夢ってなんだっけ?

無意識に胸に手を当てて、シャツの上からでもわかる違和感に指を這わせた。
ゾロに気付かれないように、そっとシャツのボタンを外して中を覗く。
白い肌の上、左肩から右脇に掛けてまるでゾロの胸の傷を移したかのような、一筋の刀傷もどきが蚯蚓腫れとなってついていた。

―――なんだろう
想い出そうとすると、何故か胸の奥が痛い。
とても悲しくて切なくて、けれど消し去ることができなかった熱い想いの塊が胸の奥に燻っている。

―――お前はお前の、道を生け
その言葉がふと蘇り、胸の中が温かさで満たされた。

きっと、ゾロがその言葉を聞いたなら烈火のごとく怒るだろう。
サンジの身勝手な想いと願いを一笑に伏して、どんな手段を使ってでも共に生きようと努力するだろう。
ゾロは己を、そして夢を切り捨てたわけではない。
だがサンジは、己と夢を切り捨てようとした。
その決定的な差異と価値観の違いが、決して交わることのない二人の想いをより深く隔てている。

それでも―――
死ぬまで共に、生きることができる。

この先何があろうとも、この“想い”だけは決して無くすことはないだろう。
漠然とした予感と自信を伴って、サンジは自分を支えるゾロの腕に手をかけ力をこめた。
それに気付き、心持ち力を加えて一瞬だけ抱き締めたゾロの、その鋭利な横顔を見つめながらサンジはひと時目を閉じた。


艶やかなアーチを彩る、ジャスミンの白い花影。
可愛らしい模様を描いたカプチーノ。
ゼフの死に顔。
絨毯に広がる血だまり。
クロコダイルの酷薄な笑み。
暗い屋敷と締め切られたカーテン。
立ち込める血の臭い、きな臭い硝煙。
ゾロの嘲笑と閃く刀筋。
まるで走馬灯のように脳裏に次々と映像が浮かび上がり、瞳を開くと同時にすべてが消えた。



目に映るのは、訝しそうに見つめるゾロの琥珀色の瞳だけで。

「どうした?」
「さあ?」
サンジは首を傾げ、すべてを忘れてしまったことすら知らないで、屋敷を後にした。



その夜、ゾロの手によって隅から隅まで丹念に調べられたサンジの身体には、ゾロの見知らぬ傷跡など、どこにもなかった。




―終―