妖精ちゃんの憂鬱 4

「おはようございますお兄様。今日も素敵なお天気ですわね。」
「おはようカヤ。爽やかな朝の日差しより、綺麗な笑顔だね。」
整理整頓されたキッチンにコーヒーの芳しい香りが漂っている。
ゾロはソファにふんぞり返ったまま薄目を開けて声のする方を見た。
うっかり寝入ってしまっていたらしい。
戯けた会話を交わした兄妹が、微笑み合いながらテーブルに着いている。

ゾロものそりと身体を起こした。
「あ、おはようございます。夕べはこちらでお休みになられたんですか?」
カヤが気が付いて立ち上がった。
両手を揃えて深々とお辞儀する。
対してサンジは少し身体を揺らした程度で振り向きもしない。
「はじめまして。サンジの友人のゾロと言います。夜分にすみませんでした。」
「こちらこそ、何のお構いもできませんで申し訳ありません。」
いかにも深窓の令嬢という感じだが、躾がきちんとしているようで好ましい。
身近な女と言ったらレディースかヤマンバしか知らないから(タイムラグがある)新鮮だ。

「お兄様、どうなさったの。お顔の色がよくないわ。」
サンジは3人分のコーヒーを入れながら、薄く微笑んだ。
「少しね、ゾロと長話をしたんだ。夜更かしのせいかな。心配ないよ。」
などと言いつつ、先ほどからその動きはぎこちない。
実は背中に脂汗を流しそうなほど、痛いのだ。
尻が。

「今日は日差しがきついから、日中は庭に出ては駄目だよ。バラを摘むなら午前中にしなさい。」
「はい、そう言えば見たこともない花が咲き始めてるんですよ。白くて小さな花が庭いっぱいに
 広がって…」
そりゃ多分ひよこ草だろ。
つい口を挟みそうになってゾロはコーヒーを飲んだ。

―――美味い。
食えればなんでもいいゾロでもその美味さがわかる。
粉がいいのか煎れ方か、ともかく飛び切りの味だ。

「それに、小さくて綺麗な青い花もいっぱい。まるでお兄様の瞳の色みたいに…」
そりゃイヌフグリってんだ。
名前の由来、教えてやろうか?
ゾロは黙って実に美味い朝食を食べながら、心の中で突っ込みまくった。
兄妹の会話を聞いているだけでも下手な漫才より面白い。




朝食を食べ終えるとカヤは自室に引っ込んだ。
しばらく自主的に勉強の時間らしい。
ゾロは洗い物を片付けるサンジの後ろをうろついて、無闇に戸棚を開けてみたりする。
「触んな、ウロウロすんな。座ってろクソ泥。」
「妹はあんなに上品なのに、なんで兄はそうガラが悪いんだ?」
「うっせ、俺は相手を見て話すんだ。」
ぶつぶつ呟きながら冷蔵庫を開ける。
ああーと絶望的なため息が漏れた。
「電気切れてたんだ…畜生、買い物行ってこねえと…」
扉を開けたまま固まって、ちらりとゾロの方を見る。
「行って来いよ。留守番しててやる。」
「冗談じゃねえ!てめえなんかをカヤと二人きりになんかできるか!」
「だからっててめえを一人で出歩かせると思うか?連絡取られちゃこっちも困るからな。そうだな、
 大人しく買い物だけして帰ってくるならなにもしねえよ。だがもし誰かに通報でもしてみろ。」
サンジの横顔に顔を近付けて、声を潜める。
「てめえの妹も、妖精になれなくなるぜ。」
「冗談じゃねえ!」
サンジは歯を剥いて威嚇した。
「カヤは、レディでもあんなことされたら死んじまう、ぜってー許さねえぞ。」
「てめえ次第だ。大人しく帰って来いよ。約束を守るなら手出しはしねえ。」
言いながら尻を撫でたら、飛び上がってまた呻いた。
ゾロは高笑いしながら客間へと姿を消した。









畜生、どうにかできねえものか。
サンジはデパートの食料品売り場で、1束315円のネギを選びながら考え込んでいた。
頼りになる知り合いといえば顧問弁護士だが、連絡先は家の短縮に入っているし、確か3ヶ月ほど
海外に出張しているはずだ。
第一みだりに助けを求めると、人質に取られたカヤの貞操が危ない。
大体ゾロはムショから看守を殴って出てきたといった。

――――脱走じゃんか。
そんなニュースが出ていただろうか。
テレビもラジオもないから、情報がまったく入ってこない。
図書館でインターネットでも使ってこようか。
いあ、そんなことより早く戻ってやらないとカヤの身が心配だ。
サンジは夕べのことを思い出し、ぞっとして腕を抱えた。
あんな、あんな乱暴な男が家にいるなんて。


自分ではきちんと護身術を習っていっぱしの腕を持ってるつもりだったのに、全然歯が立たなかった。
現場慣れしてるのか、信じられないほど力が強かったし反応も素早かった。
あんな腕でカヤを抱きしめられたりしたら、肋骨も何も全部折られてしまう。
カヤには指一本触れさせねえ。
あんな、あんなことを…

思い出しただけで、顔から火が出そうだ。
あんなところにあんなものを。
はっきりとは見えなかったけど、多分もの凄いものだった。
本当に死ぬかと思った。
今でもまだ何か挟まってるような気がするし、なんだか痛いし…
自分でもわかるほど熱くなった顔を抑えて、サンジはネギに縋りつく。
お前が相手したらって言った。
またあれ、やんのかな。
胸がどきどきする。
こんな思いをカヤがしたら、きっと本当に心臓が止まってしまう。
カヤだけは守らないと。
俺はどうなったっていいから。
悲壮な決意を胸に、サンジはネギを握り潰した。




「ただいま」
両手に大荷物を持ってなんとか家まで辿り着いた。
どれだけ食べるかわからないが、ゾロは結構大食いな気がしたのだ。
「お帰りなさいお兄様。ゾロさんが、電気も電話も直してくださったのよ。」
カヤが跳ねるように出迎えてサンジに飛びつく。
「こら走っちゃいけないよ。って、ゾロが?」
「直すも何も、やっぱり更新手続きだけじゃねえか。」
呆れた口調で、それでもどこか照れたようにそう言って、ゾロはぷいと奥に引っ込む。
「それにお庭も綺麗にしてくださったの。可愛い花も全部抜かれてしまったわ。」
「へえ…」
一応カヤの身は無事だったらしい。
サンジはいそいそと荷物を運び込んで昼食の準備を始めた。


「これがポストに溜まってた手紙だ。電気が通るようになったから今のテレビも映るぞ。」
「テレビって…」
そこでカヤが庭にいるのを確認してゾロに近寄る。
「てめえ脱走犯だろうが、テレビで指名手配とかやってんじゃねえのか。」
「ああ、まあニュースにはなってっだろうが。顔写真とか名前とか公表されねえからな。」
「なんで?」
「言っただろ。年少だって。未成年だからだよ」
ぽかん、と口を開けてサンジが固まる。
こうすると本当にアホの子みたいだ。
「年少って…未成年って…お前一体いくつだよ!」
「19だ。」
がぼん、と顎が外れそうなほど口が開く。
「じゅ、19だと?その面でかその態度でか?俺と同い年だとお?」
「あんだと、てめえが19だと?」
そっちの方がよっぽど詐欺だ。
「アホかてめえ、19ならもうちょっとしゃきっとしやがれ。」
「そっちこそ、未成年のくせにオヤジみてえだぞ。」
真っ赤になって言い返す。
まさか同い年の男相手にあんなことされるとは思わなかった。


「おいこれ、羊のメリーって奴からじゃねえのか。」
山と詰まれたダイレクトメールの中から普通封筒をゾロが差し出した。
サンジは引っ手繰るようにして封を開ける。
何度か読み返して、ほっとため息をついた。
「脳溢血だったって。今、リハビリに頑張ってるってさ。」
「てめえもちゃんと見舞いくらい行ってやれ。世話になってたんだろうが。」
うん、と素直に頷いて、それからゾロの顔を見て慌てたように取り繕った。
「行くつもりだったんだよ!ここんとこインフルエンザやら風邪やら流行ってたからカヤを連れて
 行きたくなかったんだ。」
「猫かわいがりもいいが、あんまり大事にしすぎっと却って弱くなるぞ。ちったあ日にも当ててやれ。」
「うっせーてめえが口出すことじゃねえ。」

光が溢れるような庭から、カヤの影が覗く。
「お兄様、お昼の仕度手伝いましょうか。」
「ああ、いいよカヤ。もうできるから手を洗っておいで。」
相好を崩して答えるサンジに、ゾロは背後でそっとため息をついた。

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