妖精ちゃんの憂鬱 3

見開いたままの目から、流れ出る涙はいつまでも乾かない。
指の先まで痺れきって力を入れることもできず、サンジは男の腕の中でぐったりと弛緩していた。
やけに優しい仕種で男は汗の浮いた額に口付けると、またぎゅっとサンジの身体を抱きしめた。
太く逞しい腕が背中に回って、肩越しに包まれている。
状況にそぐわない心地よさを感じて、サンジは自分を叱咤した。
ともかく押し退けて離れたいのに指一本動かすことさえ苦痛だ。
顔に押し付けられた男の胸板は厚くて固くて、歯を立てて噛み付いてみたところでびくともしやしない。
まるでじゃれる猫のようにあしらわれて、そのままひょいと抱きかかえられた。
「おい、風呂場はどこだ。」
こともあろうに姫抱きだが、サンジはもうそんなことに構う余裕さえなかった。

もの凄く尻が痛い。
腰も痛い。
あらぬところから何か流れ出しそうな違和感がある。
それにまだなにか挟まってるような気がするし、じんじん疼くし…
サンジが答えないので男は身体を抱えたまま客間を出た。
よく考えたら二人とも全裸だ。
こんな姿をカヤに見られたら、舌を噛んで死ぬしかないだろう。
サンジはなんとか男の肩を叩いて、風呂場への方向を示す。
それに気づいて、ようやく脱衣所へと辿り着いた。

「ったく、湯も出ねえのかよ。」
舌打ちしつつ、男は甲斐甲斐しくサンジの身体を拭き清めた。
ついでにまたとんでもないところに指を入れて、とんでもないことまでやってしまう。
もう混乱しきったサンジには、抵抗する術もなかった。
「お前、本当に初めてか。大丈夫か?」
今更大丈夫もクソもあるか。
文句の一つもたれたいが、なんせショックの方が強くて言葉にならない。
冷たい飛沫に紛れるようにして、サンジはまた顔を歪めた。

「妖精に…なり損ねた…」
「はあ?」
男は顔を上げて、サンジの顔をまじまじと見た。
やばいこいつ、ショックが高じてとうとうイっちまったか?
「妖精に…なるつもり、だったのに…」
ひく、ひくと肩を震わせてべそをかく。
男は困惑したままサンジの頭を撫でた。
「妖精?が、なんだって?」
「妖精に、なるんだ…綺麗なままで、天に召されたら…」
これはかなり重症だ。
「カヤは、身体が弱いから…きっと妖精になるから…一人でなるのは可愛そうだから…」
ひーんと泣き声が漏れる。
締め切った風呂場だから妹に遠慮しないのだろう。
「俺も綺麗なままで死んで、カヤと一緒に妖精に…なるはずだったのに…」
―――末期か?
ひんひん泣く小さな頭を抱きかかえて男は途方にくれた。
なかなか好みの顔と身体をしているが、おつむの中身はかなり問題があるらしい。

「もう、妖精になれねえ…カヤと、一緒に・・・」
「その、妖精たあなんだ?」
「妖精だよ。処女のまま死ぬと、生まれ変わって妖精になるんだ。てめえ、知らねえのかよ!」
そう強く詰られても初耳だ。
大体、妖精って…
絶句している男を尻目に、サンジは盛大に嘆いた。
「カヤは、きっと一生綺麗なままで終わるんだ。そして死んだらそれは綺麗な妖精に生まれ変わるんだ。
 けど、一人じゃ可愛そうじゃねえか。だから俺も…」
「処女のまま死ぬってか?」
「男で処女は、当たり前だろうが!」
歯を剥いて噛み付いてくる。
「あーつまり、童貞って奴だな。」
宥めるように撫で擦るが、サンジの身体の震えはどんどん大きくなって来る。
水で冷えたか。
抱き上げて手早くタオルで水分を拭き取ると、取り敢えず客間のソファに横たえた。

冷えた身体を温めるために両手で抱えて背中をさすりながら、男は部屋を見回した。
「それにしたって、ここはお前らの家だろうが。なんで電気つかねえんだおよ。」
「わかんね、2日前から急に止まって…」
「電話もか?」
腕の中でこくんと頷くサンジは、まだ目が虚ろで震えている。
「最初は停電かと思ったんだけど…それにしちゃ周りは電気ついてるし。」
やっぱちょっと足らねえのか。
「お前らほんとに二人っきりで暮らしてんのか。ってえか、やっていけてんのか。」
「執事が…いたんだけど…」
執事ねえ。
「1月前に突然倒れて、救急車で運ばれて…メリーに頼りっきりだったから…」
「食うもん、どうしてんだ。買い物とか。」
「俺が、百貨店まで行ってる。カードの使えるとこ。」
「カードで金出るのかよ。」
はっとしてサンジは顔を上げた。
「そうだ、てめえにカードくれてやる。だからとっとと出てけ。」
「そんでてめえらこれからどうして暮らす気だよ。」
ぎり、と唇を噛み締めながら、涙目で睨みつけてきた。
その目つきは逆効果だっての。
「大体執事はどうなったんだ?病院行って」
「集中治療室に入ってから、会ってないんだ。連絡ねえし、つうか電話が繋がらないし。」
「手紙とか。」
そう言うと、サンジの顔がさっと青ざめる。
「手紙、…ポストが駄目なんだ。前に行ったら蜘蛛の巣が張ってて近付けねえ。」
そう言って自分の腕で抱えるようにして身を竦めた。
男の肩ががくんと下がる。
「なんだってんだ、そりゃ。じゃあもしかして、手紙とかそれから見てねえのか。」
「無理だ、俺はあそこには近付けねえ。」
「ちょっと待てよ。」
男は呆れた顔で座り直した。
「電気代やら電話代やら、ちゃんと払ってんだろうな。」
「・・・多分、」
「引き落としは?カードか?」
少し首を傾げながら頷く。
実に頼りない。
「更新手続き、してねえんじゃねえのか。どこだか知らねえが最近銀行名とか変わってるぞ。」
なんてこったと男は嘆息した。
ムショ暮らしの自分より世間に疎い奴がいる。
「頼りになる親戚とか、近所付き合いとかねえのかよ。」
「両親が事故で死んでから、ずっと執事と3人で暮らしてきたんだ。」
「それこそ友達は?」
「中学卒業してから、会ってねえ。」
箱入り!
「高校は?」
「家庭教師が来てた。」
本物だ。
男は天井を見上げながら肩を揺らし始めた。
クックと喉を鳴らして笑いを堪える。
古びた屋敷に外界と隔離されて育った兄妹。
しかも飛び切りの世間知らずだ。

「仕方ねえ。しばらく俺の塒にしてやる。」
「は、あ?え?」
サンジはがばっと身を起こすと痛みにううと呻く。
「なんせ俺はてめえの古い友人らしいからな。なに、てめえが相手するんなら妹には手出ししねえよ。」
ただし、といつの間に隠し持っていたのかナイフをちらつかせてサンジの目の前に翳した。
「サツにチクろうなんて思うなよ。俺あ恐喝と暴行でもう3年、年少に入ったきりだったんだ。
 今更罪状が増えたところで痛くも痒くもねえけどな。」
サツ?
チクろう?
意味はよくわからないが、ともかくサンジはぶんぶんと首を振った。
自分はもう穢れてしまったからどうなっても構わないが、なんとしてもカヤの身は守りたい。

「んじゃよろしく。俺はゾロだ。」
「・・・サンジ。」
そうして3人の奇妙な共同生活が始まった。

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