妖精ちゃんの憂鬱 1

月のない夜だった。
長く手入れされていない庭木が鬱蒼と生い茂り、街からの灯りすら遮って余計に暗い。
この間の嵐で歪んでしまった窓枠の隙間から吹き込む風で蝋燭の火が揺れて、
高い天井にまで伸びる影も心許なく揺らいで見えた。

「今夜は特に静かね、お兄様。」
カヤは暖かなミルクを飲み干すと、銀のトレイに静かに置いた。
「こんな夜はゆっくりお休み。こっそり起きて本なんて読むんじゃないよ。目が悪くなってしまう。」
サンジはそう言ってカヤの肩を引き寄せて、白い額にキスを落とした。
ふと、階下からの物音に耳を澄ます。

「お兄様?」
訝しげに首を傾けるカヤに微笑みかけると、首元まで毛布を引き上げた。
「心配ないよ。おやすみ。」
テーブルの上に小さなランプを一つ置いて、サンジは静かに扉を閉めた。



揺らめく影が交錯する螺旋階段を足早に下りる。
元は毛足の長かった絨毯は、擦り切れてところどころ破れてしまっている。
解れ目に足を引っ掛けないように慎重に階段を下りて、ぎょっとして立ち止まった。
玄関からまっすぐ続くホールの柱に、黒い影が見える。
この家には自分と妹以外いる筈がないのに。

サンジは誰だと問う前に、影に向かって突進した。
蹴り倒すつもりが、身軽に避けられる。
それでも繰り出した回し蹴りはどこかにヒットしたはずなのに、影は揺らがなかった。
もう一発と体勢を立て直すまもなく、背中を殴られた。
勢いで弾き飛ばされながらも、サンジは黙って絨毯の上を転げ起き上がる。
カヤを起こしたくはないから、なるべく静かに迅速に片をつけるつもりだ。

暗くてよくは見えないが相手は若い男のようだ。
泥棒か。
サンジは相手と間合いを計りながら戸棚へと近付いて引き出しを開けた。
ナイフを取り出して隠し持つ。

「なんだ、ここは空き家じゃなかったのかよ。」
随分と落ち着いた声で男が話す。
「なにが空き家だ、人ん家に勝手に入ってくんじゃねえっ」
声を潜めながらもサンジは短く怒鳴った。
「電気、なんでつけねえんだ。」
「うっせえ、出てけ泥棒。」
サンジは刃を煌かせてナイフを突きつけた。
影は身じろぎもしない。
刺すふりをして肩からぶつかるのに、避けもせずに反対に抱えられた。


「お兄様?」
不意に頭上から声がして、サンジは弾かれたように振り向いた。
二階の踊り場から、カヤがランプを掲げてこちらを覗き込んでいる。
「どうなさったの。」
「ああ、古い友人が突然訪ねて来てね、驚いてたんだ。」
「お友達?」
ナイフの切っ先を男の脇腹に押し付けて、一層身を寄せる。
「まあ、じゃあ私すぐに着替えてご挨拶を…」
「いや、もう遅いからかえって失礼だよ。先におやすみ。」
「夜分すみません。どうぞおかまいなく。」
男も話を合わせたようだ。
ほっとしながら、サンジはカヤに向かって笑いかけた。
「起こして悪かったね。安心しておやすみ。」
「ええお兄様。お客様もお先に失礼します。」
「はいおやすみ。」



小さなランプの明かりが消えるのを見届けて、サンジは再びナイフを握る手に力をこめた。
「こんの泥棒、とりあえずこっちへ来い。」
男は素直に従って歩く。
肩を抱かれた状態なのは不本意だったが、そこを頓着している場合ではない。

客間に入ってランプの明かりをつけた。
「動くんじゃねえぞ、コソ泥野郎。今お縄にしてやる。」
ナイフを突きつけたまま縛るものはないかと気を逸らせた隙に、男はサンジの手首を掴んで捩じ上げた。
痛みに声を上げることもできず、だがそのままナイフを押し付ける。
僅かに減り込んだ感覚はあるが、男は平然としてサンジの腹に拳を入れた。
衝撃でナイフが落ちて転がる。
身を折った姿勢に、さらに後頭部に一撃を加えられてサンジはそのまま床に伏した。

男はサンジの上に膝を乗せて腰を下ろすと、ナイフを拾ってひたりと頬に押し当てた。
「でかい屋敷の坊ちゃんかと思ったが、なかなかやるじゃねえか。」
サンジは片目だけで上に乗る男を見上げた。
やはり若い男だ。
短い髪は染めてでもいるのか、珍しい緑色をしている。
片方にだけちゃらちゃらと金のピアスが光っていてぱっと見軽薄な印象を与えるが、見下ろす顔は
精悍で引き締まっていた。
その瞳に宿る色が力強くて、見据えられただけで普通の者なら身が竦んでしまうだろう。

「古い友人たあどういうこった、ありゃあてめえの妹か?」
サンジは答えずにふい、と横を向いた。
なにか、反撃の手立てはないものか。
「暗くてよく見えなかったが、別嬪そうじゃねえか。」
ダン、と手の下の痩躯が跳ねた。
「カヤに、手出すんじゃねえぞオラ!あの子は心臓が弱いんだ。発作でも起こしたら危ねえんだからなっ」
男が上に乗ったままなるほど、と軽く呟く。
しまったとサンジは口を噤んだ。

「それで俺はお友達かよ。」
「うっせえコソ泥。見てのとおりここにゃあ金目のもんはねえ。見逃してやるからとっとと次へ行け。」
首だけ擡げて短く怒鳴るサンジの頬に、またピタッと刃が押し当てられた。
「確かに金目のモンどころか電気もつかねえんじゃねえのか。電話は?」
「繋がらねえよ。だから通報したりしねえって…」
苦々しく呟くサンジの上で、男はにやりと口端を歪めた。
「そりゃますます好都合だ。なんせ、シャバに出たのは久しぶりで、しばらく身を隠してえと
 思ってたとこだ。」
「シャバ?」
「塀の中が飽きたんで、看守殴ってちょっと出てきたんだよ。ずっと女っ気がなかったからな。
 丁度いい。」
そう言って身を起こそうとするから、サンジは慌てて男のシャツを掴んだ。
「ちょっと待て、塀の中ってお前、どっかから脱走してきたのか?つうか女っ気ってなんだよ。
 カヤに何するつもりだコラ!」
「何って、ナニ」
「ふざけんな!」
サンジは頬に押し当てられたままのナイフも構わず拳で男を殴りつけたのに、男は平然としている。
「くそ、このっ…離しやがれ、とっとと出てけ!」
「電気はついてねーわ、電話は繋がってねーわ、もしかしてテレビもねえのか?ますます好都合だな。」
「うっせ、カヤになんかしたら殺すぞ、許さねえぞ!」
両手で男の手首を持って渾身の力で押し退けようとする。
背中に膝蹴りを入れようとしても腹の上にどっかり腰を下ろされているからうまく届かない。
「そう騒ぐなって、起きるぞ。」
途端にぴたりと動きが止まった。
「しょうがねえ、てめえで済ませてやる。」
男はナイフを放り投げるとパジャマの襟元に手をかけた。
「え、あ?済ますって、何を?」
「何って、ナニ」
「ざけんな!俺あ男だぞ!!」
「見ればわかる。」
ちまちまとボタンを外すなんてことをせずに、そのまま横にシャツを引っ張る。
ボタンが弾け飛んで床に転がるのをサンジは呆然と見つめた。
―――嘘
「ちょっと待て、マジマジマジ?男だって、どうすんだよ!」
「ああん、野郎だってデキんだよ。知らねえのか?」
言いながら男は両手でサンジの胸に触れた。
ざーっと顔から血の気が引く。
「嘘、そんなの無理だって、どーすんだよ。」
「穴がありゃあいいんだよ。あんだろ。」
「どこにっ?!」
「静かにしろって、起きるぞ。」
サンジは口を「あ」の字に開けたまま、あわあわと唇だけ動かした。
すでにもう、涙目だ。
「せっかくシャバに出て野郎相手ってのは不本意にだが、てめえならまあ、勘弁してやる。それとも妹に手え出されてえか?」
サンジは黙って首を横に振った。
頤が小さく震えている。
「カヤは、駄目だ。死んじまう。ぜってー駄目。」
「なら大人しくしてな。」
額に軽くキスを落とすと、サンジは目をぎゅっと瞑って腕を床に投げ出した。

next