終夜  -3-


家に帰りつくと、いつもとは違う早い帰宅に風太が興奮気味に飛び上って迎えた。
カシカシと犬走りのコンクリートを爪で叩きながら、サンジの前で足踏みをする。
が、無反応なサンジに気付いて訝しげに頭を振り、戸惑いながら首を捻じ曲げてゾロを振り返った。
なんとも人間臭い仕種だ。
颯太はと言えば、犬小屋から身体を半分だけ出して寝そべり、これまた思慮深そうな顔でじっとこちらを眺めている。
ゾロに背中を押され、サンジは夢遊病者のように前だけを見て足を運び家に上がった。
上り框で一度足を引っ掛け、前につんのめりそうになるのをゾロが後ろから支える。
いま倒れたら反射的に手を着く動作すらせず、顔面から強打しそうな危うさがある。

ほぼ連行するようにして居間に通し、畳の上に座らせた。
畳んであった卓袱台の足を立てて傍らに置き、台所に取って返して冷やしておいた麦茶を持ってくる。
胡坐を崩した格好で呆然と座っているサンジの目の前に、コップに汲んだ麦茶を置いてからゾロも腰を下ろした。

「一体、どうした?」
向き直り、改めて問う。
サンジはどこか怯えたような眼差しで、おずおずとゾロを見た。
だがすぐに、視線を逸らされる。
「じいさんには会ったんだろ?元気にしていたか」
この問いには、こくんと頷いた。
顔の表情も仕種も、いつものサンジとは全く違う。
まるで子どもに帰ってしまったかのような、拙さが滲み出ている。

ゼフから携帯でことのあらましを聞いてはいるが、サンジの口からしっかりと事の顛末を聞き出さねばならないとゾロは思った。
すべてわかっているから、もういいんだよとなあなあで済ませることも考えたが、きっとそれではなにも乗り越えられない。
これは多分、サンジが過去と向き合うための最後のチャンスだ。
「じいさんの話はなんだったんだ。俺にも聞かせてくれ」
ゾロに真剣な眼差しで見つめられそう諭されて、サンジは観念したようにぎゅっと唇を噛み締めてから顔を上げた。

「母を、殺した犯人らしき男が、見つかった」
「…そうか」
「ずっと担当してくれてた刑事さんがじじいんとこ来て、そう話したらしいんだ。でも犯人はもう死んでて、本当に犯人かどうかはわからなくて。でも、多分犯人だろうって刑事さんは言ってて、じじいもそうだろうって言ってて…」
ゾロは無言で、何度も深く頷きながら聞いた。
頷くことで、サンジを力づけられるような気がした。
「だから、母さんを殺した犯人は、ちゃんといたんだって。そいつは別の事件起こして刑務所に入ってたんだって。長いこと入ってて、結局病気で死んだんだって。もういないんだって」
サンジはそこまで話してから、引き攣るような声を出し深く息を吸った。
「母さんを殺した男は、他にいた。もう死んだ」
「ああ」

零れそうなほど目を見開いて、サンジは虚空を見つめた。
この後の告白を、ゾロはきちんと受け止めるつもりで待ち構える。

「…母さんを殺したのは、父さんじゃなかった」
「そうだな」
「父さんじゃ、なかった」
「ああ」

ひー…と細長い声を漏らしながら、サンジはなお続いて息を吸った。
「違った、間違いだった、俺の勘違いだった」
「ああ」
「父さんじゃなかった」
「ああ」
「俺は間違えた、父さんじゃなかった」
「ああ、そうだ」
身体を軽く仰け反らせ、サンジは引き攣った表情で中空を見つめている。
「俺は、おれは…――――」
細かく震えだしたサンジの肩に、ゾロはそっと手を置いた。
そうして軽く抱き寄せ、固く強張った身体を撫でる。

「よかったな」


ひゅっと息を飲む音がして、次いでサンジはゾロに掴みかかっていた。
「なにが、よかっただ!なにが!」
ゾロの襟首を掴み、強く揺さぶる。
されるがままに身を任せ、ゾロは宥めるようにただゆっくりとサンジの背中を撫でる。
「よかったってこと、ねえだろ?だって俺、俺は実の父親を疑ってたんだ。人殺しだって、母さんを殺したって、思ってた。なんの確証もないのに、見間違いかもしれないのに、証拠もないのに、勝手に思い込んでた」
「ああ」
「違ったんだ、見当違いだったんだ全部間違いだったんだ。父さんは母さんを殺してなかった。父さんは人殺しじゃなかった。父さんは無実だった。なのに俺は、勝手に人殺しだって思い込んでた―――!」
引き千切らんばかりにゾロのシャツを握り締め、サンジは喉の奥から悲鳴のような声を迸らせた。
「俺は、間違ってた!」
血を吐くような慟哭と共に、ゾロの胸に額をぶつける。
「間違えてた、勘違いしてた。父さんじゃなかったのに、違ったのに、なんで、俺は、なんで?!」
幾度もゾロの胸に頭をぶつけ、その度に息が止まるような衝撃を受けながらもなんとか耐えた。
サンジがいま感じてる胸の痛みを、十分の一でも引き受けてやりたい。
単なる自己満足だとしても、サンジが暴れ時にゾロを傷付ける行為が逆に心地よい。
俺でいいならもっと当たれ、思い切りぶつかって泣き喚け、暴れろと、暗い喜びすら湧き上がってくる。
「なんで俺は、あんなこと思ったんだ。父さんが母さんを殺しただなんて、なんで?そんなこと、普通思いつかねえよ、なあ。まだ、小さかったのに、子どもだったのに。なんで実の親を疑ったんだ。父親を人殺しだなんて思ったんだ。おかしいのは俺の方じゃねえか!」
サンジはそう叫んで、きいいと甲高い声で呻いた。
「おかしい、俺がおかしかったんだ。俺が間違ってた、俺が人殺しだ。俺の中で、父さんを殺した。父さんを、無実だった父さんを人殺し呼ばわりして、俺が殺した」
「サンジ」
「俺が、俺が悪かった。俺が間違ってた、全部俺のせいだ」
サンジはゾロを胸を、両手で思い切り叩いた。
「俺が悪いんだ、俺が間違ってた。よかったなんてこと、ない。だって父さんはもう死んじまった。父さんはもういないんだ。俺が間違ってたって、悪かったって、ごめんなさいって、言いたくても父さんはもういない」
よれよれになった襟を再び掴み、前後に揺さぶって喚く。
「もう二度と、父さんに言えない。謝れない、ごめんなさいって言えない、会えない。母さんにさよならも言えなかったのに、俺、父さんにもさよならも言えなかった」
「サンジ」
「俺は、俺は取り返しのつかないことをっ…」
わああああああと、耳を劈くような絶叫を上げてサンジはゾロの肩を掴んだ。
「よくなんかない、いいことなんかない。よかったなんて、言うな馬鹿!」
「ああ」
「馬鹿、馬鹿野郎、ゾロの馬鹿!!」
「ああ」
「ゾロが悪い、ゾロが、ゾロが、ゾロが馬鹿!!」
「ああ、そうだ」

長い手足をじたばたと動かして、まるで駄々っ子のように叫び暴れるサンジを膝の上に抱え直し、ぎゅっと両腕で抱きしめてやる。
「俺が悪かった」
「よくない、よかったことなんてない」
「そうだな」
「よかったなんて、言うな。なにも知らないくせに」
「ああ」
「俺が悪いのに、俺が間違ってたのに、父さんは悪くないのに」
「ああ」
「父さんも母さんも、もう戻ってこないのに…」
サンジはシャツ越しにゾロの肩に噛み付いて、漏れ出る嗚咽を殺しながらハラハラと涙を流した。
噛み付かれた肩がじんじんと痛むが、この痛みすらゾロにとっては安堵に繋がった。
こうしてサンジが、恥も外聞もなく感情を爆発させていることが、なにより嬉しい。
少なくとも自分の前では、常にサンジを覆っていた薄い膜のようなものがすべて剥がれ、生身が剥き出しになっていると実感できる。
どんなサンジでも正面から受け止めると、そう決めていたから尚のこと嬉しい。
「悪かった」
「悪くない、ゾロはなんにも悪くないのに、謝るな馬鹿!!」
もはや言いがかりレベルで罵倒されながらも、ゾロはずっとサンジの背中や腰を撫で気が済むまで訴えを聞いてやった。




散々泣いて喚いて暴れてから、サンジは電池が切れたようにコトリと動きを止めた。
ゾロの肩に凭れかかり、荒く息を吐きながらじっとしている。
眠ったかと思ったが、視線だけ提げて覗き込むと瞳は開いたままだった。
虚ろな眼差しで、何もない空間を見つめている。
家に帰ってから、すでに数時間が経過していた。
ずっと座ってサンジの相手をしていたゾロは、急に腹が減っていたことを思い出しだ。
サンジの弁当は、結局手つかずのままだ。

力が抜けてぐったりとしたサンジを持ち替えて、壁に凭れさせた。
まるで人形のようにされるがままで、ゾロが動いても目で追いもしない。
「飯、食う」
短くそう言うと、サンジは頷く代わりに瞬きをした。

落ち着いたと判断して、ゾロは台所に置いてあった弁当を取りに行ってまた戻ってくる。
コップに汲んだ麦茶はすっかり生温くなってしまっていた。
あれだけ喚いて泣いたサンジは、相当喉が乾いているだろう。
飲ませようと口元まで持って行ってやって、ふと考え直しで自分の口に含んだ。
そうして、呆然と座ったままのサンジに口付け、顔を傾けて口移しに飲ませてやる。
こくりと喉を上下させ、サンジは大人しく麦茶を飲み下した。
そうして、ほうと息を吐いてからまた瞬きした。
ほろりと、涙の粒が目尻からこぼれ頬を伝い落ちる。
―――泣けたなら、もう大丈夫だろう。
ゾロはほっと安堵して、一人で弁当を食べ始めた。



風太と颯太の散歩に出て、戻ってきても部屋の明かりは点いていなかった。
出掛けた時と同じ姿勢で、サンジはずっと座ったままだ。
以前、大きな事故のニュースを目にして数日落ち込んでいた時のサンジの様子を思い出させ、アレの数倍の衝撃だろうと想像して納得する。
どんな事態になろうと、俺だけはどっしり構えていなければと、覚悟を新たにした。

構い過ぎず、干渉し過ぎず。
それでも、サンジが甘えたいならとことん甘えさせ、当たりたいならいくらでも八つ当たりさせてやる。
ゾロには、そんなことぐらいしかしてやれることがない。

多分、これからしばらくは食事も満足に摂れないだろうと、自分の分だけ夕食を用意して一人で食べた。
風呂にも入り、布団を敷いてまだ座ったままのサンジの衣類に手を掛ける。
「風呂、入るか?」
聞いてみたが、反応がない。
やっぱりパジャマに着替えさせるかとボタンを外して行ったら、サンジの肩手が動いてゾロの手の甲に触れた。
「どうした?」
「―――ゾロ」
サンジの声に、やっぱりほっとした。
こうして声を出し、ゾロの存在を認めてくれるだけで、充分に進歩だ。
「ゾロ、ごめん」
「ん?」
「ごめん、ゾロ。ごめん」
今度は、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
どこか怯えたような目でゾロを見つめ、ひたすら詫びを繰り返す。
「ごめん、ごめんゾロ。俺酷いこと言った。ゾロは何にも悪くないのに、酷いこと言った」
「んなもん、構わねぇ」
「ごめん、どうしよう、本気じゃないんだ。ごめん、ごめんゾロ、ごめんなさい」
土下座する勢いでゾロの前に伏せ、泣きじゃくりながら謝り続ける。
癇癪を起こして暴れていた子どもが、一転して身も世もなくむせび泣いているようだ。
すっかり子どもに帰ってしまったようだが、ゾロは心のどこかですでにこれらを想定していた。

「大丈夫だ。俺は怒ってない、呆れてもない。お前のことが大好きだ」
「ごめん、ゾロ、ごめんなさい。許して、ごめん」
「謝ることはない、お前はなにも悪くない。俺はお前が好きだ」
「ごめん、ごめんゾロ…」
繰り返す言葉がサンジの心に届くまで、ゾロは夜通しかかって根気よくサンジを宥め続けた。






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