やさしい手を持ってる 8

主人の合図で静かに入ってきたのは、小さな老人だった。
少し背を丸めて、杖をついてゆっくりと歩く。
出されたイスに危なっかしげに腰を下ろして、サンジの顔をまじまじと見上げた。

柔和な顔立ちには深く皺が刻まれ、好々爺然としている。
老人はうっすらと笑いを浮かべて頭を下げた。
「私の名はガスペル。あんたに一言お礼が言いたくて、こうして待たせてもらった。レティシアを見つけてくれて、ありがとう。」
再び頭を下げる禿頭に、サンジは思い当たった。
「レティシアって、あの・・・」
街中に貼られた張り紙と、壁の中のミイラ。
「あの人が、そうだったのか。」
目を見開いたサンジに、皺だらけの口元がまた微笑んだ。
「知っていて、連れ出してくれた訳ではないのかね。」
「あ、いや・・・あんなとこにいて可哀想だと思って・・・」
暗い壁の中で、たった一人で誰にも気づかれずに乾いていったレディ。

「レティシアは、わしにとって目に入れても痛くない末娘だった。年を取ってからできた子だったから尚更可愛くて、
 いなくなったときは気が狂いそうじゃったよ。」
開いているのかわからない瞼がぴくぴくと揺れる。
「奔放な娘じゃったから、周りのモンは好きな男とでも出て行ったのだろうと誰も本気で探そうとはせなんだ。
 だがわしには、あの子がわしに断りもなく姿を消すとは思えなくて・・・」
それからずっと探して探して、死んでも死にきれないほど思いつめて―――
「あんたのお陰で探し出すことができた。本当にありがとう。」
老人の枯れ木のような手が、サンジの手の甲をそっと握り締めた。
途端、サンジの中に溢れんばかりの愛情が流れ込んでくる。

愛しい娘を失った悲しみ、絶望。
喜び。
安堵。
寂しさ。
怒り――――

サンジはその手を握り返して、老人に顔を寄せた。
「レティシアちゃんは、ずっと見つけて欲しかったんだ。」
今ならわかる。
彼女の想いも。
「ずっとずっと見つけて欲しかったんだ。あんたに伝えたかった。自分は逃げたんじゃないって。大好きなあんたに
 何も言わずにどこかへ行ったんじゃないって、伝えたかったんだ。」
老人の閉じた瞼からほろほろと涙が零れ落ちた。
尖った顎が細かく震えて、かくんと頭を垂れる。
サンジを握る手はかさかさに乾いていたけど、とても優しくて暖かかった。

ガスぺルは小柄な身体を何度も折り曲げて、繰り返し礼を述べながら屈強なボディガードに付き添われて帰っていった。



サンジは憑き物が落ちたように晴れ晴れとした気分で、ベッドに寝転がる。
「ガスペル老がお礼にって、新しいホテルを建ててくださるそうです。」
「ほんと、そりゃ良かった。」
ラアナはサンジの傍らで、山盛りも盛りかごの中からリンゴを選んで皮を剥いている。
「これから経営の後押しもしてくださるそうで、心強いんです。」
ラアナは横顔でくすりと笑って、はいと皮を剥いたリンゴをサンジの口元に差し出した。

「あの時、火事を知らせる為に石を投げ込んでくれたのは、ジルさんでしたよ。」
「そうなの。」
サンジはリンゴをぱくんと咥えて、噛み砕いた。
甘酸っぱい味がする。
「やっぱりダリオ一家の仕業で、ジルさんが警察に洗いざらい話してくれました。」
大団円ってとこか。
いやラアナちゃん親子の勝利だな。

「3年前、ダリオはあの部屋でレティシアさんを殺して、壁の中に隠したんだそうです。それからずっと空家になっていて・・・
 私達が越してきた半年前にはもう内装も全部新しくされていました。でもダリオはガスペルさんがレティシアさん探しを
 一向諦めないので、自分の手で処分しようと焦ったらしいです。」
「なるほど、それで立ち退きなんだね。」
悪事がばれた今、ダリオは捕らえられて牢獄送りだろうか。
あの爺さんは、それで安らかになれるだろうか。
サンジは切ない思いを抱いたまま、二つ目のリンゴに手を伸ばした。









清潔なベッドに横たわって、サンジは静かに目を閉じていた。
隣の付き添い人用ベッドで、ラアナは軽い寝息を立てている。
窓の外は薄い月明かりが差し込んで、真夜中の静けさを際立たせていた。

ふと気配を感じて目を開ける。
ゆっくりと身を起こすと、扉が開いて見慣れた顔がにししと覗き込んだ。
「サンジ、迎えにきたぞ。」
ルフィの後ろには、ゾロの姿もある。
「お前ら、出歩いて大丈夫なのか。」
「ああ、今なら警察も海軍も締め出されてっから大丈夫だ。ログも溜まったしずらかるぞ。」
言いながらも盛り籠に手を伸ばして、勝手にバナナを食べている。

「締め出しって、どういうことだ。」
「ガスペルって爺さんが動いたんだ。夕方、丘の上でダリオ一家が処刑されたぜ。」
「・・・そう、か。」
老人の手から伝わったかすかな怒り。
それは形になって昇華したのか。



サンジは病人衣のままベッドを抜け出した。
着替えなんか全部焼けてしまってない。
気配に気づいて、ラアナも身を起した。
じっとサンジを見つめている。

「ラアナちゃん。」
愛しくて可愛い、特別な少女。
サンジは別れを告げるために、その足元に跪いた。
「何も言わないでサンジさん。私にはわかってたの。」
哀しげに微笑む彼女の瞳に、涙はない。
小さく震える手にサンジは己の手を重ねた。
「あなたは海賊だし、夢があって、広く旅をする人だわ。私全部わかってる。あなたの足が血に塗れていることも。」
サンジの手のぬくもりを確かめるように、大切に抱え上げてその甲にキスを落とした。
「だからさよなら。ありがとう。」
そのままサンジの胸に飛び込んだラアナの身体を抱きしめて、サンジは亜麻色の髪を優しく撫でた。
髪を掻き上げて、額に口付ける。
その瞬間、サンジの身体から何かがふっと抜けた。



え――――?

「よし、んじゃサンジ行くぞ!」
「え、ええ?ラアナちゃん!」
突然慌てふためくサンジに、ゾロは苛ついた声をかける。
「何やってんだ。とっとと行くぞ!騒ぐな。」
「だって、だって・・・ラアナちゃんが・・・」
「うっせえな。」
埒のあかない身体を横抱きに抱えて歩き出す。
「うあ、ゾロ!ってお前、・・・うわあああ」
今度は悶絶しだして訳がわからない。

「んじゃラアナ、おやっさんに宜しくな。」
「ハイ、皆さんもどうぞお元気で。」
気丈に笑って手を振るラアナにゾロも軽く手を上げる。

なぜか大人しく押し黙ったサンジを抱えて三人は夜の街を走り去った。


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