Whispering -4-




海の夢を、見た気がする。

焼きつくように眩かったり吸い込まれそうなほどに深い闇であったり、色や姿を変えながらいつまでも
変わらぬ音を奏で続けていた、海。
光を見続けたせいか、一時、白い靄に包まれたみたいにぼんやりとしか目に映らなくなったこともあった。
けれどどんなときでも、海は穏やかな潮騒を届けてくれた。
雨の日も嵐の夜も、渇いた朝も。
己の息が絶えても、大切な人の命の灯が消えても、海はただそこにある。
なにも変わらず、時は容赦なく、自然は大きすぎて、人の命はあまりにちっぽけで軽い。
あの時、全部知ったはずなのに。
それでもまだ、足掻いて駄々を捏ね続ける自分がいた。

夢を追いたい、愛する人といたい、すべてを見届けたい

―――置いていかないで
雨の中、遠ざかる船の影に向かいひたすらに叫び続けた、枯れ枝のような小さな子供に還って――――

















はためくカーテンの動きに、目を細めた。
ようやく夜が明けたようだ。
白み始めた空はみるみるうちに色を変え、街路樹の枝から枝へと小鳥が飛び回っている。
朝の到来と共に聞こえるはずの囀りがわからないが、サンジは窓を開け放して清冽な空気を胸一杯吸い込んだ。

今日も天気が良いようだ。
船出日和だ。







主人のアドバイスに従い、頭に巻いていたタオルを取って寝癖を治した。
今日はこれから、早速虫下しの作用のある湧き水のところまでリーナに案内してもらうことになっている。
港へは、主人が直接行って説明してくれるそうだ。
サンジからも短い手紙と補充用品の説明書きを預けた。
仲間達の顔を見て、大人しく送り出せる自信はないし、ルフィに強引に連れて行かれる危険性が一番高いから得策だと思う。

階下に降りれば、主人はすでに出発していた。
おかみさんが淹れてくれたコーヒー傾けていたら、ほどなくリーナが顔を出した。
ミーナも一緒だ。
遅れたことを詫びていてくれるのか、しきりに頭を下げるリーナに両手を振って、サンジは勢いよくコーヒーを飲み干して
席を立った。
足元がくらりと揺れて、軽い眩暈を感じる。
“音”がこれほど大事なものだとは思ってもいなかった。
今まで、波の音しかしない海の真ん中とか思っていたけれど、実際には波以外に色んな音が流れ込んでいたのだ。
だが今は、本当に波のような音しか聞こえない。
どんなに賑やかな街の中でも。
どれだけ空が晴れていても。







ミーナと手を繋ぎ、まだ人影がまばらな朝の街を歩いた。
路地を抜ければ山に向かう小道が続いていて、まだ朝靄に煙る頂はうっすらと緑の影を浮かび上がらせている。
子どもの足ではきついかと思われる急な斜面が続いたが、目的の場所はすぐに現れた。
柵で囲った高台の中央から滾々と水が湧き出ている。
普通に水飲み場としても使われているのだろう。

「これを1日1回飲むだけ・・・なのかい?」
言葉に出して呟いたら、リーナが頷いた。
ちゃんと声が伝わったことが、とても嬉しい。

宿の主人が言うには、どれだけ量を飲んでも効き目は変わらず、それよりも毎日欠かさず飲むことが大切なのだそうだ。
―――焦っても仕方ねえってことか
冷たく澄んだ水を掌に受け、口をつけた。
ただの湧き水らしく無味無臭だが、よく冷えていてうまい。
喉を潤す程度に飲み下して、顔を上げた。
先ほどまで立ち込めていた霧が晴れ、樹々の間から広い水平線が見渡せる。

青い海原の中に、見知った帆を見つけて目を細めた。
どうやら主人の説得は通じたらしい。
輝ける太陽のような、けれどどこか愛らしい丸顔の獅子が海面に反射する光を照り返しながら、ゆっくりと進んで
いくのが見える。



こんなふうに、見送る日が来るなんて思いもしなかった。
夢の海を見つけた時なら或いは、こうして仲間達に別れを告げ場面もあるかもしれないけれど、それさえもサンジに
とっては“ずっと先”のことのようだった。
唐突に死が訪れるように、夢が叶う時がいつ来るかなんて、誰にもわからないのに。

サンジは俯いて煙草を取り出すと、火をつけて胸をそらし深く吸い込んだ。
センチになることじゃない。
1週間もすれば耳は治って、すぐに追いかけることができるのだ。
しばらくの辛抱だ。
ゾロの戦いを見届けることはできないけれど、きっと自分の力だけで夢を叶えることができるだろう。

リーナ達を待たせていると気兼ねしつつ、サンジは朝日の中を小さくなっていく船影が見えなくなってしまうまでその場を
動かなかった。


















宿に戻れば、主人は先に戻っていた。
預かってきた手紙を手渡してくれる。
それは確かに愛しいナミの筆跡で、慌てて書いたせいかやや乱れながらも早く治して追いつくようにとの厳命が
なされている。
主人に当座の生活費として、10万ベリー渡してくれていたのには驚いた。
必ず追い付かなければ、1日につき1割ずつの利子がつくとも書いてある。
「・・・おっかねえ」
声に出して呟いたら、主人は大きな腹を揺すって一緒に笑った。
「いい仲間達だな」
そう言ったのが口の動きでなんとなくわかって、サンジも大きく頷く。
かけがえのない、大切な仲間達だ。
早く、帰りたい。








それからサンジは毎日欠かさず早朝に水を飲みに出掛け、生活費を切り詰める目的で宿の手伝いを始めた。
主人夫婦は好意で面倒を見てくれているつもりだったらしく最初は遠慮していたが、それではサンジの気が済まない。
耳が不自由でも料理をするのに支障はなく、腕を奮うことができて気も紛れてサンジにとっては一石二鳥だ。
サンジのプロとしての腕前に夫婦は感嘆し、宿代を受け取るどころか給金を払おうとしたが、今度はサンジがこれを
固辞した。

リーナは毎日顔を見せて、あれこれと気に掛けてくれている。
最初ははしゃいでサンジに纏わりついていたミーナだったが、何を言ってもサンジにうまく伝わらないことがもどかしく
なったのか、次第に顔を見せなくなった。

原因があって、必ず治る病気だとわかっていても、耳が不自由なのはかなり暮らしにくい。
何より、ずっと響くさざ波のような音は耳障りだった。
ずっと海で暮らして来たサンジだからこそここまで耐えて来られたのだろうが、通常の人間ならば数日で
参ってしまうらしい。

サンジ自身、目が覚めたら枕が血で汚れていたことが何度かある。
眠っている間に、無意識に指で傷付けてしまうのだ。
いくら耳を塞いでも、波の音は止まない。
すぐ耳元のような、それとも頭の中のようなどこだかわからない場所で、繰り返し繰り返し、単調なリズムで潮騒を奏で続けている。




宿泊客が寝静まった深夜、主人と酒を酌み交わしたことがあった。
少々酔いの回った腕でちまちまと書かれた筆談で、海賊を辞めた頃の経緯を知る。

「俺も同じようにこの島で寄生虫を口にしちまった」
「いつまでも耳について離れない、波の音に神経が参っちまった」
「こんな俺でも体重が激減しちまったんだ。見る影もないほどに。たった1週間のことでさ」
「そんな時、ずっと側にいて支えてくれたのが今の女房だ」
「酒を飲んでも荒れても、耳についた波の音は容赦しちゃくれねえ。だが、女の肌の温もりだけは救いになったぜ」

そこまで書いて、主人は意味有りげに目配せをしてきた。
リーナを指していると気付いて、サンジは慌てて首を振る。
「隣のよしみじゃねえが、本当にいい子だぜ。あんたのことを真剣に心配している」
サンジはひたすら首を振り、メモに走り書きした。
「自分には戻るべき場所があり、愛する人がいる」
主人は目を瞠り、ウンウンと頷いた。
「あの、赤毛の姉ちゃんか。とびきり可愛かったな」
サンジは一瞬躊躇ったが頷いた。
話がややこしくなるのは避けたい。

「そうかそうか、それじゃ仕方がねえな」
そのようなことを呟いて、主人はぐいとグラスのウィスキーを呷った。







―――あと2日
本当にこの症状が無くなるのか、ここまで続くと不安になるがなんとか回復を信じて、サンジは湧き水の出る丘に通い続けた。

その日は曇り空で風が強く、時折小雨がパラつくような肌寒い朝だった。
天候が悪くても清らかに湧き出る水をすくって飲み干し、街へと降りる。
途中、風に巻き上げられた古新聞が足元に纏わりつき渇いた音を立てても、サンジには聞こえない。




次の島に着いたら、どんな顔をして皆の前に姿を現そうか。
少なくとも、船長には飛びつかれそうだ。
ゾロには、一発殴られるかもしれない。
間に合うように追い付いたとしても、ナミさんには利子を上乗せさせられるだろう。
サニー号で最初に作る料理は何がいいだろう。

ゾロはきっと、勝っただろう。
負ける訳がない。
もう二度と負けないと、誓ったのだから。
やはりゾロの勝利を祝して、豪華なメニューにするか。
奴の一番好きな米の飯と、酒を大盤振る舞いするか。
この島で習ったレシピを早速試してみるのもいい。
早く、食わせてやりたい。
自分の料理を、大切な仲間達に。

これから旅を続けるのだ。
コック抜きでグランドラインは渡れない。
必要なのだ、決して欠けてはいけないのだ。
追い付かなければならない。
待っていてはくれないから、一生懸命走って追い付いて、また仲間と共に夢を追うのだ。

もうすぐだ
もうすぐ
必ずもう一度、あの海へと旅立てる。























サンジは震える手でカレンダーに丸をつけた。
間違いなく、毎日一度ずつ丸を付けている。
その丸が7つ以上になったのに、耳のさざ波は鳴り続けている。
主人は気遣わしげにサンジの様子を窺い、何事か言ってくれている。
メモにも書いて差し出してくれたが、サンジは見なかった。
波の音が止まらない。
その事実が恐ろしくて、誰の言葉も聞きたくはなかった。

何度目かの朝が来て、いつものように街が動き出す。
人々が行き交う道を、サンジはフラフラと歩き続け、浜辺へと向かった。



どこまでも青が続く水平線が見渡せる砂浜に、サンジは佇んでいた。
ここならば、なんの違和感もない。
目の前に広がるのは海だけ。
寄せては返す波の音が響くだけ。
少しもおかしくはない。
耳に続く波の音は、目の前の白い泡の動きとちっともタイミングが合わないのだけれど。




サンジはタバコを咥えたまま、ざぶざぶと海の中に入っていった。

少し風が強く、波が荒い。
飛沫を上げて打ち寄せる波が、サンジの痩せた身体を翻弄する。
足元を掬われ、バランスを崩した。
視界が反転し、冷たい水が身体全体を包み込んでシャツが纏わりつく。
目の前を気泡が流れていった。
目に海水が沁み、軽い圧力を感じる。

けれど、波の音が止まない。
海中にいるのに、全てが水で満たされているのに、頭の中で潮騒が鳴り続けている。


―――――!!!



叫ぼうとしたら喉に水が流れ込んで来た。
反射的に手で水を掻いて、顔を上げる。
咳き込みながら大きく息をつくと、リーナが真っ青な顔をしてすぐ側まで来ていた。
腰まで海に浸かって、両手を揉み合わせながら泣き出しそうに顔を歪めている。




「病院に、行きましょう」

震える唇がそう告げるのに、濡れた前髪をかき上げて、サンジはこくんと頷いた。













島唯一の病院は、意外と大きな建物だった。
古くからあるのだろう、壁や天井などに小さなヒビや汚れがあるが、頑丈な造りで訪れる患者の数も多い。
診察してくれたのは、まだ若い医者だった。
白衣に着られているような小柄さだが、眼鏡の奥にある瞳は理知的な輝きを帯びていて、船医を思い起こさせる。

「シュールゼンヌ症候群ですね」
医師は紙にそう書き、サンジに見せた。
ついで、【シュールゼンヌ症候群とは】と書かれた説明書きの書類を差し出される。
「引留貝を媒体にして寄生するシュールゼンヌによって引き起こされた知覚障害が治らない症状です。検査した結果、
 サンジさんにはシュールゼンヌが寄生した痕跡はありましたが、すでに駆虫されています。シュールゼンヌは耳の
 障害ではありません。脳に影響を与え、音の感覚を麻痺させるものです。駆虫された時点で脳の機能は回復するはず
 ですがごく稀に・・・100人に1人の割合で脳の機能が回復しない症状が現れます。それがシュールゼンヌ症候群です」

なんだかさっぱりわからない。

「サンジさんの体内にはもう虫はいません。駆虫されています。治っています。耳も、正常に聞こえているのです」

ならなぜ、何も聞こえないのか。
生真面目な医者から発せられる言葉も、窓の外でそよいでいる木々の葉の擦れる音も、外の待合室で待っている患者達の声も。

「原因ははっきりとわかっていません。私が診察したのもサンジさんでまだ2人目です。非常に珍しい症例です」

だから、なんだと―――

「治っているのに、耳は聞こえる状態になっているのに、脳が麻痺しているのです」
「だからどういうことなんだ!」
サンジは声を張り上げた。
傍らで見守っていたリーナがびくりと身体を震わせ、医者も怯んだ。
それほど大声を出しながら、サンジには自分がどんな声を出したのかわからない。



「原因不明の病気です。今のところ、治療方法も見付かっていません」
「・・・治らないのか?」
呟いた言葉は今度は小さすぎたのだろうか。
医者は身を乗り出して身体を傾けた。
「治らないのか?この海鳴りは、ずっと続くのか。それ以外何も聞こえないのに、これが・・・」
ごくりと唾を飲み込んだ。
医者の口元が動かない。
「一生・・・治らないのか?」

サンジの質問に応えず、医者は紙に字を書いた。
「この島の法律で、シュールゼンヌ症候群に罹患した方は強制的に入院していただいています。手続きをお願いします」

サンジの代わりに、リーナが頷いた。





















白に囲まれた箱のような部屋で、サンジは膝を抱えてベッドに座っていた。

着替えや荷物はリーナの連絡で宿の主人夫婦が持ってきてくれた。
ひどく狼狽した様子で、しきりに慰めの言葉を掛けてくれていたようだが、サンジは終始俯いてまともに夫婦の顔を
見ることができなかった。
それでもなんとか、最後に今まで世話になった礼を述べ頭を下げると、それきり夫婦が部屋から出て行くまで顔を
上げなかった。

サンジの生活費はそのまま病院に預けられ、管理も任されることになった。
シュールゼンヌ症候群の場合、入院費用も島の公費で賄われるらしい。
それほど特異な症状であり、島独自のものなのだ。
なぜ強制入院させられるのか、なぜ費用も賄われるのかは、すぐにサンジにもわかってきた。
100人に1人の確率とは言え、島の長い歴史の中で何十人かの患者が出てきたはずだ。
だがそのどれにも、完治した例はない。

患者の多くは駆虫されても症状が改善されないことに絶望し、絶え間なく続くさざ波の音に耐えられなくなって精紳に
異常を来たす。
以前、妄想に取り付かれた患者が脱走し、住民を数人傷付けた事件があったらしい。
それ以後収容される部屋は完全に隔離され、窓には鉄格子が嵌められている。
部屋にはベッドと小物入れがあるだけで、凶器になるような物は持ち込めない。
食事は手で食べられるものばかり。
シーツやタオルも幅広で、人に危害を加えることも自傷することもできないように工夫してある。



サンジなど、その気になれば壁を蹴り壊して逃走するのは朝飯前なのだが、そんなことは思いもしないのだろう。
冷静で大人しい“患者”として、サンジは白い箱の中で暮らした。
耳が聴こえないくらいたいしたことではないと、自分に言い聞かせてきたが、さすがにこの海鳴りがずっと続くことには
かなり参った。

夜も昼も、波の音が鳴り続ける。
眠っていても海の夢ばかり見て、それは子どもの頃に送った飢餓の日々を思い起こさせた。
一人ぼっちで膝を抱え、いつ来るともわからぬ助けを待ち続けて海ばかり見ていた。
波の音を聞きたくなくて耳を塞いでも、頭の中で繰り返し鳴り続ける。
その単調な響きの繰り返しに耐え切れず、大声を出して怒鳴り散らしても喚いても、声は届かず音は止まない。
1週間の期限があったから、耐えられたのだ。
これが死ぬまで続くと思っただけで、叫びだしたいほどの恐怖に駆られじっとしていられなくなる。



まず、眠れなくなった。

眠っているのか起きているのか、今いる場所はどこなのか。
すべてが夢で
海賊になったこともバラティエで過ごしたこともすべて夢で、まだ自分は膝を抱えて一人ぼっちで誰もいない島で助けを
待ち続けているんじゃないのか。
何もかも夢で。
何もかもが幻で。
たった一人、飢えて渇いて、あの島ですでに骨だけになって、波の音に見守られ続けているのではないのか。







魘されて目を見開くと、白い天井が木の影を映して揺れていた。
ベッドに眠っている。
ここは病院の、部屋の中。
清潔なシーツに包まれ、枕を当てて横たわっている。
両手を目の前に翳してみた。
節が高くなった長い指。
握って開いてみれば、ぎこちないながらもちゃんと動く。
身体を起こしてシーツを捲った。
白い病衣の下から、尖った膝頭が覗いている。
膝を曲げて脛を擦った。
大丈夫、すべて動く。
身体はどこも悪くない。
何一つ、欠けてはいない。


サンジは、白い光が差し込む窓を振り仰いだ。
鉄格子の向こうに、丸い月がぽっかりと浮かんでいる。
まるで昼間のように部屋の中を明るく照らし出していて、何故かとても安心できた。

あんな月を、見たことがある気がする。
どこでだったのかは、忘れてしまったけれど。






















リーナが面会に来てくれた。
綺麗なお嬢さんだなと見惚れて、それからそうそうリーナちゃんだったと思い返す。
リーナは少し痩せたようだ。
何故か怯えたような目で、サンジを見つめている。
―――仕方ないか
サンジ自身、入院してからさらに体重が減った。
眠れないせいで目の下の隈が酷い。
頬がこけて髪が色褪せた。
痩せた手首を見るとあの時の自分が思い起こされて、さらに混乱する。
すべて夢で、なにもかも幻で―――



リーナが目の前でばっと頭を下げた。
その動きに現実に引き戻され、サンジは首を傾ける。
立ち会ってくれている医者は、じっと2人を見守っていた。

「ごめんなさい、なんて謝っていいのかわからないけれど、サンジさんがそうなったのは妹の、私達のせいだったんです」
そう言ってリーナは涙を流した。
震える指で紙に字を書いているが、リーナの口の動きで大体わかった。

「シュールゼンヌが媒体とするのは『引留貝』と言う貝で、昔からこの島の女たちに利用されてきたものです。島を訪れた
 男性と離れがたくなったとき、島の女は寄生虫の卵を男性に飲ませて、この症状に罹らせていたんです」

リーナの告白も、どこか遠いことのように感じる。

「宿のご主人夫婦、あれもご主人は知らないことなんですが、奥さんが一目惚れして海賊だったご主人にこっそり寄生虫を
 飲ませたんです。それで、1週間の治療の間に親しくなって、結果的にご主人は島に残って夫婦になりました。その話を
 ミーナは聞いていて・・・だから・・・」
顔を押さえたリーナの指の間から、ほろほろと涙が零れ落ちた。


「ミーナは、サンジさんのことが好きになって・・・でも、まだ小さいからそういう感情じゃなくて、ずっとこの島にいてくれたら
 いいって・・・そして、私と仲良くなってくれたらいいって、そう思って―――」

卵を、サンジに飲ませたのだという。
あの時、おやつだと持ってきてくれたクッキーの間に挟んだジャムに、仕込んであったのだそうだ。

「ごめんなさい、なんてお詫びしていいかわからないのだけれど、ごめんなさい、ごめんなさい―――」

リーナは泣き崩れ、机に突っ伏した。
医者はサンジが激昂しないかと、後ろにいながらも身構えた気配を帯びている。
だがサンジは、じっと椅子に座ったまま小刻みに震え続けるリーナの頭を眺めていた。




・・・そうだったのか。

それくらいしか、思うことはない。
特に怒りも口惜しさも、感じなかった。
原因がわかったところでどうなるものでもない。
過去に立ち戻ってやり直すことも、今すぐ治って音が聞こえるようになることもない。
ただなんとなく、納得できたなとそう感じて胸にすとんと来るものがあった。

「リーナちゃん。大丈夫、怒ってないよ」
サンジは話しかけた。
久しぶりに、声に出した言葉だ。
大きな音になっていないだろうか。
リーナを怯えさせるような声音じゃないだろうか。

「たまたま、こういう結果になっただけのことだ。ミーナちゃんに悪気があったわけじゃない。それはわかっているよ。だから
 もう、いいんだ」
リーナは顔を上げ、ボロボロと涙を零しながら首を振った。
「でも、でも、だって・・・」
「こういう運命だったんだよ。誰のせいでもない。それより、俺からお願いがあるんだけど・・・」
可愛い女性の泣き顔は見たくない。
サンジはそう思って、にっこりと笑顔を見せた。
「ミーナちゃんにも俺が怒ってなかったって、笑ってたってそう伝えて。それから、もうここには来ない方がいい。俺のことは
 忘れてくれ。そのことが、最初で最後のお願いだよ」
リーナは再びわっと泣き伏した。
だがサンジはそれ以上慰めることはせず、黙って立ち上がると医者に目礼だけ残して一人で部屋を後にする。

それ以降、リーナが姿を見せることはなかった。















波の音を聞きながら、眠れるようになった。
まるで羊水の中を漂う胎児のように、サンジは丸くなってよく眠った。
目を覚ませば、荷物の中に仕舞い込まれていたレシピノートを開いて、頭の中で手順を組み立てる。

そのうち医者の許可を得て、鉛筆を持つことができるようになった。
色んなことを思い出しては、ノートに書き込んでいく。
いくつかのメニューが出来上がり、頭の中で調理のシミュレーションを繰返す。


医者ともよく話した。
第一印象のとおり、どこかチョッパーに似た感じがする。
一人でも多くの患者を救おうと、一生懸命だ。
サンジ以外にもう一人、診たというシュールゼンヌ症候群の患者のことも話してくれた。
治療の甲斐なく、衰弱して死亡したという。
救えなかったことが、彼の心の傷になっていた。
他の症例を見ても、ほとんどが自殺か錯乱状態で衰弱死していて、生存率の統計が取れないのが現状だという。
そんな厳しい現実を話し合えるほどに、サンジの状態は安定していた。



時折、病院の厨房も貸してもらえるようになった。
病院食のレシピを習ったり、病院スタッフに料理を振舞ったりもさせてもらえるようになった。



ある日、医者はサンジの病室を訪れて明るい表情で話を切り出した。
「あなたに、退院許可を出したいと思います」

入院してから、ちょうど1年が経過していた。








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