Whispering -3-





「リーナちゃん達を助けてくれたの。そりゃあ、サービスしないとね」
宿の主人は気のいい笑顔を見せて歓迎してくれた。
身体が大きく、腕は丸太のようだ。
「元々のんびりした島なんだけど、往来が激しいからね。海賊なんかもよく来るんで揉め事なんかも結構あるのさ」
「じゃあ、やっぱりレディ達には物騒だね」
「いやいや、この島の人間も腕っ節はなかなかだぜ」
細い目でウィンクしてみせる主人に飛びつくようにして、ミーナは自慢そうに言った。
「おじちゃんも元海賊なのよね」
「こら、ミーナ」
リーナは慌てて口を塞ごうとした。
「いやいや、この辺じゃみんな知ってるから特別隠したりしてないよ」
にこにこと笑う主人は、確かにその表情さえ見なかったらなかなかの体格をしている。
よく見ると腕や胸元に細かい傷がたくさんついていて、歴戦を物語っているようだ。

「そうか、海賊から足を洗ってこの島に戻ってきたのかい?」
サンジは感心したように頷いてポケットから煙草を取り出し、吸っても?と了解を取る。
「はい、灰皿。海賊やっててこの島に寄ったんだが、そのまま居ついちまったのさ」
「へえ・・・」
サンジは目を丸くしてから、片手の小指をピンと立てた。
「いい人?」
「まあな」
くしゃりと笑う元海賊は、照れたように大きな身体を丸めた。
「今買い物に行ってるが、うちのカミさんとここで出会ったんだ」
「へえ〜、それで海賊を辞めて?だって長いこと付き合ってて決めたわけじゃねえんだろ」
「ああ、この島に寄ったのは元々ログを貯めるためだ」
「へえ、で運命の恋に落ちたんだ。それで海賊から足洗ってこの島に残ったってのか」
「まあな」
「ふわー、すげえなあ」
サンジはキラキラと目を輝かして興奮している。
「そんなんあるんだなあ。運命の恋か。海賊のロマンを捨ててまで、その人と一緒にいたいと思ったんだな」
「・・・ん〜・・・まあ、しょうがなかったっつうか、だな」
今いち歯切れの悪い口調で、主人は先ほど拭いたばかりの皿をもう一度拭き始めた。



「ただいまー、あんたちょっとこれ持って!」
カウンターの奥から声がして、主人と同じくらいよく太った女性が顔を出す。
「あらお客様、いらっしゃいませ」
ニコっと微笑む表情が、主人とよく似ている。
「こちらが、運命の女神ですね」
サンジの言葉に主人はげほっとむせ、女主人はきょとんとした顔をしてからケラケラと笑い始めた。
「まあまあ、また昔話をしてたのかしら。この人はとんでもないのに捕まったって、愚痴ってたでしょう」
「・・・いいえ、すごいのろけを聞かせて貰ってましたよ」
サンジの答えは大真面目だったのに、女主人はますます楽しそうに笑った。
「いいのよ、終わりよければすべてよしだもの。今が幸せなら、ねえ」
そう言って目配せするのに、主人も苦笑しながら大きく頷く。
「ここの宿ね、お料理も美味しくてとっても素敵なところなんだけど、二人にあてられるのが少々難点なのよ」
リーナの真面目くさった物言いに、またひとしきり笑いが起こった。









「あー、今日の飯は美味かったな。ほんとに色んな種類の野菜があんだよなあ・・・」
ゆっくりとシャワーを浴びたサンジは、濡れた髪をおざなりに拭きながら、ベッドにごろりと横になった。
清潔なシーツの匂いが心地いい。
久しぶりの柔らかなベッドが、優しく身体を包んでくれる。
「酒も美味かったな」
「てめえに酒の味がわかんのかよ」
寝転がったまま腕を伸ばし、ベッドサイドに置いたノートを掴む。
「いっぱいレシピ教えてもらったぜ。ううう、これを試すのが楽しみだ。明日は気合入れて買い出しするぞ」
「あの姉妹ともデートするっつってたじゃねえか」
「おう、観光名所連れてってもらうんだ。なんせ後1日しかねえから、忙しいぞ」
サンジは浮き浮きと声を弾ませながら、レシピノートを胸に抱いて仰向けに転がる。
「明後日は6時には出港しなきゃなんねえから、朝市に行ってる暇がねえ。明日の夕市が勝負だ」
話している途中で、隣のベッドからガーと寝息が聞こえる。
「って、もう寝るのかよおい!明日の段取りの話してんだよ。てめえはフラフラどっか行ったり
 するんじゃねえぞっ」
ジャンプして隣のベッドに飛び移った。
軽い振動を起こして身体が沈むのに、ゾロは目を瞑ったまま動かない。
「なんせナミさんからの特命が出てんだ。てめえは絶対俺から離れんなよ、出港に遅れたらシャレに
 なんねえんだから・・・」
とは言え、多少遅れてログが書き換えられたところで、7泊8日離れ小島の旅だ。
それはそれで悪くないのだから、そこまで神経質になることはないだろう。
「・・・まあ、それはそれでいいかもな」
新婚旅行っぽい・・・とか一瞬思った自分の首を絞めたくなって、サンジは慌ててぶんぶん首を振った。
隣でゾロは、相変わらず安らかな寝息を立てている。

「ちえっ」
なんとなく面白くなくて、サンジは指でゾロの鼻を摘まんだ。
鼻梁が高くて筋が通っている。
鼻までなんか硬いよなと感心していたら、後ろから襟首を掴まれた。
「んなっ」
仰向けに寝転がったまま目を閉じて、ゾロはサンジを猫の子のように腕の力だけで摘み上げている。
「こんの、狸寝入りっ」
「うっせえこの馬鹿っ。人の気も知らないでチョロチョロしやがって」
カッと目を見開き、耳元で怒鳴る。
「人の気って・・・」
「昨日の今日だろうが、てめえがいいなら俺は構わねえが」
「な、なんの話だよっ」
かあっと赤面してサンジは横を向いた。
さっき風呂場でちょっと念入りに洗っちゃったなんて、内緒だ。
けれど少し腫れてもいたのも事実。
やっぱり無茶はしない方がいい。

「お、大人しく・・・寝ような」
「なら起こすな」
くわっと噛み付きかけるゾロを両手で押さえて、サンジは首を竦めた。
「お前だって、なんか今日喧嘩越しじゃねえか」
「てめえが悪い」
「て、え?なに?」
思い当たる節がなくて、サンジは素で問い返す。
憎まれ口は今更のはずなのに、一体なんでゾロの機嫌を損ねたのだろう。

「船ん中でも女共をちやほやしてんのに、島に降りたら降りたであちこち目の色変えんのはどういうわけだ」
ゾロは憮然と言い放った。
それでも少し後ろめたいのか、視線を僅かにサンジから逸らしている。
「え・・・」
そんなん今更だろうと思う。
サンジの女好きを最初に病気だと指摘したのはゾロだったはずだ。
「女性は等しく崇め奉るもんなんだ。そりゃ世間の常識ってもんだ」
「だからってデレデレ鼻の下伸ばしてんじゃねえよ」
ゾロの下唇がちょっと突き出ている。
これはあれか。
もしかして・・・やきもち・・・

ぶわっとサンジの胸がなんだか熱くなった。
ゾロが、あのゾロが。
1億2千万ベリーの賞金首が、元海賊狩りが、イーストの魔獣が
ヤキモチを焼いている。
しかも自分に、女性相手に、大人気ないヤキモチを――――

―――わわわわわわ
どうしようどうしようと、サンジの方が気が動転した。
嬉しすぎるっつうか、恥ずかしいっつうか、照れくさいっつうか。
いっそこのまま、こいつを蹴り飛ばしてベッドに沈めてしまいたいほどに気恥ずかしい。

考えていることが顔に出たのか、ゾロは目を眇めてじろりとサンジを睨みつけた。
「そんな面すんなっつってんだろがっ」
声が怒気を孕んでいる。
「そんな面って・・・」
「くそう、やっぱりてめえが悪い!」
最後は殆ど言いがかりで、その場で勢いよく押し倒された。


















「おはようございます」
「おはよーございまーす。あ、お兄ちゃん」
木の扉を開けてすぐ、跳ねるように走り寄って来たのはおしゃまなレディ、ミーナだ。
「おはようリーナちゃん、ミーナちゃん。今日も可愛いね」
サンジは手にしていた煙草を揉み消して、両手を合わせて座ったままクネクネ身を躍らせた。
「今日は朝ごはんここに食べに来たのよ。時々そうするの」
「嬉しいね、もしかして俺に会いに来てくれた?」
「まあ、それもあるわね」
ちょっと澄ました顔をして、ミーナは当たり前のようにサンジの隣に腰掛けた。
リーナが申し訳なさそうにそれに続く。
「ここのクロワッサンはほんとに美味しいの。焼き立てでパリパリしてるの。でも中はふんわりして
 焦げたところが甘くてね・・・」
「うん、俺も今一口食べてビックリしてたんだ」
綺麗な歯形のついたクロワッサンを見て、ミーナは満足そうに笑った。

「おいおい、ミーナちゃん。あんまり大げさなこと言わないでおくれ。このお客さんはプロのコックさんなんだよ」
主人の言葉に、ミーナは大きな目をさらに見開いた。
「え、お兄ちゃんコックさんなの?旅の人じゃないの?」
「旅をしてるコックさんだよ」
話している間に、リーナ達の朝食が運ばれてきた。

「あの、ゾロさんはまだ起きてらっしゃらないんですか?」
食堂をくるりと見渡して、リーナは遠慮がちに問うてきた。
「ああ、あれはねー・・・ものすごく寝起きが悪いっつうか、基本的に寝てばっかなんだよ」
言いながら、サンジも欠伸を噛み殺す。
「あまり、眠れなかったのかしら」
「いやいや、久しぶりのベッドでぐっすり寝たよ。寝すぎたくらいだ」
慌ててそう付け足して、冷めたコーヒーに口をつける。



自業自得とは言え、あれからベッドの中で散々弄くられてしまった。
折角だからと(なにがだ)、電気を点けたままの明るい部屋で引っくり返されたり裏返されたりあれやこれや・・・
思い出したくもない隠微な夜だった。
しまいには切羽詰って、「やっぱり挿れてえ」と囁いたゾロの声はセクシーだったなと改めて思い出し、そこで
流されなかった自分を一人で褒めた。
―――これからいつでもやれるんだから。
そう説き伏せてなんとか手コキで宥めるはずがフェラまでしたのは大サービスだったが、それはまあそれで
なかなか・・・

「で、今日の予定はどうしますか?」
可愛らしいリーナの声に我に返って、途端、コーヒーに咽て激しく咳き込む。
「だ、大丈夫ですかサンジさん?」
「・・・げほ、だ、大丈夫・・・ゴホッ」
あああ、俺はもう人間失格だ。
こんな可愛いレディ達を前にして、男のことを思い出すだなんて・・・

サンジが涙を浮かて咳き込んでいるうちに、ゾロもようやく大欠伸をしながら食堂に顔を出した。













よく晴れた空の下、風光明媚な島の景色を楽しむ。
サンジは姉妹とあれこれ話しながら先を歩き、ゾロは大人しくついてくるだけだ。
それでも振り返るたびにどんどん眉間の皺が深くなっていくから、今晩は本気で機嫌取っておかねえと、と
やや切迫した気持ちになってくる。

土産物屋で色々試食し、昼は名物料理を食べて、おやつにミーナ特性のクッキーを摘まんだ。
船での冒険の数々が夢のような、穏やかな一日だ。
そろそろ夕市の買い出しに向かおうかと街まで戻ってきた頃、ゾロはふと角の煙草屋で足を止めた。
夕刊の紙面を飾る顔写真が、幾重にも重なって並んでいる。

「―――おい」
サンジも気付いて、タバコと一緒に新聞を買った。
それをゾロは引っ手繰るようにして奪うと、背を向けて目を走らせる。

―鷹の目、オルズウェルト島に―
「オルズウェルトっつうと、次の島だな」
こんな近くに、鷹の目がいるのだ。
サンジはゾロの肩越しに記事を読んで、ゾロの顔を盗み見た。

ゾロは、笑っている。
例えようもないくらい、嬉しそうに。
白い歯も引き上げられた口元も輝く目も、すべてが喜悦に満ちていた。

サンジは言葉もなく、ただ愕然として一歩下がった。
もはやゾロの脳裏には鷹の目の姿しかない。
どのように対峙するか、どのように戦うか、その呼吸は、気迫は
自分の力は、どこまで発揮できるのか―――


「どうしたの?」
ミーナの言葉に、ゾロは口元を引き締めて新聞を畳んだ。
我を忘れるほどに、心乱されてはいない。
「買い出しをするなら急ごう。俺はこのまま、船に残る」
ゾロの気持ちは、すでに戦いに向いている。
サンジもそのことは承知して、その上でゾロを思い遣った。
「買い出しは、俺一人でもいいんだぜ。付き合ってくれなくても」
「別に構わん。持って帰れるものは持ち込んで船に積む。精神統一はいつだってできる、気を遣わなくていい」
バラティエの時とは明らかに違う、落ち着いた物腰に、改めてゾロの成長を思い知った。

ああ、本当に戦いに赴くんだ。
いつかはめぐり逢う、自ら追い求める必然だったはずなのに、サンジはどうしてか遠い未来のことのように錯覚していた。
今ここで、すぐにでも死闘が始まってもおかしくはないのだ。
ゾロが歩むのは修羅の道で、屍は累々とその後にも前にも横たわっている。


いつでもできるだなんて、なんだってそんなこと言っちまったんだろう。




「うっし!んじゃリーナちゃんミーナちゃん、ここで一旦お別れだ。俺達は買い出しに行くよ」
「後でホテルに遊びに行ってもいい?」
「勿論だよ、ゾロとはこれで正真正銘のお別れだけどな」
あまり話しをしなかったゾロだが、リーナはぺこりと頭を下げた。
「短い間でしたが、楽しかったです。どうか良い旅を」
「こちらこそ世話になった。ありがとう」
ミーナも姉に倣ってぴょこんと頭を下げたが、すぐに後ろに隠れてしまった。
どうもゾロには懐いていないらしい。

「じゃ、またね」
姉妹に別れを告げて、サンジはゾロに蹴りを入れながら急き立てる。
「そう決まったら、ガンガン買い出し済ませるぜ。明日滞りなく出港できるようにな」
「なんでてめえが張り切るんだよ」
「うっせえ!てめえ一人の戦いだと思うなよ」

サンジは遣る瀬無い想いを隠すように、市場に向かって早足で歩き出した。







「荷物はこれだけか」
「ああ、そっちまとめて置いておいてくれ。整理しとくから」

なんとなく慌しい気持ちで夕市を回り、サニー号に戻ってきた。
お役ご免のゾロは甲板に出て、サンジは買い込んだ食糧を仕分けして片付ける。
ひと通り作業が終わると、ゾロのために夕食を作った。
鍛錬の合間にいつでも食べられるように、冷めても大丈夫な弁当にする。
夕食の準備ができてしまっても、なんとなく離れがたく、黙々とキッチンの整理を続けた。

さすがにするべきことはやり尽して一段落ついてしまうと、サンジはタバコに火を点けて甲板に顔を出した。
とっぷりと日は暮れて、港の灯りが暗い波間を照らし出している。
中空には十六夜の月が冴え、静かな波の音を際立たせていた。



ゾロは、空に向かい刀を構えてじっと佇んでいた。
上半身に何も纏わず、綺麗な背中は線を描くように隆起して、ぴくりとも動かない。
まるで彫像のような、完璧な美しさを秘めた立ち姿に目を奪われる。
声を掛けることも憚られ、サンジはその背中を眺めたまま煙草を1本吸い尽くした。
吸殻を海に投げ捨て、気配を消して甲板を後にする。

サンジがその場でゾロの姿を見ていたことはゾロにもわかっていただろうが、敢えて振り向きはしなかった。
今は、独りの時間なのだ。
サンジと言えども、それを邪魔することはできない。

明日になれば、もっと賑やかになる。
仲間達はゾロの決戦に興奮し、激励し、自分達ができるすべてのことで全力を持って応援するだろう。
そんな仲間の一人であれればいい。
こんな時はなにも、“特別な存在”でなくていいのだ。















サンジは新しく取り出した煙草に火を点けて、船を後にした。
後ろ髪を引かれる想いはあったが、なによりゾロの邪魔をしたくない。
そんなサンジの心残りを引き止めるかのように、いつまでも波の音が耳について離れなかった。
やがてそれは遠ざかるどころか大きさを増して、サンジを包み込むように高く低く響き渡る。


ようやく異変に気に付いてサンジは足を止めた。
まるで波打ち際にいるかのような、間断ないさざ波の音。
だがサンジがいるのは街中だ。
煌々と街灯のともる歩道を行き交う人々は、楽しげに会話している。
足元を子どもがはしゃぎながら通り過ぎ、散歩中の犬は立ち止まり吠え掛かり、酔っ払いが千鳥足で追い払うように
足を振っている。
そのすべてに、音がなかった。


無声映画のように音のない動きの中で、風景だけがゆっくりと日常を続けている。
まるで作り物みたい景色の中で、サンジは呆然と目を見開いたまま辺りを見渡した。
人、人、人―――
着飾ったレディ、逞しい船乗り、ほろ酔い加減の2人連れ、客引きの威勢の良い身振り、立ち尽くしたサンジの肩に
ぶつかり、怖そうな顔つきながら神妙に頭を下げる初老の男―――
なにもかもに、音がなかった。
ただ、押し寄せる波の音だけがいつまでも耳に響き、離れない。


「あ・あ・あ―――」

叫んだかも、しれない。
試しに声を出してみたら、その音さえ拾えなかった。
喉から発せられ、響きとしてでさえ“声”がわからない。
程度が分からず声を張り上げたら、前を行く人がぎょっとしたように振り向いた。
奇異なものを見るような視線に曝され、サンジは慌てて口元を抑え歩き出した。

今はとにかく、ホテルに戻ろう。
部屋に帰って落ち着いて、それからチョッパーを探すことにしよう。

早足で歩くサンジの耳元を、風が切る音すら感じることはできなかった。














ホテルの玄関ドアを開けると、待っていてくれたのか、主人が笑顔で出迎えてくれた。
「――――」
なんと言っているかはわからない。
だがサンジの顔色が尋常でないことに気付いたのだろう、カウンターから出て何事か話しかけながら
近付いてきてくれる。
サンジはただ首を振り、耳を抑えた。
掌で覆えば空気が籠もり重苦しい音がするはずなのに、それもない。
耳の感触は残っているのに、音が拾えない。
サンジの仕種を見て、主人は顔色を変えた。
大きく口を開けながら、自らの耳を指差す。

「きこえないのか?」
口の動きで言っていることがわかった。
サンジは勢い込んで、大きく頷く。
話すことができるはずなのに、自分の声がわからないから言葉を出すことに抵抗を感じてしまう。
「だいじょうぶだ、おちついて」
両手を広げ宥める動作をしてくれて、サンジは少し安心できた。
思わぬ事態に陥ったが、それを素早く察知してもらえたことはありがたい。

主人に促されるまま、食堂の椅子に腰掛けた。
カウンターの裏からおかみさんが姿を現し、主人となにやら早口で会話を交わしている。
おかみさんも心配そうに顔を曇らせながら何度か頷き、サンジに向かって笑いかけた。
「だいじょうぶだよ、あんしんおし」
丸々と太った柔らかな腕が肩に置かれ、励ますように軽く叩かれた。
それからすぐおかみさんはキッチンに引っ込み、主人は紙と鉛筆を持ってサンジの正面に腰を下ろした。

「音が聞こえなくて、波の音ばかりする。この土地の風土病だ」
風土病?
サンジは驚き、それからほっとした。
知られている症状ならば、治療法もあるのだろう。
「原因は寄生虫だ。生のものに混じっている事がある」
「げ」
思わず声を出して口元を押さえた。
主人は困ったように笑っている。
「うちで出すものは気をつけているつもりだが」
確かに、朝食は火を通したものばかりだった。
朝から土産物屋や市場で試食していたから、思い当たる節は山ほどある。
サンジは首を振って、それから頷いた。
「今日は色んなものを食べ歩いたからだ」
そういったつもりだが、うまく伝わっただろうか。
自分の言葉が確認できないのが、これほどもどかしいものだとは知らなかった。
一瞬、ゾロは大丈夫かとひやっとしたが、サンジほどあれこれ口にしていなかったと思い出し安堵する。

不意に気配が変わった気がして顔を上げたら、いつの間にかリーナが青い顔をしてすぐ側に立っていた。
入ってきたことも、主人と言葉を交わしていたことも気付かなかった自分に愕然とする。
リーナは明らかにサンジを心配する顔で、慌しく瞬きをしている。
心配をかけないように、サンジはにっこり笑ってリーナに首を振って見せた。

奥に引っ込んでいたおかみさんが、暖かいハーブティを淹れて持ってきてくれた。
リーナの分までカップを置いて、もう一度サンジの肩を軽く叩き優しく頷いてみせる。
「治療法は、毎朝この島のある場所から湧いている水を飲むことだ。虫下しの作用があって、1週間後には
 すっかり治る」
「1週間?」
口をついて出た声は、大きすぎただろうか。
リーナがびくんと身体をビクつかせた。
「1週間、毎日飲み続けないと効果がない」
「その水を持ってくことはできるんだろ?」
主人は静かに首を降った。
「その場所から湧き出る水をその場で飲まないといけない。汲み置きすると1時間で効能が消える」
「・・・そんな・・・」
少なくとも、今日から1週間この島に滞在しなくてはならないと言うことになる。

「ダメだ、明日には出航しないとっ」
サンジは声を大きくしたが、主人は変わらない表情で首を振った。
「この寄生虫は、この島の水でしか治せない。この島から出てしまったら、一生そのままだ」

一生。
何の音も聞こえず、それどころかずっとさざ波のような音を聞きながら暮らすだなんて―――

「ウソだろ?」
サンジは強張った笑みを浮かべた。
神妙な顔つきの主人の横で、リーナも胸の前で手を組み、辛そうな表情でサンジを見つめている。
「船で旅を続けるなら、その耳では支障がある。きちんと治さないと命に関わる」
確かにその通りだ。
しかもサンジはただの船旅じゃない、海賊だ。
危機を察知できないようなこんな状態では、自分のみを守るどころか仲間を危険にさらしてしまうことにもなるだろう。




額に手を置き、俯いて考えた。
明日にでも、皆と一緒に出航したい。
一刻も早く、ミホークがいるという次の島に着いて、ゾロの戦いをこの眼で見たい。
だが、このままでは―――

サンジは迷った。
本当は選択の余地などないのに、それでも迷った。
自分の為に仲間達を、ゾロを足止めさせるわけにはいかない。
やはり、選べるのはこれしかないだろう。

「明日、仲間達は出航する。1週間待ったら、またログは元通りになるのか?」
明日の出航予定を過ぎれば、7泊8日の離れ小島の旅だ。
「1週間後にログは元に戻る。追いかければ充分間に合う」
次の島でゾロが戦うなら、その間仲間達もいるだろう。
1週間・・・無理のある日程じゃない。
サンジはこくんと頷いた。

「俺だけこの島に残るよ」
主人もほっとした顔で大きく頷く。
「それがいい。この病を抱えて旅に出るのは無謀すぎる。なあに大丈夫だ、1週間水を飲み続ければ確実に治る」
そう書いて、次の文字大きく書き記す。
「俺が経験者だ。俺もこの島で、この病気になった」

そうか、だからこんなにも詳しいのか。
サンジが表情を明るくすると、主人は大きな胸をどんと叩いて見せた。
「経験者だからなんでも聞いてくれ。この1週間はちいとばかりきついが、乗り越えられないことはないぜ」

その頼もしい姿に、サンジはようやく心から笑顔を見せて、冷めたハーブティを口に含んだ。




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