忘れ水  -1-


風に揺れるエノコロ草を、茶色い尻尾がビシバシと叩いている。
以前は草の間から尻尾だけ見え隠れしていたのに、随分と大きくなったものだ。
ゾロは感慨深げに眺めながら、風太の草むら探索が終わるのを畦道で気長に待っていた。

草の間から覗かせた顔は、まだ丸みがあって口の周りが黒いままだ。
それでも、ぺたりと寝ていた耳がいつの間にか立ち上がり、可愛らしくも凛々しい三角を形作っている。
一丁前に片足を上げてよろけながら用を足し、風太は胸を張るように堂々とゾロの前を通り過ぎてもとの農道へと戻った。

サンジに言わせれば、ゾロの散歩の仕方はなってないらしい。
リードを持って、風太の赴くままについていくだけだから、それでは風太に散歩に連れてって貰う形になってるじゃないかと怒る。
引き綱を短く持ち、決して風太に遅れることなく、むしろ必ず風太より先に足を出して連れて歩かなければならないと、なにかの本で読んだ受け売りかは知らないが、随分と窮屈な散歩姿を披露していた。
サンジがみている前ではゾロもそれに倣うが、今日のように自由に連れ出す日にはまさしく風太に連れられて散歩している。
飼い主二人があれこれと諍うより、風太自身がサンジとゾロとの散歩の違いを見分けていて、それに応じた態度を取るのがなにより感心だった。

「風太は、頭がいいな」
そう声に出して褒めると、風太は「ん?」とばかりに後ろを振り返り素っ気無く顔を背けて、またトトトと当てもなく歩き出した。





「おかえり、暑かっただろう」
家に戻ると、サンジは座敷をからりと開け放ち縁側に卓袱台を移動させて朝食を並べていた。
「や、風があったしな」
「うん、風が気持ちいいなと思って、こっちで食おうぜ」
でも、朝からもう28度もあるんだぜー。
そう言いながら、大きなお椀に玄米粥をよそった。
出汁で煮込み、葛でとろみをつけたものだ。
程よく冷まして青菜を散らし、黒胡麻塩を掛けたり梅干を乗せて食べる。
副菜に、焼きなすの和え物やキュウリとトウモロコシの酢の物を添えた。

「今日は早めに行くんだろ」
「うん、8時半から中学生達の業務が始まるから、8時過ぎにはレストランに来るかもしんねえし」
ちょっと忙しないかなあと言いつつ、お隣のおばちゃんに貰った漬物をポリポリと齧る。
「でも、たった1日しかいないから、残念と言えば残念だな」
「和々でも重宝したらしいぞ」
「最近の中学生はしっかりしてるからな。指導の方、頼みます」
「任せとけ」
ゾロの会社経験では新人から中堅社員になる前に辞めてしまったから参考にはならないが、研修施設では一応、新入研修生の指導は経験済みだ。
だがあくまで授業の一環としての「職業体験」指導は、初めてのことで。
通常営業で調理に専念しなければならないサンジの代わりに指導を任されたゾロは、楽しみ半分面倒臭さ半分といったところか。
「働くって楽しいなって、感じて貰えればいいんだけど」
「1日じゃたいした経験はできそうにないぞ」
わかってるよと言いつつ、サンジは一人中空を睨んでニマニマと口元を緩めた。





「おはようございます」
「おはようございます」
朝から日差しがきつい農道を、中学生達は自転車漕いでやってきた。
時刻は8時20分、時間励行だ。
和々でも一度顔を合わせているし、女子中学生の一人はルリエちゃんの妹でサンジとも面識がある。
3人は畏まった顔でサンジ達の前に並んだ。
「おはようございます、シモツキ中学校から来ました。今日1日職場体験学習でお世話になります。よろしくお願いします。担当のロロノアさんはいらっしゃいますでしょうか」
サンジの後ろで様子を見ていたゾロが、うっかり噴き出しそうになるのを堪えて一歩前に出た。
「担当のロロノアです、今日はよろしくお願いいたします」
よろしくお願いいたしますと、声を揃えて復唱する。
男子が外を窺うように顔を向けた。
「自転車は、どこに停めさせていただいたらいいでしょうか。こちらで大丈夫でしょうか」
見事な棒読みだ。
ここまでマニュアルがあるのかもしれない。
「ああ、店の裏手に停めてくれたんだね、大丈夫だよ」
サンジは苦笑を堪えながら、澄ました顔で答える。
「着替えはどうさせていただいたらいいでしょうか」
中学生達はみんな体操服だ。
「その上にこのエプロンを付けてくれるかな。店が始まる前でいいよ。これから掃除とかするから」
「荷物はどこに置かせていただいたらいいでしょうか」
「それじゃ、荷物を持ってこちらにどうぞ」
先に立って店に入るゾロの後ろを、中学生達はゾロゾロと付いていった。
サンジはおもしれえと肩を揺すりながら、その後に続く。


実際、和々でもそうだったのだろうが、女の子の方がよく気が付きよく動く。
外回りの掃除から店内の整理、ナプキン畳みからテーブルセッティングまで。
一応して貰うメニューをあらかじめ考えてはいたが、ささっとこなしては「次はなにをしたらいいですか?」と聞いてくるから可愛らしいものだ。
対して、男子は言われたことは一生懸命頑張るが、それが終わるとぽやっとしていた。
こちらから声を掛けて「次はこれ」と示すと、また一生懸命する。
けれど終わると、気が抜けたようにぽやっとしていた。
これは男女の性差ではなく、生徒個人の素質なのかもしれないけれど。

「でも、使えねえ訳じゃねえよな。仕事はきちっとするし」
「言ったことはちゃんとやるから、部下としてなら扱い安いタイプじゃないか」
なんてことを小声で交わしながら、いつも通り店を開きお客を招き入れる。
「あら、今日は可愛らしいスタッフがいるのね」
「がんばってるねえ」
お客さん達は体操服姿のウェイターを微笑ましく見守ってくれたからひと安心だ。
とは言え、戦場のようなランチタイムに中学生を使える筈もなく、客の案内や裏口の掃除などをして貰ってゾロと二人でピークを乗り切った。
そうしながら、中学生達の賄いも同時進行で作る。
中学生に遅いランチをとらせる訳にはいかない。
「外にデッキチェアがあるから、悪いけどそっちでこれ食べてくれるかな?」
3人前のランチ・プレートを渡すと、持参した水筒を持って外に出た。
ちゃんと日除けの下に移動しているから、大丈夫だろう。
後で給食費を貰う手筈になっている。

「真面目できっちりしてるねえ」
「店内は冷房が効いてるからいいがな、水分しっかり取らせて熱中症にだけは気を付けねえと」
受け入れる側も気を遣うのだ。



きっちり1時間休憩を取らせて、午後のカフェ・タイムには注文を取ったり皿を運んだりして貰った。
その頃には店の動きにも随分慣れたが、それでもお盆を持つ手が緊張で震えて、水を入れたコップが波打ち零れそうだ。
「和々でもウェイターとかしたんじゃないの?」
「その時はもっと震えました」
「てか、零しました」
あー緊張したーと前髪を撫で付けながら、笑顔でカウンターに戻ってくる様が可愛らしい。
午後4時に店を閉め、ゾロの指導で掃除をして貰った。
後片付けを終えたサンジに、男子生徒がおずおずと書類を差し出す。
「お忙しいところ申し訳ありませんが、今日お時間がありましたら、しおりのこのページに一言コメントをいただけませんでしょうか」
たどたどしい台詞に頷いて、濡れた手を拭きしおりを受け取る。
無意識に煙草を咥え掛け、慌ててポケットに仕舞い直した。
今日は中学生がいるせいで、一度も吸っていない。
毎日これだったら、禁煙できるかもしれないな。

「こういう職場体験って、受け入れてるとこどんくらいあんの」
「ええと、25箇所です」
「そんなに?シモツキだけで?」
「はい」
「結構受け入れてんだな」
カウンターに座り頬杖を着いているゾロの横で、サンジはせっせとしおりにコメントを書いた。
一人ひとりに書くと結構時間が掛かる。
「ゾロ、お前も書け」
「おう」
女子生徒からしおりを受け取って、ゾロもペンを走らせる。
こちらは達筆で文字もでかいから、あっという間に書けてしまった。
「ありがたみがないな」
「うるせえな、評価できてりゃいいんだ」

ゾロとサンジがコメントを書いた後、生徒達はそれぞれ今日の感想を書き込んでこれで一日体験は終了となる。
エプロンを脱いで改めてカウンター前に整列し、今度は女子生徒が代表するように一歩前に出た。
「お世話になり、ありがとうございました」
ありがとうございました、と3人揃って頭を下げる。
「今回の職場体験を通して、働くことの楽しさと大変さを感じました。ここで学んだことを、これからの学校生活に生かしていきたいと思います」
「お忙しい中、親切にしていただき、本当にありがとうございました」
「失礼します」
どこまでも儀礼的に台詞を述べた後、へへへと子どもらしく照れ笑いを残して、中学生達は自転車に乗り農道を帰っていった。


ゾロとサンジは表まで見送りに出て、夕焼けを照り返し光る自転車を目で追っていく。
「おもしろかったなあ」
「そうだな」
「可愛いしなあ、いいなあ中学生」
サンジはやれやれと言った風に、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。
「ところで、あいつらの感想になんて書いてあったか見たか?」
「え、いんや」
ゾロは席を立っていたから、上から見られたんだろうか。
「3人が3人とも『昼ごはんが美味しかった』って書いてあったぞ」
「ぶっ」
丸1日働いて、感想がそれか。
サンジはひゃひゃひゃと声を立てて笑い、最大の褒め言葉だと親指を立てた。


next