Voyage 9


「何を、している。」


ぴりぴりと空気が震えた気がした。
サンジはルイジと舌を絡めたまま、声のする方に視線を向ける。
戸口に、血のように赤い夕陽を背に受けたゾロの姿があった。
ルイジの背中に廻した手が、無意識にシャツを握り締める。

極度のパニックに陥って微動だにできないサンジから、ルイジはそっと唇を離した。
二人の間を一瞬繋いだ唾液の糸が、ゾロに見せつけるように光る。
ルイジは腰に手を廻したまま、庇うようにゾロに向き直った。

「…いつからだ?」

ゾロの声が乾いている。
いっそ間が抜けて見えるほどその顔は驚愕に満ちていて、瞬きすら忘れているようだ。
「ゾロ、俺らは…」
「お前には聞いてねえ。」
ぴしりと鞭を打つように、ルイジの言葉を遮った。
見開かれた目は狂気の色を見せて、サンジだけを捕らえている。

「いつから、ルイジとこうだった。」
それでも訪ねる口調は穏やかで、それが一層底知れぬ恐ろしさを漂わせていた。
サンジが何か言おうとして、唾を飲み込んだ。
乾いてしまった唇を舌で潤し、何度か口を開いたり閉じたりする。
重苦しい沈黙の中で、ゾロは辛抱強くサンジの言葉を待った。

「…キトロスの、島で、あん時から…」
声が裏返った。
極度の緊張からか、シャツを握り締めたままの指がかくかくと震える。

「ルイジと一緒に、暮らしてた。」
「暮らして?」
ゆらりとゾロの影が揺らぐ。
足を踏み出す前にルイジが手を広げて立ちはだかった。

「サンジは知らなかったんだ!俺とあんたが親子だなんてっ…」
刹那、ルイジの身体が壁に叩きつけられた。
サンジですら見切れなかったゾロの動き。
気が付けば背中を強打したルイジが身を折って苦しんでいる。
サンジはルイジを見て、それからゾロに視線を移した。
ゾロはのたうつルイジを冷たい目で見下ろしている。

「…こいつは、まだ、15だぞ。」

唸るような、低く暗い声。
「まだ15のガキを…てめえは――――」
ゾロの眼球がゆっくりと動いて、サンジを捕らえた。
怒りに満ちた視線に耐え切れず、サンジは一歩後退る。
直ぐに壁に突き当たり、両手を下げて凭れかかった。
ゾロは無言のまま又一歩踏み出した。

「…よせ、俺が、俺が無理矢理やったんだ!」
「ざけんな!」
ゾロが吼えた。
雷に打たれたようで、ルイジもサンジも呼吸すらできない。
「お前如きに無理矢理やられるタマか、こいつが!」
言葉を切って、ゾロが仰向いた。
大きく肩で息をしている。

「油断してたのか?自棄になってたのか、それとも…」
白い歯を噛み締めて、口端を歪めた。
「てめえから、誘いやがったか…この淫乱。」

サンジは耐え切れなくて目を閉じた。
今この瞬間、抜刀して一太刀に斬り捨てて欲しい。
だが空気はそれ以上揺らがない。
ゾロの軽蔑に満ちた視線だけが、目を閉じていても痛いほど伝わってくる。

「畜生!」
ルイジがよろけながらも立ち上がり、ゾロに殴りかかった。
避けることもせずゾロは黙って拳を受け、逆にルイジを殴り返す。
何度も殴られ蹴られて血を吐きながらも、ルイジはゾロに挑みかかる。
ぼきりと嫌な音がして、ルイジの身体が床に沈んだ。
這い蹲ったまま立ち上がろうと足掻くが、膝を立てることもできない。
思わず駆け寄ろうとしたサンジをゾロの鋭い声が制した。
「触るな。」
どこまでも冷たく、突き放した声。
サンジは伸ばした手を握り締め、立ち尽くす。
ゾロはルイジの身体を引き上げて、とどめに当て身を入れると、崩れ落ちた身体を肩に担ぎ上げた。
サンジに一瞥もなしに戸口へと歩く。
壁に凭れてなす術もなく見送るサンジに、ゾロは戸口まで出て静かに振り向いた。
逆光の中で、睨む目だけが白く光る。


「ゆるさねえ。」

その瞳は憎悪に満ちていて、凍りついたサンジを粉々に打ち砕く。

「絶対に、ゆるさねえ。」

吐き捨てられた呪詛は、いつまでもサンジの耳に残った。



蒼白い月に向かって、サンジは何度も紫煙を吹きかける。
直ぐに闇に紛れて消えてしまうから、何度も何度も火をつけた。

―――ストックが、なくなっちまうな。
溢れんばかりに積み上げられた吸い殻の山に顔を顰めて、空箱をクシャリと丸める。
今夜は見張りだったから、夕飯はすべてジョナサンに託して早々に見張り台に引っ込んだ。
さっきまでチョッパーがどたばた駆けずり回ってたっけ。
船医ってのは、コックの次に忙しいかもな…
いや、やっぱ一番大事で多忙なのはナミさんだ。

サンジは他人事みたいにぼんやりして、穏やかな水面だけを見ていた。

阿呆だなあ。
あいつ、俺を殴りもしねえ。
拳を振り上げる値打ちもねえんだろ。
怒りに任せて身を引き裂かれる方が、よほどマシだ。
指一本触れないで、奴は背を向けた。

ゆるさねえとよ。
あいつがゆるさねえっつったら、絶対にゆるさねえんだ。

「く…」
とサンジの口から笑いが漏れた。

アホだな。
この船に乗ってる意味すらなくしちまった。
一流の料理人の腕を無くして、オールブルーの夢を追ったって、意味なんかねえじゃねえか。
海が恋しけりゃ浜辺で暮らしゃいい。
食わせるのが好きなら、店でも開きゃいい。
愛してくれる人が欲しけりゃ、誰かと一緒になればよかったんだ。

何でこの船に乗ったんだよ。
ゾロがいたからじゃねえか。

ぽたりと、膝を抱えた手の甲に熱い塊が落ちた。

もう二度と会えねえと思ってた。
思いがけずめぐり会えて、嬉しかった。
力いっぱい抱きしめられて、息が詰まるほど心が震えた。
単純だけど、大事なことを忘れてたんだ。
再び逢えただけで、よかった。
覚えていてくれただけで、充分だったのに。

疑わせて苛立たせて、幕を引かせたのは俺の方だ。
ゆるさねえって言った。
もう二度とゾロが俺に触れることはないだろう。

失ってはじめて気づいた。
あの手のぬくもりも、優しい眼差しも、囁く声も全部。

――俺は、馬鹿だ。

流れ落ちる涙をぬぐうこともせず、サンジは只暗い波間を眺めていた。

闇は深く星も見えない。

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