砂の国と勇敢な王女のおはなし -6-


サンジは改めて出口に向かって目を転じ、一歩足を踏み出した。
裸足で床を踏む感覚は小さな時と同じだけれど、目線の高さが全然違う。
ゾロの肩に乗って見た眺めで慣れているはずなのに、見下ろしている感が強かった。
物珍しげに辺りを見回し、恐る恐るドアノブに手を掛けた。
冷たい金属を掌で握った時、まるで電流のような震えがサンジの全身を駆け抜けた。
自分専用のドールハウス以外、サンジが自分で直接ドアノブに触ったことはない。
ノブに限らず、机も椅子もストールも、何ひとつサンジ自身が触れて動かした経験はないのだ。
けれど今、自分は何でもできる。
こうしてドアノブを回して扉を開けたり、水道の蛇口を捻って水を出したり、ただ走るだけで部屋の外に飛び出したりすることができるのだ。
―――普通って、すごい。
サンジは感激に胸を高鳴らせながら、ドアノブを捻った。

鍵の掛かった扉は、当然のように開くことなくガタガタと揺れるだけだ。
だが、表で見張りに立っていた男は驚いて振り返った。
「誰だ、どうした」
少女は奥の部屋にいるはずだ。
そこも鍵を掛けられているのに、どうにかしてここまで出てきたのか。
男は訝りながらも、どうせ女一人と侮って扉の鍵を開けた。
そして手前に開いた途端、腹に衝撃を受ける。
声もなく倒れ掛かる男を、サンジはその腹に膝を減り込ませた状態で支えた。
こんな、大の男を抱えることができるなんてと、新たな感動が胸に押し寄せてくる。
それに浸る間もなく、サンジは続きの間を見渡して他に人影がないのを確認して、男を部屋の中に引き摺り込んだ。
中肉中背でさほど背も高くない。
一瞬躊躇ってから、男のシャツとズボン、それに靴とベルトを取り外した。
いくらなんでも身包み剥ぐ訳には行かないし、自分だって他人の下着は身に付けたくない。
素肌にズボンを履いてシャツを着、ぶかぶかのウェストはベルトでなんとか固定した。
これで、一応おかしくない格好にはなっている。
男の上着のポケットに、度の入っていない眼鏡を見つけた。
一応面隠しにと掛けてみて、ついでにポケットに入っていた煙草も拝借する。
腰に巻いていたストールを肩に掛け顔の下部分まで覆うように巻き付けると、サンジは男の銃を持って部屋の外に出た。

普通の服を着て靴を履き、眼鏡を掛けて銃を手に走る。
それだけのことが、サンジにとってはなにもかも新鮮だった。
一応、銃の扱いについては理論上レクチャーを受けていたが、本物を手にするのは勿論初めてで。
緊張で手が汗ばみつつも、ベルトを巻いてなお隙間ができる腰に挟み込んだ。
足音を忍ばせて地下の階段を登り、木の板を押し退け床から這い出た。
扉の向こうはカフェになっていて、カウンターの中にはあの女主人がいるだろう。
確実に怪しまれるが、他に出口はない。
カフェに続く扉の前に立ち止まると、中の喧騒が伝わって来た。
どうやら夜も更けて、客で賑わっているようだ。
これならもしかしたら、人に紛れて出られるかもしれない。
サンジは一か八かで扉を開けて、そっと身を屈めながら外に踏み出した。

灯りを落とした薄暗がりの店内は、酒と煙草の匂いに満ちていた。
紫煙に紛れるように、サンジは壁に背をぴったりとくっ付けてそろそろと扉から出る。
カウンターには、あの妖艶な美女が腰をくねらせながら立っていたが、客の注文を聞くために背中を向けていた。
どうか振り返らないようにと祈りつつそっとドアを閉め、スツール沿いにそろそろと足を運ぶ。
狭い酒場だが、客は誰も彼も辛気臭い顔で酒を煽り、時に酔いに負けて声を上げ、酒を零した。
滅び行く国の悲壮感がここに凝縮されているようで、陽気な酔っ払いの笑い声しか知らないサンジは、そのことにも衝撃を受けている。
千鳥足の酔っ払いの脇をすり抜けるように通ったら、相手は椅子に足を引っ掛け派手に転んだ。
人より椅子が倒れる音の方が大きく響いて、ぎょっとしてその場で立ち竦む。
女主人はこちらを振り向き、カウンター越しに呆れた声を投げ掛けた。
「ジョッシー駄目じゃない、しゃんとしなさい」
「うえへへへ、面目ねえ」
サンジは背を向けたまま、急ぎ足でその場を離れた。
女主人の視線を背中に感じたが、声を掛けられることはなかった。


そのまま表に出ると、夜の街は肌を突き刺すほどの冷気に満ちていた。
昼間、あれほど高かった気温は微塵も感じられない。
これが砂漠の厳しさかと、身を持って感じながらも顔に巻いていたストールを両手で押さえて表通りへと出る。
まだ、コーザとやらが戻る気配はない。
取り敢えず自分は王宮に向かおうと、そのまま足を速めた。

金と青のタイルで彩られた丸いフォルムの宮殿は、砂に塗れても荘厳な雰囲気を壊すことなく聳え立っていた。
堅く閉ざされた正門へと長く続く階段にも警備兵が常駐し、とても気安く近付ける雰囲気にはない。
ここで砂嵐でも来てくれたら少しは紛れて近付けるかと空を仰いだが、こんな時に限って空が荒れる気配はなかった。
濃紺の宵闇にいくつもの星が瞬いている。

サンジは王宮暮らしの頃の記憶を辿って、裏口を探し始めた。
身体が小さくて危ないからと、やたらと部屋の中に閉じ込めておこうとする両親に逆らって、サンジはよく隙間から部屋を抜け出し使用人と遊んだものだ。
特に厨房はお気に入りで、親の目を盗んでは入り浸っていた。
火も扱うし湯もあるしで危ない場所ではあったが、料理人達はサンジを邪魔にすることなくその身の安全を図りながらも好きに過ごさせてくれていた。
だから、裏口から出入りする業者のこともよく見知っている。

幌を被った荷車を牽くラクダが数台、裏門の前で止まった。
門番と言葉を交わしている間に大きな車輪の側に身を潜ませ、ついで身軽な動作で幌を捲くりその中に身体を滑り込ませる。
図体が大きくなったとは言え、何かに紛れて隠れるのは得意なままだと我ながら苦笑した。
そうして身を潜め、小麦袋と一緒に城内に入り込むことに成功した。


城内に入ると同時に荷車から飛び降り、庭木の中に身を隠した。
ノースの王宮とはまた違った建造物ながら、堅ろうな石造りで明かりが少なく死角が多い点はどこも似たようなものだ。
子どもの頃のかくれんぼを思い出しながら、サンジは影の部分を巧みに選んで素早く移動する。
中庭から回廊へと回り込み、王宮の中に足を踏み入れた。

足音を忍ばせながら、石畳を踏んで壁伝いに歩く。
アーチ型の柱に取り付けられた篝火は、頼りなく揺れてサンジの足元を照らし出した。
ストールを目深に被り、早足でただっ広い廊下を通り過ぎる。
どこに行けば誰に会えるのか、皆目見当は付かないが城の構造は大体同じようなものだろう。
王族や護衛隊長はどこに幽閉されているのか、ビビに聞けばよかったと今さらながら後悔する。
もしや地下にと思ったが、ビビが砂の魔王を呼び出して攫わせたのなら、寧ろ塔の天辺にいる可能性もある。

迷って一旦立ち止まったら、曲がり角から男が二人現れた。
咄嗟に俯き、壁に背を付けるようにして道を開けた。
「ご苦労」
「お、お疲れ様っす」
先ほどの、カフェにいた男の口真似をして小さく会釈をする。
ふと、通り過ぎようとした男が一人足を止めた。
「お前は、どこの隊の者だ」
サンジはストールに埋もれるように首を下げて、くぐもった声を出した。
「あの、スパイダーカフェの見張りしてました」
店を出るときにチラリと見た看板には、確かそう書いてあったはずだ。
「街からの志願兵だろ」
気にすることなく先に行こうとした男を引き止め、サンジに声を掛けた男が改めて向き直る。
「俺は末端の兵まで皆、その顔と名前を覚えている。だがお前には見覚えがない」
―――なんだよ、なんで無駄に優秀な野郎なんだ。
思わず舌打ちしたいのを堪え、サンジは恐る恐る顔を上げる。
と、目の前にサングラスを掛けた男がいた。
左目に傷を負い、どこかゾロに似た面差しの男・・・
「コーザ?」
口を付いて出た名前に、男の眉がピクリと動く。
「お前は誰だ、なぜ俺の名前を知っている」
「え、あ、やっぱりコーザなのか」
サンジは顔を隠すのも忘れ、繁々と男の顔に見入った。

背丈は、自分と同じくらいだろうか。
目付きには険があるが顔立ちは整っていて、なかなかの男前だ。
こんな情勢でなかったら、ゾロのようにのほほんとした表情でいられたのかもしれない。
ゾロ―――
今ゾロと会えたら、こんな風に同じ目線で話せるんだろうか。
一体どちらの背が高いんだろう。

「おい」
うっかり思考が逸れてぼうっとしていたら、銃で肩を小突かれた。
はっとして身構える。
「や、俺は別に怪しい者じゃあ・・・」
「見かけない顔の癖に俺の名前を知ってるなんて、充分怪しい」
それはまあ、もっともだ。
コーザの連れの男は、落ち着かない様子で二人の間に割って入った。
「コーザ、もうすぐクロコダイルが戻ってくる。急がないと」
「クロコダイルだと?」
先にサンジが聞き咎めて、コーザに詰め寄った。
「なんだよ、あんたら反乱軍じゃなかったのか。大体、なんで王宮にいるんだよ。コーザはナノハナに向かったんじゃないのか」
「・・・お前」
眉間に皺を寄せ、コーザは銃口をサンジのこめかみに押し当てた。
「一体何者だ」
「俺は旅のもんだ。ここで偶然、巻き込まれただけだよ」
サンジは憮然として言い返す。
「砂漠を旅していたら、魔王に攫われかけたビビちゃんを助けたんだ」
ビビの名を出したら、引鉄に掛けたコーザの指がぴくりと動いた。
撃たれるとの恐れはまったく感じないで、サンジはリラックスして話し続ける。
「ビビちゃんに頼まれてこの街まで送って行った。そしたらビビちゃんはスパイダーズカフェの地下に捕まったよ。どういうことだこれは」
「―――・・・」
無言で睨み付けるコーザとサンジを、連れの男が落ち着きなく見た。
「コーザ、急がないと」
「わかった、お前は先に行っててくれ。俺はこいつを地下に放り込んでくる」
「一人で大丈夫か?」
「問題ない」
サンジの腰に差してあった銃を奪い男に投げて寄越すと、両手を後ろ手にして素早く括った。
無抵抗のサンジを気味悪そうに見つめ、背後から声を掛ける。
「抵抗しないのか?」
「どうせ無駄だろ?」
ここで暴れても、得策ではない。
王宮に潜り込めただけでラッキーと思って、成り行きに任せることにしよう。
身体が大きくなったことで気まで大きくなった訳でもないだろうが、なんとなくコーザには殺気がないように感じた。
「じゃあ、俺は先に行くぞ」
男が駆け足で去っていくのに背を向け、コーザはサンジの肘を掴んで反対方向へと歩き出した。

「ビビちゃんは、お前に助けを求めてた」
「・・・」
「親父さんのトトさんにも会った。トトさんからお前宛にと手紙を預かる口実を貰って、それでビビちゃんと一緒にスパイダーカフェ行ったんだ」
サンジの言葉を無視して前だけを向いて歩き続けるコーザに、一生懸命話し掛けた。
他に人がいないのは好都合だ。
ここでなんとか事情を説明して、説得できれば―――

「なあ、お前は反乱軍のリーダーなんだろ?なんで国王を監禁しているクロコダイルと手え組んでるんだ」
地下へ続く階段を下りていたコーザが、歩きながらきっと振り返った。
「お前はなにを言ってる」
「あんたこそなにを知ってるんだ。ビビちゃんのお父さんは、国王はクロコダイルに監禁されてるんだぞ」
「・・・ふざけるなっ」
戒められたサンジの肘を掴んで、乱暴に壁に引き当てた。
「―――っ!!」
したたかに背中を打ち、思わず息が詰まる。
「この国の人間でもない癖に、いきなり現れて知ったような口を効くな!」
「・・・俺は、直接ビビちゃんからっ・・・」
「ビビがいるはずがない、攫われたのは3ヵ月も前の話だ」
「だから、話せば長くなるってっ」
強くストールを掴まれ、首が絞まって苦しくなった。
後ろ手に括られた両手越しに壁に押し付けられ、背中も肘もどこもかしこも痛い。
「は、なせっ・・・」
コーザは顔を近付けて、サンジの首に巻き付いたままのストールをまじまじと見つめた。
「・・・これは、ビビの」
「だから、ビビちゃんに頼まれて来たんだって、言ってるだろ」
ストールを締める力を緩めると、サンジはその場で蹲りゴホゴホと咳き込んだ。

俯いたサンジの肩を掴み、コーザは無理やり顔を上げさせる。
「どういう手段でそんなもん手に入れたか知らないが、俺は今急いでるんだ」
とっとと歩けと引っ張られるのに、サンジは抵抗することなく寧ろコーザの腕に寄りかかった。
「急いでってクロコダイルに会うのか?国王を監禁し偽物を仕立て上げ、反乱軍だって裏で糸を引くような悪党だぞ」
「なんでお前にそんなことがわかる!?」
「わかるさ、ビビちゃんに直接聞いたんだ」
「嘘を吐け!」
再び激昂したコーザに、サンジも怯みはしなかった。
「俺を疑うのは当然だ、初対面だし寧ろすんなり信用されたらそっちのが心配になる。けどな、ビビちゃんの言葉は疑うなよ」
「・・・なに?」
「ビビちゃんは、アルバーナに来ればなんとかなると思って来たんだ。ここにはお前がいる、お前ならなんとかできると頼って来たんだ。雨が降らないこの状況も、偽国王が国民を騙していることにも心を痛めてる。なんとかしたくて、自ら砂の魔王を呼び出して自分を攫わせた・・・」
「呼び出した?ビビが?」
「順番が逆だっつってんだろ!」
言葉尻だけ捉えるコーザにカッと来て、思わず頭突きしてしまった。
目から火が出るほど頭が痛かったが、コーザだって仰け反って呻いている。
「雨が降らなくなって、国王一家が監禁されて、出るに出られないからビビちゃんが砂の魔王を呼び出して自分を攫わせたんだ。それは昨日のことだ、順番を間違えんな!」
「だが、Mr1は魔王がビビを攫ったからだと・・・」
「あのゴツイ野郎か、俺はそんな奴の言うことなんて信じないぞ。俺はビビちゃんを信じる、お前はどうだ」
額を赤くして睨み付けるサンジに、コーザは臆したように視線を逸らした。
「お前はビビちゃんが、その父親である国王が、民を見捨てて城に籠もるような人間だと思ってんのか。自分の国の王を信じられないのか!」
コーザは一旦俯いてから、きっと顔を上げた。
「それは俺が、この目で確かめる」
「どうやって」
「今から国王に謁見する。クロコダイルがその場を作ってくれた」
「おいおいおいおい」
だからクロコダイルは黒幕で、その国王ってのは偽物だってのに。
「お前、俺の言ったことわかんねえのか!?」
「お前が言うことは支離滅裂だが、一応わかった。全部踏まえて俺が判断する」
コーザは大股で階段を駆け下りると、サンジの肘を掴んで振り回すように檻の中に入れた。
後ろ手に括られたままだから、顔を打たないように中途半端に身体を捻って倒れ、肩を強打する。
「いってえ」
「お前はそこで大人しくしてろ」
コーザは音を立てて檻の錠を下ろすと、鍵を階段脇の柱に掛けてそのまま駆け上った。
「待てよ!もっかい俺んとこ来て話を聞けよ、絶対だぞ」
応えないコーザの背中にそう叫んで、サンジはやれやれとその場で胡坐を掻いた。



地下牢に幽閉されるなど初めての経験だが、さほど居心地が悪いものでもないか。
サンジはじっくりと辺りを見回し、様子を窺った。
地下に牢兵はいないらしく、ガランとしたままだ。
コーザにここまで引っ張ってこられる道中にも、他に人には会わなかった。
よほど手薄になっているのか、クロコダイルが仕切って兵を一箇所に集めているのか。
どちらにしろ、生気のない城だ。
「・・・手入れも、悪いんじゃね?」
独り言を呟いて、檻をカシンと足で蹴った。
じめじめした岩肌は苔むしていて、湿気が多いのか檻の継ぎ目も錆び付いている。
先ほどコーザが鍵を掛けた柱の前には、サンジから押収した銃が無造作に置いてあった。
無用心だなと危ぶみ、もしかしてわざとかと思い至る。
コーザにしてみれば、見慣れない怪しい奴を地下牢にぶち込んだ時点で役目は果たした。
その後、こっちがどうしようがコーザの責任ではない。

「うっし、んじゃご好意に甘えさせてもらおうかね」
サンジは両手を戒められた不自由な体勢のまま立ち上がり、足を振り上げて回転してみた。
バランスを取るのは難しいが、動けないことはない。
小さな身体と違って、じかに感じる風圧は新鮮だった。
我ながら、随分と威力があるように思える。
「力試しだぞ、と」
ととんとその場で軽く飛び、サンジは檻の継ぎ目に向かって大きく足を振り上げた。




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