砂の国と勇敢な王女のおはなし -2-


サンジが目を覚ました時、すでに目覚めていたらしいビビは窓辺に手を掛け一心に祈りを捧げていた。
濃紺から朱へと、鮮やかに色を変える朝日に照らし出された横顔は、凛として美しい。
か弱く可憐な少女なのに、身の内から滲み出る気品は隠しようがなかった。

「おはようビビちゃん」
「おはようございます、コックさん」
サンジが起きた気配に気付いていたのか、声を掛けても驚くことなくにっこりと振り返る。
「さすが砂の国と言うか、朝から日差しがきついね」
昨夜は寒いほどだったのに、朝日が差し込んだ途端、部屋の気温が上昇した。
今日も暑くなるのだろう。

「今は乾季って奴なのかな?」
サンジの言葉に、ビビは微笑みをそのままに首を振った。
その表情に翳が差す。
「この国は、もう2年近く雨が降っていないんです」
「2年も?」
「どんなに干ばつがあっても、年に最低3ヶ月は雨が降る時期が来るんです。けれど一昨年から一度も来ない」
「それは…大変だね」
砂漠で暮らしたことがないサンジにとって、それがどれほど大変なことなのかは想像できないが、それでも由々しき事態であることは理解できた。
「なにか、原因でもあるのかな」
サンジの問いに、ビビは黙って首を振った。
「水神がいねえ」
不意に声がして、サンジの尻の下がぐぐっとせり上がった。
大きな欠伸をしながら、ゾロがもそもそと起き上がる。
「お、起こしてねえのに自分から起きた」
「おはようございます、Mrブシドー」
は?とサンジはゾロの腹巻に捕まって振り返る。
「Mrブシドー?」
「昨日、砂嵐の中から助けてくださった姿は、昔映画で見た武士のようでしたわ」
そう言って、ビビは心持ち頬を染めながら胸の前で手を合わせた。
「私の命の恩人ですもの、敬愛を込めてMrを付けさせてください」
「勝手にしろ」
ゾロはどうでもいいようにボリボリと後ろ頭を掻いて、もう一度くわあと盛大な欠伸をする。

「ふん、まあいいや。んで水神ってなんだ?」
サンジが話を戻せば、ビビも生真面目な表情でゾロを見つめる。
「文字通り水を司る聖獣だ。元から棲んでねえ地域もあるが、ここは違うだろう」
そうきっぱりと言われ、ビビはためらいながらも頷いた。
「はい。その、水神様がいらっしゃるかどうかはわからないんですが、以前ならこの地も毎年雨は降っていました」
「それなのに、今はいないと?」
サンジが後を引き継げば、ゾロはおうと軽く頷いた。
「いないっつうか、出て来れねえんだな」
「どこから」
「下から」
ゾロが指し示す下、つまり床を、ビビとサンジは揃って見下ろした。
「水神様は地面の下にいらっしゃるんですか?」
「出て来れねえってのは閉じ込められたって言うより、封じ込められてる。地下に」
「地下に」
ビビは眉を潜め、痛ましげな顔でもう一度視線を落とした。
そんなビビを気遣いながら、サンジはぽりぽりと指先で頬を掻く。
「ええとビビちゃん、あの、こいつ時々こういう突拍子もない胡散臭い事言うんだけど…」
「はい」
「あながち、的外れでもねえつうか割と当たるって言うか…」
「はい、わかります」
「え?わかるの?」
通常なら、この話の流れではあまりに眉唾物で信頼性がない。
なのに、昨日出会ったばかりの少女は奇想天外なゾロの話をすとんと信じた。
「別に、Mrブシドーを信用のおける人物だから…という理由で信じる訳ではありません。水神様のお話は、幼い頃親に聞いたことがあるのです」
「へえ」
「ですが、それは私の家族の中でしか知られていないことでした。それをMrブシドーが仰ったということは、却って信憑性が増しています」
「へえ、そうなの」
サンジにすれば呆気にとられるだけなのと、それから少々面白くない。
なんだかゾロの株ばかりが上がっている気がするからだ。

「まあいいや、とりあえず朝飯にしようか。それから水神様の件も含めてどうするか決めよう」
「水神様の…どうにかできるのですか?」
「言い出したのはこいつだから、どうにかしてもらうといいんじゃね?」
軽く睨んで話を投げれば、ゾロはいつものように無表情のまま大きく伸びをして見せた。



宿で食事を済ませ、すぐに出発となった。
砂漠を渡るにはラクダが必要で、早速2頭買い求める。
「これから他のものも入用だろうし、少し換金しておこうか」
「すみません、お代はきっとお支払いします」
着の身着のままで飛ばされてきたビビは、現金を持っていなかった。
身に着けた装飾品をサンジに差し出しはしたが、それをこの街では換金しない方がいいと言ってくる。
「もし、まだ現金をお持ちならもう少し大きな街での換金を薦めます。ここではラクダや水と言った命の次に大切なものを必要とする人はたくさんいて、足元を見られるんです」
「ああ、なるほど。深窓の令嬢なのによく知っているね」
「いやですわ、私は商人の娘ですから」
お互いに笑い合いながら、サンジはなんとなく居心地の悪いものを感じていた。
まるで腹の探り合いをしているようだ。

サンジは、ビビはかなり裕福で地位のある貴族の娘だろうと思っている。
水神とやらの話でゾロをすぐに信じたのも、もしかしたらそういう聖獣の類を管理していた神官の家柄なのかもしれない。
それであったら、身元を隠したいと思う気持ちもわからないでもなかった。
ゾロや自分を人攫いと見做していることはないだろうが、やんごとなき立場の者が市井に紛れていては物騒だ。
それにしても―――
ビビが自分を見る目はとても親しげで、ゾロを見る眼差しにはなにか熱いものが秘められている。
この温度差が、正直やっぱり面白くない。

さあ出発と言う時になって、突如空が黒雲に覆われた。
「砂嵐だ!」
叫び声とともに、街中の人たちが建物の中に入る。
先に隊列を組んで砂漠を歩き出していた商人達は、巻き上げられた砂に呑まれあっという間に見えなくなった。
「危ない!」
「早く建物の中に!」
石造りの頑丈な建物の陰に隠れるも、砂礫に晒された壁はビンビンと震えところどころにヒビが入った。
乾燥が強すぎて、すべてが脆くなって来ている。
サンジはゾロの腹巻の中でぎゅっと身を丸めていた。
腹巻越しに背中を覆う、ゾロの掌の熱が頼もしかった。

「…行ったようだな」
耳を劈くような轟音が不意に止み、嘘のように日差しが差し込んだ。
腹巻の中から顔を出し、サンジは恐る恐る辺りを見渡す。
そこだけ緑を湛えていた美しい泉は、跡形もなく泥にまみれていた。
身体を起こしたビビもゾロも砂だらけで、向かいの建物は壁が崩れ瓦礫と化している。
「ひどい…」
ビビは顔を覆っていたショールを外し、頭から脱ぎ去ると足元に小石が散った。
ゾロも乱暴に髪を掻き混ぜ、首を傾けて耳を穿る。
ボロボロと砂が落ちてくるのを、サンジは呆然と見上げていた。
「ひでえな」
「あっ」
ビビが表情を明るくして、叫んだ。
見れば、先に旅立ち砂に埋もれた商人たちがぼこぼこと砂山から抜け出してきている。
「よかった、無事だった」
「今のはまだ、小さい嵐だったのか?」
ゾロの問いに、ビビは涙ぐみながらもええと頷く。
建物の中に避難していた住民達がそろそろと窺うように表に出始め、街の惨状に溜め息を吐いた。

「もう、この街もおしまいだ」
「・・・泉がこんなことになるなんて」
「一体、俺達はどこへ行けばいいんだ」
絶望の呻きを上げる男達の間で、ショールを頭から被った中年の女が吐き捨てるように言った。
「それもこれも、全部コブラ王がだらしないからだよ!」
「おい」
女の亭主か、こちらは気の弱そうな痩せた男が慌ててその肩を抑える。
「だってあんた、あたし達の街もこうやって何度も嵐に見舞われて、結局砂に埋もれちまったじゃないか。どんどん砂漠が広がって、もう住む場所だってありゃしない。水だって」
女の言葉に、他の男達も項垂れて拳を握り締める。
「国がこんなことになってんのに、コブラ王は王宮に引っ込んだきり顔も見せやしない。どうなってんだい?」
「そんなこと、俺に言われても」
「仕方ねえよ、王女が砂の悪魔に浚われたんだ」
「わかってるよ!」
女はとりなそうとした男にも噛み付くように吼えた。
「ビビ王女は、あたし達から見ても大事で可愛くて大切な娘だったよ。浚われて、心配でたまらないよ。でもだからって、王がそんなことでどうするんだい。今、国の危機じゃないか」
「おいお前」
「一国の王が、娘可愛さに政事を放り出すなんて、そんな王だとは思わなかった。見損なったねあたしゃ」
今度は、誰も女を宥めようとはしなかった。
唇を噛み締め、項垂れる男達が握り締めた拳は白くなっている。
誰もが、女と同じように叫び詰りたい気持ちであるのは明白だ。

「ビビちゃん?」
サンジは、凍りついたように立ち尽くしているビビにそっと声を掛けた。
その、ビビにしか聞こえないような小さな囁きではっと我に返り、ぎこちない動きで振り返る。
「あ、コックさん」
「大丈夫?顔色が真っ青だよ」
どんどん強くなっていく日差しの下で、ビビは一人だけ色を失くし今にも倒れそうな表情だ。
「大丈夫よ、少し熱に当てられただけ」
「ねえ、もしかしたら」
サンジは思い切って切り出した。
「さっきあの人達が言っていた、ビビ王女ってビビちゃんのことじゃ・・・」
「違いますよ」
ビビは青褪めた顔色のまま、笑顔を作った。
「私の名前は王女にちなんで付けられたんです。この街には同じ名前の女の子は、たくさんいますから」
そう切り替えされては、それ以上何も言えない。
黙っていたい事情があるのかもしれないし、ここまでバレバレでも断固として否定するならいらぬ詮索は野暮というものだ。
「そうか、わかった」
サンジがそう頷けば、ビビはほっとしたようだ。
そして改めて、隣に黙って突っ立ったままのゾロを振り仰ぐ。
「それじゃあ行きましょうかMrブシドー」
しっかりと手綱を握ったままだったラクダに身軽に飛び乗り、自ら先導する。
「この国の首都、アラバーナへ」



next