空蝉 -5-


星見の夜は懸念していた雨も上がり、雲があるもののまあまあ空は見えていた。
むしろ満月に近く、月明かりが強すぎて天体観測には不向きだそうだ。

「空が明るいなあ。見ろ、あの綺麗な青」
夕方6時を過ぎてもまだ日は暮れていない。
なるべく街の明かりの影響が少ないところでと、緑風舎の駐車場からさらに丘を登った展望台に望遠鏡を据えた。
コビーがせっせとセッティングをしているのを眺めながら、サンジは仰向いてふうと煙草の煙を吐く。
「・・・って、言ってる側から色が変わってく。すげー、早回し見てるみてえ」
先ほどまで抜けるような青空だったのに、いまは薄いオレンジと紫の筋が混じってきていた。
雲ももう真白ではなく、重い灰色に変化している。
すぐに雲の陰すら見えない闇が降りてくるだろう。

「雲が切れっといいのに」
「いえ、雲があってくれた方がいいですよ。月が明るすぎる」
望遠鏡を覗いたまま、コビーはボヤいた。
その隣でヘルメッポがサングラス越しに月を見上げる。
「でけえ月だな。肉眼でもはっきり見えるぜ、ウサギが逆さになってやがる」
「カニじゃねえのか」
ゾロはそう言って、資料を入れたコンテナの上に跨った。
「月の模様はカニとかウサギとか、女の人とか男の人とか諸説ありますからね。見ようによってはなんにでも見える」
「俺にもさかさまのウサギに見えるな。こう耳がぴよ~んと」
サンジは両手を頭の上に揃えて指先をピンと立てた。
その後ろから、タタタタと子どもの軽い足音がいくつも近付いてきた。

「こんばんはー」
「わー!」
「おう、来た来た」
「まだちょっと早いなあ」
「こんばんは」
黄昏色の丘を、幾組かの親子連れが上がってくる。
見下ろす位置の駐車場には、ボチボチと車の灯りが集まって来た。
サンジが再び空を見上げれば、全体がすっかり紫色に染まっている。
二つの星があっちとこっちに離れて、ちかちかと輝いて見えた。

「ちょっと金星覗いてみようか」
来た順番にコビーの隣に並び出した。
こうして星を見るのももう3回目で、来てくれる子ども達は慣れたものだ。
毎年、一つしかない望遠鏡を覗くために、子ども達はずらりと並んで待っていてくれる。
根気強いというか、それだけ楽しみにしてくれているのは単純に凄いなあと思うし、他人事ながら嬉しい。
ゾロもサンジも、特になにか手伝うことなどないが賑やかしで参加していた。
もう少し集まってくれば、勝手に端っこで遊びだす子どもの面倒を見てやろうと思っている。

「いま見てるのは宵の明星・金星です。もう少ししたら沈んじゃうから、今のうちにね」
覗いている間にも少しずつ移動して、望遠鏡からずれる金星を追いかけながら、コビーは優しい語り口で説明する。
人当たりが良くて口調もソフトだから、老若男女問わずに人気者だ。
強面のゾロやスモーカー、癖のあるヘルメッポといった強すぎる個性に埋もれがちだが、気安さで親しまれている。
「あれ、あれなに?光ってる」
「あれあれ」
「あれは飛行機だね」
「あれはー?」
「ああ、あれは人工衛星だね」
「あれはー?」
「あれは飛行機雲」
あちこちから質問が上がって、応えるのも忙しい。
金星はどんどん沈むし、土星がそろそろ見えてくるし、月は明るいし子ども達は好奇心旺盛だしで、コビー一人がてんてこ舞いしている。
側に立つヘルメッポは、そんな光景をバシャバシャデジカメに収めながら進行にはノータッチだ。
「なにか手伝ってやりてえけど、俺望遠鏡わかんねえんだよな」
「素人は触らねえ方がいいだろう」
ゾロは組み立てや解体ぐらいなら手伝えると思っているが、サンジは機械にからきし弱い。
本人も自覚していて、頼まれても絶対に手を貸そうとはしなかった。
そう簡単に壊れるものでもないだろうに、料理以外のことに関しては消極的だ。

「せめて、望遠鏡がもう一台あるといいんですがね。スモーカーさんが扱ってくれれば」
「どっちにしろ、今年はスモーカー無理だろ」
パウリーが流行の手足口病にかかったと言っていたっけか。
「パウちゃんは大丈夫として、たしぎちゃんが気の毒でねえ」
当のパウリーは手と足にほんの少し水泡ができた程度ですこぶる元気だが、うつったたしぎは口内炎が10個以上できたらしい。
現在モノが食べられず、和々も休んでいる。
「あれ以上痩せたら大変だよ、可愛そうに」
「子どもの病気って、親がかかると大変なんだなあ」
「今年はウソップも来られないから、俺にできることがあれば言ってくれよ。できることがあれば、だけど」
「どうも、気持ちだけで充分です」
コビーはレンズから目を離さずに礼を言って、待ちかねた子どもに代わってやる。



「こんばんは」
凛と、闇に響くような涼やかな声がした。
サンジは弾かれたように振り返り、次いでその場で手足をバタつかせて小躍りする。
「ロビンちゃん、いらっしゃい」
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
列を成している20組ほどの親子連れが、振り返って「どなた?」とばかりに首を傾げた。
マキシ丈のドレスを着てカーディガンを羽織ったロビンは、いつものスーツ姿とはまた違い、ゆったりとした雰囲気だ。
「・・・と、変態おじさんこんばんは」
「アウッ!ご挨拶だな」
「あー変なおじちゃんだー」
「変なおじちゃん、こんばんはー」
どうやら、フランキーはシモツキの純朴な子ども達の間でも『変(態)なおじさん』として浸透しているらしい。
サンジは率先して、子ども達にロビンを紹介した。
「この綺麗なお姉さんは、フランキーおじさんのお嫁さんで、ロビンちゃんって言うんだよ」
「えー!」
「およめさんー?」
「えーっ、うそー」
「嘘じゃねえっ」
妙なポージングをして腕を振り上げるフランキーの前で、ロビンは悠然と微笑む。
「こんばんは」
「こんばんはー!」
雰囲気で、「先生」のように思えるのだろうか。
子ども達はどこか憧れを含んだキラキラとした目でロビンを見上げた。
「ロビンちゃん、ほんとに変なおじさんのお嫁さんなの?」
「えー?なんでー?」
子ども達は実に素直で率直だ。
フランキーはフランキーで、そんな非難めいた声に何故か照れている。
「変なおじさんのお嫁さんなの?」
「そんなに褒めるなよ、照れるぜ」

噛み合わない会話を続ける横で、ヘルメッポはコビーから預かったプリントを配っていた。
月以外の明かりがなくほぼ真っ暗だから、それぞれ携帯の光で照らし出している。
「えーと、今年は彗星が見えます。アイソン彗星って言うのが。一番近く見えるのは、11月28日から29日ごろかなあ・・・」
「肉の日か」
「いい肉の日だね」
望遠鏡を見終えた子ども達が暗闇の中を駆け回るのに、ゾロが適当に眼を配っている。
山肌を登り始めた子は、強制的に連れ戻す係だ。

「東の空に見えるから、シモツキだとこっちの方角ですね」
次は土星を見ましょうと言いつつ、望遠鏡をセッティングし直し、尚且つ彗星の説明をするコビーは大忙しだ。
そこに、ロビンがすっと近付いた。
「アイソン彗星が地球に最も近付くのは太陽の方角でもあるから、観測する時は直接太陽を見てしまわないように注意が必要よ」
「なんじごろ?」
「明け方の、4時ごろ」
「はやいー」
「おきれないー」
「ねなきゃいいじゃん」
望遠鏡を覗き終わって退屈していた子ども達が、わらわらとロビンの周りに集まってくる。
「アイソンって、見つけた人の名前?」
「見つけた人のお仕事関係の略称ね」
親も一緒になって、ロビンに質問している。
「あちらの方角、北斗七星があるのがわかるかしら」
ロビンのすんなりとした手が指し示す方角を、皆振り仰いだ。
「柄杓の柄の部分が左上になるわね。そして―――」
コビーはロビンが説明するのに任せて、望遠鏡の調整に専念している。

「なんか・・・いい感じじゃね?」
「そうだな」
少し離れた位置で煙草を吹かすサンジに、ゾロが並び立って眺めた。
「さすがロビンちゃん、博識っぽいと思ったけど星に詳しい女性って素敵だなあ」
「お前、女ならなんでもそう言うだろ」
ゾロの呆れたような突っ込みも意に介さず、でれんでれんと鼻の下を伸ばしている。
「なあ、アイソン彗星って見たいなあ。頑張って早起きすっか」
「11月なら朝学も始まってっしな。見られねえこともねえ」
「8月には流星群もあるってえし、それ見逃すと次はいつなんだろ」
サンジは空を見上げて、ほうとため息を吐いた。
「こんなどでかくて広い宇宙から見たら、俺らの存在なんて地球丸ごとめちゃくちゃちっぽけなんだよなあ」
切なげな声に、ゾロは何をいまさらと言いたげに片眉だけ上げて見せた。
「俺、割と宇宙とか怖いタイプなんだ。だってスケールでかすぎっだろ。俺らがこんな小さな星であくせくしてさ、撒いた種の芽が出ねえとか台風でハウス壊れるとか、明日は晴れたらいいなとか。そんなん些細過ぎて、めっちゃ危うい感じするじゃね?」
「危うい・・・か」
そうかもなと、ゾロもらしくなく感傷めいた声で応える
「彗星の軌道が少しずれただけで天変地異が起こって、星ごとこっぱ微塵ってことになっかもしんねえし。明日のことだってほんとは誰にもわかんねえ」
「だよな」
ふふ・・・と囁くように笑って、サンジはほんの少し顔を近付けた。
「俺が怖いと思うのは、単純に死ぬことじゃねえのかもしんねえ。お前への想いとかさ、みんなへの感謝とかさ、生かされてることの喜びとかさ。そういうものも全部塵になって霧散するってのが、怖えって思う。それこそが“死ぬ”ってことなんだろうけど」
「うん」
「けど、こんな星空を見上げてっと・・・そんなこと怖がってることの方が馬鹿らしくなる」
再び空を見上げるサンジに、つられたようにゾロも仰向いた。
「この広い宇宙でなんもかも一緒くたに混ざり合って。いずれは地球ごとそうなるだろ、何十億万年先のことでも、どこにも永遠なんてもんはない。それがわかってても、でも、やっぱ寂しいって思うんだよな」
「―――・・・」
「いつか、俺もお前も土に還って。地球ごと静かに破裂して消えてもさ。なにもかも混ざり合ってお前と一つになってもさ。やっぱ、俺は俺でお前はお前で。二人でいて、泣いたり笑ったり怒ったり引っ付いたり、そういうのをしていたい。・・・うまく言えねえけど、死んで一つになんかならなくていい。生きてて、お前と二人でいたい」
そこまで言って、照れたように煙草を挟んだ手で鼻先を掻いた。
「・・・なんてな、欲張りな我がままを言いたくなんだよ。こんな、スケールのでかい宇宙見てて、ちっぽけな欲が出る。そして寂しくなって、哀しくなって、泣きたくなんだ。なんか、おかしいな俺」
自分でもなに言ってるかわかんねーと、煙草を揉み消してワシャワシャ髪を掻き混ぜるサンジの頭を、ゾロは手を伸ばして撫でた。
「ちっせえ頭で、ごちゃごちゃ考えてんだなあ・・・」
「・・・お前、思い切り俺を馬鹿にしているな?」
剣呑な眼差しで睨み付けるサンジに、ゾロはいやいやと首を振った。
「俺はそこまで物事を複雑に考えられねえからよ。ただ単純に、これからもこの先も、てめえとこうして星を眺めていたいと思う」
「・・・」
「さしずめ、50数年後のハレー彗星を一緒に見ようぜ」
「は?」
「来んだろ?あと50年ちょいしたら」
もしもーし?
いきなり話が飛んできょとんとするサンジに、ゾロは大真面目な顔で言った。
「やればできっだろ、50年後に一緒に彗星見るくらい」
「・・・それは、まあ・・・物理的に不可能じゃ、ねえかも」
いまから50年後か。
頑張れば生きてない、こともない。
「当面の目標それな。一緒にハレー彗星を見る」
サンジはハハッと肩を揺らした。
「そん時俺ら、80過ぎのジジイだぜ。皺くちゃのヨボヨボだ」
「ヨボヨボ上等。二人でぷるぷる震えながら見てんだよ」
「床机に腰掛けて、夕涼みしながら?」
「おうよ、彗星なんてそっちのけで、半ばボケててもぼーっと見上げてっかもな」
想像しようとして、できなかった。
自分はともかく、皺くちゃでヨボヨボのゾロとか考えも付かない。
けどなんとなく、幾つになってもこうして二人で、並んで空を見上げているかもなと考えただけで嬉しくなった。

明日世界が滅びても、星が砕けても。
50年後を夢見る今日は、何物にも変えがたい宝物だ。

「せいぜい長生きしろよ」
「お前もな」
お互いにそう言って、へらへらと笑いながら空を見上げた。

「あの、黒い部分は月の海で――――」
コビーの説明する声が、静かに夜空に吸い込まれていく。





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