Under the rose -8-



まだ下半身には違和感が残り、腰がだるい。
これから夜中まで仕事だと思うと気が重かったが、忙しく立ち働ければ何も考えずに済むと思い直して街を歩いた。

途中でバイト先から連絡が入った。
急なシフト変更があったため、別のチェーン店に急遽移動して欲しいとのことだ。
サンジ自身、今日のシフトを変更した事情もあったし、電車賃は現金で支給されると聞いたから異存はなく、二つ返事で引き受けて行き先を変える。
指示されたチェーン店は電車を乗り継いで少し離れた場所にあったが、駅近くだからすぐにわかった。
店内の間取りもほぼ同じで、働くのに支障はない。
たまには見慣れない風景を眺めながら働くのも新鮮なものだ。

夕方オープンの店は客もまだ入らず、各テーブルを丁寧に掃除しながらゴミ出しの場所を教えてもらう。
裏口から路地を眺めると、突き当たりに聳え立つ大きなビルが目に入った。
殆どの階がガラス張りで、中央をどんと突き抜けるエレベーターは暗くなり始めた街の中でもそこだけ浮き出すようにやけに目立つ。
こんなビルで働く人ってどんなエリートだろうと、仕事前の一服のつもりで煙草を咥えつつ眺めていたら、上階からエレベーターが降りてきた。
中に二人、男が入っている。
その内の一人に何故か視線が引き付けられて、サンジはぱちりと瞬きをした。

「うそ・・・」
一瞬目を疑ったが、その一人はどう見てもZだ。
昼間サンジを抱いていたZが今、目の前のエレベーターの中にいる。
黒いロングコートを着て、ブリーフケースを提げて。
少し印象が違って見えるから、本物かと目を凝らしてみる。
どうやらふち無しの眼鏡を掛けているらしい。
Zらしき男は、同僚らしい男と談笑しながら広い背を向けた。
サンジの目線にまでゆっくりとエレベーターが下りて、ランプが点る。
開いたドアの向こうにその影が消えてしまってから、サンジは詰めていた息をほうと吐いた。

―――び、びっくりした
昼間にAと話していた矢先、本当に働いているZを目にするなんて思わなかった。
会社員だと聞いていても、やはりなんだかびっくりだ。
別人のように見える。
もしかしたら、よく似た別人なのかもしれない。

エレベータを降りて、やはりガラス張りのフロアに再びZの姿が見える。
軽く手を挙げて同僚と離れてから、今度は別方面からスーツ姿の女性が駆け寄って来た。
差し出したファイルを覗き込んでなにやら指差しながら二言三言答え、にこやかに頷いている。
その笑顔に、サンジは更に衝撃を受けてしまった。
Zが、笑っている。
サンジがついぞ見たこともない、クリアな反応と如才ない笑顔、よどみない口の動き。
どこからどう見ても、至極全うな・・・いやそれより相当格上のイケメンリーマン。

女性はZの前で畏まって、何度も何度も頭を下げた。
Zはその女性にも軽く手を挙げて、実に爽やかな笑顔残したまま踵を返した。
その背中を見送ってから、ファイルを胸に抱くようにして女性が振り返る。
遠目からでも「憧れのZさんに教えて貰っちゃったv」なんて吹き出しが見えそうな表情だ。
薄暗い路地からその光景を眺めて、サンジはろくに吸わないまま煙草を揉み消した。

「ふうん」
声に出して呟いてから、一人で首を振る。
うっかりZのプライベートを垣間見てしまったけれど、自分には関係ない。
なんせ人には言えない商売上の関わりしかないし、道で偶然擦れ違ったりしたとしてもお互い挨拶なんて絶対しない間柄だ。
むしろサンジに見られたことで、普通の生活を送るZは不利になるかもしれない。
ふと、そんな邪な考えが頭を過ぎって、慌てて否定した。
身を削るのは厭わないが、誰かを脅して金を巻き上げるなんてそんな真似はしたくない。
そもそもZは、サンジに私生活を知られたって歯牙にもかけないだろう。
気にするだけ無駄だと結論付けて、サンジはさっさと仕事に戻った。








遠方だからと、終電に間に合うよう仕事を早めに切り上げてくれたお陰で、その日の内に帰ることが出来た。
人もまばらな電車の座席に座り、ブルゾンのポケットに手を突っ込んで背中を丸める。
さすがに今日は、少し疲れた。
朝からハードな肉体労働だったしAとの会話もなんか気疲れしたし、偶然にもZの意外な一面を覗いてしまったし仕事は忙しかったしでクタクタだ。
しかもやっぱり腰がだるくて、ぶっちゃけケツがじんじんする。
―――早く帰ってシャワーして寝よう
下半身の不快感を抱いたまま、電車に揺られていつの間にかウトウトとし始めた。



どこかで見たことのある部屋だと考えていたら、初めて撮影したビジネスホテルだと気が付いた。
少し固めのベッドのスプリングが跳ねる。
隣にZが腰掛けたせいだ。
なんでそんなにぴったりと身体を引っ付いて来るんだと、少し腰をずらしたら追いかけるように更に身体を寄せて来た。
何か違和感を覚えて顔を上げてまじまじと見たら、なぜか眼鏡を掛けていた。
それに、いつもの仏頂面じゃない。
柔らかな表情で、口元を綻ばせてさえいる。
「気味が悪いな」
思った通りを口にしたのに、Zはニコニコしながら寄り添って股間を撫でてきた。
もう本番始まってるのかと、辺りを見回しても誰もいない。
AもLも、カメラの一つなくて、部屋にはZと二人きりで。
ならそんなのする必要ねえのにと思うのに、Zは構わず勝手に前を寛げて手を差し込んで来た。
やめろよと押し返す腕に力が入らない。
やわやわと宥められるように揉まれて、勝手にそこが兆してしまう。
カメラが回ってないのに。
金にならない行為なのに。
ただ単純に気持ちいいかもと思いかけて、やっぱり駄目だと強くその手を払った。
意外なくらいあっさりと、差し込まれていた手が離れる。
カクンと身体が揺れて、Zの肩に肩が当たった。
Zは立ち上がり、またその勢いで硬いスプリングが揺れる。


はっと気が付けば、コート姿のおっさんが早足で電車を降りていった。
まだ傍らに温もりが残っていて、まるですぐ隣におっさんが座っていたような雰囲気だ。
車内には、もう誰もいない。
あれ?と寝起きの状態で身動ぎしたら、やけに前がスースーするのに気付いた。
「げ」
いつの間にかシャツが引き上げられてズボンのベルトが外されていた。
ジッパーまで下げられて、下着どころか陰毛まで丸見えになっている。
「うわわ」
慌てて前を仕舞い、ブルゾンを掻き合わせて己の身体を抱いた。
一体何が起こったのか、さっぱりわからない。

―――もしかして、痴漢?
まさか寝惚けて、自分で広げた訳じゃないだろう。
夢の中ではZだったが、もしかしたらさっき降りたおっさんが痴漢だったのかもしれない。
そうでなければ、こんなに空いている車内でわざわざ隣に腰掛けたりなんかしないはずだ。
「うわー・・・最悪」
途端に気持ち悪くなって、サンジは口元を手で覆って呻いた。
寝惚けていたから、夢だと思っていたからZの手に反応を示してしまったじゃないか。
つか、Zだからって訳じゃねえのに。
大体なんで夢の中でも、Zならいいかとか思うんだよ俺!

うがあ!と一人喚きそうになって、頭を抱えた。
ともかく、今気が付いてよかった。
このまま前丸出しでがーがー寝こけていたら、今度は俺が変態だよこの野郎!
自分の頭をぽかぽか殴っていたら、タイミングよく降りる駅へと差し掛かる。
世の中にはなんでこんなに変態が多いんだよと毒づいて、サンジは振り切るように勢いよく電車の中から飛び出した。









「電車で痴漢体験」なるものをしてしまったせいか、その後少々、神経質になったようだ。
バイト先でも誰かの視線を感じる気がしたり、夜帰る時に後を尾けられているような気配を感じたり。
ちょっと自意識過剰かなと思うけれどなんとなく気持ち悪くて、なるべく人がいる場所を選んで行動した。

Aから連絡がないからか、やや落ち着かない日々を送っている。
連絡があるということは、あの思い出すもおぞましいDVD第2弾が発売されたか、もしくは次の仕事に関することになるだろうからなるべく日延びした方がいい。
けれど何も連絡がないとそれはそれで不安で、気もそぞろになるのだ。

バイトの合間に一服しながら、何気なく携帯を眺めていたら急に震動して慌てて取り落としそうになる。
画面に「ウソップ」の文字を見て、サンジは顔を引き締めた。

「はい、もしもし」
「おう、今いいか?」
かすかなノイズを伴って、唯一の友の声が届いた。
「構わねえよ、休憩中だ」
サンジは宙に向かってふうと煙を吐いた。
外からの喧騒を少しでも遮ろうと日陰に入る。
「元気か?」
「まあな、そっちはどうだ」
「おう、一進一退ってとこかな」
ウソップの声に少し翳りが見える。
悪くはないが、よくもないのだろう。
「で、なんの用だ」
やや邪険に返したら、向こうで苦笑するのがわかった。
「用がなきゃ、掛けちゃいけないのか」
「バカ野郎、用もないのに声が聞きたいってのは、可愛い女の子にしか許されない台詞だぜ」
相変わらずだなと、ウソップが笑う。
「や、仕事順調かなと思って」
「あたぼうよ、クソ田舎の小せえ店だぜ。勤まらなくてどうすんだって感じ」
サンジはフェンスに手を掛けて、笑いながら身体を揺らした。
「バラティエには、知らせてねえのか」
「今更どの面下げて言えるかっての、てめえもぜってえ知らせるなよ。言ったらオロす」
「わかってるよ」
ウソップが携帯の向こうでぶるぶると首を振ったのがわかった。
「そう言うのはお前から言うべきことだ。俺が口出すこっちゃねえ」
「わかってんじゃねえか」
尊大にそう言い放ち、言葉とは裏腹に悲しげに顔を歪めた。
「すんげえ田舎だけどさ。人は素朴だしのんびりしてっし、俺の性に合いそうだ」
「そうか」
「可愛いレディもいるしよ。平均年齢65歳だけど」
「そうか」
「だから、元気にやってる」
「わかった」
ならいいと、話を切り上げそうなウソップに、サンジは慌てて言葉を継いだ。
「ところでよ、いつ頃行けそうだ?」
「ん、ああ」
一旦言葉を切ってそうだなと独り呟いている。
「カヤの体力次第ってとこだ。金の方はちょっと目処がついたみたいで・・・なんか、メリーさんが言ってたんだけど、すげえ寄付貰ったんだって。だから手続きは順調に行ってる」
「そうか、そりゃ奇特な人がいたもんだ」
「うん、ありがてえ」
すん、とウソップが鼻を啜った。
「ただ礼状出したいんだけど、相手がわからないって困ってた。差出人の団体名で調べても該当ないらしくて、ほんとに貰ってもいいもんかどうか・・・」
「バカ野郎、んなこと言ってる場合じゃねえだろうに。今はとにかくカヤちゃんのことを一番に考えてやるべきじゃねえか。くれるってもん貰っときゃいいんだよ」
「・・・だよなあ。じいさんも大変だし」
「じじいは・・・」
「まだ、意識が戻らねえよ」
「そうか」
一瞬、沈鬱な空気が流れた。
それを振り払うように、ウソップは明るい声を出す。
「でもな、容態は安定してんだ。なんせ心臓が強いおっさんらしくて」
「おうよ、あんなの殺したって死なねえよ」
「だよな、お前が言うとおり頑健なじいさんだ。だからきっと大丈夫だ、何もかも上手くいく」
「そうだな」
サンジはふと画面を見た。
電池が残り少なくなっている。
「ウソップ悪い、携帯の電池切れそうだ」
「ああこっちこそ悪い、仕事中に邪魔したな」
「おう、じゃあな」
「元気でな」

通話を切って、短くなった煙草を揉み消した。
まもなく休憩時間も終わる。
寂れた田舎じゃないけれど、平均年齢65歳のレディ達に囲まれていることにウソはない。

「うし、頑張るか」
声に出して呟いて、サンジは缶詰工場の流れ作業に戻っていった。






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