Under the rose -17-




それでも、誰かのために料理を作ったことはいい刺激になったのか、自分のためだけでも少しずつきちんと食事を摂る習慣がついた。
このままみっともなく痩せ細って、唯一の仕事の口を失うのも怖い。
その思いから、規則正しい食生活だけは心がけるようにしている。

手近なコンビニで買い物を済ませられる性分でもなく、慣れてくると少し足を伸ばしてスーパーの値引き時間を狙って外出した。
時間だけはたっぷりとあるし、ぶらぶらと街を歩くのは余計なことを考えないで済むから気が楽だ。
次の仕事でZとはお別れだってことも、よく考えたらそれほどダメージを受けることでもないだろう。
だって最初から、仕事で寝ただけのことだから。
Zも自分も、この関係に心を残す理由なんてないのだから。

唯一つの気がかりと言えば、Zの彼女のことだろうか。
本当に、目の覚めるような美女だった。
あんな美しい人を愛さないなんて、そんなことがある筈がない。
サンジにしたら信じられないことなのだけれど、人によって愛の形も感じ方も違ってくるということは、経験上よく知り尽くしたことでもある。





物心ついた時から、サンジには母親しかいなかった。
子どもの目から見ても美しい人だったがとても気まぐれで、その愛情表現の落差に何度も翻弄されたものだ。
時にはぎゅっと抱き締めて、愛しているわと囁き続け頬や額にキスを繰り返し施してくれる。
かと思えば行き先も告げぬままふらりと家を出て、そのまま何日も帰ってこないこともしばしばあった。
幼い頃からそれを繰り返されてきたサンジは、母親と言うのはそういうものだと信じて疑わなかったし、特別寂しいとも悲しいとも思わなかった。
腹を空かしたまま眠ることにも慣れて、一人で目覚めることも普通のことだと思っていた。
それだけに、母親が帰ってきてくれた時はそれだけでとても幸福だったから、連れ帰ったのがどんな男でもニコニコと愛想を振りまいて出迎えた。
酒に酔った男に怒鳴られ殴られても、それが辛いことだとは思わなかった。
それよりも、目覚めたときに誰の姿もないことの方がサンジには堪えた。
次はいつ帰ってくるのか。
帰ってきてくれるのか。
それだけを考えてただひたすらじっと一人で待ち続ける日々はあまりに長く、母親が愛しているわと囁き抱き締めてくれる時はあまりに短かった。
人の気配がしないと連絡を受けて管理人が渋々鍵を開けたとき、サンジは骨と皮ばかりに痩せ細って部屋の隅に転がっていた。
いつから母親が帰って来なくなったのか、サンジ自身覚えていないし、思い出すこともない。





到着のアナウンスが耳に届いて、サンジははっとして目を開けた。
少しまどろんでいたらしい。
電車はほぼ満員で、手すりに持たれてぼんやり外を眺めていたはずが、いつの間にか眠っていたようだ。
暗くなった車窓に映る人混みの中に、平凡すぎる己の姿を見つける。
サンジと同じようにマスクで顔を覆った人も珍しくないから、完全防備な姿も浮いてはいない。
夜の公園で襲われてからしばらくは外出が怖かったが、一人の部屋でただ漫然と過ごす日々は否応なしに幼い頃を思い起こさせた。
以来、日が高い内に気晴らしに出かけては、当てもなく歩き回っている。

いつも降りる駅で下車し、いつものコースを辿った。
当てもないと言いながら、この道だけはほとんど毎日通っている。
昔一度だけ来た、バイト先の居酒屋。
その隣にあるファーストフード店の2階で、外の景色を眺めながらハンバーガーにかぶりつく。
正面には、ガラス張りの高層ビル。


殆どストーカーじゃないかと、何度も自分で突っ込んだ。
ただの仕事相手だけだったのに、もうすぐ知らない者同士として無関係になるしかない間柄なのに―――
会いたいと、強くそう願ってしまった自分がいる。
Aが部屋を後にしてから、サンジは乱れた気持ちを整理するためにずっと考えていた。
自分がすべきことは、金を稼ぐこと。
なら自分が今、一番したいことはなんなのか。
正直な気持ちで考えたら、答えは一つしかなかった。

―――Zに、会いたい
あの顔を、その姿を見たい。
ただそれだけの理由で、唯一の手がかりであるこの場所に来てしまう。
けれどあれ以来、Zの姿を見かけることはなかった。

実際、あの日目にしたのはただの偶然で、Zにとってこの会社はいくつもある取引先の一つに過ぎないのかも知れない。
たまたま知り合いの会社に寄っただけなのかもしれない。
また再びここで会えるなんて保証もないのに、ついここに足が向いてしまう。
どこかでZの背中が見えないか。
横顔だけでも見かける事はできないか。
Zを見かけたからと言って、声を掛けるつもりも話をするつもりも毛頭ない。
ただ、見たかった。
スタジオの中のZではなく、普通に仕事をして普通に暮らしている、素の表情のZを見たかった。
祝日になれば、イヤでも会えるのに。
それが最後とわかっていても、あの腕に抱かれることができるのに。

―――これじゃあまるで、恋をしているみたいだ
サンジは一人で苦笑して、シェイクを一息に飲み干した。
馬鹿らしいとか女々しいとか、そんなことは自分でよくわかっている。
それでも、こんな風に時間を潰すことに抵抗感はなかった。
他に何かをする術もなくそんな権利もすでにない。
自己満足に浸る姿を指差して嗤う誰かがいる訳でもない。

遠目にもわかる、Zではないサラリーマンの背中が自動ドアの向こうへと消えて行くのを見送ってからゆっくりと立ち上がった。
今日の張り込みはこれで終わり。
心の中でそう嘯いて、トレイを返却場所に置く。
帽子を目深に被り、マフラーで口元までグルグル巻きにして(マスクは伊達眼鏡を曇らせるから不便だ)店の外に出た。
冷たい風が頬を撫でたから、ポケットに手を突っ込んだまま首を竦ませる。
行き交う人々がみんな猫背で早足だった理由が、よくわかるというものだ。
サンジ自身も前傾姿勢になって、前をろくに見ずに駅までの道を真っ直ぐに歩く。

アーケードの下を潜り抜けて点字ブロックの形を目で追っていたら、前から近付いてくる黒のロングコートの影に気付いた。
はっとして足を止め、そのままさり気なく方向を変えて構内の柱の影に隠れる。
顔を上げて確認した訳でもないのに、それがZだとどうしてわかったのか自分でも不思議だった。

バクバク鳴り出した心臓の辺りを片手で押さえ、そっと窺い見ればまさしくZで、しかもあの時の女性とまた一緒だった。
時刻は8時を過ぎた辺り。
一旦会社に戻って用件を済ませ、それからデートと言ったところだろうか。
Aはどこぞの社長令嬢と言っていたけれど、なるほど確かに抜群のスタイルと容姿に加え、服装も高級そうなものをさり気なく着こなしている。
華やかだが派手ではなく物腰にも品がある。
何よりZを見詰める瞳がキラキラと輝いていて眩しいくらいだ。

―――恋してるんだな
先ほどまで自分の胸を甘く満たしていた想いと被って、途端に激しい自己嫌悪に襲われた。
彼女こそが真っ当な存在で、それに比べてなんて自分は薄汚いのか。
金を目当てに仕事を選び身体から快楽を覚えた挙句、あまつさえその相手に恋をした。
こんな風に影から覗く行為だけで、幸福に輝いている彼女を汚してしまいそうだ。

サンジは二人から顔を背け、柱にぴったりと背中を付けた。
耳に痛いほどに鼓動が鳴り響いている。
このまま背後の二人が通り過ぎてくれるのを待っているのに、カツンとヒールの音を立てて女性が立ち止った。
「ごめんなさい、携帯が」
一言詫びを入れて、柱を挟んでサンジがいる場所の反対側に立った。
その手前でZが立ち止まっている。

サンジは内心焦りながら、ますます身体を縮込ませて息を詰めた。
見つかったらまずい。
帽子も被っているしマフラーも巻いているし眼鏡だってかけているから、万が一Zに見られても気付かれない
かもしれないが、それでもやはり見つかりたくない。
よしんばバレても、偶然だと言えば理由が立つだろうか。
けど、以前似たような場所でZとは顔を合わせているし、待ち伏せしていたと思われる方が自然だ。


「・・・ええ、そう。今ロロノアさんと一緒なの」
女性の艶やかな声が、サンジの耳を打った。
本当に、聞いてて泣きたくなるくらい嬉しそうな声音だ。
こんなにZに首っ丈なのに、本当は愛してないなんていうのだろうか。
不意に、Aの言葉が頭に浮かんできた。
―――Zは誰も愛さない
嘘だ、とサンジは声に出さずに呟いて、小さく頭を振った。
こんな綺麗な女性に愛されて、Zが愛さない訳ないじゃないか。
そうじゃなきゃ、酷すぎる。
こんなにも彼女はZのことを愛しているのに。

急激に、サンジの中で正体不明の怒りが沸々と湧いて出た。
奏者だろうがSexの達人だろうが、気持ちが入ってないSexで人を誑し込むなんて最低だ。
しかも愛してるふりをして結婚して、出世を企むなんて。
もしこの人が、本当はZに愛されてないと気付いたらどうなるんだろう。
それと気付かせないように、Zはうまく立ち振る舞うんだろうか。
これから長い年月を彼女はその嘘を見抜けずに幸福なまま、生きていけるんだろうか。
愛のない結婚で、彼女は幸せになれるのか?

サンジの脳裡に、幼い頃の原風景が蘇った。
今ならわかる、愛欲だけに繋がれた母親の姿。
本当に相手を想いやる気持ちがそこにあったなら、母はあれほどまで奔放に愛情を求めて彷徨うことはなかっただろう。

サンジは無意識の内に帽子に手を掛けていた。
掌で握り締めるように脱いで、眼鏡も外す。
すべてポケットに突っ込んでマフラーを襟元まで下げた。
今この顔を女性に見せて、笑顔でZに話し掛けたら2人はどうするだろう。
Zは、また能面のような無表情で冷たく俺を見返すだろうか。
彼女は・・・女性は勘がいいから、俺の存在の何かに気付くだろう。
なんせ彼女とは以前にも会っている。
あの時はZが道を訊かれたからと誤魔化したけれど、今度は一体どんな誤魔化し方をするだろうか。

暗い企みが、サンジの胸を支配した。
Z一人だけをこのまま幸福にするなんて許せない。
誰一人愛さないで、愛されるだけで安穏な地位を得ようとするなんて許せない。
俺の存在を明かして、できることならあのDVDを彼女の元に送りつけて、Zは本当はこんな人間なんだと知らしめてやりたい。
あいつの本性を暴けるのは、俺だけなんだから。

ドクンドクンと、耳にうるさいほど心臓が高鳴った。
耳を欹てている間にも、女性が会話を打ち切ろうとしているのがわかる。
今ならできる。
俺が「捨てないで」とかなんとか叫んでZに飛びついたら・・・
どうなるだろう、どうするだろう。
それをする権利が、俺にはあるんじゃないか。



「ええ、それじゃあね」
カチリと携帯を畳む音がして、ヒールが鳴った。
「ごめんなさい、長いことお待たせして」
「構わないよ」
聞いたこともない、Zの優しい言葉がサンジの背中越しに響いてくる。
今なら、今こそ―――
そう思うのに、サンジの足はピクリとも動かなかった。

2人の気配が、少しずつ遠ざかっていく。
その姿を見ていないのに、頭の中で容易に想像できた。
Zはきっと女性の背中を抱いて、女性はZに凭れかかるようにして。
冷たい風の中を寄り添いながら歩いているのだろう。
幸福な恋人達。
もうすぐ結婚を控えた、婚約中のカップル。


サンジは顎を上げ、あえぐ様にして詰めていた息を吐き出した。
白い息が頬の辺りを撫でて風の中に溶けていく。
行ってしまった。
何も知らず、あの女性は立ち去ってしまった。



ポケットの中が振動して、サンジはビクリと肩を震わせた。
携帯が鳴っている。
指の先までかじかんで、うまく取り出せない。
震える手で抱き込むように取り出したら、画面には「ウソップ」の文字があった。
「…はい」
「サンジ!」
ウソップの切羽詰った声に、思わずその場で身構える。
「気が付いた、オーナーの意識が戻ったって今、連絡があったぞ」
「―――!」
膝の力が抜けて、その場でしゃがみこんだ。
おい聞いてるかと、耳元で喚いているはずのウソップの声が遠く聞こえる。

「カヤに連絡があったって、まだ話はできねえけど容態は落ち着いたって・・・パティ達も病院に駆けつけてお祭り騒ぎだってよ」
「・・・」
「サンジ、おいサンジ?」
「わ―――」
わかってると答えたいのに、言葉にならなかった。
吐く息すべてがおかしな音になって口から漏れ出てしまう。
サンジは柱の隅にうずくまったまま、人目を憚らず声を上げて泣き出した。






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