「ちょっとだけよ?」−1



 カチリと巻き貝の殻頂を押すと、軽妙な音楽が流れ出す。空島で手に入れた《トーンダイヤル》だ。

 空島から青海に戻って最初に立ち寄った島では音楽演奏が盛んで、何処の街角でも流しの演奏家や歌手がいたから、ウソップが気を利かせて色んな曲をダイヤルに記録してくれた。夜遅くまでキッチンに籠もり、一人きりで洗い物や食事の仕込みをこなすサンジが少しでも淋しくないようにと、気を利かせてくれたらしい。

 実際、このダイヤルはサンジの心の支えになってくれた。おそらくは、ウソップが思う以上に。

 シャボンディ諸島でバーソロミュー・くまに悪魔の実の能力を使われ、仲間達が四散した後も、胸ポケットにしまっていたこのダイヤルは毎日のように奏でられて、繰り返しサンジの心を癒やしてくれた。カチカチと殻頂を押すと回数に合わせて曲が頭出しできる、なかなかの高性能ダイヤルだ。

 おぞましいカマバッカ王国で逃げ惑い、あるいは闘う日々の中、どれほどこのダイヤルに慰められたことだろう?耳に馴染む曲調が心に染みて、何度も涙を流した。懐かしいGM号で…あるいはTS号で過ごした時間が曲と共に蘇ってくるからだ。

 ただ、この中に一つだけ感じの違う曲が入っていた。
 ウソップが遊び心で入れたのか、やけに艶っぽいその響きはストリップ小屋で流れるような代物だった。

 オカマばかりの地獄でこっそりその曲を聴きながら、淫靡な妄想に耽るのがサンジに残された唯一の愉しみだった。ただ…その妄想の内容を人に話して聞かせることは出来ない。絶対。

『俺ァ…あの島に毒されちまったのかも知れねェ』

 我に返るといつも後悔ばかりしていた。淫靡なポーズを取ってストリップしながら踊る美女の姿を思い浮かべていても、何故か気が付くと、サンジは砂被り席からステージ上へと移動していた。

『あの目がいけねェんだよ』

 くしゃくしゃと頭髪を掻きむしりながら毒づく。興奮すると辺縁に金環が掛かる不思議な瞳は、仲間であったロロノア・ゾロのものだ。彼にはそんなつもりなど毛頭無かったのだろうけど、時折そういう目をしていたゾロを思い浮かべると、サンジの下腹にはズゥンと響くような、重くて甘い感覚が生じた。

 鷹の目のミホークに袈裟懸けされる姿を目の当たりにしてからというもの、サンジの心に食い込んでしまったあの男の姿が、離ればなれになってからは一層強く思い起こされるようになっていた。
 思い出すだけならまだ良いが、淫靡なメロディと共に浮かび上がるのは何故かサンジ自身の痴態だった。あられもない姿で踊りながらゾロを誘う…そんな妄想をしてしまうのは、間違いなくカマバッカ王国に生息する奇態なオカマどもの悪影響だ。

 下手に綺麗なニューカマーがいたりしたせいで、彼らが強制的に見せつけるストリップショーは、相手がオカマだと分かっていてもつい目を遣りそうになってしまうほどに蠱惑的だった。

 《あたし達はこうして男を誘うのよ》
 《サンジきゅん…君も目覚めてみない?ニューカマーワールドに!》

 《嫌だイヤだ厭だ!》と抵抗しても、サブリミナル効果のように食い込んで来る映像は、次第にサンジを浸食していった。

 ナミやロビン、その他リアル女性が傍にいたときには《こんな素敵な女の子達がいるっていうのに、この俺があんなマリモに心惹かれるはずがねェ》と言い聞かせることが出来ていたけれど、カマバッカ王国ではそれが出来なかった。あの国ではオカマが男に惚れるのは《当然》のこと。男の気を引きたくて痴態を見せつけるのも《当たり前》だった。
 押し殺していた心を解放して、何度《ロロノア・ゾロが好きだ》と叫びそうになったことだろう。

 眠っているときなどは特に酷かった。夜ごと淫夢に取り込まれたサンジは、あられもない姿でゾロを誘い、シャツをはだけて銀色のポールに縋りついた。柔らかい身体を限界まで反らせて白い喉と胸元を晒し、かぶりつきの席から身を乗り出して凝視しているゾロへと痴態を見せつける。

 《見てくれよ、ゾロ》…脚を限界まで広げて濡れ始めた花茎を見せつければ、ゾロの太い喉がゴクリと音を立てて上下する。《あぁゾロ、俺を見て興奮してんのか?獣みてェな目が金色にギラギラと光って、綺麗だァ…》至福の笑みを浮かべて花茎を擦りあげ、達した瞬間に目が醒めると、天国から地獄へと叩き落とされる。
その繰り返しだった。
 
『だが…その地獄とも今日でおさらばだ…っ!』

 2年間の修行を終えて、サンジはいよいよシャボンディ諸島に降り立つ。
 ここには美しく若き女性達が笑いさざめいていて、オカマ世界で歪みかけたサンジの心を矯正してくれる…筈だった。



*  *  * 



 2年ぶりに再会したコックは、相変わらず怒りっぽかった。

 折角ゾロが良い食材を仕入れてやりたくて《魚釣りがしたい》と主張していたにもかかわらず、《てめェをほっとくとスグ迷子になるし、直に全員集まるから黙って俺と船に来い》と言い張って行かせてくれない。
 それでいて、面白そうな食材を見つけるとヒョイヒョイ買ってしまって、ボンバックに入れてふわふわと揺らしている。ビシリとブラックスーツで決めているくせに、子どもみたいに瞳を輝かせて買い物をしたり、大きな風船みたいなボンバックを手に持つ姿は何というか…ゾロを困らせる。

『クソ…。2年も経ったってのに、なんだってこいつは可愛いままなんだ?』

 あんまり腹が立ったので、ちいさなことに引っかかっては言い争いなどしてしまった。それはそれで、コックも本気になって大人げなく怒ったから、《相変わらず》なことを再認識して楽しかったのだけど。

『離れてる2年の間に、忘れられると思ったんだがな…』

 どうやら無理だったらしい。眉毛の巻き具合が左右非対称だったこととか、顎髭が濃くなったくらいのことではこの男を好きだという気持ちを失うことは出来なかったようだ。見ていると腹が立つくらいにドキドキしてきて、油断すると抱きしめたくなる。

 仲間意識を越えた感情をコックに向けていると自覚したのは、スリラー・バークでの一件によってだと思う。自分だって夢を持っているくせに、コックはゾロが野望を叶えることを望んだ。仲間の誰の為であってもコックは同じ事をしようとしただろうけれども、ゾロは自分の為に命を捨てようとするコックが愛おしくて…同時に、自ら命を失おうとしたことが憎くて、想いを自覚するしかなかった。

 《俺ァ…この男に、惚れてんだ》

 だが、想いを告げることは叶わなかった。
 コックは一見すると今まで通りの様子だったが、どこかスリラー・バーク以前よりも当たりが柔らかくなっていた。戦闘時にはさり気なく庇いの位置に入ったりする。身体が万全でないゾロのことを思いやっているのだと理解すると、意地でも告白出来なくなった。《気が弱っているせいだろう》なんて思われた日には死にたくなるからだ。

 そうこうする間にシャボンディ諸島からシッケアール王国跡地に飛ばされ、2年の修行生活を送る間に、告白出来なくて良かったのではないかと思うようになった。

 なにしろ相手は稀代の女好きだ。決してゾロを受け入れることはないだろう。海賊としては幾分華奢な体格や、繊細な顔立ちであることを人一倍気にもしていたから、下手すると《俺をレディ扱いする気か》と激怒して、同じ船に乗るには支障があるほど険悪な間柄になってしまうかも知れない。
 それくらいならば想いが自然に失われていくのを待った方が良い。修行をする間にも、きっと面影も薄れていくだろう。

 …と、思ったのだが…。

『やっぱり駄目だ。クソっ!』

 店先で交渉していたら、首尾良くおまけをして貰えたらしい。掛け値なしの良い笑顔でニカっと笑うと、コックの周囲だけ金色に光って見えた。
 フラッシュでも焚いているのかこの野郎。

「おい、ゾロ。ここの裏路地を突っ切ると近道になるらしいぜ。離れずについて来いよ?なんなら、酒瓶を入れたボンバックにしがみついとけ」
「ガキじゃあるめェし」
「ガキの方が素直なだけマシだ!大体、三つの子どもだっててめェほど激しく道に迷ったりはしねェよっ!!」
「んだとォっ!」

 キィン…っ…

 喧嘩しながら裏路地を歩いていたら突然、高調性の耳鳴りが響いた。

「な…んだ!?」
「油断すんな。なんかいやがる…っ!」
「分かってらァっ!」

 察せられた気配に、ぴくんとゾロの細い眉が跳ね上がる。

「…これは……」
 
 ここ2年間で馴染みはしたものの、相変わらず首筋の毛が立ち上がるほど慄然とさせられるこの気は、大剣豪ジュラキュール・ミホークのものだった。

「鷹の目、あんた…ナニをやってる?」
「ほう、気付いたか」

 昼間だというのに気付いたら辺りはやけに暗くなっていて、ゾロとコックの両脇にあったはずの汚れた煉瓦壁もない。いや、地面すら混沌とした色合いになって、二人の感覚を狂わせようとしている。

 コックがじりり…と、さり気ない動作でゾロの背後に回り込もうとする。ゾロの陰に隠れたい等というのでは勿論なく、背中合わせに闘う気なのだ。何処から攻撃が加えられるか分からない乱戦の時や、伏兵が控えているかも知れない戦闘の時には、コックは必ずゾロの背後に回る。
 口に出して言ったことはないが、それは《背中の傷は剣士の恥》という言葉を強く受け止めていて、護ろうとしているのだと思う。

 誰かに護られるような背中では意味がないとは思いつつも、ゾロがコックの行動を止めさせようとしないのは、何だかんだ言ってその真心が嬉しいせいだ。口で言うほど嫌われてはいないのだと、こういうときには胸が苦しくなるくらいに感じる。

 しかし、ミホークの無感情な声が二人の間を劈いた。

「無益」
「く…っ!」

 コックの痩身がびくりと震える。《ビリッ!》という高調音が響いたから、電気のようなものに弾かれたらしい。軽く火傷でもしたのか、背中に手を回していた。

「なんかてめェとの間に障壁を張られたらしい。おい、マリモ。こっちに背中寄せるなよ?こんな馬鹿なことで疵を作ってちゃしょうがない」
「分かった。おい…鷹の目、姿を現せ。今回は何の暇つぶしだ?」

 そう。ミホークが本気で二人を害するつもりでこんな手出しをしてくるはずがない。大方、ゾロという絶好の暇つぶし相手が居なくなったことで臍を曲げているのだ。

 最初は《静かに独り身の生活を愉しんでいたというのに、迷惑なことだ》等と零して憮然たる態度を貫いていたミホークも、2年の間に存外ゾロに修行をつけることや、喧しいが性根は優しいところもあるホロホロ女の相手をすることに、ある種の楽しみを見つけていたらしい。《そろそろシャボンディに戻る》とゾロが言いだしたときには、《まだこの俺を越えていないではないか》と引き留めたくらいだ。

 ゾロは森の中に一人で放り出されてグルグル彷徨うハメになり、ホロホロ女が手引きしてくれなければ一味の集結に間に合わないところだった。結果としてこっそり抜け出す形になってしまったから、ミホークとしてはかなり怒っているのだろう。

 スゥ…っと薄闇の中にミホークの姿が浮かび上がる。初めて出会ったときのように大きく派手な意匠の椅子に腰掛け、周辺を取り囲むように蝋燭が何本も灯されていた。

「久しいな」
「そうか?」

 日数にすれば大した経過は無い。なのに、わざわざそう言ってくるのは相当に拗ねていると思われる。厄介なことになった。

「そいつが仲間か。ふむ…赫脚の養い子だな?」
「ジジィを知ってんのか?」

ぴくんと、巻いた眉を寄せてコックが怪訝そうに問いかける。
 ゾロはその辺の話しはしたことがないが、ひょっとすると、クリーク海賊団の巨大ガレオン船を一刀のもとに沈めたのは、バラティエのオーナーであるゼフが昔馴染みだったからかも知れない。そういう情を表面的に見せる男ではないが、意外と義理堅いところがある。

「いかにも。あの男は、認めるに足る男だった。さて…儒子。貴様は如何ほどの価値を持つ男だ?」
「どうしろってんだよ」
「俺を満足させるだけの価値を持つか、確かめに来た」

 キィン…っ

 ゾロの周囲で結界が形を変えたのが、蝋燭の灯りに照らされて分かった。薄い硝子のようなものが張り巡らされて、ゾロを囲い込んでいる。脆弱そうに見えるのに酷く頑丈なそれは、触れると電撃様の疼痛を引き起こすらしい。

「邪魔くせェっ!」

 ゾロが和道一文字を一閃させて結界を切り裂くが、割れた端から再構築された結界がゾロを包み込む。しかもそれは、心なしか先ほどよりゾロに迫っていた。

「無駄なこと。割れば割るほど結界は貴様に迫っていって、最終的には呼吸が不可能なまでに酸素が欠乏する」

 ミホークがゾロを殺す気がないのは分かっている。これは、コックに対する威嚇だ。案の定ミホークは鋭い眼差しでコックを睨め付けると、なまなかな男ならとっくに気絶しているほどの覇気を叩き込む。
 怯懦の色など見せず、向こうっ気の強そうな眼差しで睨み返すコックは、今のところ落ち着いた様子だ。2年で女への耐性はすっかり弱くなったようだが、戦闘に於ける度胸は強化されたらしい。

「どうする、儒子?この男は俺の暇つぶしには絶好の遊び道具だ。こいつを連れて行きたければ、この俺を満足させてみよ。何か気の利いた余興でもして、俺を愉しませることが出来たら返してやる」
「俺が乗らなきゃ、マリモをどうする?」
「知れたこと。飽きるまで手元で飼い殺す」
「…クソ野郎が…っ!」

 銜え煙草で歯がみすると、噛み切られた切片がぽとりと地面に落ちるが、闇に溶け込むようにしてスゥっと消えてしまう。どうやら異空間の中に閉じこめられているらしい。

「俺は待ち時間というものが嫌いでな。貴様が葛藤している間にも空気を着々と奪っているので、そのつもりでいるように」

 ミホークの言うとおり、結界は少しずつではあるが着実に迫ってきている。心なしか、息苦しいような気もしてきた。ゾロ個人に焦る気は無いのだが、コックの方は内心気が気ではないらしい。新しい煙草に火を付けてふかす動作は気怠げだが、瞳の奥にはちりつくような焦燥の色があった。

「余興…ね。俺ァコックだ。最上級の腕前が見たけりゃ、厨房に連れて行け」
「ふむ。この男も言っていたな。旨いメシを作ると」

 急に、パァっとコックの表情が明るくなった。
 くりんと目をまん丸にして、子どもみたいな顔になってしまうから、あどけないとも言える表情にミホークの鉄仮面が一瞬崩れた。虚を突かれたこの男など、初めて見た。

「…こいつ、旨いとか言ってたのか?」

 こんな状況だというのに、コックの声はどこか弾むような響きを持っている。

「ふむ…直接的に旨いと言ったわけではないが、我が料理人の技量には物足りなさを感じていたようだ。グランドライン一の料理人と賞賛される男を連れてきているというのに何が不満なのかと聞いたら、《旨いには旨いが、コックが作ったメシはなんかが違ってた。沁みるっつーのか…ああいうメシが作れる奴は、多分他には居ないんだろう》と言うのでな。まァ、旨かったと言うことなのだろう」
「へ…へェ……」

 仄かに頬を染めて、ぷかぷかと沢山の紫煙で輪っかを作って吐き出したりしているコックは、明らかに挙動不審だった。相変わらず料理の腕を褒められるときだけは、素直極まりなくなってしまうらしい。
 その愛らしいような様子が、拙い具合にミホークを刺激してしまった。

「ふむ…ふむ。なるほどな、面白い男だ。おい、ちょっと服を脱いでこの俺を《その気》にさせて見ろ」
「………………は?」

 期せずしてゾロとコックの声が揃った。呆気にとられたような表情も線対称で表示したように一緒だ。

「ええ…と、そりゃあどういう意味だ?」
「知れたこと。ストリップをして見せろと言っている」
「えーーーー………と…?」

 普段のコックなら怒り筋を浮かせて暴れる所だろうが、あまりにミホークが超然としており、スケベ親父然としたいやらしい表情も浮かべないものだから、意図を測りかねて固まってしまう。

「俺は若い時分にセックスを極めてしまったせいか、ここ近年《その気》になったことが無い。どんなに美しい女や男が相手でも、セックスをすれば大体どのようなことになるのか想像がついてしまうからだ。だが、貴様の今の表情はなかなかキた」

 色気も素っ気のないような口ぶりだが、それでも、こんな風にミホークが執着を示すというのは珍しいことだ。これは余程気に入られてしまったらしい。迷惑なことだが。

「おい、コック。妙なことをすんじゃねェぞ?」
「…てめェはそりゃ、見たくねーだろうけどな」

 いや、実のところかなり見たい。
 だが、それは自分一人が見るのであればということだ。間違ってもミホークなどに見せたくはない。

「俺は置いていけ。必ず鷹の目を倒して追いつく。他の連中にはそう伝えといてくれ」
「へっ。冗談じゃねェ。何時のことになるか分からねェ上に、てめェみたいな迷子野郎が無事に追いつけるとは思えねェ。ここではぐれたら最後、一生…遭わずじまいかもしれないだろうが」

 コックは懐から掌サイズのダイヤルを取りだした。空島で手に入れたトーンダイヤルだろうか?スイッチのような殻頂を何度か押すと、えらく蠱惑的な曲調が流れてきた。

 くいっとコックの長い指が、黒いネクタイに引っかけられる。ぺろりと紅い舌が唇をなぞる動作が酷く扇情的で、ダイヤルだけではなくこの男にも何らかのスイッチが入ったことが分かる。

「やってやろうじゃねェか…鷹の目。一流コックの俎板ショー、かぶりつきの席で見せてやんよ。ただし…踊り子さんにはお触りは無しでお願いしますよ…っと」

 挑発的な笑みを浮かべて、コックの顎が反らされる。
 それが《ショー》の始まりだった。




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