梅雨 -3-

「あーもう信じられねえ・・・つか、ありえねえ」
サンジは卓袱台に両手を着いて、ぐらぐら頭を揺らしながら呻いた。
目の前には梅酒入りのグラス。
半分以上が空になっている。

パニックのあまり瞳孔が開いた感じになったサンジの、気付け代わりにゾロが作ってやったものだ。
ただし最初は拒否られた。
ムカデをチョッキンしたその手でグラスに触れるなとか、その鋏は廃棄処分にしろとか。
そもそも、鋏が錆びてるってどういうわけだとか。
お前、それで色んなもん切っては拭きも洗いもしないでそのまま放っといたんだろうとか、だから錆びてんだろ、
何切ってんだ貴様アァァァ!!!とか、そんな具合で。

「大体、なんで家の中にムカデがいるんだ・・・」
「そりゃあほら、暑くなって来たから」
「そうなのか?そういうもんなのか?つかそうなのか?」
ゾロに言われればそうなのかなとか思ってしまう。
しかし、ムカデはないだろう。
あんなのが家の中をむさむさ這っているなんて、寝てる間に出てきたらどうしてくれるんだ。
つか、あんなのに身体這われたら一体どんなっ・・・ど・・・ぐ、ああああああ
「ぐあああああっ」
「どうした」
いきなり頭を抱えて叫び出したサンジに、ゾロは驚きながらも梅酒を注ぎ足す。
ちなみにこれは梅農家から貰った3年ものだ。
ゾロには少々甘過ぎるから、サンジに手土産にやろうとか思っている。

「だってよう・・・あんなんが・・・あんなんが、家の中に・・・」
すっかり打ちひしがれている姿がなんとも哀れ且つ可愛くて、つい意地悪心がむくむくと湧き出した。
「もう一匹いるかもしれねえから、気をつけろよ」
「な、なんだとお?!」
弾かれたように顔を上げる。
「ムカデってのは番でいるもんだ。さっき退治したのが嫁だか婿だかだとすると、片割れがどっかに潜んでいる
 かもしれねえ」
「な、なななななな・・・」
サンジはブルブルと顎を震わせながら辺りを見渡した。
「愛する嫁だか旦那だかを、目の前で惨殺されたってのか?」
零れんばかりに見開いた目がウルウルと潤んでいる。
なんかやっぱり、違うスイッチが入ったままになっているらしい。
「・・・って言われてるだけだ。安心しろ、もういねえよ」
「わかんねーだろーが。しかも迷信を馬鹿にすんじゃねえ、昔の人は偉かったんだ!」
ゾロの言葉は慰めにならず、寧ろ酔っ払いの絡み酒のノリで抗議して来た。
「どーすんだよ、まだあんなのがどっかにいたら、おちおち寝てられねーじゃねえか」
「大丈夫だって、ほら見てろ」
そう言うと、ゾロは卓袱台を退かして一組しかない布団を敷いた。

「丁度昨日干したとこだから、まあ大丈夫だろ。俺は畳で構わねえからこれ使え。ほら、なんもいねえだろ」
白いシーツを隅まで撫でて点検するかのように叩く。
「布団・・・掛け布団の方は?」
「ああ、こっちもな」
そういいながら、カバーの裏にまで手を突っ込んで確かめた。
「大丈夫だ。前、なーんかカバーん中ガサガサするなと思ってたら、いたことがあったんだよな」
「だから言うなってんだ、このクソ馬鹿マリモ!」
両腕で己を抱くようにして身を竦ませるサンジを笑いながら、ゾロは丁寧に全部引っくり返して見せてくれる。
「ほらな、なんもいねーだろ」
そう言って布団の上に掛け布団を敷いて枕を整えると、今度は自分がその中に寝転んで見せた。
足や腕なんかを伸ばして確認している。

サンジは天井を見上げ壁を見詰め、柱に目を凝らしてから畳に視線を落とした。
この縁の隙間から、なんか出てきそうだ。
やっぱり布団の上の方が少しは安全かもしれない。
ここまでゾロが確認してくれてるんなら・・・

そう思って布団に目を移して愕然とした。
ゾロが、布団の中に入った状態で高鼾を掻いている。
「・・・ちょっと待てコラ」
慌てて掛け布団を引っぺがすも、大の字に転がってぴくりとも動かない。
「待て待て待て待て、客の布団取って寝てんじゃねー」
この布団はゾロのものだが、これを使って寝ろとついさっき言ったのだ。
今夜だけは、この布団は自分のものだと主張する権利はあるはずなのに、なんで人の布団の上でグースカ
寝てんだよこの野郎。

「起きろこの筋肉ダルマ。誰に断って先に寝てやがる!」
蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、あんまり安らかな寝顔で横たわっているのでさすがに気が引けた。
昼間は労働ばかりしているのだ。
今日は昼寝もしていないし、実際疲れているのだろう。
このまま寝かせてやりたい気もするが、そうも行かない。

ゾロの寝息をBGMに、サンジはもう一度恐る恐る部屋の中を見渡した。
天井の古い木目。
壁と柱の間にできた隙間。
畳の縁の破れに、壁土がこぼれ落ちた隅っこ。
戸棚の陰に、どこか空いた隙間に、ムカデの片割れがそっと潜んで眺めて居そうで、一人身震いした。
とても、この壁に凭れて畳の上で眠るなんてできやしない。

「くそう」
幸いというべきか、ゾロの布団はダブル仕様で幅は十分にあった。
ゾロの隣にもう一人分くらい寝るスペースが、あるにはある。
「・・・クソっ」
背に腹は変えられぬ。
サンジはそうっと掛け布団を持ち上げると、滑り込むようにして中に入った。
ゾロの身体に触れないように苦労しながらも、なんとか布団の上に収まる。
さっきまでムカデが這っていた畳には、極力触りたくはない。

ああ、やっぱりホテル泊まればよかったななんて、後悔に襲われた。
いくら田舎とはいえ、あのホテルにはムカデはいないだろう。
前にナミさんと泊まった時だって、快適だった。
今度は絶対、あっちに泊まろう。
こんな家で熟睡なんてできるわけがねえ。

なんてことを考えている内に、サンジはいつの間にか眠りに落ちていた。
梅酒のお陰か昼間の疲れか、それともゾロの穏やかな寝息のせいか。

しとしとと、いつしか雨は小降りになっていた。


















目が覚めれば外は快晴だった。
薄破れたカーテンの隙間から、燦々と朝日が降りそそいでいる。
なんとも快適な目覚めに、サンジはぱちりと一つ瞬きをして起き上がった。

「んーっ・・・」
唸りながら両手を上げて伸びをする。
良く寝た、気がする。
とても眠れないだろうと思っていたにもかかわらず、恥ずかしいほどの熟睡だ。

傍らに目を落とせば、相変わらずゾロは仰向けでガーガーと寝息を立てていた。
手足は大の字に・・・というか、あれ?
ふと気付いて、いきなり気恥ずかしくなる。
―――腕枕じゃん、おいおいおい

横に伸ばした丸太みたいな太い腕に頭を預け寝ていたようだ。
通りで固い枕だと思ったら。
「つか、やばくね?」
一人ごちて、サンジは頭を掻いた。
先に目が覚めて本当によかった。
一緒に寝てたことをゾロに気付かれたら、なんて言い訳して言いかわからない。

時計を見たらもう7時近かった。
ここまでのんびり寝ていたのも久しぶりのことだ。
良く寝たなーと我ながら思う。
―――ゾロは、いつ起きるんだろう
毎朝の起床時間はわからないが、こんな風に天気がいい日は早く目が覚めるんじゃないだろうか。
なんの根拠もなしにそう思っていたら、いきなり目覚ましのベルが鳴った。
布団の上で思わず飛び上がりかける。

「ぐー・・・」
けたたましくベルが鳴り続けるのに、ゾロは涼しい顔ですよすよと寝続けている。
セットしてあるということは、もう起きるべき時間なのだ。
サンジはしばし逡巡したが、思い切って足を振り上げ布団ごと蹴り転がした。





「人を起こすにしても、やり方ってもんがあるだろう」
鼻の頭を赤くして、ゾロがブツブツ文句を言いながら味噌汁を啜っている。
サンジに蹴り飛ばされた拍子に、箪笥の角でぶつけたのだ。
ゾロが丈夫な顔面をしていて、本当によかった。

「あんだけビリビリ鳴ってるのに、知らん顔して寝てるてめえが悪い。どんだけ寝汚ねえんだ」
「まあな、中々目は覚めないけどよ」
それは認めて、ゾロはポリポリ漬物を齧った。
朝のメニューは魚の干物に冷奴、お浸しと卵焼きの典型的な和定食だ。
「明け方に一度ションベンで起きてんだよな。けどそっからの二度寝がまた気持ちいーんだよ」
「ああ、そりゃあまあ。二度寝の気持ちよさは俺にもわかるけどよ」
同意してサンジも漬物に手を伸ばす。
一口齧ってから、ん?と気がついた。

――― 一度・・・起きて?
「おま・・・今なんつった?」
「あー二度寝が気持ちいい」
「いやその前・・・一度、起きた?」
「ああ、ションベンに」
サンジはじーっとゾロの顔を見つめてから、ふっと視線を逸らした。

「それはあれか。お前一旦起きて便所行って、それでまたわざわざ布団に入って寝たのか」
「ああ」
何を今更と言う風に、ゾロがきょとんとしている。
「布団に俺が寝てるのに?」
「俺だって寝てただろう」
「いや違うだろ、つかなんか間違ってるだろお前!」
あまりに動じないゾロに、サンジの方がキレる。
「なんでわざわざ野郎二人で布団に入ってる状態に戻るんだよてめえ。目が覚めたなら当初の予定通り畳で
 寝りゃあいいだろうが」
ゾロはしばし瞑目し、面倒臭そうに後ろ頭を掻きながら片目だけ開けた。
「別に、ずっとそこで寝てたんだからそのまま寝ればいいだろうが。それでお前を起こしたんなら悪いがそうでも
 なかったし。問題ねえ」
「問題ねえって、問題ねえって・・・」
いや、大有りだろ。
そのまままた元通り寝たから、結果的に俺はゾロの腕枕状態になっちゃったんじゃないですか。
つか、なんでそもそも俺はお前の腕を枕にして寝てたんだ。
てめえが乗せたのか、それとも俺が乗っかってったのか。
そこが問題だろ、つか、疑問視しろよ。
由々しき事態じゃねえのかよう。

色々言いたいことはあったが結局うまく反論できず、うがーっと一人呻いているサンジを気味悪そうに見つめて、
ゾロは話を逸らせようと試みた。
「ところで、昨日作ったジャムは俺に味見させてくれねえのか」
途端、サンジの顔つきがパッと変わる。
「おう、おうおうおう味見してえ?しょうがねえなあ、ちょっとだけだぞ」
イソイソと立ち上がると、盆に食パンとジャム瓶を載せて帰ってきた。
どうやら準備してあったものと思われる。

「朝飯は和風でと思ってたけど、これはデザート代わりにもなるだろ。それにヨーグルトに混ぜるのもイけると
 思うし。てめえは漬物で乳酸菌とるタイプだろうけどよ」
なんてことを喋りながら、厚切り食パンにたっぷりジャムをつけて皿に乗せている。
「んじゃいただきます」
サンジの機嫌がすっかりよくなったことにも満足して、ゾロはパンに齧り付いた。
ジャムの甘酸っぱさが口の中に広がる。
「ああ、美味いな」
「だろ?だろ?」
子どもみたいに弾けそうな表情で、サンジが笑いかけてきた。
「うん美味え。そんだけ甘くねえし、これだけでも食えるんじゃね?」
そう言ってスプーンでジャムを掬ってそのまま口の中に入れてみる。
「コラ、行儀悪いことすんじゃねえ。ったく」
文句を言いながらも、サンジも満更でもなさそうだ。
もっと食えこれも食えと、あれこれ勧めながらコーヒーを淹れてくれる。


「ところで、今日の予定はどうなってるんだ?」
サンジに問われて、ゾロはあーと口を開けたまま肩を落とした。
なんだかちょっと、残念そうな感じだ。
「今日はなあ、午前中からバイト入っててな。一日仕事なんだ」
「え?んじゃ弁当は?」
「それも出る。梅農家の収穫でな。弁当・昼寝付きの好待遇なんだが、なんせ重労働でバイトがなかなか
 集まらないらしい。俺にとっちゃいい稼ぎだ」
「・・・そっか」
昼飯がいらないと言うのは、サンジにとってもちょっと残念だった。
「帰りは夕方になる。お前いつ帰るんだ?」
「前と同じ時間だ。だから、また勝手に帰るよ」
「そうか、悪いな」
ちょっとしんみりした雰囲気になって、サンジは慌てて首を振った。

「悪くなんかねえよ。元々、俺がお前の予定なんか気にしないで勝手に押しかけてるだけなんだから。
 気にせず頑張って働いて来い」
「おう」
飯を平らげデザート代わりにパンも食って、今はヨーグルトを食べながら、ゾロはふとサンジの手元に
視線を落とした。
「ところで、お前はさっきから何をしているんだ」
ゾロに飯を食わせるだけ食わせて、自分はティッシュ片手にせっせと小さな実を拭いている。

「あ、これ勝手に摘ませて貰ったぜ。庭にブルーベリーの木もあるんだな」
「ああ、そりゃまあいいんだが」
「まだ挿し木したとこか?小さいのにいっぱし実がなってて、美味そうだから摘んじまった」
「それはいいとして、何してんだ」
「拭いてんだよ。摘むのも苦労したぜ。枝にびっしり蜘蛛が巣作ってやがるから」
「そのお陰で虫はつかねえんだけどな」
「そりゃわかるけどさ。実にも蜘蛛の巣がついちゃってるじゃねえか」
「・・・で?」
「拭いてる」
ゾロはがくんと首を落とした。
「めんどくせえ。洗えばいいじゃねえか」
「蜘蛛の巣は洗ったくらいじゃ落ちねえんだよ。拭くのが一番なんだ」
「・・・お前は一体、何処に情熱を傾けてんだよ」
「安全安心に食べるためなら、俺はどんな労力だって厭わねえ」
きっぱりそう言い切って、サンジは小さな実の一粒一粒を全部拭き終えると、改めて水洗いするために
シンクに向かった。

―――虫がついてる時点で、安全安心なんだと思うが・・・
サンジの基準が何処にあるのかゾロにはさっぱりわからないが、それはきっとお互い様だろう。


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