梅雨 -4-

「んじゃ行ってくる」
「おう、行ってらっしゃい」
まるでどこぞの新婚夫婦みたいな台詞にお互いが釈然としない表情を抱いたまま、とりあえずゾロは
軽トラに乗り込んだ。
せっかくバカンスを楽しみに来たサンジを一人置いておくのは心残りだったが、バイトをドタキャンする
わけにはいかない。
なんせゾロは、梅農家にとっても希望の星なのだ。

「しっかり働いて来いよ」
咥え煙草で玄関から顔だけ出して、サンジが手を振っている。
なんとなくつられて手を振り返して、ふと我に返った。
――――や、おかしいだろ
自分の行為の気恥ずかしさが後からやってきて、そのままエンジンをかけ振り返らずハンドルを回す。








「さーてと」
軽トラが見えなくなってから、サンジはうーんと一人で伸びをした。
帰りの時間まで、したいことはたっぷりある。
幸い天気もいいし、ゾロに遠慮することはないから思い切り遊ばせて貰おう。
そう思って、早速ザルを片手に苺畑に入った。

「うお、まだこんなにあるじゃねえか」
ゾロは収穫を見切ったと言っていたが、まだまだ青々とした葉陰に鮮やかな赤い色が幾つも覗いていた。
お日様を浴びて、艶々ピカピカ光って見える。
「可愛いなあ」
まるでそのどれもが「私を食べてv」とおねだりしているレディのようだ。
サンジはウキウキ夢見心地で摘み始めた。
確かに、ゾロが言うとおり粒は小さいし形も歪だ。
だがまだまだ食べられる。
「充分に魅力的だぜベイビー」
いつの間にかサンジは、独り言を呟きながら作業に没頭していた。

「レディ、こんなに熟れて〜とか思ったら、裏側腐ってっじゃん!残念」
「それにしたって、なんでこんなに黒い虫多いんだ。しかも丸まってる。なんで丸まる?つか動かねえのかコラ」
「網が邪魔だ。引っ掛かる、腰が伸びねえ、髪の毛が絡まる、ハゲたらどーすんだ、ゾロならいいけどよう」
「んぎゃー!お呼びじゃねえよ、出てくんなミミズ!」
一人なのに賑やかな声が響く畑の中を、風だけが渡っていった。









一人だけの昼食は、やはり味気ない。
サンジは独りもそもそと残り物を食べながら、頭の中で帰る段取りなんかを考えている。
なぜ残り物なのかと言うと、ゾロの為の夕食の支度に精を出したからだ。
とは言え、梅雨時だからあれこれ作り溜めをしておく訳にもいかない。
今夜の分だけを作って、後は自分が持って帰るべきものの整理と後片付けだ。

ゾロはなんでも土産に持って帰れと言っていた。
ジャムは責任を以って持ち帰ろうと思っているが、昨夜の梅酒はここに置いておこう。
こっちにボトルキープだ。
この梅酒は俺のものだからして。

天気がいいから、部屋の窓を全部開け放して隈なく掃除した。
昨夜のムカデがどこから出て来たのかサッパリわからないが、どこからでも出て来れる可能性がある、
隙間だらけの家だ。
戸はガタついてるし壁土は剥げてるし、襖を閉めてもぴっちり合わないし天井の梁は歪んでるし・・・

「・・・けど、居心地いいよなあ」


外の光が遠慮なしに入って来る。
天気が良ければ身体は自然と目覚めて、日が暮れれば夜の帳が降りると同時に安らぐ気持ちに
なれるのだろう。
昨夜みたいに雨の夜には、ゾロは電球一つ点けてゆっくりと本でも読んで過ごすのだ。
急がずに焦らずに、誰に干渉さえるでもない、自由な生き方。

「でもなあ、まだ若いからなあ」
ゾロが若くて、体力があるからこその生活だろう。
それもこの先、どうなるかはわからない。
会社勤めみたいに定期的に給料が振り込まれる訳でもないし、怪我でもしたら即収入が断たれるだろう。
身寄りや家族が近くに居る訳でもない。
近所付き合いはうまくいってるみたいだけど、もしこの少し離れた家で何かがあったら、誰か気付いて
くれるのだろうか。
あれこれ考えていると心配になってきた。

田んぼは全部借り物だと行っていたし、仕事の殆どは委託だから自分の収量として収入はない。
しかも依頼されないのに他所の草刈りなんかまでやってて、労力と時間給に換算すればとても採算が
とれているとは言い難い。
その辺、ちゃんと管理してくれる人はいるんだろうか。

今はいいのだ。
若いからがむしゃらに働いて、自分自身が満足できて、しかも毎日食べていけるならそれでいいだろう。
けどこの先は?
その内家族を持って年を経て、安定した暮らしが必要になる時に、ゾロは今の生活を後悔する時が
来ないだろうか。

サンジは持参した灰皿に煙草を揉み消して、一人首を振った。
―――俺が心配するこっちゃねえな


サンジにとって、ここは桃源郷だ。
世知辛い都会とは時間の流れ方が違う。
何よりテレビがなくても過ごせる夜がある。
けど――――
「ムカデと同衾は勘弁だな」
口に出してからぶるりと身体を震わせた。
たまにしか来ない所だから楽しいのだ。
物珍しく新鮮なのだ。
ずっとここで暮らし、自分一人の力で生計を立てて行けるかと問われれば、答えはNOだろう。
―――ゾロとは違う

ゾロは決して逃げている訳じゃない。
彼が選んだ場所だ。
彼の人生だ。

沈みつつある思考を振り払うように頭を振って、サンジは立ち上がった。
ゾロが築いた暮らしに、癒しだけを求めて気まぐれに訪れる自分は、恐らく狡い。
けど今は、甘えさせて貰おう。
ゾロが迷惑だと感じ始めるその日までは。

食事の後片付けをしながら台所も掃除する。
まるで世話焼き女房みたいだが、これも甘えさせて貰ってる罪滅ぼしだと思えば理屈に適うような気がした。
あくまでも独りよがりなのだけれど。


午前中にも大量に作り足したジャム瓶を、割れないように梱包して持って帰ろう。
結果的に一般家庭ではとても消費仕切れない量になってしまった。
サンジの好みは砂糖控えめであまり煮込み過ぎないものだから、日持ちがしない。
ゾロ用は冷蔵庫に二瓶で充分だ。

・・・生の苺を冷凍して、定期的に作ってやれるといいんだけどな。
未練がましいことを考えながら、古新聞が積まれた束の底の方から一まとめ抜き取った。
瓶を包もうと広げたら、ハラリと何かが足元に落ちる。

―――――!?!


見てはならないと本能が告げているのに、サンジは思わず身を屈め目を凝らして確認してしまった。
黒く細長く薄っぺらいそれ。

「ひ―――――っ・・・」



恐らくは過去に、ゾロに新聞紙を被せられそのまま踏まれ畳まれ仕舞われて、干物と化したムカデの
成れの果てだった。


















「ただいま」
玄関の引き戸を開けながら口に出して言って、ちょっと後悔して後ろ頭を掻いた。
いるはずがないのだ。
外灯が点いているとはいえ家の中は真っ暗。
人の気配はない。
サンジは無事、帰ったらしい。

廊下の明かりを点けて、居間に入ってまた明かりをつける。
卓袱台の上に夕食が一式用意されていた。
前と同じだ。
にやっと笑って、それからふと真顔になった。
なんとなく寂しい・・・気がする。

この地に移り住んで3年。
ずっとこの家で過ごしてきたけれど、帰ってきて「寂しい」と感じたのは今日が初めてじゃないだろうか。
そんな自分の変化に戸惑い、思わず舌打ちをしそうになる。
寂しいと感じるのは心の弱さだ。
それほど人を恋う性質ではなかったはずなのに、微妙に変化してしまった己の心情がどこか歯痒い。

ゾロは惑いを振り払うように、洗面所に入って顔を洗った。
ついでに二の腕まで丁寧に手を洗う。
そうして初めて、そんな習慣が自分に身についてしまったことに愕然とした。
家に帰ってまず手を洗うなんて、今までやってもいなかった行為なのに。
どこか忌々しく思いながらも、顰めた顔をタオルで拭って居間へと戻る。
全部替えられた清潔なタオルさえ快適で、不本意だ。

台所には、隣から借りた鍋一式がまとめて置いてあった。
添えられたメモには、お礼にジャムとお菓子も届けるようにと書いてある。
山椒の佃煮が入っていたタッパと一緒にあるのは、可愛らしく梱包されたジャムにラッピングされた菓子。
―――― 一体どこのお嬢さん宛なんだ
心中で思わず突っ込まずにはいられない。
そうでなくとも、奥様方の緊急連絡網の中に「ゾロさんの家に金髪の彼女が来てた」はすでに組み込まれている。
その「彼女」の部分をどう訂正するか。
つか、訂正すべきか。
この町の人々は基本がシャイだから、表立ってからかったりはしない。
その奥ゆかしさに甘えてこのままサンジの再訪がなければ、放置&風化の方向で行くつもりだ。

「ま、いいか」
冷蔵庫の扉には買い物リストと使い方のメモが貼られ、戸棚には位置を変えた食器の案内なんかも貼られている。
それらを面白く眺めているうちに、また居間に戻った。

机代わりのダンボール箱の上に乗せられたノートパソコンの上に、別のメモが置いてある。
「色々世話になったな。また来る。今度来る時はあらかじめ連絡するから、その時は絶対に・・・」
―バルサンを焚いておくように!―

最後は太文字で何度も書きなぞった後がある。
強調しているのだ、訴えているのだ。
その必死さが文字に表れていて、ゾロは思わずぶっと吹き出した。
また来る気かよ。



サンジが来ると楽しい。
生活が快適になるし、なにより美味い飯が食える。
特に話さなくても気を遣うことはないし、二人で過ごす夜は穏やかだ。
そんな居心地のよさを知って、益々未知の感情を抱えることになるのではないだろうか。

ふと沸いた疑問を払拭するように、ゾロは一人ゆっくりと頭を振った。
弱さを招く原因を、最初から排除しようとするのは逃げだ。
サンジが来たいのなら、いつだって来ればいい。
たとえ一時振り回されようとも、自分もすぐに慣れるだろう。
その内サンジも田舎の物珍しさに飽きて、足が遠退く日はきっと来る。
それまでの間、気まぐれに付き合ってやるのも悪くない。



とりあえず、忘れないうちに隣家に借りた鍋を届けようと、一式を持って外に出た。
いつの間にか、またしとしとと雨が降り始めていた。







          END


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