梅雨 -2-

軽トラに乗り込むと、むっとした湿気と異臭が鼻をついた。
「なにこれ、ネギ臭え?」
「らっきょだ。昨日助手席に乗せて運んだからな」
手でハンドルを回して、雨が入らない程度に窓を開ける。
しとしとと降る雨がフロントガラスを濡らし、泥と埃に汚れた茶色の筋が幾つも流れた。
「もっと大雨になると、この車綺麗になるんじゃね?」
「それを期待してるよ」
ワイパーを動かすと、汚れを擦り付けたようで余計に視界が悪くなるのも構わず、ゾロは車を発進させた。

農道を走り橋を越えて、お隣さんに横付けする。
「どんな鍋、借りりゃあいいんだ?」
「えーとな、ホーロー鍋が一番いいんだけどよ。なければ大きめの・・・こんくらいの鍋な。それからもう一個は
 この家で一番でかい鍋」
「了解」
小雨の中をゾロは走って門を潜り、呼び鈴もなしにいきなり玄関の戸を開けて中に入った。
サンジがしばしの一服を楽しむ間もなく、両手に鍋を抱えて帰ってくる。
「これでいいか」
「おう上等」
荷台に鍋を置き、手に持ったタッパをサンジに渡す。
「お、この匂いは」
「山椒の佃煮だ。くれた」
「いい人だねえ」
玄関の中は暗くてあまり見えない。
けれどかすかに覗く人影に向かって、サンジは助手席から頭を下げた。
ぐるりと方向を転換させて、ゾロの軽トラが軽くクラクションを鳴らし走り出す。

「買い物は俺に任せてくれな」
そう言って財布を見せれば、ゾロはやや不満そうに片眉を上げて見せたが、とくに言い返しはしなかった。





買い物を終えて家に戻る頃には本格的に雨が降り出し、樋が取り付けていない玄関の軒先は滝のように
雨だれが流れ落ちていた。
「タイミングを計って飛び込め」
「つか、お前田んぼの面倒見はいいくせに、自分ちくらい直せよ」
両手に荷物を提げたまま素早く飛び込んだつもりだが、頭と肩がびしょ濡れになってしまった。
「あーひでえ目に遭った・・・つか、家に入るのが一番濡れんじゃね?」
「かもな」
ぶるぶると犬の子みたいに頭を振って雫を撒き散らすサンジに、先に上がったゾロがタオルを投げて来た。
それで大雑把に拭いて、早速台所に立つ。

「まずは飯の支度と、それから適当にさせてもらう。この苺、俺全部貰っていいか?」
「ああいいぜ、どうせ腐らせちまうもんだし。まだ畑にはなってるから」
「え、もっとなってる?」
サンジの目がキランと光った。
「なってるっつっても、もう粒は小さいし商品には向かないぜ」
「そんなもん構わねえよ。あるんなら欲しい」
「なら明日にでも好きなだけ採れよ。一応、天気予報じゃ雨は今晩だけだっつってた気がするし」
「うし、明日は苺の収穫な」
サンジはどことなくウキウキした様子で軽やかに包丁を操りだした。



サンジに奢ってもらう形になった夕食だが、想像通り、いやそれ以上に美味かった。
二人差し向かいの食事は、会話などろくになくてもなんとなく楽しい。
いつも以上に酒が美味く感じられて食が進む。
買い出しを任せたせいか、食材以外に台所用品が少し増えている気もするが、あってもゾロには使えない
からサンジ専用になるのだろう。
これからの、サンジ専用。
少しおかしな塩梅だなと思いつつ、ゾロは細かいことは気にしないことにした。

風呂に入ってさっぱりとし、美味い飯を食べた後は眠くなるのが通常だが、なんとなく台所のサンジの動きを
見ているのが楽しくて、つい寝るのが惜しくなる。
座布団を積んで寛ぐスペースを作ると、借りて来た本に手を伸ばし読み始めた。
まだ宵の口だ。
外の雨は益々強くなり、風も出て来たのか硝子窓を叩く水音が激しさを増している。
だが家の中は雨音以外の雑音はなく、ぐつぐつと何かを煮る音と甘酸っぱい匂いが辺りに満ちていた。
かすかな金音が響くのは、大鍋で保存用の瓶を煮沸消毒しているからだろう。
その隣で一回り小ぶりの鍋底を絶えず掻き回しながら、サンジは鼻歌を歌っている。

―――えらく楽しそうなもんだ
天性の料理好きなのだろう。
ゾロから見たら気が遠くなるような面倒臭いことでも、サンジは嬉々としてやっている気がする
ただし、サンジから見たら邪魔臭いことこの上ないことを、ゾロは気長にしているのかもしれない。

視線を感じたのか、灰汁を掬いながらふいとこちらに向いた。
「何読んでるんだ?分厚い本だな」
「藤沢周平の全集。図書館から借りて来た」
「ふうん、面白い?」
「まあまあ」
煙草を咥えた口元を綻ばせて、サンジはまた鍋に向き直った。

テレビも会話もない、静かな室内に鍋を煮る音だけが聞こえる。
外は相変わらずの雨風だ。
だが樹々を揺らすざわめきさえも、子守唄のように優しく心地良い。






「うし、できた」
本に没頭している間に作業は終わったらしい。
捲くったシャツの袖を直しながら、サンジが居間に入って来た。
背後の台所はすでにきちんと片付けられ、使う前より綺麗になっている。
よく観察していると、サンジは食事の支度でも作ると同時に片付けをしているので完成した時は洗い物もない
状態になっている。
その手際の良さは、直に見ていても決して真似できない芸当だ。
「これから俺、風呂貰うわ」
小さな鞄からパジャマを取り出していた。
こいつ、絶対最初から泊まる気だったんだろう。

「風呂も便所もユニットだから安心しろ」
「そうだな。それはマジ助かる」
この上、トイレや風呂が昔ながらのものだとさすがのサンジも引くものがあるが、さっき覗いたら真新しい
ユニットバスが取り付けてあった。
綺麗に掃除して使っているのか、使用頻度が極端に低いのか判別つきがたい真新しさだったが、まあよしとしよう。
念のため携帯洗顔セットなど持ち込んだら、やっぱり風呂の中は固形石鹸しかない状態だった。
自分の準備周到さを自画自賛しつつ、ゆっくりと風呂に入る。
サンジにとったら一日遊んでいたようなものだが、やはり旅先なせいか湯に浸かった途端疲れを感じた。

「まあ、いい湯だねえ」
湯気の立ち上る中、一人で呟く。
窓ガラスを叩く雨音は止む気配がない。
いくら男とは言え、集落からもやや離れたこんな一軒家で一人暮らすのは心細いものはないだろうか。
世捨て人みたいな暮らしだけれど、ゾロ自身は飄々と楽しんでいるようだ。
人嫌いという感じではない。
やたらと干渉してこないから付き合いやすいタイプだし、話していても結構楽しい。

―――やっぱ、普通の変わり者なのかな
頭にタオルを載せて、サンジは湯に沈めた口元からぷくんと泡を出した。





「あーいいお湯だった」
「長かったな、大丈夫か」
「や、洗っておいたから」
「・・・そうか、サンキュ」
まだ膝に本を乗せているゾロの隣に腰を下ろす。
「浴槽洗剤もなかったから、取り合えず石鹸で洗ってみたけどよかったか」
「ああ、そりゃ構わねえ」
頭を拭きながらゾロの手元を覗き込んだ。
シャンプーの匂いがふわりと漂い、ゾロの鼻腔を擽る。
「なに?時代小説」
「ああ」
細かい字だなあとか、じじむさいことを言いながらサンジは洗面道具を仕舞うために壁に顔を向けた。
―――と・・・

「ぞっぞぞぞぞっ?!」
「ああ?」
いきなり素っ頓狂な声を出したサンジに、ゾロは驚いて顔を上げた。
「ゾロ!なにこれゾロ!つかなに?」
パニくったサンジが震えながら指差した先には、黒く長いモノが壁を這っている。
「ああ」
軽く応えて、ゾロはそのまま拳を作った。
思わずサンジはその頭を叩いていた。
「この馬鹿、お前今なにしようとした!」
「痛ってえな、てめえが何すんだ。潰せばいいだろうが」
「潰すも何も、素手ですんじゃねえ!」

サンジとて、一応知識としてこれが何かは知っている。
知ってはいるが、認めたくはない。
こんな生物が、家の中にいるなんて・・・
「ムカデだろ。こいつに噛まれっと痛えぞ」
「痛いで済むかーっ!」
サンジが喚いている声が聞こえでもしたのか、ムカデは数多の足を器用に動かして方向転換すると、壁から
畳に降りてしまった。
禍々しい赤い頭に蠢く触覚、色鮮やかなオレンジ色の足がなんともグロテスクだ。
太さは1cm以上あるし、長さも15cmはゆうにある。

「でけえ、でけえよなんか。ここは南米か!」
「なんで南米なんだ?」
「ぎゃーっ!こっちにくる!つか畳!畳!」
立ち上がって足をバタつかせるサンジの前で、ゾロは畳んだ新聞紙をポンとムカデの上に投げた。
「な、なに?」
「こうしとくとムカデは動かねえ。物陰になるから落ち着くんだろ」
言いながら、今度は足を振り上げた。
またしてもサンジが今度はゾロの後頭部を蹴りつける。
「この馬鹿、今度は何しやがる!」
「てめえが何すんだ馬鹿!踏み潰せばいいだろうが!」
「だから畳の上だっつうんだよ。畳が汚れる、新聞紙も汚れるーっ」
「ああもう・・・」
ほとんど泣き出さんばかりに叫ぶサンジに、ゾロは面倒そうに頭を掻くと大股でキッチンに向かった。

すぐに戻ってきたが、その間にもサンジは新聞紙から目が離せなかった。
もしこの新聞紙の下からムカデが這い出してきたら、どうすればいいのか。
逃げたらいつ出て来るかわからなくて怖いし、かといってこのままここに潜まれていてもやっぱり嫌だ。
一体どうしたらいいんだ。

凍りついたように硬直して新聞紙を凝視しているサンジの横を通り過ぎると、ゾロは手にしたガムテープを
ビーッと20cmばかり引き出す。
新聞紙を取り去ると、なるほど確かにムカデはその下で丸くなってじっとしていた。
そこにガムテープをぺたりと貼る。
持ち上げて、そのままぱたんと折りたたんで引っ付けてしまった。

「・・・え?」
あまりの早業に声も出ないサンジの前で、ゾロはぽいとそのガムテープをゴミ箱に捨てた。
「ほい、終了」
「え?え?え?」
ムカデのいなくなった新聞紙と畳と、それからゴミ箱を見比べてサンジはまたしても慌て出す。
「って、なにしてんだよお前!ムカデ、ムカデ生きてんじゃねえか!」
「まあ、引っ付けただけだからな」
「夜中に這い出て来たらどーすんだよ!ムカデだぞ、もそもそだぞ!」
「がっつり引っ付いてるから出てこれねーよ」
ゾロは面倒臭そうに卓袱台に座ると、飲みかけのビールを啜る。
「だって、だって、生きてるのに!」
「細けえ足がびっちりテープにひっついてっからな、足幾つかもげたら出るかもしれねえが、それじゃ
 あまり動けねえだろ」
「そんな・・・」
サンジの声音が、情けなく掠れる。

「だって生きてるのに、生きたまま身動きできなくて引っ付いたままで・・・そんなん可哀想だ」
ぎょっとしてゾロはサンジを振り仰いだ。
立ち尽くしたまま、今にも泣き出さんばかりに顔を歪めている。
一体どうしたってんだ。

「そのまま、いつ死ねるんだよ。狭くて苦しくて暗い中で。死ぬまでそのまんまなんて、そんなの・・・」
「ちょっと待ておい。さっきまでムカデムカデって騒いでただろうが」
「ムカデは嫌だけど、死に切れねえのは可哀想だ!」
冗談でなく、サンジは本気で動揺していた。
どこか悲愴さを滲ませる表情は、まるで自分がガムテープで閉じ込められたかのように青褪めて苦しそうだ。
これは尋常でないと、さすがのゾロも気付いた。

「わかった、留めを刺したらいいんだな」
また立ち上がるとゴミ箱の中からガムテープを取り出した。
さらに引き出しを開けて錆びた鋏を取り出すと、それでチョキンチョキンと3つに切る。
「ほい、これでお陀仏」
3つに別れたガムテープを再びゴミ箱に捨てて、ゾロはサンジに向き直った。
サンジは目玉が零れ落ちんばかりに目を見開いて、硬直している。

今、チョキンって・・・チョキンって・・・チョキ・・・


「・・・ぎっ・・・」

ぎいやあああああああああああああああああああああああああああああ


雨に煙る夜の闇の中を、サンジの悲鳴が木霊した。


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