梅雨 -1-


「精が出ますなあ」
「はい、こんちわー」
ゾロは頭だけ上げて声の主を振り仰いだ。
むっとする草いきれの中から僅かに顔を出すと、涼しいと感じられる風が頬を撫でる。
てごを肩に掛けた老婆が、にこにこ笑いながら手を振って通り過ぎていった。
軽く手を上げて応えれば、指に絡まった枯れ草が帽子の庇に落ちた。

通り掛かる誰もが必ず声を掛けて行くことに、最初の頃は辟易したものだ。
正直なところ鬱陶しい。
返事をするのが邪魔臭い。
一々手を止めなければならないし、何より見知らぬ相手から気軽に挨拶を受ける習慣がなく薄気味悪かった。
だが、徐々に挨拶を返すことに慣れて来る内に、なんとなくゾロもコツが掴めて来た。
人の姿を見たら、声が届く範囲にまで近付いた時点で何よりも先に声を掛ける。
これは礼儀と言うより防衛に近い。
まず自分の存在を相手に知らしめる。
声を出すことで自分と声を掛けた相手の存在を、いるかどうかはわからない第三者にも気付かせることが
できるのだ。
相手から反応があれば安心するし、見知っている相手なら“挨拶”として成立する。
挨拶もろくに返さず不審な態度を取るなら余所者だ。
田舎のネットワークは侮れない。
不審者情報は奥さん方の井戸端会議を介して電光石火の勢いで町中に知れ渡る。

最初は戸惑いこそすれ、律儀に立ち上がっては挨拶を返していたゾロは、瞬く間に奥様方のアイドルになった。
礼儀正しい好青年。
若いのに、田舎に移住して来てくれた奇特で見所のある男前。
移り住んですぐに、このあたり一帯を請け負う認定農家に弟子入りしたのも功を奏したのか、新参者で
ありながら信用を得るのは早かった。
古参の農業者達と酒宴を通じて親しくなったりもしたから、その後押しのお陰だろう。

住めば住むほどこの土地が、自分の気質に似合った場所だと思えて来る。
人口は少なく、若い者はもっと少なくて見渡せば年寄りばかりだが、みな陽気で元気だ。
閉鎖的な分伝統を重んじ、古来より受け継がれてきた生活の智恵を大切に繋いでいる。
古風だと言われそうだが、そういった精神が好きなゾロには魅力的な町だ。
何より、住みやすい。

「精が出るなあ」
「はいーこんちはー」
さっきと同じ調子で返事をして、それからん?と顔を上げた。
声の主が若い。
しかも、聞き慣れない。

「なんだ、お前か」
先月知り合ったばかりのキンキラ頭が、煙草を咥えて「よ」と片手を上げていた。







「こんなところまで、どうした」
週に一度くらいのペースで近況を語り合うメル友のようなものだが、今日ここに来ることは知らされていなかった。
今日はジーンズにスニーカーで、前回よりもやや軽快な服装だ。
田舎に相応しいとは言え、こういった農村風景ではやや浮いて見える。
ゾロは首に掛けたタオルで汗を拭いながら立ち上がり、サンジの元に歩み寄った。
「よくここがわかったな」
「んー、前に畑とか田んぼとか案内してもらっただろ。最初に家行ったけど留守だったから、ぐる−っと歩いて
 みて・・・その帽子でわかったよ。地毛だと保護色だよな」
「言ってろ」
畦に置いた薬缶を持ち上げ、茶碗に注ぐ。
ぬるくなった麦茶でも、喉の奥に染み通るほどに美味い。

「やー俺んとこの職場が、1泊2日で親睦旅行行ってんだよな。んで、その間店が休みで。いっつも顔付き
 合わせてるおっさん共と一緒に旅行なんてぞっとしねえからよ。俺だけバカンス決めてきた」
「一人でか?」
「こーんな田舎にレディを連れてきてどうする」
「言ってくれるな、ナミはどうした」
「ナミさんはお忙しいのだ」
横を向いてスパーと煙草を吹かし、鼻から煙を出している。
蓮っ葉な仕種だが、どこか板についてなくてぎこちない。

「邪魔して悪かったな、一応断り入れとこうと思ってよ。お前昼飯まだなんだろ?なんか作ろうか?」
「ああ助かる。雨が降る前にこの辺り終わらせてえから、悪いが握り飯にでもして持って来てくれるか。
 米の場所、わかるよな」
「おう」
たった一度きりしか来たことがないのに、なんとも勝手知ったる感じだ。
そんな奴に留守宅を任せる自分もどうかと思うが、用心しなければならないような貴重品は元々ない。

ゾロはもう一杯麦茶を喉に流し込むと、再び野放図に伸びた草の中に分け入った。
鎌を手に、ざくざくと刈り取っていく。
さっきより、格段にペースが上がった。






「飯だぞー」
はっきりと届く声が聞こえて、ゾロは返事の代わりに空を仰いだ。
午前中は雲の間から青が覗いていたのに、今は一面どんよりとした曇り空だ。
風が涼しいから、どこかで一雨降っているのだろう。

「おう、ありがとう」
さっきと違う場所から頭を出したら、そっちか!とサンジは笑って指差している。
「すんげえ進んだな。飯炊いて握ってる間に、こんなに綺麗になってる」
「つい、夢中になってな」
気がつけば、もうこんな時間だ。

「ここもお前の担当地?」
「担当・・・まあ、違うな。俺の担当はあっちとそっち」
「んじゃ、人んちかよ」
「まあな」
平たく言えばそうなってしまう、田んぼと河原の間に挟まれた三角形の荒地。
誰も手を加えないから雑草が生い茂り、荒れ放題だ。
「放っとくと、こっから虫が湧くんだよ。ここの持ち主は入院してるし跡継ぎもいねえしな、ずっと遊休農地
 だったから草刈るくらいいいだろうと思って」
「お前が勝手にやってんの?賃金は?」
「依頼主がいねえんだから、あるわけねえ」
信じられないといった風に、サンジがオーバーアクションで肩を竦める。
「しかも手で刈ってるんじゃねえか。あのブイーンとか言う・・・草刈機ってのか?ねえのか?」
「最近燃料が高えんだよ。なるべく手でやった方が安上がりだ」
ゾロは軍手を脱ぎながら大股で荒地を渡り、溝で軽く手を漱いだ。
手首や肘に泥がついたままなのも構わずに、どかりとサンジの足元に腰を下ろす。

「まあ、時間と体力だけは有り余ってるからな、ボチボチやってる」
「ふうん・・・」
サンジはどこか釈然としないような表情で、ポケットから取り出した携帯灰皿に煙草を揉み消した。
「ご苦労さんだな。遅いけど昼飯だ」
タッパも弁当箱もないから、急場しのぎなのだろう。
菓子の空き箱にラップに握った握り飯が形よく並んでいる。
「混ぜ込みわかめもふりかけも、ねえんだもんなあ。カツオと梅干、あと塩昆布」
「ありがてエ」
ゾロはパンと両手を合わせて合掌し、握り飯に手を伸ばした。
ゾロが食べるにしても多過ぎる量だ。
ほいとサンジに差し出せば、うんと頷いて白い手を伸ばした。

「外で飯食うなんざ、何年ぶりだか」
「オープンカフェがあっだろ?」
「景色が全然違エよ、バーカ」
あたり一面、育ち始めた苗が青々と揺れる田圃風景が広がり、四方は山に囲まれている。
開いているのは空だけだ。
さわさわと草が揺れ、水田を走る涼しい風が汗の引いた頬を撫でていく。
「わーなんか美味え」
「ああ、すげえ美味いな」
ゾロに負けないくらい大口を開けてかぶりつくサンジは、なんだか一生懸命で表情がガキくさい。
「自分で作っといてなんだが、握り飯って美味いのな」
「こうやって食うから余計だろうが、お前もここでひと働きしてから食うと一段と違うと思うぞ」
「御免こうむる」
がははと笑いながら、2個3個と握り飯に手を伸ばす。
ラップをかけた小鉢には漬物もあった。
「冷蔵庫の中の、いい漬物だな。糠床あるのか」
「男の一人暮らしにあるわけねえだろ、お隣さんがくれるんだよ」
「贅沢だなあ」
ぽりぽり齧りながら腰を伸ばし後ろの方に手を着くと、草むらからぴょんと小さな虫が跳ねて飛んでいった。
「・・・職場に虫とかいると、そりゃもう大騒ぎなのに」
ふと、独り言のように呟く。
「ここじゃ、よく見たら虫だらけなんだろうなあ。けど気にならねえ」
「環境の違いだろ」
弁当を食う2人の存在に気付いていもいないかのように、目の前をひらひらとモンシロチョウが舞った。

「さてと、雨が降らねえ内にやっちまうか」
最後の握り飯を三口で食べ終えて、ゾロは尻を叩きながら立ち上がった。
「食ってすぐか、ちょっと休んだ方がよくね?」
「いつもなら昼寝だがな、雲行きがよくねえ。雨が降り出したらすぐに切り上げて戻る」
「ん・・・じゃあ、頑張れよ」

サンジは一服する暇もなく、弁当箱代わりの菓子箱を片付けて立ち上がった。
「茶、新しいの入れて来ようか」
「いや、まだあるからそれでいい。つか・・・お前何しに来たんだ」
「ん?バカンス」
「・・・・・・」
よくわからないが、放っておこう。
ゾロはそう判断して、タオルを首に巻きなおすと軍手を嵌めて、ざくざく荒地の中に入っていった。






予想通りすぐに雨がパラついてきた。
夏のようにいきなり降り出したりしないから、暫く小雨に濡れながらも作業を終えることができた。
刈り取った草を一処に集め、鎌と薬缶だけを持って歩き出す。
家の前に流れる用水路で鎌と軍手、長靴をざっと洗って軒下に干した。

「ただいま」
一人暮らしなのに声を掛けて戻るなんて、はじめてのことかもしれない。
だが今日はそう言ってもおかしくないのだ。
家の中にはサンジがいる。
「おかえり」
咥え煙草で顔だけ覗かせて、サンジはにかっと笑って見せた。
「何してんだ」
「ん、なんか甘酸っぱい匂いがするなーと思ったら・・・」
捲り上げた肘をそのままに、両手をブラブラさせて見せる。
シンクに張られた水の中で、大量の苺が浮いていた。
「台所の隅っこに箱に入れたまま無造作に積んであるじゃねえか。底の方、潰れてたぞ」
「あー」
ゾロはぽりぽりと後ろ頭を掻いた。
「前の庭でな、採れるんだが、食うのが追いつかねえんだよ」
「追いつかないって・・・あのまま放っといたらすぐ腐るぞ。勿体無え」
サンジは手早く洗ってはヘタと傷んだ部分を包丁で削り取っている。
「生食だけじゃ、確かにおっつかねえだろ。ジャムとかにすりゃあいいのに」
「誰が」
間髪入れずに突っ込まれて、さすがにサンジも笑うしかなかった。
「・・・だな」
「だろ?」

「まあ、取り合えず洗っちまうから。そっち湯が沸いてるからコーヒーでも淹れて飲んでろ」
卓袱台の上には、インスタントのドリップがカップと一緒に用意してあった。
なんとも至れり尽くせりだ。
「苺はあんまり水に浸けとくとせっかくのビタミンが流れちまうからな。時間勝負だ」
なにをそんなに必死になっているのかわからないが、そろそろ飽きてきた苺の山をどうにかしてくれるつもりらしい。
ゾロはコポコポとコーヒーを淹れて、座布団の上に胡坐を掻いた。

「念のため聞くが、でかい鍋とか・・・ねえよな」
「前にお前が揃えてくれたもんだけだ」
「んじゃージャムの空き瓶とか、そういうの取り置いてねえ?」
「男の一人暮らしで、空き瓶の取り置きとかあると思うか?」
「・・・愚問でした」
やれやれとため息を吐いて、サンジはざっと苺をざるにあけて水を流す。

「どっちにしても晩御飯の買い出しもしてえし、買い物に行こう」
「お前、いつまでこっちにいるんだ」
「んー明日帰る」
「またあのホテルに泊まるのか?」
こっちを向いていたサンジの口元が、ちょっと尖った。
おや?
「よかったら俺んちに泊まるか?」
水を向けたら、今度は唇がモニモニと動いている。
「ん〜まあ、休日でもねえからホテル空いてるとは思うんだけどよ。別に、泊まってやってもいいぞ」
―――最初から泊まる気だったな
苦笑を隠して、ゾロはずずとコーヒーを啜る。
「客用の布団もねえけど、昨日天気が良くて干したとこだから、まあ大丈夫だろう。むさ苦しいとこだが泊まっていけよ」
「ちっ・・・しょうがねえなあ」
客だか押しかけだかわからない態度で、サンジは偉そうに首を振った。
厚かましいのにどこか憎めない。
「決まりだな、買い物に行くか」
田舎なので、歩いていける距離に店はない。
「でかい鍋とかは、隣に借りに行けばいいから途中で寄ろう」
「隣って、あの川向こうの?」
「そう、遠いお隣さんだ」
サンジは手を拭きながら居間に上がり、カップの横に置いてあった菓子皿をゾロに進めた。
「これ土産な。俺が焼いた菓子。店でも出してんだ」
「へえ、こういうのも作るのか」
いただきます、と摘まんで口に放り込む。
さくさくと溶けて、甘すぎず上品な味だ。

「お前、レストランに勤めてんだよな」
「ああ」
「そこは、親戚か親元かなんかか?」
いきなり問われて、サンジはきょとんと目を丸くした。
「・・・なんでわかった?」
もぐもぐ食べながら、ゾロが口端を上げて見せる。
「普通はよ、飲食店の親睦旅行っつっても研修とか兼ねてるだろ。有名店を食べ歩いたりして。それなのに、
 むさ苦しい野郎共と旅行すんの嫌だなんて、てめえの年くらいで一人別行動取れるわけねえじゃねえか。
 だから、ある程度融通が利く間柄なのかと思ってよ」
当たりだ。
ゾロの察しの良さに、サンジはバツが悪そうな顔をした。
「まあ、そうだな。オーナーが俺の祖父だ」
「なるほど」
それでその若さで副料理長か、ともちらりと思ったがすぐに思い直す。
「お前の腕は確かだからな、副料理長の座は実力だろ。俺は料理のことはてんでわからないが、握り飯一つ
 とっても美味いものは美味い」
「・・・そりゃどうも」
やけに自信を持って断言するゾロに、サンジは仏頂面で横を向いた。
けれど耳たぶが仄かに赤い。
どうやら照れているらしい。

「美味かったごっそさん」
「って、もう食ったのかよ?!しかも全部?」
空になった皿に、再び目を丸くする。
「だってよ、美味かったぜこれ。甘くねえし、すぐ溶けるし」
「・・・お茶請けだけどな・・・疲れてる時は、甘いもんがいいしなあ」
呆れて、でも心底嬉しそうに笑って、サンジは空の皿をいそいそと積み上げた。

「んじゃ、行くか。片付けは後でいいだろ」
「うし、雨足が強くならない内に行った方がいいな」
2人して息を揃えて立ち上がり、そのタイミングのよさにまた顔を合わせて笑った。


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