月見 -4-


まだ夜明け前かと思ったが、妙に目が冴えて柱時計を見上げたらもう7時を回っていた。
カーテンの隙間から薄暗い光が差していて、やけに静かな雨音が響いている。

―――雨ふりか
雨が降ると洗濯物は外に出せないし、田んぼに入れないし畑はぐちゃぐちゃだし、窓を開けて掃除してもなんだかさっぱりしない。
―――もうちょい、寝てよう
頬に風が当たる。
カーテンの裾が遠慮がちに閃いて、窓が少し開けてあるのがわかった。
雨が降ったせいか気温が低く、少し肌寒い。
サンジはふるっと顎を震わせてタオルケットを心持ち上げ、寝転んだままもそもそと後退する。
背中に当たるゾロの体温が実に温かい。
―――あー、気持ちいい
冷えた肌にじんわりと沁みるような熱だ。
サンジは胸にタオルケットの端を抱き締め、手足を丸めて乾いたシーツに額を擦り付けた。


次に目が覚めたのは、8時過ぎだった。
いつの間にか雨は止んで、揺れるカーテンの隙間から爽やかな光が差し込んでいる。
天気がいいとなんだか寝ているのが勿体なく思えてくるのは貧乏性か。
サンジは寝転んだまま両手足を伸ばして、くあーと声もなく伸びをした。
肘がゾロの頭に当たったが、相変わらず微動だにせずぐうぐうと寝息を立てている。
「あーれ?」
仰向けになって、そこがいつもの場所だと気付く。
昨日は月を見ながら眠ったから縁側だったのに、サンジが眠ってからゾロが布団ごと移動させてくれたのだろう。
ゾロに掛かれば、サンジが寝転んだ布団を移動させることくらい造作もないことだろうが。

―――甘やかされてるなあ
なんとなく、そう思う。
ジジイに庇護されバラティエで可愛がられ、ゾロに甘やかされてんじゃねえよ俺。

コツンと額を指の節で軽く小突いてから、サンジはそろそろと布団から抜け出た。
足だけタオルケットの中に入れて、卓袱台の下においてあったノートパソコンを引き寄せる。
寝転んだままスイッチを入れ、起動するのを待った。
さっさと起きて顔を洗えばいいのだけれど、なんとなく布団から出るのが勿体なくて、名残惜しげに足先だけ毛布の中に残したりして。
パソコンが立ち上がるまで煙草に火を点けて一服し、一応布団から出てるのだからこれは寝煙草ではないと自分に言い訳した。
それでも、パソコンのキーを打つのに不自然な体勢では身体がきつくなって、結局卓袱台の上にパソコンを起き直して正座し、パチパチと打ち始める。
キーの音に気付いたか、ゾロがもそもそと芋虫のような動きをしつつ、頭を上げた。

「なんだ、起きてんのか」
「おはよ」
タオルケットを背中に背負って、ゾロは膝でにじり寄った。
「なにしてんだ?」
「調べ物」
サンジは咥え煙草でくるりと振り返った。
「芋の軸つってたのは芋茎のことだな。んで、芋茎は造血作用があるから血の道にいいってことか」
「ああ、すこのことか」
ゾロは顎の下に枕を当てて、半眼で腹ばいになっている。
「作り方簡単そうだ。芋茎貰って帰るかな」
「ありゃでかいし嵩張るぞ。皮を剥くと指が真っ黒になる」
「ん〜持ち帰るのは諦めるか」
サンジが見ている画面には、ワードで作ったらしい図入りのレシピが映っていた。
「それ、お前が作ったのか」
「おう。こういうの通販の箱の中に入れるとわかりやすくね?」
「いいな」
ゾロがずるずると上半身を延ばしてきたので、慌てて画面を閉じてしまった。
「なんだよ見せろよ」
「いやまだ、出来上がってねえし」
肩を竦めて煙草を揉み消すのに、ゾロがくっくと喉で笑う。
「なに照れてんだ」
「照れてねえよっ!」
何気にキレて、サンジはパソコンの電源を落とすと卓袱台の下に下ろした。
「さあ、もう9時になるぞ。そろそろ起きろ」
「うーっす」
返事も調子よく布団を上げるゾロを横目に、サンジは顔を洗いに洗面所に向かった。

「あれ?」
新聞を取りに玄関から出ようとして、上がりかまちに古新聞の包みが置いてあるのに気付く。
「ゾロ、なにこれ。なんか覚えあるか?」
「ああ?」
ゾロが大股で追い越して、古新聞を広げた。
「栗だ」
「わお、立派」
大きな栗が数十個、ごろんと入っている。
「えー誰か来たのかな」
「年よりは朝が早いからな。声掛けずに置いてってくれたんだろう」
ゾロが栗を零さないように両手で持ち上げるのに、歩くのに邪魔になるくらい手元を覗き込む。
「って、誰から貰ったものかわからないじゃねえか」
「その内わかるだろ」
「いいのかそれで、お礼とか」
「わかったら礼を言えばいいよ」
―――わかるのか?
不安に思いつつ、大きな栗が貰えたのはありがたい。
「うっし、今夜は栗ご飯だ」
「お前、何時までいる気だ?」
昨日、始発でやってきたサンジは今日、終電で帰るのだろうか。
「いやあ、早目に炊いてお握りにして、電車の中で食うよ」
「ああ、そりゃあいいなあ」
ゾロとしては、サンジが長いことこっちにいてくれるのは嬉しいが、明日からまた仕事があるのだから差し障りがあってはいけないと思っている。
何しろ毎回休暇を利用してきているのだからゆっくり休んでいればいいのに、やけに忙しく立ち働くのは何故なんだろう。
早速栗を塩水に漬け始めたサンジの背中を見ながら、頼もしいような心配なような、複雑な気持ちになるゾロだ。



朝食を済ませる頃には、完璧な青空が広がっていて中庭もすっかり乾いていた。
自転車は納屋の中に仕舞ってくれたようだ。
まだ少し滴の残る棹を拭いて、手早く洗濯物を干す。
畑はぬかるんでいるだろうから長靴を借りて、近くの畑までゾロと一緒に歩いた。

途中、整然と並んだ小さな白い花に、一面彩られた田んぼが多くあるのに気付く。
「綺麗だな、これなんだ?」
「蕎麦だ」
「へえ、これが蕎麦の花か」
頼りなげな薄緑の茎に可憐な白い花は、かすみ草より華奢だが美しい。
「これが蕎麦になるなんて、なんか不思議だな」
「蕎麦は2ヶ月でできるから、麦の後に撒く。短期間でできるし割と値がいい。加工すればするほど値段は高くなるんだが、その分機材が必要だから、本腰入れるつもりじゃねえと元は取れねえだろうな」
「加工って、最終的には蕎麦打ち?」
「おう、自家製の蕎麦粉で手打ち蕎麦とか」
たちまちサンジの脳内に、自家製の蕎麦粉を打つ光景が浮かんだ。
つか、手打ち蕎麦って男のロマンだろ。

足を止めてぼうっと夢想するサンジの背を、ゾロがやれやれと緩く押す。
「前に種撒いて貰った、ほうれん草とかの間引きをするんだが」
「あ、うん」
現実に引き戻され、サンジはまた歩き出した。
「あれ、どうやらほうれん草じゃなかったみたいで」
「・・・は?」
青梗菜と見せかけて、実はほうれん草じゃなかったっけか?
「生えた芽を見ると、どうもほうれん草に見えないんだよな」
なんてことを話している間に畑に着いた。

「ここだ」
綺麗に雑草を取られた畝の中に、びっしりと青菜が生えている。
ただ、その葉の形がぎざぎざで、どう見てもほうれん草には見えなかった。
「これ何?水菜?」
「わからん」
でも食えるからいいかと、適当に間引くよう指導する。
「根っこはここでちぎって捨ててくといい。泥は川戸で洗い流すし」
「こっちのニンジンも間引いていいんだな。・・・おっ、意外とでかくなってる」
「ああ、結構育ってるな」
「パプリカ、ほとんど穴が開いてるぞ」
「虫だ。無視しろ」
「・・・親父臭い」
「穴の開いたとこ以外は食えるから、捨てるなよ」
「う〜〜〜」
「トマト、今の時期のはめっちゃ甘いぞ」
「確かに、色が濃いな」

やいのやいのと話しながら、それぞれ野菜を収穫していく。
途中、農園フードに前掛けエプロンのおばちゃんが通りかかった。
「二人揃ってぇ精出るねぇ」
声で隣のおばちゃんだとわかって、サンジがさっと立ち上がった。
「こんにちは、昨日はすこ、ご馳走様でした」
おばちゃんは歩みを止めず、「あんれ恥ずかしい」と笑いながら通り過ぎた。
「また作り方教えてください」
「やだよぉあたしみたいな素人がさ、恥ずかしぃねぇ」
コロコロ笑いながら手を振り歩き去っていくおばちゃんに、「今朝、もしかして栗いただいてませんか?」と尋ねたいのをぐっと堪える。
もしも人違いだったら、逆に今度は栗を貰ってしまいそうだ。

おばちゃんが行ってしまってから、サンジはぽつりと呟いた。
「栗くれたの、おばちゃんじゃなかったのかなあ・・・」
「くれたんなら、聞く前に言うだろ。あのおばさんなら」
「そうかなあ」
それじゃあ、栗を持ってきてくれたのは誰だったんだ?
サンジは立ったまま煙草を取り出し、火を点けた。
「お前全然、気になんないんだなあ、こういうこと」
「まあな」
「そんなお前が羨ましいよ」
「そりゃどうも」
ふーと白い煙を吐いて、サンジは空を見上げた。
昨日と同じ、高い高い空だ。
視界には雲一つなく、とても朝まで雨が降っていたとは思えない。

とそこへ、また別の小さな人影が近付いてきた。
散歩の途中と言う訳ではなく、どうやらゾロの畑を目的に真っ直ぐに歩み寄ってくる。
腰が曲がった小さなお婆さんは、歪曲した膝で危なっかしく土手の草原を下りようとした。
サンジが慌てて煙草を咥えたまま迎え出る。
「こんにちは」
「こんにちは、昨日はお世話になりまして」
はて?と首を傾げたサンジの後ろで、ゾロが立ち上がり「いやあ」と返した。
「こいつがコケたりして、却って稲倒してすんませんでした」
そこまで言われて、サンジもなんのことかわかった。
このお婆さんは、昨日サンジが慣れない水田の中に入って雑草を抜いた田んぼの持ち主だ。
仕事で委託された訳ではないが、雑草があんまりだから抜いてやってくれとゾロに頼まれて張り切って田んぼに入ったものの、何度か転んで稲を倒した覚えがある。
「すんません」
「とんでもない、お陰で刈り取りできます。ありがとうございます」
お婆さんは見かけに寄らずシャキシャキとした口調でサンジに例を述べ、曲がった腰を更に屈めて膝に手を着く。

「んでね、今朝ちょっと栗置いておいたの」
「あ!」
サンジは急に大声を出した自分を恥じ入りながらも、お婆さんの目線に合うように腰を折って頷き返した。
「あの栗をくださったのは、奥さんでしたか」
「あれまあ、奥さん」
お婆さんはほっほと笑って、元から皺くちゃな顔をもっと皺くちゃにしてしまった。
それがまた実に、チャーミングだ。
「ありがとうございます。早速今日、いただきます」
「まだ若いから青くてね、ごめんね。でも早目に採らないと猿がね」
「そうですか」
こんな小さなお婆さんが栗のイガから一粒一粒取り出してくれたのかと思うと、自然目頭が熱くなった。
そこで初めて自分がまだ火の点いた煙草を持ったままだったことに気付き、慌てて揉み消す。
「それじゃあね、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
最敬礼するサンジに手を振って、お祖母ちゃんは草原の中に隠れるほど小さな身体を曲げて土手を昇り、農道を歩き去っていった。


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