月見 -1-


「サンちゃん、精が出るねえ」
「あーこんにちはー」
稲穂の間で、水色の農園フードがぴょこんと上がる。
赤とんぼが群れ飛ぶ農道を、手押し車を押した小さな背中がゆっくりと遠ざかるのを見送ってから、サンジはまた腰を屈めた。
―――ところで、今のは誰だったんだろう
50年前に出会いたかったレディだと言うのは、わかる。
けれど顔も姿も見覚えがない。
でもあちらはサンジのことを「サンちゃん」だと知っている。
「まあいいか」
深くは考えず、再び雑草抜きに精を出した。
シモツキ村ではよくあることだ。


「親しい人間の呼び方をそのまま使う」の方式通り、サンジの村人からの愛称は「サンちゃん」になった。
発信源はゾロではなく、川向こうのお隣さんだ。
しかもちゃん付けで呼ぶと直接面識はなくとも勝手に親近感を覚えるらしく、初対面の人でも旧知の仲のように親しげに話しかけてくる。
その度いちいち身構えて、誰だったっけと記憶を掘り起こすような真似はいつしかしなくなった。
誰でもいいのだ、村人には代わりないのだから。
ゾロにそのことを話すと、俺もまったく同じだったと同調された。
しかもゾロの場合は最初から「ゾロ」と呼び捨てだったため、俄かに親戚が増えたような錯覚にも陥ったらしい。
「あれも攻守を兼ねた、積極的なコミュニケーションの一種だと思うぜ。最初は鬱陶しいかも知れんが、そのうち慣れる」
「鬱陶しいなんてねえよ。ちょっと面食らっただけだ」
苦笑して、サンジは抜き取った雑草の束を畦道にまとめて置いた。

そろそろ日が高くなってきたからと、木陰で休息に入る。
フードを外して首に巻いたタオルで汗を拭き、木の根元に腰を下ろした。
早昼用にゾロが作ってくれた握り飯を頬張り、よく冷えた麦茶で喉を潤す。
「あーうめえ」
「握り飯がでかすぎたか」
ゾロのでかい手で握るのだから、飯粒の量が半端なく多い。
けれどそれがまた豪快で美味い。
「こんくらいで丁度いいよ。俺腹減ってたし」
「空腹は最大の調味料、だろ」
「まったくだ。プラスこの景色だな・・・」
サンジは口端に米粒をくっ付けたまま、悪戯っぽく笑った。
茶化してはいるが、ゾロのお握りは文句なしに美味かった。
なんせ新米で握ってあるのだ。
多少粒が潰れてようが真ん中に梅干しか入ってなかろうが、この美味さには敵わない。

「日差しは相変わらずきついけど、風が涼しいな」
「もう秋だからな」
黄金色の穂が揺らめく田んぼは殆どなくなり、稲刈り後の殺風景な農地が広がっている。
けれど吹き渡る風は香ばしい稲穂と土の匂いがして、秋そのもののような力強さを感じさせた。

「天高くって言うけど、ほんとに空が高いんだな」
サンジは仰向いたまま、しみじみと呟いた。
バラティエで暮らすだけの日々では、空が高く見えるなんて考えたこともなかった。
空なんて高いものだろうに、なんで秋の空が高いと言うのか。
今、理屈ではなく現実のものとしてその事実を目の前にしている。
本当に空は高い。
雲があんなにも遠く、真っ白に際立って見える。


9月に入り待ちかねた休日、サンジは始発の電車でシモツキにやってきた。
ゾロには連絡してあったから朝から早々と迎えに来てもらい、午前中から田んぼに出ている。
今回俺は働くぜ!と意気込みを見せたサンジに、ゾロはそれならと水色花柄の農園フードを差し出した。
なんでも隣のおばちゃんが、サンちゃんが日焼けするといけないからと手ごそと一緒にプレゼントしてくれたらしい。
知らないうちに準備万端だ。

「後はざっと刈るだけだから、先に家に帰ってていいぞ」
ゾロが握り飯を入れていた包みを仕舞い直しながら振り向くと、サンジは地面にぺったりと寝そべってなにやら片手を挙げていた。
「何してんだ?」
「ゾロ、おれ新発見」
肘を地面に着け、やや得意そうにゾロを振り仰ぐ。
「赤とんぼって、一度止まった場所にもっかい帰ってくる習性があんだな。だからこうして――」
枯れた草の茎の先に止まっていた赤とんぼが、サンジの腕の動きに驚いたかついと飛び立った。
すかさず、その茎に沿わせるようにして人差し指を立てる。
空中を旋回して戻った赤とんぼは、茎に止まるつもりでサンジの人差し指に止まった。
「な。こうして待ち構えてっと、さっきの場所と間違えて指に止まんだよ」
赤とんぼは鬱陶しいくらいにあちこちに飛んでいる。
もう片方の手で一匹を飛び立たせ、すかさず元の場所に指を立ててやれば、面白いほどきちんと指に止まってくれる。
「ほら、こういうこともできんだぜ」
サンジは右手に3匹、左手に2匹も止めて、じゃ〜んとゾロに差し出した。
人間の指に止まっていると言うのに、赤とんぼはやけに安心しきって平然と並んでいる。
ゾロは軽く目を瞠ってから、すげえと呟いた。
「トンボ使いだな」
「なんだよそれ、どんな職業だ」
サンジが腹を抱えるようにして笑った。
5匹のトンボはそんなサンジを囲むように一斉に飛び立ち、青い空へと舞い上がる。
「さて、んじゃお言葉に甘えて先に帰るわ」
「おう。俺も済ませたらすぐ戻る」

サンジは立ち上がり砂埃を払うと、農園フードを被り握り飯の入っていた風呂敷を持って、テクテクと歩き出した。
少し大きめの長靴がガッポガッポと間抜けた音を立て、泥土の足跡を農道に残して行く。
その後ろ姿を見送って、さっさと片付けてしまおうとゾロはタオルを首に巻き直してコンバインに乗った。




「あーあちー」
秋とは言えど、残暑が厳しい。
真昼の太陽は容赦なく照り付け、わずかの距離を歩いて帰るのも結構体力を使った。
泥だらけの長靴を川戸で申し訳程度に洗って、玄関で脱ぐ。
上がりかまちに腰掛けたら立ち上がるのが億劫になって、そのままずるずると四つん這い状態で台所に入ってしまった。
冷蔵庫の扉を開けて、冷やしてあったレモン水を取り出す。
喉に沁みるような甘みと酸味で、身体中の細胞が潤ったような気がした。
「あーうめ〜」
声に出して息をついて、胡坐を掻いた。
もう一杯レモン水を飲んで、よっこらしょと立ち上がる。

洗面所に入ってから鏡に映る自分の姿で、まだフードを被ったままだったことに気付いた。
「わ、なんだこれ。モロおばちゃんじゃん」
どこからどう見ても、立派なおばちゃんスタイルだ。
これでどうして、村の人は自分がサンちゃんだとわかるのだろう。
一人で首を傾げつつ、フードを脱ぎ汗ばんだ作業着を洗濯機に放り込んでシャワーを浴びた。

さっぱりとしたTシャツと短パンに着替えていると、玄関からただいまーと声が掛かった。
「おかえり、早かったな」
「おう」
サンジよりさらに汗みずくで、ゾロがドロドロの足のまま上がってくる。
「こら、靴下を脱げ」
冷蔵庫からレモン水を出してゾロに手渡しながら、足だけを使って器用に脱ぎ捨てられた靴下を拾う。
「ズボンの裾も汚れてんな。脱げ」
「・・・追い剥ぎか」
それでもゾロは抵抗なく廊下でパンツ一丁になり、ズボンと靴下を抱えたサンジはそのまま表に出て川戸に向かった。
夏でも関係なく水量の豊富な小川で、ざぶざぶと泥を落とす。
粗方汚れを洗い流してからきつく絞り、また家の中に入った。
浴室でシャワーを浴びるゾロのシルエットを横目で見ながら、洗濯機をセットする。
「スタートすっから、ちょっと温度変わるかもよ」
「ボイラー使ってねえから大丈夫だ」
お急ぎ設定で回してから、台所に戻った。
簡単なおやつの仕込みをしている間に、ゾロがさっぱりした顔で上がって来る。
「昼寝すんぞ」
「あー待って、洗い物だけ干しちまう・・・」
そこまで言って、別に待たなくていいじゃんと自分で突っ込んだ。
なんで仲良くお昼寝スタートをしなければならないのだ。
ゾロはその辺頓着しないのか、畳に胡坐を掻いて新聞などを広げ「待ち」の姿勢だ。
先に寝てろと言いかけて口を開いたら、洗濯機が終了の電子音を鳴らした。
そのまま洗面所に取って返して、よく日の当たる中庭に手早く衣類を干してしまう。

「うし、んじゃ寝るか」
ゾロは座布団を二つ折にして一つを自分の枕にし、もう一つをサンジの方に投げて寄越した。
軽く受け取って、一人タタミ一畳くらいを目安に距離を取って寝転がる。
「雨は、大丈夫だよな」
「少し翳って来てっが、天気予報は大丈夫だったぞ」
そう言うゾロの口調が、すでに緩い感じになっている。
見る間に瞼が下がり、軽い寝息が聞こえてきた。

「いつもながら、早っ」
一人ごちて、サンジは枕を顎の下に当て腹這いになる。
古い畳の匂いが鼻を掠め、縁側から眺める庭は真昼の光に満ちていた。
先月、やかましいくらい鳴いていた蝉の声はまったく聞こえない。
その代わり庭木の梢に飛び交う野鳥のさえずりが、心地よい音を響かせてくれている。
「なんか、贅沢だな」
まだお天道様が高い頃に、二人でごろんと涼しい屋根の下に寝転がるなんて。

身体はクタクタに疲れているのに、なんだか眠るのが惜しくて枕に頬を引っ付けたままゾロを見た。
右手を上に挙げ、左手を中途半端に横に曲げて、やや真面目な顔付きで眠りに入っている。
引き締まった腹が呼吸に合わせて上下し、着替えたばかりのシャツの白さがよく焼けた肌に映えた。
目を閉じた無表情な横顔は端整で、知的にすら見える。
草色の髪が少し伸びてきたのか、それとも水分を拭き取り切れなかったのか、額に少し毛先が掛かっている。
それを梳いてやろうと手を伸ばし掛け、途中で止めた。
―――いやいやいや、なんか変だろ

眠る男の額を撫でるなんて、例え友人同士でもやや不気味な所業だ。
そんなことして、ゾロが起きたらなんて言い訳していいかわからない。
そう思って引っ込めた手を、顎に当てた。
―――あれ?
何かが引っ掛かる。
何か、ゾロが何か言っていたような気がする。
触りたい時に触ればいいとか、なんとか―――

サンジは顎に手を当てたまま、え?と首を傾げた。
なんだろう、この記憶は。
確かにゾロの声でそう聞いたような気もするが、それがいつだったかさっぱり思い出せない。
自分に都合のいいように脳内で捏造してしまった幻聴だろうか。

もう一度、眠るゾロに視線を移した。
サンジの戸惑いなど知らぬ気に、相変わらず真面目な顔でくうくうと寝息を立てている。

触れても、いいのだろうか。
あの髪に、秀でた額に、無防備に投げ出された腕に。

サンジは自分の中に突如湧き出た欲求に慌てふためいて、ごろんと寝返りを打ちゾロに背を向けた。
―――何考えてんだ俺
つうか、なんで男に触れたいとか思うんだよ俺

両腕を胸に抱いて身体を丸めれば、自分の鼓動がとくとくと忙しなく高鳴っていることに気付いた。
庭からは涼しい風が吹いてくるのに、火照った身体は妙な汗を掻いて、畳に触れた肌が湿る。
―――なんか、変だ俺
ゾロの言葉に甘えて、気安く触れてしまうかもしれない。
そもそもその言葉が本当にあったことかどうかわからないのに、覚えのない記憶に唆されてしまいそうだ。

サンジは枕に頭を乗せ直すと、目を閉じて眠ることに集中した。
背中越しに、かすかな鼾が聞こえてくる。
風に乗ってゾロの髪の匂いが流れてきた気がして、サンジはうっとりと目を細めた。

ゾロの呼吸、ゾロの気配、ゾロの心音。
ああ、側にゾロがいる。

なぜか安心して、強張った手足を解すように仰向けに寝直した。
縁側に続く欄間から、青い空が覗く。
やっぱり高い、遠い空だ。
そんなことを思いながら、サンジもいつしか眠りに落ちた。


next