峠の狼 -2-


朝靄に煙る山道を登れば、見覚えのある掘っ立て小屋を見つけた。
外観は「掘っ立て小屋」としか形容できない粗末な家だが、中に入ればなかなかの設備が整えられている。
言わば穴場、知る人ぞ知る通のための酒場スポット。
なんて噂が最近流れ始めているので、ゾロとしてはそろそろ潮時かとも思っているのだが。

ともあれ、なんとか見知った住処を見つけて、ゾロは足を止めて後ろ頭をボリボリ掻いた。
真夜中に訪れた客を、夜明けまでに麓の村まで送り届けたのが夜明け前。
それから2回ほど夜を過ごして、ようやく帰って来た。
夜道でも下るのに4時間もかからなかった山道を、なんで元通りに帰ってくるだけで丸2日掛かるのか。
このネタで、また3日ばかりサンジにからかわれるのだろう。

さしたる言い訳も思いつかないままぶらぶらと歩を進めると、扉が開いてふらりと黒い影が姿を現した。
それに続いて、がっしりとした体躯も現れる。
「ありがとうよ、助かったぜ」
「なんの、お安い御用です。他に運ぶものありませんか?」
小山のような身体を丸め、サンジの後ろにややくっ付き過ぎなくらい近付いて愛想笑いをする男につい視線が行ってしまった。
びくんと反射的に姿勢を正してまるで気を付けするみたいに伸び上がった男が、ゾロに気付いて苦笑いを浮かべる。
サンジは右手をポケットにしまったまま、左手で煙草を挟み、ことさらゆっくりと煙を吐いた。
「よう、お早いお帰りだな」
サンジの嫌味にも応えず、大股で坂を登る。

「すまんな、世話かけたみてえで」
「いいえ、どうってことないっすよ」
牛乳屋の倅は、やや険のある目付きで近付いてきたゾロに臆することなくそう応えると、サンジに振り向いてにっこり笑った。
「いつでも言いつけてください。サンジさんのためならすぐに飛んできます」
「ありがとうな、また飯食いに来てくれよ」
サンジの笑顔に照れたように頭を下げて、牛乳屋はゾロの横を通り抜け、のっしのっしと坂を降りていった。
その後ろ姿を目で追うゾロに、サンジが釘を刺す。
「素人相手に覇気使うんじゃねえぞ」
「そんなんするかボケ、つかなんで俺があんな小物相手にそんなことするってんだ」
「・・・しそうだぞ」
こいつにこそ使ってやろうかとぎろりと目玉を動かせば、サンジは後ろを向いたまま左手を軽く振った。
「いいから、さっさと飯にしようぜ。お前、2日ぶりの飯だろ」
確かに2日ぶりの飯だ、しかも朝飯。
思い当たれば急に腹が減った気にもなるが、なんとなく腹の底は別のものでムカムカしている。

普通、ゾロと対峙した場合、大概の男はその雰囲気だけで圧倒されて萎縮するものなのだ。
だがどういう訳か、間にサンジが入るとその状況が違ってくる。
大体が若い男、しかもどうやらサンジに好意を寄せているらしい若造と言うものは、本能で強さを感じ取ったとしてもゾロに対して敵意を剥き出しにしたり虚勢を張ったりしたがる傾向にある。
これはなんだ、雄の闘争本能って奴なのか?
そういやルイジもそうだったなと、ふと思い出して苦々しいやら懐かしいやら・・・

「おい、早く来いってんだ!」
ゾロの分析など知るはずもなく、気の短い恋人は引き返して怒鳴りつけてきた。
返事の代わりに大股で家に入ると、その勢いのまま突進して後ろからがばりと抱きつく。
「・・・なんだってんだよ」
呆れた声を出す口元から煙草を抜き取ると、挨拶代わりに濃厚なキスをかました。
押し付けられたカウンターに左手を着いてゾロの重みをなんとか支えながら、サンジは舌を絡めてその情熱に応える。
お互いに音を立てて啄ばむような口付けへと変化させ、最後にサンジからゾロの頬へとキスを施して笑顔で離れた。

「おかえり、だから飯な」
ようやく満足して、ゾロはうんと素直に頷いた。





ゾロが久しぶりの食事にありついた頃、顔なじみの村人達が次々と朝食をとりにやってきた。
男相手なら無愛想に、女ならば年齢は関係なく笑顔を見せて、サンジはカウンターで手際よく料理を作っていく。
右手が動かない分、左手のみを器用に駆使して不自由さを感じさせないスピードで調理を進めるサンジの動きを横目で見ながら、ゾロは静かにコーヒーを啜った。

二人がここに居つくまでは、日が暮れてから山に入れば生きては越えられないとまで恐れられた峠だったらしい。
この店自体、昔は老婆が一人で茶屋を営んでいた名残だそうだが、ゾロとサンジがここに来た時にはまさに
狐か狸の住まいとしか言えないような朽ち果てた廃屋だった。
そこに居を構えたのはそれなりの理由があったからだが、店まで営むつもりは、少なくともゾロにはなかった。
だが、元々サンジは「何もしないで日々を送る」ことができない体質だ。
いつでもどこでも何がしかの努力を伴って働き続けるのが性に合うらしく、勝手に小屋を改装して(実際に
動いたのはゾロだが)店を始めてしまった。
一時の仮住居のつもりで住み着いたのに、山賊に追われた旅人を成り行きで助けた辺りから雲行きが
怪しくなっていった。
迷い込む旅人達の怪我の手当てや食事の世話を、一応は有料でする内に、いつしかこの家は避難所の
ようになり、休憩所のようになり、茶屋のようになりで、今では立派な食堂だ。
趣味と実益を兼ねているのだし、ゾロとしたら文句を言える筋合いでもないのだが、やはりあまり面白くない。
船を降りてしばらくは、二人でのんびりと過ごそうと勝手に算段していたのに、いつまでたっても慌ただしく落ち着かない毎日だ。

「あんたらのお陰で、この辺りの治安も、すっかりよくなったねえ」
そう言って笑いながらつまようじを噛む村の古老を内心苦々しく思いながらも、ゾロは表情には出さないで
黙って新聞などを広げていたりする。




「コーヒーのお代わり、勝手に回すよ」
「おう、足らなかったら言ってくれ」
勝手知ったる客にテーブルを負かせ、サンジは調理に没頭している。
フライパン一つを振るうのも片手一つでは不自由だ。
だが、サンジは工夫を凝らし根気よく作業を続けて、多少時間は掛かるものの美味い飯を作り上げていく。

その過程にあって、少しずつではあるがサンジの右手が動きを見せ始めたことに、最初に気付いたのはゾロだった。
神経の筋が切れて二度と動かすことはできないだろうとチョッパーでさえそう見立てた右手が、僅かであるが
左手の流れに沿うように動き始めている。
最初は肩から二の腕そして肘へと、上半身の揺れからくるものだけでない、明らかな動きの変化をゾロに
指摘されて、一番驚いていたのはサンジだった。
右手が利かなくなって、すでに5年以上経過している。
すっかり諦めて、片腕のみでの調理に慣れていた今頃になってなぜ回復の兆しが見え始めたのか。

「もしかして、必要性からかなあ」
船を降りて街に暮らしていた時も、喫茶店を手伝って調理はしていたが所詮「手伝い」程度で気楽なものだった。
船に帰ってキッチンを担当しても、すでにコックのジョナサンが存在したから補助的な役割に徹するのみで、一人で切り盛りするような忙しさはなかった。
だが今はゾロと二人で陸路を旅し、食事の全般を一人でこなしながら尚且つ、街に立ち寄る度に飲食店で
アルバイトなんかもしてきた。
ゾロはことあるごとに「金がなくなれば俺が稼ぐ」と豪語しているが、賞金首が賞金稼ぎってのは人道的に
どうだろうと疑問を呈して、自分なりに生活の糧を得るべく積極的に働いている。
そのせいだろうか、5年以上のブランクを経てサンジの右腕が少しずつでも蘇っていく様を目の当たりにして、ゾロはずっとその回復を見守ってきた。
サンジの右手が、元通りとまで行かなくともなんとか動くようになるためなら、自分はなんだってするだろう。
殊勝なようでいて、その根源はあくまで身勝手な願望なのだが、ゾロは真剣にそう思っている。



「んじゃ、そろそろ仕事すっかな。ごちそうさま」
「サンちゃん、今日も美味しかったよ、ありがとう」
「何よりですレディ、お気をつけて」
腰の曲がった老婆にだけ恭しく礼をしながら、客達を戸口で見送る。
この店は朝食がメインで昼間は旅人相手に軽食とおやつ程度。
夕方以降は明かりだけ点けるが原則店は開かない。
ゾロとサンジが住み着いて以来、山賊は勢力を弱めたとはいえ、一掃した訳でもするつもりもないから危険な
峠であることに変わりはなかった。
長く留まる場所でもないから、いつ立ち去ってもいいようになるべく周囲の環境は変えないように心がけている。
もとよりお尋ね者なのだから、目立たず荒らさず慎ましく…をモットーに生活すべきだと主張しているサンジなのに、その張本人が一番目立つ存在になってしまっていることに、果たして自覚はあるのだろうか。

「さって、俺あ片付けるからよ。てめえしばらく寝てたらどうだ。昨夜は寝てねえんだろ」
「…ああ」
実は昨日は山の中で丸一日寝ていたとも言わず、ゾロは両手を上げて大きく伸びをしながら立ち上がった。
部屋に向かいながら横目でサンジを見れば、片手で器用に皿を積み重ねている。
いつもならぶらりと下がったままの右手の、肘がやや上がっているのを認めて、ゾロは一人目を細めた。
サンジは、自分では気付かないのだ。
そのことに最初に気付いてやれること、そして最初に告げてやれることが、単純に楽しい。




峠の夜は早い。
慌ただしい一日はあっという間に終わり、四方を囲む山並みが朱色に染まる頃、サンジは灯りひとつを残して店仕舞いし、ゾロと二人分だけの食事を作り始める。
ゆったりと惰眠を貪ったゾロは、まだ寝呆け眼で生欠伸なんかをしながらテーブルに着き、勝手に一杯やり始めた。
昔はゾロが酒を飲みだすと、なんやかやと文句をつけては嗜めていたサンジだったが、再会した時からその手の小言を聞くことはない。
経済事情の違いと言うよりも、お互い大人になったからだろう。

グツグツと鍋が煮え、サンジの鼻歌と共に包丁の音がリズミカルに踊る。
戸外から届くのは虫の音のみ。
あまりに静かで穏やかな日々。

「あいつ、親の死に目に会えたかなあ」
不意に、サンジがポツリと呟いた。
「さあな」
あの若者を、ゾロは麓の村まで送り届けただけだ。
その後どうなろうと知ったことじゃない。
「間に合って、ちょっと話とかもできたらいいのにな」
俯いて料理に没頭しているサンジの横顔が、ふと和らぐ。
遠い海で同じように包丁を奮う、養い親を思い出しているのだろうか。
サンジにとって、父と息子と言えば思い起こすのはゼフのことだろう。
意地を張り合っても、内心では思いやっている不器用な親子。
そう考えれば、この間の若造も他人事とは思えまい。

「どうだかな」
対して、ゾロはやや冷淡だ。
父と息子と言えども、所詮は違う人間同士。
成長すれば親子の情だけではどうしようもない問題も湧き出るだろうし、決して相容れない事柄も発生しうる。
我が身に例えて考えて見れば、そう単純に仲直りとかねえだろうと、やや意地悪く考えてしまうのだ。
「ったく、てめえは何もかもに無関心過ぎんだよ。大剣豪になったら夢もそれまでだよな」
ゾロの目の前に乱暴に皿を置きながら、サンジは一人で言って一人でしまったとばかりに顔を顰めた。
逐一見ているゾロからすれば、一人百面相だ。

「まあ、剣豪になったらなったで今度は野郎からの誘いが大変だからよ。雑魚相手でもせいぜい油断しねえように気を付けな」
フォローのつもりかも知れない訳の分からない台詞を吐いて、サンジはゾロの手前に座ると左手でつっけんどんに
酒を突き出した。
どうやら注いでくれるらしい。
ゾロは黙って杯を受け、サンジに注ぎ返した。
その頃にはサンジも気を取り直していて、機嫌よくグラスを傾けて村の噂話なんかをとうとうと語りだす。
子牛が生まれただの今年は麦が豊作だだの、その程度のことだ。

不慮の事故でサンジが船を去ったのは7年前。
再会して、二人だけで船を降りてからももう1年が経つ。
それでも、一向に二人の距離が縮まった気がしないのは、離れていた時間が長かったせいだけではないだろう。
サンジの中には、年月だけでは拭いきれないゾロへの負い目がある。
自らの意志で、麦藁海賊団へ帰還しようとはしなかったこと。
ゾロが大剣豪となった場面に立ち合えなかったこと。
怪我を理由に、自分の夢に自分から背を向けたこと。
偶然の悪戯とは言え、ゾロに似た男を愛してしまったこと。
それはゾロの実の息子だったこと。

数え挙げれば切りがないほど、サンジにはゾロに対して負い目を感じる理由がある。
それらのすべては、常にサンジに付きまとい日常のほんの少しの会話のなかにも影を潜めて存在するのだ。
そのことを、ゾロはずっと気付かないふりで通してきた。
今更どうなることでもないし、サンジを責める気持ちもない。
ただ、サンジがいつまでもそのことを引きずっているのが嫌だった。

ゾロが勝手に酒を飲むことを咎めないのは、ゾロへの遠慮がそうさせているのかもしれない。
横たわるサンジに手を伸ばせば、見つめ返す蒼い瞳が和らぐのに、それがまるで媚を含んでいるかのように映る。
そんな風に、邪推してしまう己自身に反吐が出そうだ。




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