峠の狼 -1-


夜のうちに峠を越えるのは危険すぎると、麓の村人たちは口々に引き止めてくれた。
その厚意を振り切って道を急ぎ、夕暮れを山の中で迎えてからはずっと追われている。
山賊が横行する峠だと知らされてあらん限りの武器を携えて来たものの、すでに弾は撃ち尽し刀も数本
賊の元に置いてきてしまった。
今度襲われたら丸腰も同然だ。
金品どころか命もないだろう。

一分一秒でも早く故郷に帰りたいと、焦る気持ちが死を招いたのか。
親の死に目に間に合いたいがために命を落とすなど、なんて本末転倒な話だ。
これこそ究極の親不孝だろうと自嘲しながら、血で濡れた腕を押さえ獣道を闇雲に走った。
背後で風と共に轟くのは山賊の怒号か、獣の咆哮か。
どちらにしろ、逃げ道はない。
追い詰められるばかりだ。

ふと、目の前の繁みが開け道に出た。
頂へと続く山道を目で追うと、曲がり角に灯りが見える。
日もとっぷりと暮れ、月の光さえ雲に遮られて何もかもが闇に包まれた山中で、そこだけくっきりと灯が
浮かんでいた。
助かったのか、それとも何かの罠なのか。
飛んで火にいる夏の虫となろうとも、今の頼りはあの灯りしかない。
傷付いた腕を抱え、挫いた足を引きずりながら、真っ直ぐに灯りを目指した。

近付いてよく見れば、小さな茶屋のようだ。
木でできた粗末な小屋だが、確かに外灯が点けられて窓からも温かな光が漏れている。
山賊に襲われて命からがら逃げてきた状況なのに、そこだけやけにほのぼのとした雰囲気があって、
まるで狐に化かされたような気分だ。
訝りながらも、そっと扉を押してみる。
小さな軋みを上げながら、扉はゆっくりと開いた。

「らっしゃいやせ、クソ野郎」
穏やかな声音だからつい聞き逃しそうになったけれど、随分と乱暴な挨拶だ。
いや、そもそも声を掛けてくれるような人間が中にいたのだろうか。
灯りに誘われて入ってきたのに、中に人がいることに素直に驚きながら恐々と足を踏み入れた。
「こ、こんばんは」
まるで別世界に迷い込んだようで、目を白黒させながら家の中を見渡す。
中は案外と広く、中央にバーカウンターが設えてあった。
テーブルとイスも配置され、ちょっとした酒場のようだ。

カウンターの中に、男が一人立っていた。
暗い照明の下でもほのかに光る金髪に咥え煙草、黒いスーツを身に纏い布巾でグラスを拭きながら
じっとこちらを見つめている。
―――狐かな
こんなところに棲んでいるのは狐狸の類だろうと勝手に思い込んでいたから、そう分類付けてしまった。
妖力の強そうな黄金色の狐だ。

「珍しい時間のお客だな、腹減ってるのか?」
問われて、反射的に腹の虫が鳴る。
だが今は、それどころではない。
自分の立場を急に思い出して、腕を擦りながらそっと近付いた。
「あの、すみません・・・山賊が出たので」
なんだか間抜けなことを言ってしまった。
山賊が出たからどうだというのだ。
逃げて来たので匿ってくださいとも言えず、一晩過ごさせてくださいと頼むつもりもない。
何せ自分は先を急いでいるのだ。
だが、このまま再び山へ出れば恐らく命はないだろう。
「それで、何か武器を貸してもらいたいのですが・・・」
男は煙草を咥えた唇を引き上げ、口端から煙を吹き出した。
長い前髪から覗いた片目が笑っている。
「そりゃ勇ましいな、ここで夜明かししねえのか?」
やっと真っ当な言葉を掛けてもらってほっとした。
「はい、そうしたいのは山々ですが、とても急いでいるんです」
「山賊がウヨウヨしてるこの山に、夕暮れ時に足を踏み入れる時点でよっぽど急いでるんだろうとは想像がつくがな」
そう言って灰皿に吸殻を押し付けた。
紫煙が立ち昇り、男の頬の辺りで渦を巻いて流れ去っていく。

あまりに静かで穏やかな雰囲気に、今更ながら妖しさを感じ始めた。
大体、どうしてこんな山奥にバーなんてあるのか。
ぱっと見ただけでも、質素だがきちんと手入れされたまともな店だ。
清潔だし、奥の棚に揃えられた酒の種類も多い。
そこにスーツを着た男が一人。
片腕を血塗れにした男が入ってきても眉一つ動かさないで、煙草なんかを吹かしている。
―――やっぱり、化かされてんのか?
疑念が確信に変わりそうだ。

こちらの不安には構わず、男はすっとグラスを差し出した。
「まあ一杯引っ掛けていけ、どっちにしろ腹も減ってるんだろ。何か作ってやる」
―――狐か、新手の追いはぎなのか
峠の茶屋で安心させて、身包み剥ぐつもりなのかもしれない。
俄かに湧き出た警戒心で動けなくなっているのに、男はこちらを気にする風でもなく勝手に皿を出し始めた。
「ちなみに酒は600ベリー、軽食とセットだと込みで3,000ベリーな。その腕と足の手当ても2,000ベリーだ」
「え、へ?」
追いはぎかと身構えていたら、いきなり具体的な金額を提示されてしまった。
と言うことは、これはれっきとした商売なのだろうか。
「ついでに、強力な武器を貸してやる。これは25,000ベリー。このまま山を降りて途中で山賊に金と命を
 奪われるのに比べたら、随分と破格の値段だと思うがどうだ?」
そう言っている間にも、男の目の前には美味そうに湯気を立てた温かな料理が並べられていた。
「ともかく食え、クソ美味いぜ」
にかりと笑うその表情に一気に緊張の糸が切れたのか、その場でへなへなと崩れてしまった。


「大丈夫だ、出血は多いが筋や神経は問題ねえ」
手際よく傷口を消毒すると、きつく包帯を巻いてくれた。
挫いた足も濡れタオルで冷やしてくれて、食事の後にテーピングしてくれると言う。
「まあゆっくり味わって食え。お代わりもあるぞ」
口調の素っ気無さに反して男の作業は丁寧だった。
しかもほとんど片腕一本ですべてをこなしている。
動作を見ていてわかったが、どうやら右腕が効かないらしい。
片腕が不自由な男が、こんな物騒な山の中でどうして一人で商売などできるのか。
やはり狐の妖力なのだろうか。

手当てをしてもらいながら食事を続け、時々ちらりと男の顔を窺う。
色の白い、整った顔立ちの男だ。
年齢はよくわからないが、その落ち着きから察するに20代後半だろう。
長い前髪で片目は覆われているが、覗いている右目の眉が面白い形に渦を巻いているのに気付いてびっくりした。
一旦それに目が行くと、どうも気になってその部分ばかり見てしまう。

「なんだ、俺の顔になんかついてるか?」
いきなり振り向かれて慌ててぶんぶんと首を振った。
口の中のモノを喉につめそうになって、慌てて酒を呷る。
どちらにしても、急いで食べるには勿体無い美味だった。
「いえ、それよりめちゃくちゃ美味いです。俺、こんなに美味い料理初めて食べた」
名のあるレストランになんて行ったことはないが、きっと供されるのはこんな料理なのだろう。
そう想像してしまうくらい、料理の盛り付けも味も素晴らしかった。
勿体無くて、一息で食べてしまえない。
けれど喉の奥がもっともっとと引っ張るようで、がっつきたい衝動を抑えるのに必死だ。
「こんな山奥で、お一人でお店されてるんですか?」
店の中はしんと静まり返っていて、外の風音さえ届いては来ない。
まるで別世界に紛れ込んでしまったようで、あまりの居心地のよさについ長居してしまいたくなってしまう。
「一人じゃねえよ、たまーにだけど客も来るしな」
新しい煙草に火をつけると、男は横を向いてふうと煙を吐いた。
「あんたこそ、そんなに急いで山を越えなきゃならねえ理由でもあんの?」
料理を噛み締めながら、素直に頷いた。
たとえ狐や狸に化かされているとしても、もう構わない。
どちらにしろ、この酒屋から出たらまた危険な山の中に分け入ることになるのだ。
無事に家に帰りつける保証はないのだから、頼れるものなら狐だって悪魔だっていい。

「父が危篤なんです。昨日電伝虫で連絡を貰って4年ぶりに故郷に帰る途中なんですけど、ほんっとそんなに急いだって仕方ないんですけどね。今更なんです」
口元を拭ったナプキンを、くしゃりと手の中で握り締めた。
「俺、あんまり親父とはうまく行ってなくて、家出る時も喧嘩腰で出たんですよ。元々気が合わなくて、クソ親父っていっぱい怒鳴ったりして。けど、いざ親父が危ないって言われるともう、なんか血の気が引いちゃったって言うか、俺もうガクガク足とか震えてね。居てもたってもいられなくなったんです。そんなの、俺自身が一番びっくりしたんだけどね。くたばっちまえって言ったこともあるのに・・・」
男は紫煙をくゆらせながら、じっと話を聞いてくれている。
「全然親孝行とかできなかったし、親父のこといいように言ったこともなかったし。だからほんとに今更なんですよ。きっと間に合ったって憎まれ口しか言えねえと思うんだけど、それでも、それでも・・・生きてる間に親父に会いたいんです。取り返しとか仲直りとか、そういうのは絶対できないと思うんだけど、でも・・・間に合いたいんです。生きてる親父に会いたい。死んじまってから、親父の死に顔にごめんとか、そういうのは嫌なんで。だからって生きてる親父にごめんなんて、口が裂けても言わないんだけど―――」
ああ、何を言っているのかよくわからなくなってきた。

空の皿にフォークを投げ出して、頭を抱えてしまった。
なんだか、言っているうちに泣きそうになってしまった。
泣いてる場合じゃないのに。
泣けるほど、好きだった親父じゃないはずなのに。
「んじゃあ、一秒でも時間が惜しいって奴だな。強力な武器、つけるか?」
「お願いします。お代はお支払いしますので」
ご馳走様でしたと頭を下げて、刀傷だらけのリュックから金を出した。
強力な武器とやらで無事に家に帰りつけるなら、有り金全部はたいたっていい。
「そんだけいらねえよ、しめて3万ベリーだ。てめえの故郷ってこっから遠いのか?」
「いえ、麓まで降りれば隣町まで1時間ほどです。この峠を越えてしまいたかった」
「それならなんとか自力で帰れるな、麓までだ」
最後の台詞だけ、横を向いて話した。
なんだろうと首を巡らして吃驚する。

隣のテーブルに男が座っていた。
いつからそこにいたのか、それよりもいつ来たのか。
気配さえまったく気付かなかったのに。
「そいつ、最初からそこにいたぞ」
男がおかしそうにくっくと喉を鳴らしながら笑う。
最初からって、自分がこの酒屋に足を踏み入れた時からだろうか。
確かにカウンターの中にいる男の存在の方が目立ったけれど、それにしたってここまで気配を消してしまえるなんて。

「お客さんだ、無事に麓までお送りしろよ」
いきなり現れた男は琥珀色の酒をぐいと呷ると、返事の代わりに立ち上がった。
がっしりとした体躯、短く刈り込まれた緑色の髪と浅黒い肌が男の精悍さを際立たせて見せている。
年の頃は30代半ばか、鍛えられた肉体が薄いシャツ越しにも盛り上がって見えて、いかにも強そうだ。
だが切れ長の瞳は穏やかに眇められていて、威圧感はなかった。
どことなく老成した雰囲気があって、年齢がよくわからない。
「あの、あなたが強力な武器?」
おどおどとそう問えば、金髪の男がにかりと笑う。
「おうよ、とりあえずこれをくっ付けて行ったらその辺の山賊共にゃあ効果覿面だぜ。あ、クマとか山犬とかの獣系にも効くからよ」
「人を便利グッズ扱いするな」
むすっとした表情で、強面の方がイスにかけてあったマントを羽織った。
声が案外と若い。

あれ?
よく見ればこの二人の顔、どこかで見たような―――

どこだったかと首を捻っている間にも、男はさっさと戸口へ歩き出した。
「急ぐんだろ、とっとと行くぞ」
「あ、はい。お願いします」
そう言って駆け出して、くるっと振り返った。
「色々とありがとうございました。ご馳走様でした」
「おう、気をつけて帰れよ。無事に帰って来いよ」
最後の台詞は、首を伸ばして背後の男へと掛けられていた。
一体なんなんだろう、この二人って。
しかもこの男、どこかで見たことがあるような気がする。
もしかしたら有名人かもしれない。
でもなんでそんな有名人が、こんな峠に棲んでいるんだ?

首を捻りながらも、もう歩き出した男のマントを頼りに早足で着いていく。
「そいつ、筋金入りの方向音痴だから、案内頼むなー」
戸口まで見送ってくれた金髪の声に、驚いて足を速めた。
方向音痴って・・・だから、無事帰って来いって言ってたのか。
「あのーすみません、そっち獣道です。山を降りるのはこっちの道ですー」
慌てて引き止めて軌道修正をした。
確かに、これじゃあ自分が麓に下りた後この人が無事にさっきの酒場に戻れるのかの方が心配だ。
男はちょっと不服そうに口をへの字に曲げていたが、黙って後ろからついてきてくれた。


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