■となりのストーカー -9-


ふと、ゾロには珍しく真夜中に目が覚めた。
一度寝入ってしまうと命の危険がない限りちょっとやそっとじゃ目を覚まさない性質だが、隣の気配が関わると敏感になる。

――――なんだ?
覚醒したものの起き上がる気はなく、目を閉じてベッドに横になったまま耳を澄ませる。
夕方から降り始めた雨が、夜半になって激しさを増した。
叩きつけるような雨音が部屋全体に響き、時折雷鳴も轟く。
そんなやかましい状況の中で、ゾロの耳はかすかに漏れ聞こえる息遣いを拾った。
それが誰の物かと思い当たった途端、すぐに飛び起きてぴったりと壁に耳を付ける。
嵐に紛れ、呻き声と荒い息遣い、絞り出すような嗚咽が壁の向こうから聞こえてくる。
すわっ、サンジの危機か?!とゾロはすぐさま目の前の障害物を破壊した。


派手な破壊音を立て、部屋全体が揺れて埃が舞い上がる。
荒れ狂う嵐の音にも紛れようのない衝撃に、眠っていたサンジは「ひゃっ?!」と叫んで飛び起きた。
「大丈夫かっ?」
「なにっ?ってか、お前が大丈夫っか?」
壁を破壊していきなり飛び込んできた男はゾロだと認識して、サンジは目を白黒させながら毛布を抱き込みベッドに正座した。
ゾロも、壁を壊した勢いでチェストと旧型のブラウン管テレビを倒してしまい、慌てて拾い上げている。
お互い気が動転しているせいで、動きが妙だ。
「すまん、テレビ画面が割れた」
「いや、テレビ以前に色々壊れた気がすんだけど・・・」
サンジは呆然としたまま、自分の膝頭を掌で擦っている。
どう反応していいのか、さっぱりわからない。

「お前が無事ならいい」
サンジ以外は、ほとんど無事じゃない。
ゾロは部屋の中を見回し、自分以外に異常がないことを確認した。
「で、なんで壁ぶち破って来たんだ?」
「いや、お前が苦しんでるような声が聞こえたから・・・」
ゾロがそう言うと、サンジは正座したままシュンと肩を落とした。
「俺は、別に・・・」
「俺の気のせいだったか。なんか唸るような声が聞こえた気がしたんだが」
雨音は激しかっったが、ゾロはサンジの声を聞き間違えることなどないと自負している。
なので自分では聞き間違いだなどと露ほども思ってはいないが、消沈した様子のサンジに気を遣ってそう引いてみた。
「夜中に、悪かったな」
「――――・・・」
ほぼ、ゾロの等身大に壊れた壁と部屋中に散乱した瓦礫の惨状を眺め、サンジはふっと息を吐く。
「待てこら」
壊れた壁の向こうに引っ込もうとしたので、声を低めて呼び止めた。
「こんだけ人の部屋荒らしといて、じゃあなとあっさり消える気か」
「夜中だが、掃除すっか?」
「それ以前の問題だ、まったくもう――――」
サンジはベッドサイドから煙草を取り出すと、火を点けて軽く吹かした。
咥え煙草で台所へと足を運び、灯りを点けて湯を沸かす。
「コーヒーでも、飲むか?」
「いただきます」
ゾロは裸足で瓦礫を隅に寄せて、汚れた足の裏をふくらはぎでパフパフ叩きながら器用に部屋に入ってきた。





「いくら壁が薄いっつったって、こんなに脆く壊れちまうともう、どうしようもないな」
溜め息を吐くサンジの向かいに座り、壁に空いた大穴を眺めながら真夜中に二人でお茶するのもオツなものだ・・・と、当事者のゾロは暢気に思っている。
「お前が聞いた声ってのは、俺の寝言じゃねえかと思うんだけど・・・」
「寝言?」
ゾロはふと思い出して、そうかと声を上げる。
「寝言ってぇいうより、お前、魘されてたんだろ」
はっきりとした喋り声ではなく、不明瞭な呻き声はそれだったのか。
「なんか、悪い夢でも見たのか?」
添い寝してやろうか?と続ける前に、サンジは自嘲気味に口元を歪めた。
「そうだな、昔の夢、見ちまったかも」
そう言って、煙草を指に挟んだ手でカップを持ち上げる。
「昔の、夢」
「むかしむかしだ。俺がガキの頃、ここに住んでいた頃―――」
いつの間にか、雷鳴は聞こえなくなっていた。
だが激しい雨は止む気配もなく、壊れた雨樋から垂れる水飛沫が不規則にガラス窓を打つ。

「ガキん時、ここに住んでたのか」
「ああ」
サンジは目を閉じて、コーヒーカップを口元に当てた。
ゾロも黙ってコーヒーを啜る。
歪んだ窓枠から、風が吹き込む音がする。
風向きが変わると、ゾロの部屋も窓の隅から雨が吹き込んでびしょ濡れになった。
雨漏りするのも時間の問題かもしれない。
ゾロは天井に目を向けて、ボロさ加減を確認した。
まだ水が染みたような跡はない。
「――――・・・」
黙っているのは、サンジが続きを離さないかと待っているからだ。
だが、サンジはコーヒーを一口飲んだ後、煙草を吸って煙を吐くだけだ。
話を続ける気配が一向にない。
「おい」
「ん?」
「それで、昔の話だ」
痺れを切らし、ゾロは催促した。
「ここに住んでた時の話、しろ」
「え?」
サンジはなぜか照れたように笑い、煙草を挟んだ指で耳の上辺りを掻いた。
「そんなん、人の昔話なんて面白くないだろう」
「そんなことねえ。お前は、人の話を聞くのは嫌か?」
「え、俺?俺は好きだよ」
「だったら俺だって好きだ。だから、俺がお前の話を聞きたいって気持ちも、わかるだろ」
ゾロがそう言うと、サンジはしばらく考えた。
「そう言われれば、そうなのかな」
「そうだ、お前は人の話を楽しそうに聞く割に、てめえのこと話さねえ。話したくねえってなら聞かねえが、下手な遠慮してんなら無用だ」

この部屋で何度か食事を共にしたが、思い返せばほとんどゾロが話していた気がする。
サンジの方がお喋りでたくさん話すが、それは今日一日の出来事だったり上手くできた料理の話だったり、今現在の身の回りの話題だけだった。
ゾロは家族の話や子どもの頃の話など、そうでなくとも多くない引き出しを目いっぱい引き出して話していたが、サンジからプライベートな話を聞いたことはない。
「俺の話なんて、面白くねえぜ?」
「面白いかどうかは聞き手が考える。いいから話せ」
ゾロにせっつかれ、サンジはようやく口を開いた。



「ここには、母と二人で住んでたんだよ。いつから住んでたかしらねぇけど、覚えてるのはここでの暮らしだ」
「そうか」
今現在サンジは独り暮らしで、その前はバラティエで元オーナーと住んでいたと聞いている。
推理するまでもなく『サンジの母』が現在いないのではないかというのは、簡単に予測できた。
「そん時は、こんなぼろくなかったんだろ?」
無惨に壊れた壁に目を向けると、サンジはくすっと笑いを漏らした。
「それがさ、いまと対して変わんねえの。あの頃からこんな感じで、あちこちガタが来ててボロボロだったぜ」
冬になれば隙間風が吹いて、母と二人で凍えながら抱き合って眠った。
嵐が来れば、アパートごと吹き飛ばされるんじゃないかと怖くて布団に潜っていた。
「そん時から部屋は歯抜け状態で、住人も出たり入ったりであんまり定着してなかったな。お隣さんとか、俺知らなかったもん」
そう言って、空になったカップを静かに置いた。
「正直、あんまり覚えてねえんだ。俺、小さかったし」
「それが、お前がここに執着する理由か?」
ゾロがずばりと斬り込むと、サンジは首を竦めて瞬きした。
「俺が、執着って」
「一人きりになっても、ここから出ようとしねえじゃねえか。こんなボロくて寂しいアパートに、お前ずっと一人で暮らしてきたんだろう?」
「そ、れは・・・」
サンジは迷うように視線を巡らし、ゾロの顔を正面から見据えた。
「だったら、お前だって変だろ。こんな、もうすぐ取り壊されるようなアパートに引っ越してくるだなんて」
「一番安い部屋っつったらここを紹介されただけだ。俺ァ別に、雨風が凌げて寝られたらそれでいいからな」
「でも、ミホさんはもう入居者は入れないっつってたのに」
「ミホさん・・・」
言うまでもなく、あの叔父貴だとはわかったがつい復唱してしまう。
「あ、えっと、このアパートのオーナーさん。不動産屋じゃないと思うけど、とにかく普通じゃない人っぽい。その、言動も服装も雰囲気も全部、タダモノじゃない」
それはもう、よく知ってる。
ここはとぼけるべきか正直に言うべきか、ゾロはしばし逡巡した後「ふうん」と無難に相槌を打った。
「世の中、いろんな人がいるからな」
「そうだな」

少し風が弱まったようで、部屋を揺らすような轟音は聞こえなくなった。
リズミカルな雨だれが、相変わらず窓辺から響く。
会話が途切れ訪れた沈黙の中、ゾロはカップを傾けた。
いつの間にか中身が無くなっていて、残り香を吸い込んだだけだ。
「コーヒー、お代わり飲む?」
「いや」
立ち上がろうとしたサンジを制し、ゾロは真剣な面持ちで顔を上げた。
「こうして壁に穴が開いたのもなにかの縁だ、一緒に暮らさないか?」
「―――――・・・」
サンジはじっとゾロの顔を凝視してから、眉を寄せた。
「は?」
「もう、この壁取っ払っちまおうぜ」
ゾロはこともなげに言った。

「そうしたら、お互いの予定とか考えなくていいじゃねえか。一緒にいる時に飯を食う、どっちか留守なら適当にする。寝るのもトイレも洗面所も、2つ分あるんだから気兼ねしなくていい。ただ、一つの部屋にしちまえば寂しくねえだろ」
「寂しいだなんて・・・」
サンジは戸惑ったように、首を振った。
「別に俺は、寂しくなんかねえ」
「ああ、寂しがってる訳じゃねえな」
ゾロもすぐに肯定し、だが宥めるように微笑んだ。
「けど、一人で魘されることもねえだろ。またもし、お前が魘されてんのを壁越しに気付いたら、俺はやっぱり壁ぶち壊して部屋に入って来るぞ」
「なんで」
呆れた声を出すサンジに、ゾロは照れたように後ろ頭を掻く。
「俺ァなんもできねえが、お前が魘されてんなら気になるし、寂しがってるなら傍にいてえ。一人暮らしのが気楽だ出てけと言われりゃ困るが、だからって引っ越すつもりはねえ」
「――――・・・」
「お前がここに住んでいたいんなら、気が済むまでいりゃいいんだ。お前一人じゃなく俺もいるなら、そのタダモノじゃねえおっさんも無茶に追い出したりしねえだろ」

調子のいいことを言いながら、ゾロは胸の中で叔父に謝っていた。
すまん叔父貴、バイトは反故にする。

「すっかり長いしちまったな。取りあえず寝るか、明日も早いんだろ?」
明日ではなくもう今日だが、まだ2時間は眠れそうだ。
ゾロはそう言って立ち上がり、のしのしと自分の部屋へと(壁越しに)帰っていく。
「同居の話、考えてみてくれよ」
壁を跨いだところで振り返り、ダメ押しをしてみる。
サンジはテーブルに座ったまま、まだ呆然としているようだ。
「じゃあな、お休み」
二人を隔てる壁もなく、ゾロはそのまま奥にある寝床に潜り込んだ。
ここからだと、横になっていてもサンジがいる隣のキッチンの気配がよくわかる。

しばらくして、サンジが立ち上がったのがわかった。
シンクに食器を置き、そのままベッドの方に歩いてくる。
横になって見詰めていると、パジャマ姿のサンジが壁の向こうを横切った。
ベッドの位置が丁度反対位置にあり、寝転べば顔が見える。
サンジは布団を被ると、毛布を手繰り寄せて頭から被った。
夜目にも光る金髪が、枕の上に散っている。
ゾロは手枕をして、じっとサンジを見つめていた。
しばらくしてからもぞもぞと動き、サンジがそうっと毛布を下げるのが見えた。

「―――――・・・」
「―――――・・・」
ばっちり目が合ってしまった。
嫌がるかなと思ったが、サンジはなんだか照れたように目だけで笑って毛布を引き下げる。
「おやすみ」
「おやすみ」
ゾロは安心して目を閉じて、5秒で寝落ちた。



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