■となりのストーカー -3-


いつもなら目覚ましが鳴ってもすぐには起きられないゾロが、ベルが鳴る前に覚醒した。
まだ見慣れない天井を睨み、そう言えば引越ししたっけと遅まきながら思い出す。
カーテンで遮られた窓から通り過ぎる人の話し声と、ごくたまに車が通る音が聞こえた。
それ以外は静かなものだ。

耳を澄ませば、壁の向こうからコトコトと生活音が響いてくる。
このぼろアパートはよほど壁が薄いらしく隣人が何をしているのかほぼ筒抜け状態だ。
リズミカルな包丁の音。
ぐつぐつ煮た立ち、或いはフライパンで炒める音。
チーンと、レンジが止まる音までした。
コツっと壁に響いた音はなんだろうと、寝転んだまま思案する。
そうか、コンセントを抜く音だ。

目覚まし時計の針が6時58分を差したところで、布団から抜け出した。
寝間着代わりのスウェットのままで出て行きかけて、せめて顔を洗おうと引き返した。
猫が顔を洗うようにぞんざいに水を掛けてから、タオルで拭いて部屋を出る。
傾いた軒先から注がれる朝日が眩しい。
今日も良い天気だ。
くわあと欠伸を一つして、扉をノックすると「どうぞ」と応えがあった。
鍵は開いている。

「おはよう」
「おはよう、ちゃんと起きたな」
シンクに向かって立っていたサンジが、首だけ傾けて振り返った。
玄関から入ってすぐ、見渡せる場所に申し訳程度の台所がある。
ゾロの部屋と同じ造りだ。
あまり物が置かれていないから、狭い部屋でもそこそこ広く見えるのもよく似ている。
「時間ピッタリ、熱々をどうぞ」
「おう、ありがとう」
ゾロは遠慮なく、昨日と同じ席に座った。
てっきりサンジも向かい側に腰かけると思ったのに、椅子の背もたれに掛けてあった上着を取って羽織る。
「悪いな、俺もう出勤の時間だし」
「あ、食わねえのか?」
「先に食った。それ全部お前の分だから、ゆっくり食え」
テーブルの上には、名前はよくわからないが見目麗しく美味そうな料理が並んでいる。
「いいのか、いただきます」
神妙に手を合わせると、サンジは満足そうにニカッと笑った。
「じゃあな。部屋の鍵はこれ、出かけるときポストに入れといてくれたらいいから」
「そんな物騒な・・・」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ゾロがそう言うと、サンジは少しはにかんだみたいに俯いて扉を閉めた。
なんだか照れているように見え、ゾロの方が気恥ずかしくなる。

「朝も、早ェんだな」
ふと思いつき、立ち上がってキッチンの小窓から外を見た。
ちょうど、サンジが階段を下りて駅へと向かう背中が見える。
電柱の傍で立ち話している主婦二人の前で立ち止まり、くるりと軽やかな身のこなしで一回転して頭を下げた。
随分と奇妙な動きだが、主婦達はさほど驚いた風でもなく笑顔で手を振っている。
「――――ん?」
再び歩き出したサンジの後から不審な男が一人、姿を現した。
鶏のトサカみたいに毛を逆立て、サイケデリックな色の服を着て随分と目立つ男だ。
なのに、壁に貼り付いたり電柱の陰に隠れたりして、その動きがあまりにも派手で逆に目立ちまくっている。
サンジとは付かず離れずの距離でずっと後を付けているのに、当のサンジは全く気付かないのか振り向きもしない。
ゾロは、追いかけて捕まえようかと思ったがすぐに思い直した。
先ほど、サンジがおかしな仕種で挨拶をしたらしき主婦が、その男にも軽く会釈したのだ。
その様子を見る限り顔見知りのようだし、男の行動は彼女たちにとってさほど珍しいものではなく、危険性もないように見える。
「なんなんだ」
そうしている内に、サンジの姿は曲がり角から見えなくなった。
ほどなくトサカ男も見えなくなったので、ゾロは諦めて食卓に戻った。

もしかしたら、昨夜の複数の視線の一人はあのトサカ男かもしれない。
サンジの動きを四六時中見張って、ああして後を付けているのだろうか。
一体、なんのために。
「この部屋から引っ越さないってことと、なんか関係あるのか?」
ゾロは、今頃叔父ミホークから託された依頼のことを思い出した。
目的は、サンジをこの部屋から追い出すことだ。
だが、こうして初対面の相手でもさほど警戒せず飯を分け与え、あまつさえ部屋に入れて鍵まで託すという不用心振りから見ても、相当お人よしなのだろう。
どこかもっといい場所へと、引っ越しを促すのは容易い気がする。
「まあいいか」
ゾロのために用意された朝食を、ありがたく黙々といただく。
美味いのは美味いのだけれど、昨夜と比べればどこか味気なく物足りない気がするのは、なぜだろう。

食べた後の食器を洗い、昨夜の分も含めて今後の食費のつもりで5万円をテーブルに置いた。
実際にいくらぐらいの予算になるか、今夜にでも打ち合わせをしよう。
あちこちの戸締りをしてから、ふと考えた。
サンジは、鍵をポストの中に入れておけばいいと言っていたが、あまりにも不用心だ。
いつもそうしているのなら、見張っているその他大勢にも当然鍵の場所はバレているだろう。
留守の間に侵入でもされたら、大変なことになる。
「あいつ、いつもなら10時過ぎるっつってたよな」
それなら、ゾロの方が帰宅が早い。
帰ってきたら鍵を返そう。
そう思い、自分の部屋の鍵と一緒にカバンに入れてそのまま外出した。





「どうだ、一人暮らしは」
複数のバイト先を紹介してくれたウソップと、午前中のバイトで偶然同じシフトになった。
人脈が広く手先が器用で、人の好い友人だ。
「ああ、快適だ」
お互いすれ違いざまに言葉を交わしつつ、荷物の積み下ろしに励む。
「そりゃよかった。けど、飯はどうしてんだ。ずっとコンビニ弁当とかじゃダメだろ」
行動パターンを読まれているなと思いつつ、余裕の笑みで振り返った。
「隣に同い年の男がいてな。そいつがコックで料理上手で、飯を作ってくれることになった」
「なにそれ」
驚いて動きを止め、どんぐり眼をなお丸くしている。
「そりゃ美味しい偶然だけど、お前昨日引っ越したばかりだろ。昨日今日で知り合った奴に飯食わせてもらったのか?」
「おう、初対面で部屋に上げてくれたぞ」
「それなに、逆にヤバい」
ゾロが二往復したところで、ウソップも動きを再開させた。
「人に飯を食わせるのが好きで、料理の勉強になると言ってた」
「そんなお人よし、マジでいるのかよ」
「当然、食費は俺が持つようにしてる」
「そりゃまあ、そうだろうけど。まあ、いいお隣さんに当たったんならよかったよ」
隣人トラブルって怖いからなーと、そのまま世間話に移行する。
「いろんな人間が住んでるから、用心するに越したこたねえよ。まあ、ゾロならなんも怖がることなんてねえな」
「肝に銘じておく」
腕っぷしには自信があるから自分のことに不安はないが、あのお人よし過ぎるお隣さんの身の上はかなり心配だ。
それとなく、見張ってやった方がいいかもしれない。
今後どうしようかなと考えながら黙々と働いていたら、ウソップの三倍のスピードで仕事を終えてしまった。



午後は大学で講義を受け、夕方から別のバイトのシフトに入る。
夜8時過ぎに一旦帰宅するため、アパートに戻った。
警備の仕事は11時からだから、部屋でサンジの帰りを待つことができる。
とっぷりと日が暮れて、外灯の影は色濃い闇だ。
賑やかだった駅前とは対照的に、一本路地に入ると人影もまばらだ。
アパートが開発地区のど真ん中にあるせいで、人気がなく足元も暗い工事現場を通り過ぎなければならない。
自分は別にいいが、サンジの一人歩きは危ないのではないか。
そんなことを考えていたら、目の前にすっと影が過った。
――――おいでなすったか。

角を曲がった辺りから、ずっと見られていることに気付いていた。
初日に感じた視線の主かどうかはわからないが、複数の視線の一人だろう。
ゾロは足を止め、顔を上げて相手を見た。
同じくらいの背丈の、顔色も人相も悪い男だ。
短く刈った頭にバンダナを巻き、目の下にうっすらと隈が浮いている。
一目見てジャンキーかと危ぶむほどに目つきがヤバく、こんなのがサンジを見張っているのかと思うと怒りが湧きそうになる。
「俺に何か、用か?」
臆せず見据えると、男はぎろりとゾロをねめつけた。
「あんた、あのアパートに越してきたのか」
「そうだ」
何もかも、お前は見ていたんだろう。
そう思いつつ、男の言葉を待つ。
「一体あんた、何者だ?このアパートはもうすぐ取り壊されるから、新しい入居者なんて入れるはずがない」
「そんなん知るか。俺はたまたま、ここに越してきただけだ」
そもそも、お前こそが何者だ。
相手に問い質したいが、言葉にはしない。
ヤバい奴は、相手にしないに限る。
黙って男の横を通り過ぎようとしたが、男は足を踏み出してゾロの行く手を遮った。
「待て、お前サンジさんのなんなんだ」
「・・・別に、ただの隣人だ」
「なんだって、サンジさんの部屋に入った」
「こっちから誘われたんだ。俺が押し掛けた訳じゃねえ」
さっきから“サンジさん”呼びということは、少なくともサンジに対して害意を持っている訳ではないのだろうか。
慎重に観察しつつ、ゾロはあくまで素っ気ない態度を崩さない。
「昨日は引っ越しの挨拶をしたら、向こうから飯食ってくかと言われた」
「ならなんで、今朝もサンジさんの部屋に入った」
「朝飯も食えと言われたからだ」
やっぱり、昨夜どころか今朝の動きも把握してやがる。
ゾロはいい加減面倒臭くなって、直球で聞いた。
「あんたこそなんなんだ、あいつのストーカーなのか?」
「なん、だと?」
男はぎょっとした表情で、軽く仰け反った。
「んな訳、ねえだろ」
いや、少なくともこいつの行動は立派なストーカーだ。
「あんたの口ぶりじゃ、昨夜俺が越して来た時から、今朝飯食って出かけるまでの間も全部見張ってたように聞えるがな。あんた、暇なのかよ」
「・・・この野郎」
男の顔に憤怒の色が見えるが、拳を握りしめるだけで殴りかかってはこない。
もし相手が仕掛けてきたら叩きのめそうと思っているのに、見た目よりかなり理性的なようだ。
「こんなとこに貼り付いて野郎の尻追っかけてるなんざ、いい年してみっともねえぞ」
わざと挑発してやったが、男はぎりっと奥歯を噛み締めて睨み付けるだけだ。
「お前に、なにがわかる」
「知らねえよ。俺ぁただ、ここに引っ越してきただけだ」
話は仕舞いだとばかりに男を避けて歩くと、今度は追いかけてこなかった。
ただ、射殺すような目でじっとゾロの背中を見つめている。
仕掛けてきたら返り討ちにしてやるつもりだったが、結局そのまま部屋までたどり着けてしまった。


「トサカ男と、隈男か」
部屋に入って、ふうと息を吐く。
この傾いたアパートに固執しているらしい隣人は、少なくとも二人の男に見張られている。
一体、どういう理由なのだろう。
「まあ、世の中にゃ色々な奴がいるからな・・・」
ウソップの言葉を思い出して一人ごちていると、外で気配がした。
階段を上るこの足音は、サンジだ。
ゾロは急いで扉を開けた。
「わっ」
ちょうど隣の部屋の前に立ったところだったサンジが、驚いて振り返る。
「びっくりした」
「おかえり」
「あ、ただいま」
まだ、時刻は9時前だ。
「早かったんだな」
「あ、うん。今朝もちょっと早めに出たし、お前の夕食のこと話してなかったなと思ってさ」
そう言いながらポストに手を伸ばすのに、ゾロは自分の財布から鍵を取り出した。
「これ」
「あ、持っててくれたのか?」
「外から取り出せる場所に鍵を入れとくなんて、不用心すぎるぞ」
「うん、まあな。でも俺んちなんて、なんも盗られるようなもんねえし」
防犯は金銭だけの問題じゃねえだろ。
ゾロはそう思ったが、口にするより先に腹がぐぐ〜っと鳴った。
「あ、腹減ってるな」
「まあな」
「すぐに飯作る」
「急がなくていい、いま戻ったところなんだからちと休め」
お前はそもそも、働き過ぎた。
そう言えば、サンジはふにゃんと表情を崩す。
「あんた、優しいんだな」
「はあ?」
これには、ゾロの方が面食らってしまった。
「お前が言うか?!」
「なんで・・・っていうか、どうしようかな」
サンジは部屋の扉を開けてから、中と外を交互に見た。
「あのさ、じゃあ俺部屋で着替えてから飯作って、できたら知らせようか」
「ああ、急がなくていいからゆっくりしてくれ。そいで、知らせてくれるのなら壁を蹴ったらいい」
「壁?」
ゾロは、サンジとの部屋の境辺りを指さした。
「このアパート、めちゃくちゃ壁が薄いんだ。軽く蹴ったらすぐわかる」
「へえ、そうなんだ」
まるで今聞いたとばかりに驚くサンジに、ゾロの方が驚いた。
「知らなかったのか?」
「いや確かに、外の音結構聞こえるなあとは思ってた。でも俺の部屋は角部屋だし、こっちの部屋に人が入ったことなかったんだよ」
「そうなのか?」
そもそも、こんなぼろアパート入居者もろくにいないのだろう。
「たまに入ったと思ってもすぐ出てってさ。居つかないっていうか、一日と持たずに部屋の主が変わってんだ。だから、もしかしてこの部屋なんか曰く付きかと思ったんだけど・・・」
そこまで言って、ヤバいと首を竦める。
「悪い、俺変なこと言って・・・」
「別に構わんぞ。なんの気配もねえし」
「え?お前ってわかる人?」
「全然わからん」
あっさりと言って退けるゾロに、サンジははははと朗らかに笑った。
「やっぱあんた、なんかおもしれえなぁ。じゃあ、ちょっと待ってろ」
「おう、ゆっくりな」
そう言って、二人同時にそれぞれの部屋に戻った。




next