■となりのストーカー -12-


室内(屋根なし)でテントを利用するのは、非日常すぎて少し心が躍った。
閉鎖された空間で、額を付き合わせてぼそぼそと会話をすれば自然と親密さが増す。
冷えた外気とは対照的なテント内の温かさが、身も心も解すようだ。

「前に、母親と二人暮らしだったって言ったことあったろ?」
サンジは膝を抱え、ぽつぽつと身の上を語り始めた。
他に盗聴器などないのはウソップによって確認済みだし、ゾロが感覚を研ぎ澄ませても室内どころか半径10メートルまで人の気配はない。
だから安心して、手枕で横になりながらサンジの言葉に耳を傾ける。
「俺自身あんまり覚えてないんだけど、どうやらDVの被害か何かで、俺を連れて逃げて来たみたいなんだ」
テントの中で煙草を吸うのは躊躇われたのか、火を点けないまま指で弄ぶ。
「託児所とか利用はしてたみたいだけど、小学校に通った覚えはない。ずっとこの部屋にいて、母が帰ってくるのを待ってた思い出がある」
子どもでも暗くなったら電気が点けられるよう、壁際のスイッチではなく引き紐が長く付け足されていた。
冷蔵庫にはパンと牛乳。
お腹が空いたら自分で食べて、暗くなったら一人で眠る。
けれど朝にはちゃんと、母親が隣に眠っていた。
「夜が明けて、母と一緒に寝転びながら台所の上の小窓から覗く空を見るのが好きだったなあ」
サンジの台所は吹っ飛んでしまったけれど、ゾロの部屋の台所は無事だ。
そこから確かに外は覗けるだろうが、向かいにビルが建ってしまったから空は見えない。
「夏は暑くて、冬は寒かった。寒けりゃ毛布を巻いてたらよかったんだけど、暑いのは辛かったかな。我慢できない時は冷蔵庫を開けて、この中に入れないかなって本気で考えたこともあったっけ」
随分と悲惨な幼少期の思い出を、サンジは淡々と語る。
そんなサンジの横顔を、ゾロはじっと見つめた。

盗聴器設置という、ほぼ犯罪の領域に足を突っ込んだ叔父の所業だが、動機は純粋なものだった。
真面目に働き、気立てもよい。
礼儀正しく行儀のよい店子のサンジが、なぜアパートの取り壊しにだけは強硬に抗ったのか、その理由を知りたかったらしい。
本人いわく「魔が差して」盗聴器を仕掛けてみたものの、一人暮らしのサンジ(しかも隣近所はもういない)が独り言で身の上を語るはずもなく、しかも遠慮して仕掛けた場所が居間だったからたまに生活音がするだけでさしたる収穫もなく、ノイズしか届かない現実に飽いていた。
そこで、話し相手がいればなにか聞き出せるかもと思い付いて、使い勝手のいい甥を送り込んだということだ。

「あれは夏だった・・・のかな。蒸し暑い日だった。いつものように帰りを待って、暗くなったら電気を点けて、パンを齧って待ってたんだ」
叔父の思惑通り語り出した身の上に、ゾロは独りで耳を傾ける。
どこか寂しげなサンジの横顔にある程度ダークな過去があるのだろうと推測していたが、この後に続くだろう展開を予想して柄にもなくドキドキした。

「その内眠くなって、台所の床の上に寝転んで眠った。途中で目を覚ましたら真っ暗で、窓の外が時折ビカビカ光ってた。いま思えば、停電してたんだろうなあ」
サンジはその時のことを思い出したのか、首を竦めて小さく身震いする。
「ピカって稲光が走って、それからすぐ後にドドドーンって腹に響くみたいな雷鳴が轟いてさ。そりゃあ、怖かった。それに部屋は真っ暗だし、雨の音がすごいし。風が吹きつけて、歪んだ窓枠から飛沫が吹き込んでびしょ濡れになってたし」
暑いから、毛布を引っ被って丸くなることもできない。
ただオロオロと暗い台所を行きつ戻りつし、半泣きになりながら母の帰りを待った。
恐ろしくて目を瞑り、耳を塞いでも床から雷の振動が伝わってくる。
アパートごと風に吹き飛ばされるんじゃないか、いまにも雷に打たれるんじゃないか。
怖くて不安で寂しくてどうしようもなくて、ただただ震えていた。
「いまでも、嵐の夜は俺ァ苦手だ」
自嘲するように、口元を歪めて笑う。
ああだから、サンジはあの夜、魘されていたのだ。

「怖くてトイレにも行けなくて、バケツで用を足したりしたっけ。震えながら、でもいつのまにか寝ててさ。翌朝は嘘みたいに外は晴れてた。だけど、母さんは帰ってなかった」
母と一緒でないと、外に出てはダメだと言われていた。
だからサンジは、一人きりでずっと待っていた。
「冷蔵庫の中にあるものを食べて、暗くなったら電気を点けて。そうして一人で待ち続けた。その内、食べるものが何もなくなって、仕方なく水道の水を飲んでた。あんまり暑かったから、食欲がなかったってのもあったかな」
なんでもないことのように、そう言って笑う。
小学校にも通っていない、幼いサンジが立ったひとりきりで幾晩も過ごしたのかと思うと、ゾロの方が胸が締め付けられた。
「大変、だったんだな」
正直にそう口にすれば、サンジは困ったように首を傾げた。
「大変っちゃあ、大変だったかな。でも俺は、当時それが当たり前だと思ってたし、いまから思えば結構きつい状況だったろうなと思えるけど、どうしても他人事みてえなんだ」
火が点いていない煙草を、片手でくるくると器用に回す。
「ああ、俺って結構悲惨な幼少期を過ごしたんだなあって、そう思っても自分のことじゃねえみてぇ。あの辺の記憶がおぼろげで、はっきりと覚えてねえ。ただ、ずっとずっと待ってたって、それだけは心の奥に残ってる」
「それで、どうしたんだ?」
帰らない母親の言いつけを守って、ひたすら一人で待ち続けたのだろうか。
でもそれじゃ、真夏の部屋に子どもがたった一人でいたりなんかしたら、無事でいられるはずがない。
「その後、ほんとにぷっつり記憶が途切れてる。次に覚えているのは、髭を蓄えたおっかないジジイが俺を覗き込んでる顔だ」
当時、レストランバラティエを建設する間だけアパートに滞在していたオーナー・ゼフが階下に住んでいた。
今の通り安普請だから、真上の部屋の生活音は丸聞えだった。
けれどいつからか、話し声や人の足音がしなくなった。
とは言え無人ではなく、時折コトコトと物音は聞こえる。
なにかペットか、子どもだけが歩くような頼りなく小さな気配だ。
ゼフが気になりだしてから2週間、まったく音がしなくなった。
それが逆に気がかりで、当時の管理人に掛け合って合鍵で中に入ったのだという。

「部屋に入ったら異臭がして、痩せて乾いた俺がごろんと転がってたんだって。救急車呼んだりして、そりゃちょっとした大騒ぎだったって」
あっけらかんと他人事のように語る、今のサンジからは想像もつかない当時の悲惨さに、ゾロの眉間の皺はますます深まった。
「それじゃあ、オーナーのじいさんは命の恩人か」
「ああまあ、ちいと癪に障るがまあそういうこった。そりゃあ頑固で気難しくてすぐ怒鳴るし蹴ってくるしのクソ乱暴なジジイだったけど、それから俺のこと引き受けてくれたからな」
結局母親はそのまま見つからず、これも何かの縁だとゼフがサンジを引き取った。
レストラン完成時に、退院したサンジを連れて店の住居に移り住んだ。
「それからさ、俺もそれなりに恩義を感じて、なんかできることねえかと探して手伝いをしてみたわけだよ。ジジイには邪魔だとよく怒鳴られたけど、パティとかカルネとか・・・昔からいるスタッフのおっさん達に、いいようにからかわれたりしてたけど、まあ、結構楽しく暮らしてた」
「それでも、お前はそんときまだ子どもだったんだろ?」
ゾロに問われ、うんと頷く。
「9歳、かな。で、ガキは学校に行かなくちゃなんねえって、近くの小学校に通わされてさ。いきなり行ったって、みんなが何してんのかさっぱりわかんねえし。勉強だけじゃなく、掃除とか給食とか、まず登下校からして全然システムが飲み込めなかったし」
母親には、外に出ることをきつく禁じられていたのだ。
それが、他の子どもたちは自由に出かけたり学校とやらで知らない大人に囲まれて過ごしていたのが、まず衝撃だった。
「わかんねえからぼうっとしてっと、こいつはバカだと悪ガキどもに馬鹿にされた。悔しいのは悔しいんだけど、実際バカだったからどうしようもねえし。もう学校なんか行きたくねえって思ったけど、バカにしてくんのは男子で、女子は結構、俺に構ってくれたんだよな」
年齢より幼く、一般常識を知らないサンジにおしゃまな女子達は母性本能をくすぐられたらしい。
世話焼き体質の姉御肌なクラスメイトがいたせいで、サンジはなにかと助けられた。
「そうしてるうちに学校にも慣れて、勉強ってものもついてはいけねえけど何をしなきゃなんねえかくらいはわかってきて、掃除とか給食当番とかは得意だったぜ」
当時を思い出してか、サンジはへへっと笑う。
「そのまま中学校にも行かせてもらって、友達もそれなりにできた。けど、店の方も繁盛してたから、休みの度に店の手伝いをしてたな。その頃から、漠然とだけど将来はコックになろうって思ってた。ジジイには、一言も言ったことないけどな」
中学に上がってからは、学力も人並みになった。
背もぐんぐん伸びて、貧相だった体格も痩せ型ながらもほどよく筋肉が付いて逞しくなった。
「勉強は好きじゃねえから、高校に行くつもりはなかったんだ。そのまま専門学校に行って、どっかの店で修業して・・・と俺なりに考えてたのに、ジジイが高校くらい行け!ってすんげえ怒ってさ。蹴り合いの喧嘩して厨房ぶっ壊してカルネに泣きながら怒られたっけ」
結局サンジの方が折れて、地元の高校に入学した。
行かせてもらうからにはとそれなりに勉学に励み、夏休みはバイトをしながら将来バラティエで働けるように秘密の修行を積んでいくつもりだった。

「ジジイが、店を一週間閉めてフランスに帰ったんだ。スタッフを増やして支店を作ろうって話も出てて、海外での研修先を探すとか言ってさ」
実際には、サンジが卒業後に修行できる店を打診しに行っていたらしい。
そんなこととは露知らず、サンジはサンジなりに秘密の修行を続けていた。
ゼフが帰ってきたら、ちゃんと手を付いて今までの礼を言って、改めて店で働かせてくださいとお願いするつもりだった。
「なのに、ジジイは戻ってこなかった」
帰ってくる予定の日、サンジは腕を奮ってゼフの好物を作って待っていた。
予定の飛行機が到着しても連絡はなく、日付が変わっても帰ってこなかった。
パティやカルネに相談し、なんとか手がかりを求めて拙いフランス語で問い合わせてみた。
結果、ゼフがフランスで倒れそのまま亡くなっていたと知ったのは、三日後のことだった。
「俺はまた、待ちぼうけ食らわされてたんだ」

サンジは、半笑いの表情でゾロを見る。
けれどその瞳が潤んでいることに気付いて、ゾロは黙ってサンジの頭を抱き寄せた。
「なに――――」
ゾロの手を避ける仕種をしたが、構わずに胸に抱き込む。
止めろよと小さく文句を呟いたが、ゾロがじっと抑え込んでいるとそれ以上抗わなかった。

布越しに、サンジの深いため息が伝わってくる。
ほんのりと温かくなった胸元で、ぼそぼそとくぐもった声が聞こえた。
「俺ぁ、あれからずっと、待ち続けてるのかもしれねえ」
帰ってこなかった母を。
戻ってこなかったジジイを。
ずっと、一人きりで。

ぐしっと鼻を啜ってから、照れ臭そうに顔を上げる。
「ジジイがいきなりいなくなって、スタッフもパニックになってさ。とにかく色々やんなきゃなんねえことがあるからって、そのまま店を閉めてパティとカルネがあちこち走り回ってた。俺にはなんにもできることがなくて、でもジジイと暮らしたあの店に住み続けるのも辛くて、思い出してここに来たんだ」
思い出のアパートは、以前のままボロい状態でここにあった。
もうすぐ取り壊すからと、前の大家にも最初は断られたが強引に移り住んだ。
ここにいれば、この部屋に住んでいれば。
いつかいなくなった母親が、帰ってくるかもしれない。
もしいつまでたっても母親が帰ってこなくても、もしかしたらジジイが助けに来てくれるかもしれなに。
あの時のように――――
「馬鹿だなあ、俺」

ゾロは堪らない気持ちになって、手を引いて再びサンジを抱き寄せた。
両手を回して、胸に抱き込む。
「汗臭ェ・・・」
サンジはシャツに顔を押し当てて文句を言ったが、顔を背けたりはしなかった。
ゾロは手を背中に回し、宥めるように擦りながらサンジの髪に顔を埋める。
そうでなくとも口下手なのに、胸がいっぱいになって気の効いたセリフの一つも浮かばなかった。
しょうがないから、ただひたすらにぎゅうぎゅうとサンジを抱く手に力を込めた。
「苦しい・・・って」
さすがに辛くなったか、サンジが仰け反って喘ぐ。
ゾロは笑って、少し力を緩めた。
「待ってりゃ、いいさ」
「あ?」
「ここでずっと、待ってりゃいい」
ゾロの物言いに、サンジは眉を顰めて睨み返す。
「それをお前が言うか。待つもなにも、もう物理的に住めねえじゃねえかここ」
「なんで、こうしてテントで寝起きすりゃいいじゃねえか」
「まず外聞を考えろ。お前が思ってる以上に、このアパートの破壊具合は目立ってんだぞ。明日にはブルーシートで囲われて、事件扱いされるぞきっと」
サンジのもっともな突っ込みに、ゾロの方があーあと溜め息を吐いた。
「そんなん、放っといてくれりゃいいのになあ」
「お前が言うな」
サンジは、手を伸ばしてゾロの頬を左右にむにっと引っ張った。
つるんとして硬い頬は、全然伸びない。
真一文字に引き結ばれた唇だけがむにっと伸びて、ちょっと滑稽だ。
「ふぁにふんは」
「うるさい、お前が悪い」
そう言いながら、指を離してハァーと溜め息を吐いた。
「もう、ここには住めねえよ」
「――――・・・」
「出てくしか、ねえよ。ここは取り壊すしか、ねえ」
「――――悪かった」
神妙に詫びるゾロを一睨みしてから、ふっと肩の力を抜いた。

「いい、きっかけだったさ」
「――――・・・」
「いつまでも、こんなとこでグズグズしてちゃいけねえって、自分でも思ってた。ミホさんにも迷惑かけてたし、近隣の人達も、いつまでもボロいアパート残ってるの、目障りだったろうし」
「んなことねえ」
「んなこと、あるっての」
はっと、宙を見て笑う。
「どっかいい場所、探さねえとな」
「バラティエには、戻らねえのか?」
ゾロの言葉に、サンジははっとして振り返った。
「・・・あそこは、店ごとエースの持ち物だし」
「んなもん、ちゃんと話せばあいつだって許可すんだろう。むしろ、ここに一人で住んでることの方が心配してたぞ」
「けど・・・」
「オーナーとの思い出が多いから、辛いとか抜かすんじゃねえだろうな」
ゾロの物言いにカチンと来たか、目を怒らせた。
「んなこと、ねえ」
「だったら、そこでいいじゃねえか。それとも、本当に独り立ちする意味でまったく別の場所を探してもいい。それこそ、管理人のおっさんに他んとこ紹介してもらったらいいだろ。おかしなおっさんだが、顔は広そうだ」
「それは、そうかもしんないけど・・・」
そこまで言って、サンジははっとして顔を上げる。
「お前、どうすんだ?お前だって、ここにはもう住めねえぞ」
「そりゃあ、お前が引っ越すところに引っ越す」
「―――――は?」
サンジは怪訝そうな顔で、ゾロを凝視した。


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