地上の天使 -3-


―――今日は何事もない平穏な一日だったな。
サンジは夜の甲板で星を見上げながら、ゆったりと最後の一服をして男部屋に戻った。

仲間達の安らかな寝息と歯軋りが、静まり返った部屋の中に穏やかに響いている。
サンジがちゃんと安定剤を飲むのを見届けないと眠らないぞと、途中まで頑張って起きていたらしいチョッパーがソファで舟を漕いでいるのに気付いて、そっと起こさないように抱き上げてベッドに移してやった。
船医としての心遣いはありがたいが、別に眠れない訳ではない。
眠った後のことなどまったく自覚のないサンジは、当然のように安定剤など飲まないでいそいそと自分の寝床に潜り込んだ。

今夜の不寝番はゾロだ。
空っぽのゾロの寝床を目にしたら、何故だか寂しいような切ないような妙な気持ちが湧いて出て、サンジは頭を振った。
「やっぱり俺、こないだからちょっとおかしいのかな」
一人ごちながら毛布を頭から引っ被り、目を閉じる。
適度に疲れた身体には、眠りはすぐに訪れた。







がらんとした石造りの壁が、月の光に青白く浮き上がっている。
闇夜に半分身体が透けながら、ゾロは佇んでいた。
いつもの夜だ。
いつもの闇だ。
空にはあんなにも煌々と月が輝いているのに、ゾロを取り巻く影は深い。
まるで彼こそがこの世の異端だと、際立たせているかのように。

ゾロはふと振り向いて、サンジに気付き白い歯を見せた。
鋭い印象ばかりの切れ長な瞳は、柔らかく笑んでいる。
長い孤独の果ての疲労など露とも見せず、屈託のない笑顔は瑞々しい若さを感じさせた。

サンジはいつの間にか、両手に握り飯を持って近付いていた。
塩だけで握った、白い握り飯。
海苔を巻くとか具を混ぜ込むとか、なんでもっと工夫しなかったんだろうと、今更ながら後悔する。
けれどゾロは嬉しそうに、手を差し伸べて握り飯を受け取った。
何か言っているが、声は届かない。
握り飯はゾロの手の中にある。
ああ掴めたんだと安堵して、その口元に白い塊が運ばれるのをじっと見詰めた。

ゾロの唇が食むより僅かに早く、米粒が零れた。
ポロポロと、砂城が崩れるかのように握り飯は砕け、落ちる途中で霧散していく。
握り方が緩かったのか?
ちゃんとした米を炊かなかったのか?
驚いて手を伸ばすのに、ゾロにも握り飯にも触れられない。
ゾロはただ唖然として、手の中で消えていく握り飯を見つめていた。

折角ゾロの手に乗ったのに。
ゾロが触れられた握り飯だったのに。
やっと食べられると思ったのに。

握り飯は崩れていく。
ゾロの身体は半分透けたまま、何もなくなった手の中をじっと見詰めた。
その手を掴みたくて、肩を揺すりたくて、抱き締めたくて―――
けれど伸ばした手の先には何も触れず、ゾロの姿も揺らがない。

サンジはゾロの名を呼んだ。
何度も、声を張り上げて呼んだのに。
その響きすら、ゾロにも自分にも届かなかった。

けれどゾロは、サンジを見詰めている。
何もかも諦めたような、すべてを受け入れるような、穏やかな眼差しのままで。
何もない手を大切に重ねて、ゾロはただ佇んでいる。
たった独りで。








「ゾロっ」
自分の声に驚いて飛び起きた。
慌てて口元を抑え、周囲を見回す。
夜の闇に包まれた部屋には、鼾と歯軋りが時折響くだけだ。
サンジはほっと息をついて、跳ね除けた毛布を引き寄せた。
暑くもないのに、少し額が汗ばんでいる。

―――俺、もしかして魘されてた?
何を口走ったのか自分でも覚えていないが、かなり息が上がっている。
少しうるさくしてしまっただろうか。
今はみんな寝静まっているけど、もしかしたら以前にも何度かこんなことがあったのかもしれない。
チョッパーがそれに気付いて、それで問診にあんなことを聞かれたのか・・・

サンジは両肘を抱くようにして、毛布に顔を埋めた。
自分のことなのに、制御できない悪夢に弄ばれているようで気味が悪かった。
一体何の夢を見ていたのか、今となってはその断片すら覚えてはいないのだけれど。
何故か無性にゾロの姿を見たかった。

見張りの夜でも太平楽に眠り込んでいる、安らかな寝顔を見たい。
分厚い無胸が呼吸に合わせて上下して、シャツの布越しにでも伝わる高めの体温を肌で感じたい。
硬い筋肉に触れて、できるならその腕で抱き締められて。
真摯な光を宿す瞳で見詰められてその声が自分の名を呼んで
その唇が―――

「・・・う、あああああああああっ?!」
妄想の暴走に耐え切れず、サンジは髪を掻き毟るようにして叫び声を上げた。
つかなんだ今の。
俺一体何考えてんだよ。

ゾロの腕は温かいとか、胸板硬くて抱き締めらるとちょっと苦しいとか、唇はかさ付いてるとか、耳元で囁かれる声音はちょっと甘いとか―――

なんだそれ。
何見てきたような、体験したかのような現実感を伴って妄想してんだよ俺。
一体何事?
どんなドリーム入ってんの?

「うがあああああっ」
頭を抱えたまま無闇に腹筋を繰り返すサンジには、幸い誰も気付かない。
部屋の中は相変わらず、鼾や歯軋りが響くのみの静寂に包まれている。
無論この平穏は、仲間達の決死の努力による“寝たふり”のお陰なのだが。









朝食の席で、サンジが珍しくふわあと欠伸した。
その右隣でチョッパーがつられたように口を開ける。
またその右隣でウソップが欠伸を漏らし、その右隣でブルックが・・・
丁度一巡したかのように、豪快に口を開け大きく伸びをしながら、ゾロがラウンジに入ってきた。

「おはよう、見張りご苦労さま」
欠伸リレーを見届けてから、ナミはポンと軽快に手を合わせ、皆の注目を集めた。
「さて皆さんに、嬉しいお知らせがあります」
何事かと、全員が重そうな瞼を見開いて顔を向ける。
「明日はいよいよサンジ君の誕生日、みんなで盛大にお祝いしたいところだけど、丁度その頃近くの海域にリゾー島が来るみたいなのよね」
「リゾー島?」
聞き慣れない言葉に、チョッパーがぱちくりと瞬きした。
「グランドラインを巡っている、動力付きの人工島だ。リゾートホテルや映画館、ショッピングモールなんかも設けられていて、まさに巨大な動くリゾート地。入港許可さえ下りれば、海賊だろうがお尋ね者だろうが自由に休暇を満喫できるってえ娯楽島だな」
フランキーは知っていたのだろう。
サングラスを額に上げて、興味をそそられたように顎を突き出した。
「広いグランドラインのどこを航行しているかわからないから、探してもなかなか見つからない夢の島らしいわ」
「そりゃあラッキーだ」
行ってから、でもとウソップはどんぐり眼を泳がした。
「そんなすげえ島なら、こっちも結構するんだろ?」
遠慮がちに立てた手の親指と人差し指が、丸く形作っている。
「そ〜なのよねえ、それが問題」
ナミは勿体つけて腕を組みつつ、片目だけ開いて見せる。
「でもね、島を取り巻くコテージは割と安価なお値段で泊まれるみたい。ショッピングなんかは島の中心地に出かけて、泊まりはコテージでも充分リゾート気分は満喫できるし。そこで提案なんだけど」
ルフィ以外は食べる手を止めて、ナミを注視した。
「いつもお世話になっているサンジ君には、ぜひそのリゾー島自慢のホテルでゆ〜っくりして欲しいのよ。でもそこはリゾートホテル。シングルだと割高なのよね。そこで、サンジ君ともう一人、相部屋でホテルにお泊りできるラッキーボーイを決めちゃいましょうv」

わーいと一斉に歓声が上がった。
が、唯一慌てたのはサンジだ。
「ちょっと待ってナミさん!ラッキーボーイってなに?なんでボーイ限定?」
「あらあ、いくらなんでもサンジ君とリゾートホテルでお泊りするラッキーガールは願い下げよ私もロビンも」
「そんなクールなナミさんも素敵だーっ」
誕生日をお祝いするとか言いながらばっさり切られて、サンジは両手を合わせて感激しつつ横倒しになっている。
「私とロビンはプチホテルに泊まるわ。サンジ君ともう一人は島の中心地のホテル。残りのみんなは一つのコテージで自炊&雑魚寝よ」
えーと控えめなブーイングが囁かれたが、ナミは意に介さない。
サンジが欠けている時点で自炊は厳しいものがあるが、一応麦藁の男達は全員自立できる程度に生活能力は備えている。
ルフィ一人を除けば。

「さて、そうと決まれば公平なくじを行いましょうか!」
じゃじゃんと差し出したのは、片手に握られたこより6本だ。
ロビンとナミ、それに当事者サンジを除けた人数分が用意されている。
「このこよりのどれか一つにだけ、先が赤く塗られてるの。それに当たればラッキーボーイ。サンジ君と一緒にぜい沢なリゾートを楽しんできて頂戴」
実に簡潔に説明して、片手を突き出す。
確かに6本のこよりが握られているが、その内1つは不自然なほどに上に出て、しかもピンと立っていた。
「それじゃあお先に」
察しのいいウソップは、親指の方向にくなんと垂れたこよりを一本引き抜く。
ハズレ。
フランキーも太い指でちまちまと、垂れたこよりを引き抜きハズレた。
ブルックもしかり。
チョッパーもまたしかり。
ナミは巧みに仲間内を回って、興味のなさそうなゾロをスルーしてルフィに向き直る。
「ルフィ、どちらか1本選んで」
ルフィはもぐもぐと咀嚼しながら、当たり前みたいにピンと立ち上がったこよりに手を伸ばした。
「やっだあ、それ私のサンドイッチじゃない」
絶妙のタイミングで頭を叩かれ、手が滑る。
「はい、ルフィもハズレね」
きょとんとしているうちに、なんの印もない真っ白なこよりがルフィの手の中にあった。

ナミはたった一つ残っているこよりを握り締めたまま、その拳をずいっとゾロの目の前に翳す。
「さ、ゾロが最後よ。引いて見て」
皆も注目を一心に浴びて、ゾロはややたじろぎながらもこよりを引いた。
成り行きを見守っていたサンジが、指に煙草を挟んだまま、あ〜あと額に手を当てる。
ゾロの指の先で揺れているこよりは、赤く染まっていた。

「おおーっ」
「すげえゾロ、大当たりだ〜!」
大袈裟すぎる歓声と共に、やんやの喝采が湧き上がった。
「いいな〜ゾロ、リゾートホテルでゆっくりな」
「惜しかったなあ、残念だなあ」
「なんせ公平なくじですから、仕方ありませんねえ」
ゾロは知らぬ顔でポリポリと顎の辺りを掻き、サンジは横を向いたまま深い溜め息をついた。
「どっちにしろ、野郎と二人でリゾートなんか罰ゲーム以外のなにものでもねえじゃんか。宿代が勿体ないから俺も一緒にコテージで・・・」
「だ・め!」
ナミは指を立てて、有無を言わさぬ調子で捲くし立てた。
「いつもサンジ君に美味しいお料理やおやつを食べさせてもらってるお礼に〜って、私がわざわざ提案したのに・・・気に入って貰えないの?」
最後の台詞は少しトーンを下げ、顔を近付けて上目遣いに見上げながら潤んだ瞳を瞬かせた。
「そんなことないです!俺すんごい嬉しいーっ!!」
「でしょう?ならいいじゃない」
どさくさに紛れて抱きつこうとしたサンジの動きをあっさり交わし、ナミは満面の笑みで仲間達に向き直った。
「と言う訳で、サンジ君のお誕生日はリゾー島で決まり!おめでとう」
「「「「おめでとー!!!」」」」

盛大な拍手を受けて、訳もわからぬままヘラヘラと愛想笑いを返すサンジの隣で、ゾロは相変わらず困った
ような顔で腕を組んでいる。






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