地上の天使 -1-


雨が近いのか、ぼんやりと傘を被った月が暗い夜空にぽかりと浮かんでいる。
風が凪いで緩やかにうねる海面は、墨を流したように黒い。
シンと静まり返った船内に、打ち寄せる波の音と荒い呼吸音だけが響いていた。

「・・・ん、あ、はあ―――」
苦しげな溜め息が、長く尾を引くように漏れる。
「あ、やだ・・・や・・・」
いやいやをするように身を捩り、緩慢な動きで寝返りを打った。
かすかな月光を弾いて浮き立つ髪が、サラサラとシーツに流れ落ちる。
「やだ、ゾロっ、ゾロぉ―――」
無意識に伸びた手を、浅黒い掌ががっちりと握り締めた。
「俺は、ここだ」
低く静かに、サンジにだけ聞こえるような穏やかな囁き。
その声に瞼を開いて、眩しそうに目を細めた。
「・・・ゾロ」
目尻に涙の粒が光っている。
それを舐め取ろうと唇を寄せれば、それより早くサンジがゾロの胸に顔を埋めた。
「ゾロっゾロ・・・」
後はもう声にならず、しゃくり上げるように肩を震わせながら、逞しい首元に額を擦り付ける。
「ゾロ、あったけえ・・・」
「ああ」
ゾロの腕がサンジの背中に回され、痛いくらいの強さで抱き締めてきた。
肺が圧迫されて息苦しいのに、今はその力強さが、ただ嬉しい。
「・・・ゾロ」
サンジはゾロの胸に頬を押し付けたまま、とろんとした目でシャツの動きを眺めている。
ゾロの呼吸に合わせて上下する、白い布地。
耳から直接響くのは、ゾロの鼓動。
生きている。
ゾロは生きて、ここにいる。

「―――よかった」
安堵の溜め息と呟きは声にならず、サンジはそのまま再び深い眠りの淵へと落ちていった。


シンと、静まり返った男部屋の中。
誰もが息を詰め、声を殺して寝たふりを続けている。












「勘弁、して欲しいんですけども―――」
耐え切れず、今日の議題に提案したのはウソップだ。
いつも仲間達が集うラウンジを敢えて避け、見晴らしのいい甲板でみな車座になって座っている。
サンジは昼食の支度、ゾロは展望台で鍛錬中なので好都合といえば好都合。

「なにそれほんと?」
ナミは隠し切れない笑みを口元に押さえ込んだまま、肩を震わせながらも戸惑い気味に問い返した。
「ほんとも何も、疑うんならお前一遍、あの二人と一緒に寝てみろ」
「そんなのできるわけないじゃない」
すかさずヒールでかかと落しが見舞われるのに、寸でのところで避けたウソップはチョッパーの陰に隠れた。
「でもさあナミ、本当のことなんだよ。昼間の二人しか見てなかったら、絶対信じられないだろうけど」
ウソップは言うに及ばず、チョッパーまで目の下に隈を作っている。
「え、ほんとに?マジで?いや〜ん、ちょっと面白そうね」
「ほんっとに他人事だな、お前は!」
チョッパーの陰から抗議するウソップに、だって他人事だも〜んと肩を竦めて見せて、ナミはクスクス笑った。
「とても意外ね、あのサンジ君が夜中になるとゾロに泣きつくって」
ロビンは神妙な面持ちを作っているが、口端が微妙に引き攣っているのは誰にでも見て取れた。
「今度、男部屋にお邪魔していいかしら」
フランキーは水樽に凭れたまま、ふわあと大きな欠伸を返す。
「おう、別に構わねえぞ。んでその目でしかと確認してみろ。眉毛の兄ちゃんがしおらしく泣いてる姿を」
「ゾロさんの胸に抱かれて、ですね。それはもう、正視できないほど麗しい光景ですヨホホ〜。私、何度見ても貰い泣きしてしまいます」
「俺は何度見ても眩暈がして倒れそうになるよ」
口々に窮状を訴える男達を前に、ナミはふうんと腕を組んだ。
「まあ、ゾロはともかくサンジ君がそんな風に、脇目も振らないベタ甘カップルになるとは思わなかったわね〜。女性相手でもないのに、そういう意味で意外」
「そうね」
頷き合う二人に、フランキーはチチチと太い指を横に振って見せた。
「ところがそうじゃねえんだな」
「そうそう、話はそう単純じゃねえんだよ」
したり顔で頷くウソップに、ナミはむっとして口を尖らせた。
「だからなんなのよ、勿体ぶらずにはっきり言いなさいよ」
実際のところ、ゾロとサンジのいちゃつきぶりに当てられて不眠症になっているのは、同じ部屋に寝泊りしている男達だけだ。
ナミやロビンにとって実害はなく、まったくの他人事なのだからどうしても「話に付き合ってあげている」
程度の認識しかない。
退屈しのぎのネタとしては、とっても美味しい展開なのだけれど。

「だから、あの二人デキてねえんだ」
ウソップは額に手を当てて、うんざりとした顔で言った。
ナミは「はあ?」と怪げんそうに眉を顰める。
「・・・なんですって?」
「そうなんだナミ、ゾロとサンジは番って訳じゃないみたいで」
「けどよう、剣士の兄ちゃんはその気あるよな」
「サンジさんだって、満更じゃなさそうですよ。心の底では深く繋がっている二人です」
「だったら、さっさとデキればいいじゃねえか!」
ウソップがとうとうキレた。
「昼間は憎まれ口ばっか叩いて仲悪そうにしてるくせに、夜になるとあんあん喘いで抱き合って寝てるってのはどういう関係だ。ハッキリして欲しいのはこっちだっての!」
「え、ちょっと待って」
ウソップの剣幕に驚きつつ、両手を振って男達を宥めた。
「話を整理させて頂戴。ゾロとサンジ君って、デキちゃってる訳じゃないの?」
ウソップ達は腕を組んで、大きく頷いた。
「それなのに、サンジ君は毎晩・・・喘ぐ?」
またしても頷く。
「んでもって、ゾロの胸の中に顔を埋めて泣くわけね」
「そして、泣きながら眠りに就くと」
ロビンのフォローに云々と頷いてから、誰からともなく大きく溜め息をついた。

「・・・別に、いいんじゃないの?」
しばしの沈黙の後、ぼそっと呟いたナミの言葉に、男達はがくりと肩を落とした。
「だろ〜、俺も結局そうなるんじゃないかと思ったんだけどよう」
「馬鹿言うな、あんなこと夜毎繰り返されたらこっちが寝不足になる」
「でもだからって、デキてないもの引き剥がすことできないじゃないか〜」
喧々囂々と言い合う男同士も、どうやら意見が合っていないようだ。

「そもそも、サンジに自覚がないのが一番厄介なんだよ。どうも夢遊病の一種らしくて、夜中に喘え・・・もとい、魘されてることもゾロに泣きついてることも覚えてないんだ」
「最初にそれ指摘したら、馬鹿言うんじゃねえって蹴りつけられて、死ぬ目に遭ったからな」
「でも、自覚がないままでは改善のしようもありませんヨホホ〜」
ナミは腕を組んで、人差し指でトントンと顎の下を叩いた。
「つまり、ゾロはともかくサンジ君の行動は自覚なしで行われてるってこと?しかも夢遊病って、夢に魘されてるってことかしら」
「だから性質が悪いんだよ。諌めようにも本人は知らん顔だし、魘されてる時に起こして説教したくても、絶対側にゾロがいるから」
ウソップはその場面を思い出したのか、両手で自分を抱くようにしてぶるぶると身体を震わせた。
「あ〜〜〜思い出したくねえ俺は何も見てねえ、聞いてねえええ」
「問題は、安眠を阻害されているということでしょう。いっそ二人きりの寝室を作ったらどうかしら?」
「これ以上後押ししてどうすんだよ!」

またしても議論が白熱しそうなところで、今まで黙って海を眺めながら足をぶらぶらさせていたルフィが、ぐるんと背筋を反らしてさかさま状態で皆を振り返った。
ぴたりと話を止めて、仲間達は我等がキャプテンの言動を注視する。
「あ〜〜〜腹減った〜」
「「「「そっちかい!」」」」

「んナミすわんっ、ロビンちゅわ〜ん!お昼だよ〜〜〜」
タイミングよく、元凶サンジの能天気な声がラウンジから届いた。
「うおおおおお飯いいいいいいい」
途端、弾かれたように駆け出すルフィを見送って、誰もががっくりと肩を落とす。

「まあ、状況はわかったから追々対策を考えましょう」
陰のキャプテン、ナミのひと言で、その場は一時お開きとなった。









「ナミすわん、ロビンちゅわん、お待たせーっ・・・て、遅いぞ野郎ども!」
明るい陽光が差すラウンジは、食欲をそそられる匂いに満ちていた。
湯気の向こうに、笑ったり怒ったりしながら手の動きだけは休めないでテキパキと立ち働くサンジがいる。
「ちゃんと手え洗ったか?お、チョッパー手伝ってくれるのかありがとな。ゴム、もうちょっと待て座ってろ!」
女性陣にはでれ〜んと相好を崩し、男性陣には目を吊り上げて小言を言う、コロコロとよく変わる人相をナミはじっと見詰めた。
大きな瞳を縁取る長い睫がぱちりと上下すると、サンジはそれだけで魅入られたみたいに動きを止めて耳を
赤く染めてしまったりする。
「サンジ君、目が赤いんじゃないの?それに瞼もなんだか腫れぼったい」
「ええ、そうかい?」
サンジはゆるく瞬きをして両手を顔の横で合わせ、クナ〜んと腰を曲げた。
「ナミさんに心配してもらえるなんて、ぼかァ幸せだーっ」
「心配じゃなくて、事実を言ったまでよ」
「そんなテレ屋なナミさんも好きだー!」
はいはいと掌で制しながら、ナミは腰に手を当てて横を向いた。
「とは言えサンジ君はこの船の要なんだから、睡眠不足や体調不良は困るわね。チョッパー、後でちゃんと診てあげてくれる?」
「あ、ああ」
いきなり話を振られて、チョッパーは皿を持ったまま頷いた。
「そんな、ナミさん大袈裟だよ」
「あら、ちょっとした不調にも早めに対処しなきゃ。なんのために船医がいると思ってるの?」
「そうだよサンジ」
チョッパーにも重ねて言われると、サンジもそれ以上抵抗はできない。
「わかったよ、ともかくまずは食事からね」
そう言ってから、ふいと首を巡らした。
「・・・足らないのはまたあいつか。あの緑藻類〜〜〜〜」
低く呟いた悪態が届いたかのように、タイミングよくゾロが顔を出した。
サンジがつかつかと足音立てて歩み寄る。
「この脳味噌肉団子!一体何べん言やあわかるんだ。食事の時間に遅れんな」
「いい匂いだな」
肩に掛けたタオルで汗を拭きながら、ゾロはサンジの剣幕など意に介さないで、鼻をひくつかせた。
「ん、そりゃそうだ」
素直にそう言ってから、違〜うとサンジは肩を怒らせる。
「飯時に遅刻したら飯抜きだって言っただろうが!」
「・・・飯抜き・・・」
ゾロがそう呟いたと同時に、ぐぐ〜っと盛大に腹が鳴った。
わざとかよ、と誰もが突っ込みたくなる抜群のタイミングだ。
サンジは大きな腹の虫に思わず視線を下げて、それからまたゾロを見上げた。
ゾロはタオルを口元に当てたまま、澄んだ瞳でサンジを見つめている。
―――お腹空いた
言葉になどしていないのに、幻聴まで聞こえそうだ。

「・・・ったく、しょうがねえなあ。今度は遅れんなよ」
「善処する」
「だーかーら、それが偉そうだっつってんだよ!」
キャンキャン吼えながらも、サンジは駆け足でキッチンに戻ると残りの料理を運び始めた。

――――結局飯、食わせるんじゃん
――――それなら最初から、憎まれ口なんて叩かなきゃいいのに
――――つか、飯時に遅れなくてもなんだかんだ理由つけてゾロを怒鳴りつけてるよな
――――その度ゾロにじっと見られて、渋々態度を改めたりするんだよ
誰しもが胸中で突っ込みを入れているが、決して口には出さない。

ゾロが仲間に入るまでは、昼食は大体パスタやサンドイッチ、パエリアなど手軽に食べられる洋風のものが多かった。
だが今は、どんなメニューの時でも必ず「白米の握り飯」が添えられている。
今日だってラザニアや海鮮パスタが盛られた大皿の横に、握り飯の山がどんと積まれているのだ。
それらは大抵ゾロの腹の中に納まった。
米粒を食わなければ飯を食った気がしないと、最初の頃にゾロが呟いたその一言だけで、この習慣がずっと続いている。
パエリアやリゾットの横にも握り飯だから、その徹底振りはたいしたものだと思いこそすれ誰も表立って突っ込んだりはしなかった。
それよりも・・・

――――どんだけ好きなんだよ、お前ら


誰しもが胸に秘め、決して口には出さないながらも目線だけで気持ちが共有し合える。
長い航海の中で一番の楽しみである食事時は、そんな妙な連帯感に満ちたひと時でもあるのだ。




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