知音 -2-


クスクスと小さな忍び笑いが聞こえる。
それは木枯らしみたいな小さな渦を巻いて、サンジの足元を取り囲んだ。
黒い頭に小さな旋毛。
膝までの高さもないような、幼子達が纏わり付くように駆け、笑っている。
どの子もとても楽しそうなのに、上から眺めているサンジには一人の顔も見えない。
その内子ども達は背を丸め、しゃがんで輪になった。
ああでもないこうでもないと、お互いに話すというよりてんでバラバラに繰り言を呟き始める。
なにを話しているのだろうと耳を澄ませば、あそこの若嫁は買って来たパックをそのまま食卓に並べるとか、やけにリアルな噂話だ。
ぎょっとして目を瞠れば、子ども達はいつの間にか和菓子みたいなおばあちゃん連中になっていた。
背を丸め俯いて、それでもどこか楽しそうにおばあちゃん達はさんざめく。
話している内容はいずれも一方通行で、会話が成り立っているとは言いがたい。
けれど同じ調子で笑い、同じ調子で頷いて、先へと進む。
おばあちゃん達の細々とした声は、やがてぼそぼそと篭り始めた。
ふははと時折高く響く声もどこか野太く、いつの間にかおっさんの酒盛りみたいな後ろ姿へと形を変えて―――

「・・・んな訳ねえっての」
「やーわかんないっすよ」
ヘルメッポの馬鹿笑いが頭に響いて、ふっと覚醒した。




仰向いてぱちくりと瞬きをする。
木目もまだ新しい、見慣れない天井。
電気のカサにうっすらと埃が積もっているから、そろそろ掃除しないとなーと思う。
いや、もう年末だから大掃除するって計画してたっけかと思い直し、それでここはどこだと首をめぐらした。
「お」
すぐそばにゾロの腕があった。
サンジの顔の近くに手を着いて、肩越しに見下ろしている。
「目え、覚めたか」
「あ、起きた?」
ゾロの向こうから覗き込んだのはチョッパーだった。
気が付けば、自分を取り囲むようにヘルメッポやコビーの顔がさかさまに映る。
「気ぃついた?よかったあ」
お松ちゃんのひんやりとした手が額に触れて、サンジは眩しさに目を細めた。

「いきなり倒れるから、びっくりしたぞ」
大げさだろうと思えるヘルメッポの言葉に、コビーは神妙な顔をして頷いている。
起き上がったサンジの腕を捲くり、チョッパーはちまちまとした手付きで血圧を測った。
「ん、まだ低いけど大丈夫だろ。頭痛くない?気分はどう、眩暈とかは」
「・・・特にねえけど、俺どうしたっけ」
まだポワポワしている頭を撫でるゾロの手に誘われるように振り向き、はっとして身体を退けた。
人前でなにしてくれてるんだこいつは!
「その元気があるなら大丈夫だねー」
「ほんとか?いきなりぶっ倒れるなんて、ただ事じゃねえぞ」
「サンちゃん、前からそういう症状あったのぉ?」
気遣わしげにお茶を持ってきたおすゑちゃんに小さく会釈して、サンジは湯飲みを受け取った。
「いや、特に思い当たることはないんですけど・・・」
「念の為MRI撮った方がいいとは思うけどね、今回のこれは脳の障害というよりいきなり血圧が下がったのが原因っぽい」
「血圧ねえ」
ずずっとお茶を啜ってから、サンジははっと顔を上げた。
「んなことしてる場合じゃねえだろ!?チョパっ、なんでてめえがここにいんだよ!」
「は?」
「たしぎちゃん、たしぎちゃんは?!」
真っ青になって詰め寄るサンジに、チョッパーはああと暢気に笑い返した。
「たしぎさんは、くれは医院に入院ってことなったよ。出産まで安静にしといた方がいいし」
「入院・・・って、出産?」
「うん、最初は切迫流産っつってたんだけどほんとは切迫早産で、大事を取って入院することになった。予定日より早まるかもしれないねえ」
「え?え?」
目を白黒させているサンジの背後で、ゾロはコホンと咳払いした。

「切迫流産って名前だけど、ほんとに流産した訳じゃねえから」
サンジは呆然としたまま振り向いた。
「ああ、俺も最初ビックリした。マジでたしぎ大丈夫かと」
「俺もです」
ヘルメッポとコビーが、サンジを慰めるように大きく頷く。
「んで今度は切迫早産っつうからもう産まれたかと思ったら…」
「違うんだよなこれが」
戸惑う男二人を前に、おすゑちゃんがニコニコ笑っている。
「俺は姉貴の下の子ん時にそれで入院したの知ってっから、そう慌てなかったんだが・・・」
「そうねえ、私らもねえそんなにおかしいとは思ってなかったけど」
「言われてみると確かに、知らないとビックリする病名よねえ」
周りを取り囲まれてウンウンと頷かれ、サンジは急に恥ずかしさがこみ上げてくる。

「え、それで俺引っくり返っちまったんだろうか?わーやべえ、ごめんなさい」
「いやいや、いいのよう」
「それより、疲れも溜まってたんじゃないの?ここんとこ忙しかったから」
「つか、これからがまた忙しいよな」
「今のうちに休んでおかないと」
口々に慰められて余計居たたまれず、サンジは真っ赤な顔をして畳の上で座り直した。

寝かされていたのは、和々に併設された産直用事務所の休憩用和室だった。
全員がここに顔を揃えていると言うことは、店の方はどうなったのだろう。
「たしぎちゃんがこういうことになっちゃったし、サンちゃんも心配だったしね。お店閉めちゃった」
「そんなっ」
恐縮するサンジに、大丈夫大丈夫とお松ちゃんが背中を叩く。
「でももう大丈夫みたいだから、開けるかねえ」
「そうね、もうお昼だしね」
揃って時計を見上げれば、12時5分前。
サンジが倒れてから1時間も経ってはいない。

「じゃあ、俺はこれで。ご馳走様でした」
「おう、チョッパーありがとうな」
「んじゃあ、俺らも一旦緑風舎戻るわ」
どうする?と聞かれ、ゾロはサンジの後ろで当たり前みたいに頷き返す。
「俺はこいつと家に帰る」
「ちょっ、ゾロ!」
俺なら心配ないからと言い募るのも逆に恥ずかしい気がして、つい無言でべしっとゾロの太股を叩いた。
「お前は仕事行けよ!」
「仕事っつってもなあ」
「ああ、雨が止まないよな」
言われてみれば、外からは景気よく降り続ける雨音が響いていた。
朝から振り出した雨は随分と調子よく軒先を叩いていて、外作業は捗りそうにない。
「今日は休みってことで」
「そうしよう」
勝手にそう打ち合わせ、それじゃあと三々五々事務所を出る。
和々の店番をするお松ちゃんとおすゑちゃんに深々と頭を下げ、サンジはバイクを車庫の中に置かせてもらってゾロの軽トラに乗ることにした。

「飯、なんか買って帰るか?あるもんで食うか」
「・・・あるもんで」
「じゃあ、俺がラーメン作ろう」
篠突く雨は埃だらけのフロントガラスを気持ちいいほど洗ってくれている。
斑に垂れる雨粒を目で追いながら、サンジは目に見えてしゅんと項垂れていた。
もし頭に猫か犬の耳が付いていたとしたら、ぺったり寝ていることだろう。
「大丈夫か?気分悪いか」
「・・・んなことねえ」
答える口調がぶっきらぼうだ。
これはかなり、凹んでいる。
「ビックリして血圧下がったんだろ。目の前が真っ暗になるってか、こう、すうっと」
ゾロが片手で中空を撫でるような仕種と共に具体的なことを言うから、思い返してみてそうだなと頷く。
「よく知ってるな」
「俺はなったことねえけど、聞いたことはある」
そんなこと、あるんだろうか。
ビックリしすぎて倒れるだなんて。

「でも、よかった」
「そうだな」
「たしぎちゃん、ほんとになんでもないんだな」
「ああ、ちょっと出血はしたらしいが、安静にしてりゃ大丈夫らしい。別に入院までしなくてもよかったんだが、スモーカーが強制的に入院手続きしたんだと」
「へ?」
「まあ、賢明な判断だろう」
たしぎでは、安静にしておけと言われても自宅では無理かもしれない。
「そっか、そうだな」
「もう、後は生まれるのを待つだけだ」
「ナミさんの出版記念パーティは、残念だな」
「そういやそうだな」
二人前を向いたまま、ポツポツと話している内に、軽トラはぬかるんだ農道を越えて家の前に着いた。

庭で風太が大歓迎するかのように、吠えながら飛び跳ねている。
「風太、中入らないと濡れるぞ」
「お、そうかそうか。嬉しいか」
泥だらけの前足で飛び掛られ、作業着のゾロは存分に風太の身体を抱えあちこち擦ってやる。
その間にサンジは中に入り、カーテンを開けて湯を沸かした。
縁側から窓を開ければ、ゾロに撫でられて満足した風太が大人しく犬小屋の中に戻っていて、前足だけ揃えて前に出しちょこんと座っている。
「風太、留守番ご苦労さん」
返事でもするように、黒い鼻面を縦に揺らして見せた。



ゾロ特製の豪快ラーメンを前にして、サンジはほっと詰めていた息を吐いた。
つゆの表面がラー油でギトギト光っているのがまた、食欲をそそる眺めだ。
「いただきます」
「いただきます」
しばらく声もなく、二人してはふはふと麺を啜る。
あちーとかもふーとかおかしな声を鼻から出して、咀嚼し水を飲みまた頬張って汁を飲んだ。
「はあ・・・」
「・・・ふう」
ラーメンはいつも丼一杯のみで、お代わりはなしだ。
もう一杯食いたいなあってところで止めている。
その方がいつまでも口の中にラーメンの旨みが残っていて、また食べたいと思えてくる。
「美味かった、ごっそさん」
「どういたしまして」
今度はギョーザでも一緒に焼くかと言いつつ、腰の後ろに手を着いて足を投げ出した。
膨れた腹を伸ばすように膝を立てる。
夏の名残の麦茶を飲み干してから、サンジは乾いた声を出す。

「脅かして、ごめんな」
「ああ」
てっきり「いいや」と言われると思ったから、素直に肯定されてえっと顔を上げる。
「びっくりさせて、ごめん」
「おう」
「・・・びっくり、した?」
「当たり前だ」
そうか、それは悪かった。
「頭ぶつけっとやばいと思ったから、それはなくてよかったな」
「・・・うん」
それはどうもと、ゴニョゴニョと礼を述べる。
懐から煙草を取り出し火を点けて、サンジは勢いつけて上向いて前髪を跳ねさせた。
「なんでだろう」
「ん?」
「何で俺、倒れたんだろう」
つか、なんで血圧下がったんだろう。
「ビックリしたからだろ」
「そりゃあ、みんなビックリしただろ。コビーも、ヘルメッポも」
けど、その何倍も何百倍も、サンジはビックリしたのだ。
「疲れもあるんじゃねえのか?ここんとこ企画で忙しかったし」
「それだって、計画立てただけで実行はこれからだぜ。今から倒れてどうするよ」
「段取り8分ってな。準備が一番大変なんだ」
慰められているようで、サンジとしてはなんだか面白くない。
「なんか、胸がドキドキしてたんだ・・・」
言いながらふっと視線を下げて、煙草を咥える。
「たしぎちゃんが病院向かってから、なんか胸がドキドキして落ち着かなくてよ。でもどうすりゃいいかわかんねえし、特に心配だって思いつめてた訳じゃねえのに、なんかとにかくドキドキして・・・」
「お前、結構たしぎのこと気にしてたもんな。前にもお梅ちゃん褒めてたぜ」
「なんて?」
「あのサンジさんの気遣いには、感動したとか何とか。よく気が付いて感心だとか、みんな見習えとかなんとか」
―――そうだろうか。
そんなにも自分は“特殊”だっただろうか。

「元々、オンナコドモには丁寧過ぎるきらいがあるからな、お前」
「そう?」
「そうだ」
なんてことなく聞いたのにあっさりと肯定されて、再び気持ちが落ちる。
またしてもサンジの頭につく幻の耳が垂れて、ゾロはおや?と軽く片目を見張る。
「別に責めちゃいねえぞ。てめえがそういう性分なんだろうが」
「・・・けどよ、こういうのってウザくね?」
「ん?」
サンジは少し雨脚が弱まった中庭へと視線を流した。
犬小屋の中で、風太が揃えた前足に顎を乗せて昼寝しているのが見える。
「風太を飼い出してさ、今じゃあんなにでかくて丈夫で風邪一つ引かなくて、すげえ元気な風太でもさ。最初はもう心配で心配で」
「ああ、元気だなああいつ」
「こないだ玉ねぎ食ったのに、なんでかあいつ、なんともねえの」
くくっと笑って、口端から煙を吐く。
「でもちっさい時はそりゃあもう心配で。こんなにちっこくて手の中に納まるようでよ。抱き上げたらトクトク心臓の鳴る音が掌に響くじゃねえの。これ、もしかしたら俺のこの手で、この手の中で握り潰したら・・・」
言って、自分の言葉の残酷さに気付いたようにひやっと顔色を変えた。
「潰せる、じゃね。あんなちっこい仔犬なんて、簡単に息の根止められる。そんなんが、すっげえ怖くて」
―――死んだらどうしようって、ものすごく不安だった。
「なんかさ、風太飼い出してから命ってもんが凄く身近で、それと同時に死んじまうってこともめちゃくちゃ身近で、なんかもうどうしようもなく怖かった。もし風太が死んだら、あんなちっこくて可愛いまま死んだら、どんだけゾロが悲しむだろうってな。そういうことばっか考えてた」
「俺が、かよ」
今度こそ驚いてぽかんと口を開けるのに、サンジは自分が言っていることの奇妙さに気付かないでいた。
「じゃれてまとわりついてくる風太を蹴ったら?踏んだら?きっとすぐに死んじまう。俺のことあんなに懐いてくれてて大好きなのに、そんなこと俺が怖がってるなんて、きっと思ってもねえだろうに」
サンジは顔を上げて掠れた声を出した。
「ようやくあんなだけでかくなってさ、もう俺に蹴られようが踏まれようが、あいつきっと上手に避けるぜ。心臓なんて握り潰せないくらいでっかくなった。もう安心だ、思い切り抱き締めたってあいつは壊れない。きっと無茶したら、なにすんだって唸ったり噛み付いてくるくらいでかくなった。俺はもう、それが嬉しくて・・・」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、へへっと笑う。
「だから、さ。たしぎちゃんも心配でならなかった、あんな華奢なたしぎちゃんの腹だけが大きくなってさ、あん中にちっさな命が入ってんだ。信じらんねえよ、しかも生まれるまで大丈夫かどうかわかんないって。生む時だって未だに安心しきってちゃいけねえって。子どもができるって、生まれるって本当に大変なことなんだ」
祈るように指を組んで、額に当てた。
「小さなものが、儚いものが、大切で愛しくて仕方ないものが身近にいると、怖くて仕方なくなる。失くすことばかりを考えちまう。しかもそれはすべて、俺が原因で―――」

ゾロは、やっとわかった。
サンジが恐れているのは偶発的な事故や不運ではない。
自分が、加害者になることだ。
望まなくとも相手に危害を加え、傷付けてしまうことだ。

「考えすぎだって自分でもわかってんのに、不安が消えないんだ。きっとたしぎちゃんの子どもが無事に生まれても、これからずっと心配し続けるんだろうなあ。生まれたら生まれたらで、めっちゃ可愛いだろうなあ」
「・・・そうだな」
ゾロは一旦言葉を切って、麦茶で喉を潤した。
「確かに、ちっちえもんとか頼りないもんとか、見てて大事にしたいし心配だってのはよくわかる。けど、なんかある時はあるもんだし、大事なモンでも壊れる時は壊れる。壊れる前から心配してたって、どうしようもねえだろ」
「そりゃ、そうだけど」
「けど、お前はそういう性分なんだもんな。仕方ねえよ」
そう言って、ゾロはポンポンとあやすようにサンジの頭を軽く叩く。
今は誰も見ていないから、サンジも嫌がらずじっとしていた。
「性分、か」
「おうよ、心配性のもんに心配すんなつったって土台無理な話だ。だったら嫌んなるくらい心配してろ」
「倒れるほど?」
そう言うと、ぷっと噴き出す。
「お前がぶっ倒れると、俺のが心配になる」
「・・・ごめん」
「でもまあ、それも仕方ねえ」
ゾロは二人を隔てる卓袱台をそっと横にずらすと、胡坐を掻いたままサンジの身体を引き寄せた。
「・・・なんだよ」
「お前今日、俺に心配かけただろが」
生真面目な顔でそう言うと、うっと押し黙った。
反省しているらしい。
「心配かけた分だけ、安心させろ」
そう言ってサンジを膝の上に乗せ、ぎゅっと正面から抱き締める。
「〜〜〜〜〜〜う・・・」
「ああ、重いしあったけえ」
サンジの腰を抱いて軽く揺すり、肩から背中までを愛しげに撫でた。
「お前も心配なら、風太を抱えて撫でてやりゃいい。たしぎなら、元気な姿を見守ってたらいい。お前は決して人を傷付けたりしねえ、それは俺が保障する」
「・・・ゾロ?」
「もし大切なもんが死んだら、なんでって俺を叩いても蹴ってもいい。そんなんで俺は壊れたり死んだりしねえから、八つ当たりなら俺にしろ」
「んなこと、しねえよ」
「だったら安心しろ。てめえの手はでかくてあったかい、抱き締める手だ」
それはゾロの方だろう。
そう思いながらも、サンジはおずおずと両手を伸ばしてゾロの背中に回した。

雨の昼下がりに、大の男が二人向かい合って抱き合ってるなんて、傍から見たらなんて寒い光景だろうか。
けれどサンジは、その手に大切な物を抱き締めることに夢中になった。
ゾロの体温を、ゾロの鼓動を、ゾロのすべてを感じ取ることに全霊を傾けた。





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