たまゆら 4


寄せては返す波の音が、闇の中で木霊する。
ひたひたと押し寄せる水の感触に、冷えた指先がピクリと動いた。
顔に掛かる飛沫は波ではなく、雨――――
静かに目を瞬かせて、サンジは瞳を開けた。

闇が広がっている。
しとしとと降りしきる雨が、放射状に空から降りてくる。


このまま海に抱かれて眠ってしまいたかった。
潮が満ちれば、溺れ死ぬ。
―――死ぬわけには、いかねえな。
薄く笑って、首をめぐらす。
男の姿はどこにもない。
首の両脇に刺さっていた刀も、なくなっていた。
ゆるゆると身体を起こす。
下半身は痺れて、感覚がない。
生乾きの血が、首筋を伝ってシャツを染めていた。

雨に打たれて冷え切った手を伸ばし、捨てられたズボンを拾った。
立ち上がろうにも、足に力が入らない。
痛みとか、冷たさとか、哀しみとか、すべての感覚が麻痺してしまったようだ。

雨脚が強くなった。
海岸の後も、足跡も、すべて雨が洗い流す。
サンジは時間をかけて、這うように船に戻った。
身体を動かす度に、どろりとした何かが足元を伝う。
――――この雨が、全部流す。


聞き慣れた靴音が近づいてくる。
床が軋み、戸口で立ち止まった。
いつの間に朝が来たのか、雨はもう止んでいる。
柔らかな光が隙間から差し込んだ。

暗い部屋の片隅で、毛布に包まれた姿を見て、ゾロはギョッとしたように立ち止まった。
こぼれる金髪の下から、目だけが睨らみつけている。
「どうした?」
尋常でない雰囲気を悟って、一歩中に入る。
サンジは毛布を被ったまま、緩慢に身を起した。
「よくもまあぬけぬけと、面あ見せられたもんだ。」
だが、発せられた声はひどくかすれて、ゾロには聞き取れない。
「どうしたんだ。具合・・・悪りいのか。」
戸惑いを含んだゾロの声。
何をためらってやがる。
えらく殊勝じゃねえか。
それとも、てめえもニセモノか。

「来るんじゃねえ、タコ。」
掠れながらも、はっきりと拒絶の言葉を投げつける。
「俺ァ風邪引いてんだ。悪いが飯は作れねえ。どっか行って喰って来い。」
喉が引き攣れるように痛い。
あまり顔を上げて、首の包帯が見えると面倒だ。
潜むように目だけで威嚇する。
「オニのカクランか?」
わざと軽口を叩いたゾロに、返事も返さない。
俺に近づくな――――
さっさと出て行ってくれ。
祈るように目を閉じて、サンジは深く息を吐いた。
「少し寝れば大丈夫だ。てめえ余計なことは言うなよ。チョッパーには交替ん時に俺から話す。」
多分、今目の前にいるのは本物のゾロ。
昨夜のあれは、夢かもしれない。
身体の痛みは、否応なしに現実だったと教えてくれるけれど。

「わかった。」
あっさりと引き下がり、ゾロは腰の刀を壁に立てかけて静かにドアを閉めた。
再びもたらされた暗闇。
緊張の糸が切れたように、サンジは壁に寄りかかった。
―――しっかりしなきゃ。
このままじゃ気づかれる。

だるい腕を伸ばして煙草を取り出し、火をつけてふかす。
流れる紫煙を目で追って、サンジは長いこと動かなかった。


夕べの食材は、中途半端に火を通した為か傷んでしまった。
仕方なくすべて捨てる。
ひっくり返したままの薬箱を元通りに詰め直し、床に散った染みを目立たないように拭き取る。
風呂場も簡単に掃除して、汚れた衣服は処分した。

ろくに食事をとらないまま、立て続けに飲んだ痛み止めのせいで、胃がきりきりと痛む。
一通り仕事を終えて、サンジはテーブルに突っ伏した。
今夜の船番のチョッパーが来るのは夕方。
それまでに少し考えておかなければいけない。
これからどうするか。
どうなるのか。

「おい?」
不意に声を掛けられて、びくりと跳ね起きた。
全く気づかなかった。
キッチンのドアの向こうにゾロが立っている。
サンジは腰を浮かしそうになって、痛みに顔をしかめた。
「起きてて、大丈夫なのか。」
手に紙袋を下げている。
「夕べ、俺は飯も食わずに倉庫で寝てたらしいな。お前、そん時から具合悪かったのか。」
テーブルの上に取り出されたのは、いくつかのパン。
「なるべく無理してでも食った方がいいぞ。もっと食いやすいもんがいいかと思ったが、
 俺には何がいいのかわからねえから。」

―――俺に、買って来てくれたのか。
こいつやっぱり偽者?
まじまじと顔を凝視するサンジに、ゾロは照れた様に顔を背けた。

「ちゃんと食えよ。俺も食う。」
ぶっきらぼうに言って、向かいのイスに腰掛ける。
ゾロと差し向かいで朝食を取るなど、初めてのことだ。
サンジはゆっくりと腰を上げた。
「どこ行くんだ。」
非難めいた口調に、自然口元が緩む。
「コーヒー煎れんだよ。てめえも飲むだろ。」
いつもよりゆっくりとした動作でキッチンに立つ。
ゾロはその姿を訝しげに見ていた。

―――風邪ひいたっていうが、どこかおかしい。
覇気がねえ。
人間、具合が悪いとこうなるもんなのか。
えらく危なっかしくて、目を離せねえじゃねえか。

「お前、その首どうしたんだ。」
首に巻かれた白い包帯が痛々しい。
「喉が痛てえから巻いてんだよ。こうすっと楽なんだ。」
勤めて冷静に答える。

声は、震えていないだろうか。
不自然では、なかったか。

思いのほか穏かな時を過ごし、ゾロは食事を終えて甲板に出て行った。
一眠りしてから鍛錬するらしい。

やはりあれは夢だったのではないかと思う。

夢であって欲しいと願う。


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