社長はお熱いのがお好き -8-




いかに若くアクティブな社長と言えども、日々の激務はさすがに身体に堪えるだろう。
ここ最近特に顔色が優れない日が続くようで、サンジとしては心配だった。
心配と言えばカリファもだ。
サンジにある程度業務を移譲した後、長期休暇を取ってしまった。


「カリファさん、お加減が悪いとかじゃないですよね。旅行かな」
「さあ。あの人はプライベートを一切見せないから、私にもよくわからないの」
答えるアルビダは、さして興味はなさそうだ。
サンジがアイスコーヒーを傍らに置くと、パソコンの画面から目を逸らさず小さく会釈して礼を言う。
「私達にまで気を遣わなくていいのよ。貴方が淹れてくださるお茶は本当に美味しいから、嬉しいのだけれど」
「ついでと言うと失礼ですが、俺は楽しいんです」
殆ど自宅に帰らず会社で寝泊りする社長のために、給湯室はどんどん台所化していった。
サンジが持ち込んだ食器や調理用具が整然と並べられ、滲み出る所帯臭さを隠す為にパーテーションを設けている。

「今夜も社長は遅くなるのでしょう。付き合っていると貴方の身体も保たないわよ」
「俺はまだ、気楽な雇われの身ですから」
ジュラキュール・カンパニーが危機に陥っていると言う噂などない。
経営は至極順調で社員も活気に溢れていると言うのに、社長はなぜあんなにも辛そうなのだろう。
少なくともサンジの目から見ると、社長は何かに抗うかのように、がむしゃらに仕事をしているように見える。
楽しそうじゃない。
ちっとも、楽しそうじゃない。







秘書室から広く見渡せるフロアの向こうから、長身の女性が姿を現した。
サンジスコープは違うことなく即座に人物を特定する。
すらりとした肢体。
艶やかな黒髪は真っ直ぐに流れ落ち、切り揃えられた毛先が陶器のように滑らかな肌の上で揺れている。
すっきりと通った鼻筋、黒目がちな瞳は知性の輝きに溢れ、笑みの形に引き結ばれた唇は薄く艶かしい。
あれは、副社長のニコ・ロビンだ。

「こんにちは。ちょっといいかしら」
「こんにちはロビンさん」
アルビダの後ろでサンジはしゃちほこばって頭を下げながらも、初めてまともに副社長と顔を合わせることに
内心驚いていた。

副社長と言えば社長の副。
本来ならばもっと社長とも連携を密にして、仕事をシェアするものじゃないのかと思っている。
だが、サンジが社長秘書に配属されて以来、ニコ・ロビンがここに足を運ぶのは初めてのことだ。
そして社長も、今まで副社長の存在をないもののように扱っている気がする。


「カリファに、サンジさんの淹れてくれるお茶が美味しいと聞いて、ちょっと遊びに来ちゃったの」
「それは光栄です!ぜひどうぞゆっくりしていってください!」
アルビダがくすくす笑っている。
社長室に遊びに来て、主の留守中にどうぞゆっくりも何もないだろうが、新たな美女の登場に浮かれているサンジに
突っ込むものは誰もいない。







「コーヒーがよろしいですか?それとも紅茶?」
「コーヒーをお願いできる?ホットで。大好きなの」
「かしこまりました」

自宅から持ち込んだサイフォンで、早速アルビダのお代わりの分まで用意する。
こんなこともあろうかと、お茶菓子は補充済みだ。
サンジの手に掛かれば、社長室はいつでも淑女のサロンと化すことができる。



「お待たせしました」
「ありがとう。いい香り」
ロビンは社長室の応接セットに腰を下ろし、優雅に足を組み替えた。
深いスリットの間から長い足が垣間見え、サンジに束の間の夢を見せてくれる。

「生憎、社長は夜まで戻らないんです」
「知ってるわ、だから来たの」
こともなげに返されて、サンジはうっと詰まってしまった。
どう相槌を打っていいかわからない。

「・・・美味しい」
ロビンはカップを傾けて、うっとりと目を閉じた。
その端麗な横顔に、思わず見惚れる。
カリファもアルビダもそうだけれど、この世の女性はなんて美しいんだろう。
こんなにも完璧な“美”に囲まれていながら、自分はなんであんな粗野でむさ苦しい“野郎”に心惹かれているんだろう。
つい場違いな感慨に耽るサンジに、ロビンは黒耀石のような瞳でちらりと視線を送った。

「こんな美味しいコーヒーを毎日飲んでたら、いくら社長でも頑張っちゃうわね」
「え?」
言外に含まれた意味を感じて、サンジは聞き直した。
「社長は、頑張りすぎるほどの働き者、ですよ・・・ね?」
「いいえ全然」
真顔で目を瞠る副社長は可愛らしく見えて、最初の鋭利な印象を払拭させるようなあどけなささえ感じさせる。
「会合は平気ですっぽかす、接待ゴルフで気配りしない、受付にクレームがつくと呼んでないのに駆けつけて、
 ヤクザまがいの応対で追い払う――」
「・・・え?」
「特に朝が弱くて重役出勤は当たり前。下手すると1日サボるから、マンションまでわざわざ迎えに出向いたり、
 本当に大変だったの」
ロビンはカップを置いて、にこっと笑った。
「貴方が来るまでは」
「・・・え?ええ?」
サンジはトレイを胸に抱いて、目を白黒させた。
そんなのは初耳だ。
と言うか、意外過ぎて信じられない。

「社長ですよ、ロロノア社長。休む間も惜しんで働いて、キビキビ指示して、リーダーシップもカリスマ性もあって、
 社員からの人望も厚くて、分刻みで行動して自転車で走り回って、アクティブで精力的で―――」
「まあ、その気になればってことね」
あっさり言い切られて、サンジは絶句した。
「できるけどしなかったのよ。本人がその気にならなければ、仕方のないことだわ」
副社長は穏やかな微笑をたたえたまま、また静かにカップを持ち上げ唇をつける。
「その気が、なかったんですか?」
「そうね」
「今は、その気がある」
「そうみたい」
「なんで?」
「さあ」
サンジの問いはさらりと流し、ロビンは空になったカップをソーサーに置いた。

「ああ、本当に美味しかったわ。ごちそうさまでした」
にこりと笑って、サンジに会釈する。
「よろしかったら、お代わりもどうぞ」
「嬉しいけれど、これから約束があるの。これで失礼するわね」
すっと立ち上がると、かなりの長身であることがわかる。
どこにいても目立つ、存在感のある美女だ。

「またいつでもいらしてください。美味しいコーヒーを準備してお待ちしてますよ」
「ありがとう。また、鬼の居ぬ間にね」
冗談とも本気ともつかぬ台詞を聞いて、サンジは困ったように眉を下げた。
「そんなこと仰られては・・・副社長さんなのに」
「副社長なのに、私の出番ってないでしょう?」
逆に質問されて、ますます困惑する。
「私ね、干されてるの」
あっけらかんと言ってのけるロビンには、特に悪意も悲哀も感じられなかった。
「干されてる?」
「信用されてないのよ。仕方がないわ」
そう言って肩を竦めて見せるロビンに悲壮感はない。
からかわれているのだろうか。
それとも、本当に?

二の句も継げずに突っ立ったサンジに背を向けて、ロビンは社長室から出て行った。
凛と伸ばされた背中は自信に満ちて気高く、とても仕事を奪われてあぶれている副社長には思えない。






「・・・どういう、ことですか?」
ロビンの姿が廊下の角に消えてから、サンジは救いを求めるようにアルビダを振り返った。
「副社長の仰る通りよ。社長は副社長の分まで頑張ってらっしゃるの」
「それは、信用されていないという理由で?」
「そう」
アルビダはなんでもないことのように相槌を打ち、引き出しから細い鑢を取り出して爪を磨きだした。
優雅に傾けられる白い指先に目を奪われながら、サンジは混乱した頭をゆっくりと整理させる。

この会社は、社長以下社員が一丸となって仕事に打ち込んでいる、まさに理想的な企業組織ができていたはずだ。
けれど、確かに「副社長」の存在は希薄だった。
これだけしっかりした企業の中で、トップを補佐するべき人物が信用を置けないと評されるのは致命的ではないのか。

「どうして、社長はロビンさんを信用なさらないのですか?」
疑問はストレートに聞くしかない。
社内勢力図のリサーチ能力など、サンジは最初から持ち合わせていないから、とにかく正面から当たって砕けろだ。
アルビダはあっさりと教えてくれた。
「副社長は、社長のお義兄様の婚約者なの」
「え?」
「つまり、社長のライバルの恋人。親会社が一つで子会社が枝分かれしてるからって、みんな仲良し家族ではないのよ。
 業績を争って熾烈な戦いを続けているわ。経営不振ともなれば、首の挿げ替えは当たり前。社長が以前のようにやる気
 まるでなしのダメ社長だったら、今頃この会社の社長は別の人間が勤めているはずよ」
「はあ・・・」
「社長がやる気になっちゃったから、副社長を牽制し始めたの。本気で自分の城を築くつもりで経営するなら、不穏分子は
 排除が妥当ね。とは言え、表立って処分はできないし、泳がせて利用するには副社長は有能すぎる」
「・・・・・・」
「社長は誰も信じていないわ。だから一人ですべてをこなすのよ。そうでなければ、彼はこの会社のトップの立場を
 維持できない。勿論、そんな状態が長く続く訳ないけれど、疑心暗鬼に陥っている人に何を助言しても無駄は無駄」
長い指を伸ばしてふっと息をかけ、アルビダは微笑みながら鑢を仕舞った。

「いずれ、副社長は正式にフランキー・コンサルティングの社長、カティ・フラム氏と結婚して退社されるでしょうから、
 そうしたら今度は信用の置ける人物を社長自ら任命すると思うわ。それまでの辛抱よ」
「・・・そうなん、ですか」

サンジには、家族ぐるみで会社経営している家庭の事情なんて計り知れない。
単純に「兄さん結婚おめでとう」なんて、能天気に喜べる和やかな状態でもないのだろう。
エグゼクティブにはエグゼクティブなりの苦労があるのかと、なんだか神妙な面持ちでサンジはカップを片づけた。

白い陶器に薄っすらと残されたロビンの口紅の跡は、艶やかに微笑んでいる。





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