社長はお熱いのがお好き -3-



初めての秘書課勤務を終えて自宅に帰っても、サンジはなんだか落ち着かなかった。
慣れない部署での初日は新入の時のように緊張するものだが、別の意味で緊迫感を味わった気がする。

一人のテーブルで冷たいビールを飲みながら、ひっそりと溜息をついた。
―――上手くやっていけんだろうか
就職と同時に家を出て、気侭な一人暮らし。
気楽と言えば気楽だが、家に帰っても話し相手がいるわけでもなく、ましてや相談なんてできやしない。
家族がいたところで、こんなことは相談なんてできないだろうが。

サンジははじける泡を眺めながら、今までのことを思い返した。
企画広報部での仕事も、結構楽しかった。
いつまでも学生気分が抜けない訳ではないが、上司や先輩達は親切で面倒見がよく、結構楽しく仕事ができていた気がする。
だが秘書課に配置換えになって美女に囲まれた職場になったとはいえ、仕事内容はというと正直やりがいがあるとは言えない。
実務はカリファとアルビダが取り仕切っており、真実社長のお守りのみだ。
サンジを選んだ理由が、社長の好みだったからなどと言うものだったら尚の事、目も当てられない。

先行きを思えば暗澹たる気持ちになるが、さりとてここで辞表を書くほど切羽詰った事情でもない。
実際尻を撫でられたくらいで実害はないし、今日の成り行きから行くとキスくらいはされるかも
しれないが、所詮職場のことだからそれ以上進展しようもないだろうし―――
麗しいお姉さま方のお側にいられる代償としたら、安いものか。
もしも、悪ふざけが過ぎるようだったら、セクハラで訴えればいいことだ。

―――なんのかんの言っても、社長だからな得体の知れない不気味さはあるが、サンジとて腕に覚えはあるからちょっとやそっとじゃやられないし、
へこたれない自信もある。
やりがいがないなら、仕事を作ればいい。
とにかく一生懸命やってみて、仕事とは別に不当な扱いを受けることになったら、その時は潔く辞職しよう。
この不景気に社長の好みだけで変わる人事もないだろうし、まだ若いのだからよしんばリストラの憂き目にあってもやり直しはきく。
結果的にポジティブな結論を出して、サンジはぬるくなったビールを一気に飲み干した。







翌日、冷凍保存してある作り置きのコーヒー粉を手に意気揚々と出社したが、社長の姿を見ることはなかった。
急な予定変更で、早朝から支社に出向いているらしい。
「支社から次の予定に向かわれますから、今後のスケジュールに支障はありません」
アルビダも随行せず、今日は美女を両手に1日過ごせるとあって、サンジは内心小躍りした。
だが、社長の殺人的とも言える過密スケジュールを見て、些か気の毒になる。
「ほんとに分刻みの移動ですね。しかも・・・S駅からTホテルまで10分って、不可能じゃないですか?」
「社長は100mを10秒で走られます」
「マジっすか?」
アルビダの微笑みは蠱惑的だが、単なる冗談とも思えなくてサンジは顔を引き攣らせた。
脳内をロロノア社長の本気走りが疾走する。
「本日は自転車を使っておられます。車は混みますから」
「・・・マジですか」
黒塗りのベンツとか運転手とか、多忙過ぎて言ってられないのだろうか。
「社長は体育会系ですから、力技が得意ですよ」
「はあ・・・」
確かに体育会系だろうと一人で納得しているサンジの目の前に、どさどさと書類の束が置かれた。
「早速ですが、こちらの整理をお願いします」
カリファに促され、サンジも取り敢えず実務を頑張ることにする。




セクハラ対策に悩まされることのない平穏無事な一日を終え、給湯室で後片付けを済ませた。
持参した自家焙煎のコーヒーは、美女2人には味わってもらえたが、肝心の社長に飲ませてやれなかったことが少し残念だ。
「お先に失礼します」
帰り支度を整えたカリファとアルビダが顔を出す。
「はい。社長はもうこちらにはお戻りになられないのですか?」
「一旦お帰りになると思います。メールチェックもまだですから」
カリファは答え、つと首を傾げた。
「待たなくともいいですよ。社長はお一人でも適当に過ごされます」
「そうですか・・・でも、俺ちょっと残ってもいいですか」
「ご自由に。K事務所では時間内に手続きを終了するでしょうから、7時には戻られると思います」
「サンジさん、お先に失礼」
ベースは同じだがメイクを変えてアクセサリーを増やしたアルビダ達は、勤務時より華やかさが増している。
「お疲れ様でした」
デートだろうかと勝手にどぎまぎしながら、サンジは笑顔で二人を見送った。








カリファの読みどおり、社長は7時前に帰社した。
誰もいないと思ったのだろう、ノックもなしに開けたドアの向こうで、驚きに目を見開いている。
「お帰りなさい。お疲れさまでした」
社長の表情を見てなんとなく気分を良くしながら、サンジは開いていたファイルを閉じた。
「コーヒーにされますか?それとも何か召し上がられますか?」
サンジとしては不本意だが、給湯室にはレトルト食品も常備してある。
「ああ、取り敢えずコーヒーを頼む」
社長は上着を脱いで背凭れに掛け、ネクタイを緩めた。
「悪かったな。待ってくれているとは思わなかった」
「待ってたわけじゃありません。俺も一応勉強しとかなきゃと思いまして」
カリファから任された資料整理をしながら、中身にも目を通していた。
企画広報部にいたときと違い、会社の全体像も把握しておきたい。
「助かるよ、ありがとう」
サンジはなんだかくすぐったくて、返事をしないまま給湯室に引っ込んだ。
コーヒーを淹れながら、つい口元が緩んでくる。

社長はサンジが嫌いな体育会系男前タイプだが、なんとなく最初から憎めない部分があった。
いかにもやり手の、人の上に立つのが当たり前のような風情を保ちながらも、決して横柄な態度は取らない。
何より、人に対して礼を述べることにてらいがない。
ごく自然に、当たり前のように感謝を言葉に表せるのは性根が真っ直ぐな証拠だ。
―――やっぱり、嫌いにゃなれないな
普通に考えたら男にセクハラするようなド変態なのだが、心底嫌ったり軽蔑したりできないのは、そんな社長の
品の良さかが感じられるからだろう。


なんとなく自分に言い訳してる気分になって、サンジは心持ち首をかしげながらコーヒーを運んだ。
社長はパソコンを立ち上げ、なにやら難しい顔をして画面を覗き込んでいる。
「ああ、いい匂いだ」
ふと頭を上げ、子どものように顔をほころばせた。
その表情を直視して、サンジの胸がかすかに高鳴る。
―――くそう、不意打ちみたいにガキ臭い顔見せるんじゃねえよ。ドキドキすっだろうが
なんでドキドキするのかは謎だが、とにかくこういう意外性は心臓に悪い。
トレイを持ったままなにやらキョロキョロしているサンジの前で、社長はコーヒーを口に含んだ。
切れ長の目が見開かれ、穏やかに細められる。
「・・・美味い」
チンしてないから、好みどおりの熱さはないだろう。
けれどインスタントより断然美味いはずだ。
味音痴でもわかる程度に。

「豆を買って、自分で焙煎してるんです。ほんとは煎りたてが一番美味いんですよ。ガス抜きのために寝かすって言うけど、
 俺は断然煎りたて派です。でもここはガスじゃないから煎れないし、一応小分けして保存してる粉を持ってきたんですけど・・・」
ついペラペラと説明しているうちに、社長は飲み干してしまった。
「お代わり、貰えるかな」
「喜んで」
サンジは嬉しくなって破顔した。
「ほんとはネルで濃い目に淹れたいとこなんですが、ペーパードリップで勘弁してください。メリタにしようか迷ったんですけど、
 コーノの方がいいかな〜って・・・」
恐らくは社長にとって意味不明な言葉の羅列を繰出しながらも、いそいそとトレイを運んでくる。
「ほんとに、食うものいりませんか?お腹すいてるでしょう」
お代わりのカップを置いて、サンジは目線を上げた。
椅子に腰掛けたままの社長と目が合う。
思いがけず、柔らかく優しい眼差しを受けてちょっとたじろいだ。

―――なんだこの表情は
先ほどまでの単純に嬉しそうな笑顔じゃなくて、なんだか愛しいものでも見守るような・・・慈しみに満ちた暖かな光。
戸惑ってソーサーに添えたまま引き損ねた指を、カップの熱より温かなものが包んだ。
反射的に腕を引こう落としてカップに触れ、皿の当たる音と零れたコーヒーの香りが交差した。
「あ、すみません」
社長の手の甲を濡らした琥珀色の液体を拭おうと、トレイに載せてあったおしぼり当てる。
「大丈夫ですか。火傷は・・・」
冷たいおしぼりで冷やせば大丈夫だろうかと、サンジは手元に集中している。
思いがけず、社長の手を両手で包み込むような体勢になっていることに気付き、それはそれで赤面した。
社長の視線がじっと自分に注がれているのがわかる。
痛いほどに視線を感じるから、尚のこと顔が上げられない。
「痛みとか、ないですか」
応えのない社長に苛立って語気を強くしたら、返事の代わりに添えた手を強く握り締められた。

「熱いし痛い、火傷しそうだ」
―――またまたまたまた〜
握った手をそのまま口元に持っていって、唇に押し当てる。
サンジは手をそのままにして身体だけ引いて、縮こまった。
「それがセクハラだって言ってんですよ」
「違うだろう、告白だよ」
「え?」
社長の声は低く穏やかで、サンジは聞き逃さないように無意識に顔を寄せた。
「一目見たその時から、ずっと忘れられなかった」
「は?」
サンジの固定観念から言えば、そういう台詞は麗しい女性にこそ向けられるものだ。
「なに言ってんすか」
「初めて会ったのは・・・そう、梅雨の合間に珍しく晴れた日の午後のことだ・・・」
「めっちゃ最近じゃないですか」
サンジの突っ込みも、社長は目を閉じて聞き流す。

「受付のビビ君が対応に苦慮していたのを、私も見ていてね。ブルーノ部長とこれも勉強の内だと
 見守っていたところ・・・」
あちゃ〜〜〜〜〜〜
サンジはその場で頭を抱えた。
確かに身に覚えがある。
会社をリストラされたんだかなんだか知らないが、ほとんど言いがかりのように何かと文句をつけて
ネチネチと受付で粘っていた男がいた。
上司を呼ぼうとしても許さず、若い女性を甚振ることで快感を得るような陰湿な輩だとわかったから、
サンジはつい頭に血が上って考えるより先に手が・・・もとい、足が出てしまったのだ。
「いやー、あの蹴りは見事だった」
社長の賞賛の声にとは反対に、サンジは益々身体を小さくする。
仕事に無関係の者とは言え一応“客”を問答無用で蹴り飛ばし、失神させ打撲傷を負わせたとして
厳重注意を受けたのだ。
ブルーノ部長にはクレーム処理とはいかなるものかを懇々と説教され、上司からは嫌味を言われ、
ビビには謝られてしまった。
まだ記憶に新しい失態をまざまざと思い出し、ひたすら恐縮する。

「その節は、申し訳ありませんでした」
居住まいを正し深々とお辞儀をするサンジに、社長は笑いを含んだ声で応える。
「いやいや、今回の一件で君と出会えたようなものだからな。あの美しいフォームはまだ私の脳裡に
 焼き付いて離れないよ。まさに雷に撃たれたような衝撃だった」
どこかうっとりと視線を漂わせる社長を前に、サンジはがくりと肩を落とした。
―――とんだとばっちりだ
まさか暴力行為で見初められるとは思わなかった。

「えー、ひとつ確認しておきたいのですが」
「なんだ?」
サンジは視線を社長の肩口あたりに合わせて、言い難そうに口をもごもごさせる。
「俺の今回のこの、人事は・・・社長の一存で、ですか」
「そうだ」
「それはその・・・俺のことが気に入ったから?」
「そうだ」
ひと呼吸置くタイミングすらない即答。
社長には、罪悪感とか公私混同とか私利私欲とか、そういう意識もないのだろう。

「・・・俺が不服だったら?」
「不服か?」
社長は真っ直ぐサンジを見つめて問うてきた。
その視線を受け止められず、サンジは社長の逞しい肩に焦点を当てたまま応える。
「不服、です。女性じゃないんですから、気に入って側に置いておかれるなんて扱いは、不本意です」
「・・・お前、セクハラの塊だな」
社長のため息交じりの声に、サンジは目を剥いた。
「なんで俺がセクハラの塊なんですか!セクハラは社長の方でしょうが!」
「・・・自覚がないんだな。今の台詞、カリファ辺りが聞いたら訴える前に平手が飛んでくるぞ」
「え、なんでですか?」
素で瞠目しているサンジに、社長はやれやれと首を竦める。
「セクシャル・ハラスメントはおいておいて、俺は性別で人間を判断することはない。よって、男だろうが女だろうが優秀なものは取り上げるし、気に入ったものは側に置く。不服か」
「・・・バイですか?」
「なんでそっちに話が行くんだ」
社長は頭を抱えるようにして、長い指で額を押さえた。
だがその表情はどこか面白そうだ。
「まあ、男はまだ実践したことがないが、君を見てその気になったのだからバイかもしれないな」
「・・・そ、その気・・・」
いきなり具体的な話の流れになって、サンジもさすがにヤバイと気付く。
「こうして話していても、君のそのくるくる変わる表情が実に楽しい」
そう言えば、社長はサンジの手を握ったままだった。
「素直で心根が優しい事がよくわかる。無邪気かと見えて、随分と鼻っ柱が強い。女相手に下手に出るばかりかと
 思っていたら、なかなかどうして随分と古い固定観念があるようだ。面白い、実に面白い」
社長の手を振り解こうとして、その指がびくともしないことがわかった。
なんて馬鹿力だ。

「もっと君の事を知りたいと、思う気持ちは罪かな?」
サンジの両手を片手で掴んで、社長は強引にその胸に引き寄せた。
至近距離では蹴ることも叶わず、サンジの痩躯はやすやすと社長の腕に納まる。
「これは社長命令ではなく、一人の男の告白だよ」
「・・・し、社長・・・」
柔らかなソファの上で、力強い男の腕に抱き締められている。
またかすかな社長の匂いを嗅いで、サンジはくらりと軽い眩暈を感じた。
この匂いは、ずるい。
嫌悪よりも怒りよりも、腹の底から得体の知れない熱が湧き上がるようだ。
社長の顔が近付いて、その指が頬に触れた。
この期に及んで社長を直視できないサンジは、すぐ前まで迫った社長の喉辺りに視線を彷徨わせる。
首が太く、喉仏の動きがなんだか生々しくて目を上げれば、社長と目が合ってしまった。

精悍な顔立ちの中で、いつもは無邪気にも映る少し薄い虹彩が、怪しい光を放っていた。
例えるならそれは、獲物を捕らえ目を眇める獰猛な肉食獣の眼差しに似て―――
ぞくりと背筋が粟立ち、サンジは思わず息を呑んだ。
その瞳に明らかな欲情の色を認めたのに、嫌悪や恐怖よりもどこか甘美な興奮が呼び覚まされる。
社長の指が、頬をなぞり耳の裏から首筋へと回された。

「拒むのは、自由だ」
言葉とは裏腹に、社長の唇がゆっくりと下りてくる。
魅入られた獲物のように瞳を逸らす事ができなくて、サンジは思わず目を閉じた。





next