社長はお熱いのがお好き -10-


机にうつ伏せて寝入ってしまった為、えらく腫れぼったい顔になってしまった。
何度も冷たい水で顔を洗ってから、更衣室に常備してあるシャツに着替える。
社長室にシャワーもあったらなと考えてしまうのは、贅沢と言うより筋違いか―――
まだトロンとしている目元に気合を入れるため、両手で力いっぱい両頬を叩いた。





「おはようございます。今日も早いのね」
久しぶりに出勤したカリファを目にして、サンジのテンションは幾分復活した。
「ああカリファさん、お久しぶりです」
「長くお休みいただいて、ごめんなさい」
はいお土産、と熱海の温泉饅頭をくれた。
冗談か本気なのか、判別つけがたいところだ。

ほどなくアルビダも出勤して、普段通りの一日が始まる。
今日の社長は、朝からジュラキュール本社に出掛ける予定だったから、もしかすると終日顔を合わさないで
終わってしまうかもしれない。
ホッとするような、益々不安が高まるような複雑な気分だ。

「あら、社長からメールだわ」
アルビダがぼそりと呟いた。
コーヒーを淹れる手を止めて、振り向かずに耳を澄ませる。
「こんな大切なことメールで済ませるなんて、相変わらず勝手な方ね」
「横着なのよ」
アルビダの肩越しに画面を覗き、眉を顰めるカリファの声音に不穏なものを感じて、サンジはコーヒーを運びながら
それとなく近付いた。

「社長、お辞めになるんですって」
溜息とともに続いたアルビダの平坦な声に、思わずカップを取り落としそうになった。














社長辞任のニュースは瞬く間に社内に広がり、どの部署もどことなく落ち着かない雰囲気が漂っていた。
給湯室で目を真っ赤にしている女性社員も見たし、いつもは颯爽としている男性社員がコーヒーの紙コップ片手に
溜息をついているのも見た。
社員全体の意気が消沈しているのがわかって、サンジ自身も遣る瀬無い気持ちになる。

社長はなぜ、突然決めてしまったのだろう。
突然じゃなかったのかもしれない。
社長の中ではずっと前からもう、決まっていたことかもしれない。
なんとなく、そんな気がした。



社長が辞任するからと言って会社組織が変わるわけではなかった。
アルビダが言うところの、トップのすげ替えだ。
ジュラキュール・カンパニーではそれは珍しいことではなかったし、現にロロノア社長が就任したのもほんの5年前のこと。
新しく就任するアイスバーグ氏は元々海外に赴任していて、帰国後のポストはここだと定められていたも同然らしい。
ただ今回予想外だったのは、ロロノア社長が本当に辞職するということだった。
子会社に栄転するわけでも新しく会社を設立するわけでもなく、職を辞してグループの傘下からも去る。
その辞職願を、ミホーク会長は受理したらしい。

秘書二人は切り替えが早いもので、もう新任社長の受け入れ準備で大わらわだ。
「サンジさん、名刺の選定は済んだ?」
「はい、確認をお願いします」
「挨拶状はこれでいいかしら」
「着任パーティの会場は押さえた?」
「はい、あの・・・」
「なあに?」
言い付けられた仕事をこなしながらも、何か言いたげサンジに、カリファは手を止めて眼鏡を掛け直した。
「社長は・・・ロロノア社長の退任のパーティとか、いや送別会かな?しないんですか?」
「社長のご意向で一切なしよ。静かに去られるおつもりでしょう」
カリファの口調はあっさりしたものだ。
サンジより余程長く社長の秘書を勤めているというのに、カリファもアルビダもあまりにドライで事務的すぎる。
ほんの少し反発を覚えたサンジは、どうやらそれが顔に出たようだ。
「寂しくない、訳ではないのよ」
先程まで電話で話していたアルビダが、受話器を置きながら優しく話しかけた。
サンジは驚いてそちらに振り向く。
「ロロノア社長の下で働くのはとても楽しかったわ。残念な気持ちは私にもカリファにもある。だからこそ、つい仕事に
 気持ちを向けてしまうの。そうね・・・例えば今日。すべての業務を終えて自宅に戻って、お風呂にでも入って
 一息ついたら・・・泣いちゃうかも」
サンジは決まりが悪そうに瞬きした。
「俺は別に・・・」
「あら、だって唇が尖ってたわよ」
慌てて口元を押さえるサンジに、カリファもくすりと笑み零す。

「社長の交代は珍しいことではないから、古株の社員は動揺していないでしょ」
「でもやはり、ちょっと影響が大きいようね。さっきからエレベーターの前で辞表片手に粘ってる子がちらほらいるわ」
それはサンジも気になっていた。
社長の帰社を待って、辞表片手に直談判する気だろう。
どこに行くあてもないのに、社長自身に惚れ込んでどこまでもついていきたいと意気込んでいる社員。
「カリスマ性があるからね、こういうことも予測できてたわ」
「ふふ、ちなみにアルビダは追いかけないの?」
高速でメールを打ちながら、カリファが問い掛ける。
「何故私?私はこの会社に就職したのであって、社長のお嫁さんになったわけじゃなくてよ」
アルビダの軽口に、なぜかサンジの胸がツキンと痛んだ。

確かにそうだ。
自分もこの会社に就職しただけで、社長の秘書を望んだ訳ではない。
思わぬことで関係を持って好きになってしまったけれど、だからと言って辞める社長を引き止めることも、ましてや
追いかけてついてくなんてことも、できるはずがない。
お嫁さんじゃないんだし。
恋人でも、ないのだから。

「サンジさん、手が止まってるわよ」
カリファの声に、鈍い動作で顔を上げた。
取り繕う余裕もなくて、ただモソモソと仕事を再開させる。
最初の衝撃より後からジワジワ湧いてくる感情の方が、なんだかきつい。






エレベーターホールの方が騒がしくなった。
「お帰り、になったようね」
サンジは反射的に立ち上がり、けれど出迎えに出るのもおかしいと慌てて座り直した。
フロアの向こうで、社長と副社長が社員に取り囲まれている。
低い声で何度かやり取りし、事は納められたようだ。
皆深く礼をしながら、社長の下から離れていく。
残された社長はいくつかの封筒を手にしていて、隣に佇む副社長に向かって苦笑した。
思わぬ和やかな雰囲気に、サンジは何故か花瓶の陰に潜むような形で覗いていた。

「サンジさん、何してらっしゃるの?」
「あ、いえ・・・今日は副社長が一緒なんですね」
明らかに挙動不審なのに、サンジは花瓶に隠れたまま顔を上げた。
「そうね珍しい。二人とも、なんだか吹っ切れたみたいな顔をしてらっしゃるわ」
確かにそうだ。
顔を見合わせ、穏やかに談笑しながらこちらに向かって歩いてくる。
「あ、俺お茶淹れてきます」
本来の業務を思い出して、サンジは逃げるように社長室に入った。




「社長、どうなさったのそのお顔」
カリファが眉を顰め、アルビダもまあまあと口元に手を当てている。
「ああ〜これな。経理部長にコークスクリュービンタを食らった」
あらまあと二度嘆息を繰り返し、アルビダが化粧ポーチを持ってきた。
「傷は男の勲章かもしれませんが、少々みっともありませんので」
社長の左頬は少々の赤味と、数本の爪痕が血を滲ませて筋になっていた。
思い切り張りつつ離れ際爪で引っかくという、高等技術を使ったらしい。

おしぼりで傷を拭き、クリームを塗ってファンデーションで押さえておく。
「まだこれから、挨拶回りに行かれるのでしょう」
「そうだな。一応これが今まで回ったところだ、整理して引継ぎしてくれ」
社長が手渡す名刺の裏には、その会社の対応と印象が常に走り書きされている。
実力以上に勘が鋭いと言われる社長のこのマメさが経営を支えてきたと言っても、過言ではないだろう。

「お疲れ様です」
熱いコーヒーを二人の前に置くと、副社長の顔が綻んだ。
「嬉しいわ、今日はゆっくりサンジさんのコーヒーを味わえる」
「別に、いつもゆっくりしてけばよかったんだぞ」
社長は何故かむすっと口を尖らせて、ソファに凭れた。
「ウソ仰い。貴方すぐ不機嫌が顔に出るんですもの」
ロビンの言葉に、カリファとアルビダが口元だけで笑った。
「挨拶回りは、お二人で行かれるのですか?」
「ええ、実は私も辞めることになったの」
ロビンの唐突な台詞に、いつもは冷静な秘書二人もさすがに目を丸くした。
「え、副社長も?」
「と言っても、私は異動のようなものよ。今度、フランキー・コンサルティングの社長に就任するから」
「へえええええ?」
サンジはつい、感嘆とも疑問ともつかぬ中途半端な声を出してしまった。
「え、じゃあフランキー・・・じゃなかった、カティ氏はどうなるんです?」
「彼は辞任するの。元々社長なんて柄じゃなかったんですって。社長業は私に任せて、自分は好きな発明を仕事に
 するそうよ」
「あらまあ」
偶然か、それとも示し合わせたものか。
結果的に、ミホーク会長の息子2人が同時に職を辞することになった。
これも遅まきな反抗期という奴か。

社長と副社長は、揃って憑き物でも落ちたかのようなすっきりとした表情をしている。
サンジはカリファ達の分もコーヒーを入れて茶菓子を出して、それから一人給湯室に引っ込んだ。
煙草を吹かしながら、なんとなくうらぶれた気分で残ったコーヒーを啜ってみる。

所詮、一介の部下に過ぎない立場だから、上司である社長に対して何を言う権利もない。
一度ゆっくり話し合ってみたいだなんて、何様のつもりだったんだろう。
自分に何の相談もなく勝手に辞めたりって、当たり前だそんなこと。
社長と秘書の立場でしかないのだから。
社長が自分で決めて、突き進むだけのことなら自分にできるのはただ黙って見送ること。
それだけが、こんなにも口惜しくて辛い。

ぐっと口元を引き締めて、飲み下したコーヒーの熱さが喉に沁みた。




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