社長はお熱いのがお好き -1-


その日、サンジは朝からそわそわと落ち着かなかった。
何度も鏡を見て髪型や服装を整え、定められた時刻までの時間を潰す。
今年4月からとは言えすでに通い慣れた会社の、けれど一度も足を運んだことのなかった最上階のフロアで、呼吸一つするのも憚られるほどに緊張していた。


新採用のサンジに異例の辞令が下りたのは、つい昨日のことだった。
入社して3ヶ月、初めての社会人経験で高まっていた緊張感もやや薄れ、職場の雰囲気にも仕事自体にも慣れてきた矢先の青天の霹靂のごとき異動辞令に、サンジはもとより周囲の人間も戸惑っていた。
企画広報部からなぜ、いきなり社長室付の秘書課なのか。
初めて聞いた時は耳を疑ったが、デスクワーク専門の女性が産休を取ったとの理由ならば不自然ではないかとも思った。
ただなぜ、女性でなく自分なのか。
人事の思惑などさっぱりわからないが、辞令となれば従うのみだ。
それより何より―――

「サンジさん、お待たせしました」
「は、はいっ」
凛と響く美しい声に、文字通り飛び上がるように背筋を伸ばした。
振り向けば、第一秘書のカリファ女史が立っている。
仕立てのいいスーツで長身を包み、輝くプラチナブロンドを結い上げた姿は、まさに清らかな百合そのもの。
眼鏡の奥から覗く、涼やかな目元についフラフラと魅了されそうになるサンジを、カリファは遠慮のない目線で頭から爪先までさっと眺めた。
「どうぞ、こちらへ」
サンジを促し先を行くカリファの残り香に誘われるように、やや夢見心地でその後についていった。



そもそも、サンジがこのジュラキュール・カンパニーに入社を希望したのは、比類なき女子社員の比率の高さからだった。
全社員の4割を女性が占め、要職の約半数も女性が就いている。
その女子社員がこれまた顔で選んだんじゃないかと思うような美女揃いで、サンジは会社訪問の時からここに
入社するのだと固く心に決めていた。
実際、副社長のニコ・ロビンを筆頭に総務部長のヒナも営業部長のポーラも並外れた美貌とダイナマイト・ボディを持っており、経理部長のナミは美少女とも呼べるほどに若い才媛だ。
こんな、レディ大好きサンジにとってはまさに天国のような職場の、今まで踏み込むことさえできなかった秘密の花園のごとき秘書課に配属されたとあっては、まさに天にも昇るような悦びというものだった。

―――生きてて、よかった・・・
ゆっくりと左右に揺れる、まろやかなカリファの腰のラインを目の端に留めて、サンジは一人幸せを噛み締めていた。





「おはようございます」
秘書課のデスクでは、受付に活けられた豪華なアレンジより華やかな、真紅の薔薇を思わせる美女・第二秘書のアルビダが魅惑の微笑みで迎えてくれている。
「サンジさんですね、よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ。どうかよろしくお願いいたします」
ほぼ条件反射のようにかしずきそうになって、あやうく踏み止まる。
いかんいかん、本当にこのフロアには罠が多い。

「失礼いたします」
―――ノックする姿勢すら、芳しい百合の香りがするようだ
カリファの後ろに立ちうっかり見惚れていると、低いバリトンが扉の向こうから聞こえた。
「どうぞ」
そう言えば、自分の仕事はこの部屋の中にいる社長の「秘書」だった。
すっかり失念していたが、自分が仕えるべきは男だったと改めて思い出して、サンジはつい舌打ちしそうになった。
ああ、できることならこのお姉さま方の秘書になりたい・・・

脳内だけで現実逃避をしているうちに、カリファはさっさと社長室に入る。
それに続いて、サンジは初めて社長と対面した。




会社のパンフレットにも顔写真など載っていなかったから、初見でサンジは目をぱちくりとさせてしまった。
よく考えたら入社式でも見ていたかもしれないが、生憎女性以外は記憶には残らないので、まったくの初対面と言っていいはずだ。

ジュラキュール・カンパニーのロロノア社長は、思いがけず若かった。
30代・・・もしかすると20代かもしれない若々しい顔つきだが、どこか堂々とした風格がある。
全面ガラスの大きな窓の前で、ビルの街並を背にして立つ姿はまさにエグゼクティブ。
スーツの上からでもわかる、がっちりとした筋肉質な体躯。
短く刈られた髪と端正な顔立ち。
首は太く胸に張りがあって、ただ佇んでいるだけでもやけに姿勢が良く大きく見える。

「おはようございます」
ぼうっと見惚れていたら、社長から声を掛けられてしまった。
慌てて我に返り、サンジはシャキンと背筋を伸ばした。
「おはようございます。本日付けで秘書課に配属されましたサンジです。よろしくお願いいたします」
緊張で声が引っくり返らないように、なんとかトーンを抑えて挨拶できた。
社長は口元に笑みを湛えたまま頷くと、片手を差し出してソファに腰掛けるよう薦める。
カリファは一礼して退出し、サンジは落ち着かない気分のまま恐る恐る革張りのソファに腰掛けた。
予測していた以上に腰が沈み、内心焦りながら脛で踏ん張って姿勢を保つ。
まるで空気椅子だ。

「今回は、いきなりの辞令で驚いただろうね」
社長は向かいには腰掛けず、片手をポケットに入れたままサンジの傍らに立った。
「はい。あ、いえ・・・大変光栄なことで・・・」
自分でも相当しどろもどろだと思うが、偉い人と面と向かってうまく話せる自信はない。
目上の人間に対して口の利き方がなってないと、説教ばかり受けてきた覚えがある。
「前任のマキノさんから直接引継ぎができればよかったんだが、生憎切迫流産で入院が早まってね。ただ、
 仕事内容としては大雑把に言えば私のサポートだ。詳しいことはカリファ君やアルビダ君から説明があると思う」
「切迫・・・って、大丈夫ですか?」
「安静にしていれば大丈夫らしい。心配してくれてありがとう」
社長の話し言葉は柔らかく、耳に心地良い。
声質もあるだろうが、話し方も洗練されているのだろう。
―――なんか、すげー・・・
基本的に女性大好きだが、目上の男性に感化されやすい性質もあるサンジは、一発で社長に傾倒してしまった。
「私の日程調整や手配などはアルビダ君達がしてくれるから、君には私の面倒だけ見てもらいたい。例えばそう、
 この部屋は私だけのプライベート空間と捉えてもらえれば」
「プライベート、ですか」
こんな大きな会社の社長ともなると、なかなか家に帰ることもできないのかもしれない。
そんな多忙な社長にとって、この社長室が唯一ホッとできる場所なのか。
それなら、自分の仕事は社長が寛げる空間を作り出すこと―――

「わかりました。俺、家事全般は得意なんです」
そういえば、面接で『料理は玄人はだし』と言ったかもしれない。
それでこの急な人事なら、わからないことではない。
「社長に、とびきり美味いコーヒーを淹れることもできますよ」
「それはありがたい。なによりだ」
どこか冷たい雰囲気を秘めていた社長の表情が、俄かに破顔した。
子どもっぽいとも言えるその笑顔のギャップに、不覚にもどきりとする。

「私は熱いコーヒーが好きなんだよ。よろしく頼む」
目の前に手を差し出されて、一拍遅れてから慌ててその手を握った。
肉厚で幅広の、大きな手に包み込まれるように握り返される。
握手すら力強いと感動していたが、そのまま時が止まったように動作が固まってしまって、おや?と気付く。
社長の手が、離れない。
ここは、こちらから手を離した方がいいのか。
いやもう指とか離れてるのに、社長の掌ががっつり自分の手を掴んでいて―――

「あ、あの・・・」
意識的に引っ張ったのに、社長の手はぴくとも動かない。
え?えええ?

「意外と手が、大きいんだな」
サンジの手を掴んだまま、社長は繁々と見るように斜めに倒した。
「指も長い。何より白くて肌理が細かいね」
「・・・は、はあ・・・」
男に手を褒められても全然嬉しくない。
それを言うなら先ほどのカリファさんやアルビダさんの方が、余程白くて細長いたおやかな手をしているだろうに。

「ぜひこの手で、熱いコーヒーを淹れて欲しいな」
そう呟いて、社長はやおら握った手を持ち上げた。
目で見る映像より先に、ふと触れた感触に仰天した。
社長が、社長が自分の手の甲に唇をつけている?!
軽くパニックに陥ったサンジは、手を引く前に反射的に立ち上がり、社長の脛を足で蹴っていた。
「つっ」
「あ、すみません!」
謝りながら手を振りほどき、自分の乱暴な振る舞いに戸惑いながらも顔を真っ赤にして頭を下げる。
そのちぐはぐな行いが我ながら滑稽で、余計に混乱してしまった。

「申し訳ありません。あの、お怪我は・・・」
「大丈夫だ。いい蹴りをしているな」
思い切り蹴ったはずなのにたいして痛そうな顔もしないで、社長は何故か満足そうに笑っている。
「ますます気に入った。よろしく頼むよ」
ぼうっと突っ立ったサンジの腰をポンと叩くと、そのまますっと下に手を滑らせる。
―――――?!!
今度こそ仰天して固まってしまった。
社長はなんでもなかったようにそのままスタスタ部屋を横切ってドアを開ける。

「お車の用意ができました」
「ありがとう」
アルビダを伴って颯爽と出掛ける社長の姿は、初めて目にした時と変わらずカッコいいが、サンジはもう
それどころではない。

――――触られた?男に?ケツを?
間違いでなければ、気のせいでなければ
社長に尻を撫でられた・・・気が、する。
しかも指に力を入れて、掌で包み込むように・・・揉んだ?


「ウソ、だろー・・・」
呆然と呟くサンジの前に、カリファが静かに歩み寄った。

「それでは、これから引継ぎを始めましょうか」
相変わらず表情のない氷の如き冷徹な美貌だが、目が笑っているように見えるのは気のせいだろうか。



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