Stay gold -9-



逆撫でのゲイシーはムカムカの実の能力者だ。
相手が発する“怒り”の感情を吸収し、自らの力として使うことができる。
だから相手の感情を逆撫でして、怒らせれば怒らせるほど勝機は増す。
この力で、今まで何人もの賞金首を狩って来た。
どれほどの手練でも怪力の持ち主でも、怒りのエネルギーを吸収されてはひとたまりもない。
だから今回“海賊狩りのゾロ”相手でも、楽勝だと思っていた。

だが、思惑に反して魔獣と呼ばれた男は、怒気を顕わにしてゲイシーに襲い掛かってくることはなかった。
てっきり乱闘になると思ったのに、拍子抜けだ。
拍子抜けと言えば、黒足を相手にした時もそうだったか。
高額の賞金首が名を連ねた海賊として、麦藁の一味は若手でありながら名が売れている。
その無鉄砲さであちこちに喧嘩を売るかと思ったが、暴れるどころか売られた喧嘩を買いもしなかった。

鍛冶屋を襲った時点で、手に入れた刀が和道一文字と知ってすぐに「ロロノア・ゾロ」を思い浮かべた。
その刀を取り返しに出向いた金髪を、「黒足のサンジ」だと気付いたのは消去法でだ。
引っ付いてきた黒髪の男は、あの鼻の長さで「そげキング」だとすぐにわかった。
どちらにしろ麦藁の一味には違いない。
わかっていて、ゲイシーは挑発した。
怒って攻撃してきたなら倒せばいい。
下手に出て正当に取り替えそうとするのなら、それはそれで応じてやってもいい。
どちらに転んでも、ゲイシーには美味しい話だ。
そうして実際、「黒足のサンジ」が思いもかけぬ上物で存分に味わわせてもらった。
名刀を一つくれてやっても惜しくない身体だ。
領主はそれで満足したし、ゲイシーだって損したものは何もない。
これで万事、上手いこと尽くしだ。

後は、証拠写真をちらつかせ噂をバラ撒いて、怒り心頭で殴りこんできた麦藁の一味を一網打尽にできれば二度美味しい。
そう思っていたのだが、これも当てが外れたか。
黒足のサンジはよほどプライドが高いのか、そげキングの口が堅いのか、仲間には知られていなかったようだ。
だがそれはそれで好都合。
人間、内緒ごとが増えれば増えるほど窮地に立たされるものだ。
現実を突き付けられた海賊狩りの、あの色を失くした表情は思い出しても笑いがこみ上げる。
きっと今頃、麦藁の一味の中で復讐心が高まっているだろう。
殴りこみに来るなら来い、すべて返り討ちにしてやる。

頭の中で算段しながらニヤニヤとほくそ笑んでいたら、酒場の扉が開いた。
ゆらりと立つ影は、いつか見た細いシルエットだ。
ゲイシーは喉の奥で笑って、持っていたグラスを高々と掲げた。

「よーう、待っていたぜ可愛い子ちゃん」
部下達が一斉に振り返り、おおとどよめきながら手を叩く。
「こりゃあ驚いた、猫ちゃん自ら登場だ」
「なんだいなんだい、また可愛がってほしいのか?ん?」
「俺たちの味が忘れられねえのか」
下衆な笑い声を立て、男達はゆっくりと歩み寄るサンジを取り囲んだ。
先ほどのゾロとのやり取りを始終見ていた客たちは、サンジの登場で状況を察したらしい。
声を潜め薄ら笑いを浮かべて、成り行きを見守っている。

「へえ、あれが噂の“黒足のサンジ”か」
「手配書と全然違うじゃねえか、こりゃ上物だ」
「あんな細い腰で、あんだけの人数相手にしたのかねえ」
ゲイシー一派のみならず、野次馬の冷笑も一心に浴びたサンジはそれでも真っ直ぐに前だけを見据えて酒場の真ん中を横切った。
照明を落とした店内では、影になって表情までよく見えない。
ただ、歩みに躊躇いはなかった。

―――怒れ怒れ、怒り狂いながら俺に向かって蹴りかかって来い。
黒足の名に相応しいように。
そうすりゃお前の力のすべてをいただいて、ついでにもう一度お前のすべてを奪ってやろう。

ゲイシーが歪んだ笑みを浮かべた時、隣に立っていた部下が真横に吹っ飛んだ。
目にも留まらぬ速さで、仲間が次々と薙ぎ倒されていく。
ゲイシーは驚いて両手を差し出したが、いつも痛いほどに浴びる“怒り”のエネルギーは感じられなかった。
「え?あ、ああ?」
驚愕に目を見開き、ひとまず逃げた方がと判断してももう手遅れだ。
真っ赤に焼けた鉄の杭のような一撃が、脳天に下される。

「――――!!」
声もなく、ゲイシーは床に沈んだ。
他の客たちは呆気に取られ、声を失くして口をぽかんと開けている。
その内ざわざわと、さざ波のように広がった声は次第に興奮で高まっていった。

「なんだよなんだよ、すげえじゃねえか」
「それに引き換え口ほどにもねえ、つうかなんだこのショボい海賊もどきは」
「嘘ばっか吐きやがって、なにが可愛がっただ。一撃で鎮められてやがるじゃねえか」
ギャラリー達の怒りと冷笑は、いまや床に沈んだゲイシー一派にのみ注がれている。
「驚いたなあ、“黒足のサンジ”ってのは本物だ」
「見たかい、信じられねえ強さだ」
「見たもなにも、俺あ見えなかったぜ」
「俺だってだ、だが底抜けに強えってのは十分わかった。ゲイシーってのはとんだ嘘吐き野郎だ」
「見せびらかしてた写真だって、偽物に違いねえ」
現れた時とは打って変わって賞賛の眼差しを一身に浴びたサンジは、けれど来た時と同じように真っ直ぐ前だけ見つめて踵を返す。

「おいおいあんた、トドメ刺さないのか?」
「あんたらで好きにすればいい、こいつらも賞金首だろ」
サンジは乾いた声で返事し、振り返ることなく酒場を出て行った。
「この、つまんねえ嘘吐くしょうもねえ野郎だ!」
「マスター、海軍呼べ海軍」
「もう呼んだよ」
「賞金はみんなで山分けだぜえ」
扉が閉まってから、店内は客たちの歓声と怒号でわっと沸いた。





表に出れば湿った空気が肌を撫でる。
一雨来そうな雰囲気だが、空を見上げても星も月もなく真っ暗で雲も見えない。
サンジは煙草を咥えて火を吐けると、一息吸ってから夜道を歩き出した。

どこへ行く宛てもなく、ただ暗い路地に入り込み足だけを動かして彷徨った。
やがてポツポツと降り出した雨が髪や頬を濡らし、咥えたままの煙草は湿気て火が消えてしまった。
それでもフィルターを噛み締めて、サンジは前だけ向いて歩き続ける。

ふと、足を止めた。
夜の海に面した防波堤に腰掛ける男のシルエットに、目が吸い寄せられる。
上半身裸でテンガロンハットを被った男は、サンジの足音が止まるのに気付いたかゆっくりと振り返った。
その瞳が、驚きに見開かれる。

「サンちゃん!」
夜更けに響いた声は、朗らかに澄んでいた。
雨に煙る闇を振り払うように、凛と響いて静寂に消える。
「驚いた、偶然ってあるんだな。こんなに早く、またこうして会えるなんて」
両手を広げて大げさな身振りで喜びを顕わにしたエースの、全開の笑顔が急に歪んで滲んで見えた。

「・・・サンちゃん?」
顔に降りかかる雨よりも熱くとめどない流れが、サンジの頬を伝い落ちた。





「落ち着いた?」
「おう、ありがとう」
エースの宿に招かれ、熱いシャワーを浴びて一息吐く。
前もこんなんだったなと思い出し、一人で自嘲しながらサンジは差し出されたホットワインを受け取った。
「熱・・・」
「身体ん中からあっためんのが一番だよ」
喉の奥から食道、胃へと辿り着く過程がありありとわかる熱い塊の移動とともに、じんわりと温もりが染み渡る。
サンジは知らず、ほうと深いため息を吐いた。

「そっかー、ゾロにバレちゃったか」
向かい側に腰掛けてワインを傾けるエースは、同情を滲ませた声で一人頷いた。
「それにしたって卑怯な手を使う輩だったね、その割に随分と弱かったみたいだけれど」
「俺も、それにはちょっと拍子抜けした。あいつらの目的はなんだったんだろう」
あれだけあからさまに挑発しておきながら、あの程度の強さでよく今まで生きてこられたものだ。
他人事のようにそう考えるサンジの顔を、エースはじっと見つめる。
「・・・なに?」
目線に気付いて睨み返せば、エースは困ったように笑い返した。
「いやでも、なんでトドメ刺さなかったのかなあって思ってさ。今からでもいいなら、俺ちょっと焼いて来ようか?」
「・・・よしてくれ」
シャレにもならない。
引き気味のサンジに、なんで?とエースは真顔で問い返す。
「サンちゃんをあんなひでえ目に遭わせて、侮辱した奴らだぜ。万死に値するだろ」
「そうかもしれないけれど・・・」
サンジは少し考えて、首を傾けた。
「俺、別に腹立てたりしてねえんだよな」
「え?」
自分の言葉を口の中で繰り返し、うんと一人頷く。
「俺の中には、怒りとか憎しみとか、そういうのなかったんだ。そりゃあ、腹が立たないっていったら嘘になる。けど、なんかこう、腹が立つっていうよりとにかく頭の中が真っ白になって―――」

ゾロの、あの大きくて美しい手の下に自分のあられもない姿が見えた時は、心臓が凍り付いた。
息をすることも忘れただ呆然と、ウソップとゾロとのやり取りも他人事のように眺めていた。
―――どういうつもりでこんなことをしたのか。
ゾロに問われ、はっとした。
一体自分はなんだって、こんな真似をしたんだろう。
海賊ならば力でねじ伏せて、奪い取ればよかったのだ。
多勢に無勢でそれが無理と判断したなら、一旦船に戻って仲間を呼び寄せ、或いは持ち主たるゾロを呼び付けて取り返せばよかったのに。
なのになぜ、一人で突っ走ってしまったのか…

それを考えたら悲しくなった。
ただただ、悲しかった。

「俺は…」
「ん?」
なにか言い掛けたサンジに、エースは優しく耳を傾けた。
「俺は、汚しちまったから…」
眉を潜め、サンジを非難するように首を振った。
「何を言ってるんだ、サンちゃんはなにも…」
「俺が汚した、ゾロの刀を」
続いた言葉に、エースは口を噤む。
「あの、ゾロの刀を。あの白くて綺麗な刀を、大切だから取り返したくて必死で、バカなことをした。刀を穢すような真似を…」
「そんなことないだろう?」
本気で激して、短く叱咤する。
「サンジは仲間の大切な刀と知って、それを取り返しただけだ。なにも悪くない、刀だって穢れてなんかない」
「けど、ゾロの中では違う!」
エースを見上げたサンジの瞳は潤んでいた。
「ゾロは、これから和道一文字を見る度に俺を思い出すだろう。こんな真似をした、バカな俺のことを」
上着のポケットに入れっぱなしで忘れていた写真を、エースの眼前に突き付けた。
だがエースは一言も発さず一閃の炎と共にそれを焼き尽くす。

「もう終わったことだ。サンジは自分でけじめを付けた」
「写真は燃やせても、記憶は消せない」
黒い煤が付いた指先を悔しげにこすりあわせるのに、エースは両手でしっかりとサンジの手を掴んだ。
燃やしたのは写真だけだ。
サンジの肌には熱すら届いていない。
なのになぜ、こんなにも指先が熱い。

「ゾロはこの先も、刀を見る度に思い出すだろう。幼くして死んだ親友の面影じゃなく、汚らわしい俺の姿を。あんなにも清冽な美しい刀が、大切な親友の形見が…」
「サンジ」
「俺のせいで!」

ただただ悲しかった。
あの日あの時、あの手段でなければ取り返せなかっただろうと、今でも思わないでもない。
過去を悔やむつもりはない。
ただ必死で、あの刀がゾロの前から永遠に姿を消すことになってはならないと、それだけを念じて行動しただけだ。
だから、悔いはない。
ただ一つ後悔するならば、それは刀を穢れさせてしまったことだけ。
「俺のせいで、あんな綺麗な刀なのに―――」
「サンジ」
エースはサンジの手を引き寄せ、腕を回して抱き寄せた。
バスローブ越しに、震える痩せた肩が痛々しい。
自分の胸に素直に顔を埋めたサンジの、濡れた髪を優しく指で梳いた。

「悪くない、サンジは一つも悪くないよ」
「で、も…」
「刀は穢れなんかない、綺麗なままで、無事に持ち主の元に戻ったんだ。ゾロだってわかってる」
「…け、ど―――」
「サンジがそうしたいと望んだんだ。それでいいじゃないか」
「―――…」
それでも―――

なんのつもりでとゾロに問い質され、サンジはようやく気付いた。
身体を張ってまで取り戻す必要は、なかったのだお互いに。
少なくともゾロにとっては出過ぎた真似で、迷惑に思いこそすれ感謝されるはずはない。
サンジだって感謝されたくて、恩を売りたくてこんな真似をしたつもりはなかった。
だが、ならどうしてこんなことをと問われれば、明確に答えられない。
自分が仕出かした行いなのに、その理由が自分でもわからない。

ただ必死だっただけだ。
その想いが自分でも理解できなくて、悲しみだけが広がっていく。
感情の迸りに、押し潰されそうだ。

「だって俺が―――俺は、お、れが・・・」
「・・・サンジ」
優しい掌の温もりに促され、それでも抑えきれない慟哭を喉の奥で押し殺し、サンジはエースの胸に顔を埋めて思い切り泣いた。





サンジが用意してくれた夕食を二人で平らげ、ウソップは手早く洗い物に取り掛かった。
街に帰りそびれたゾロは、一人酒をチビチビと飲んでいる。
静かなラウンジに、皿を洗う音だけが響いた。

「なあ」
「ん?」
振り返らず返事だけ寄越すウソップの背中に、ゾロはぽつりと言った。
「悪かったな」
ふっと、ウソップの肩の力が抜けた。

「んなこと俺に言うな、サンジに言え」
「ああ」
ぐびりと酒を飲み、ゾロは息を吐いた。
「俺は、礼を言うべきだったな」
「それも俺に言ってどうする」

ウソップは笑いながら振り向いた。
「サンジが帰って来たら、ちゃんと言えよ」
「ああ」

けれど、その夜サンジは船に帰って来なかった。




next