Stay gold -4-



獣のような荒い息遣いと唸り声が、サンジの耳に響いた。
それらを振り払うために声を上げ、はっと目覚めてからそれが自分の口から発せられたものだと気付く。
――――夢?
どんな夢を見ていたのか、よく憶えてはいない。
けれど身体にはまざまざと、その感触が残っていた。
ねっとりと舐められ乱暴に扱かれ、中を探られて肌を抓られた。
その幾つもの手がバラバラな動きをするのに翻弄されて、夢の中の自分は泣いて嫌がり懇願した。
もう止めてくれと、許してと。
夢から覚めてもまだ混同していて、もしかして自分は本当にそう言ったのではないかと血の気が引いた。
けれど、ゆっくりと夢の中身を反芻する内にその記憶は徐々に薄れ、その代わり昨日のことが徐々に思い出される。

大丈夫、あの時あの瞬間にも、自分は決して無様な声は上げなかった。
闇雲に希うことも、逃れようともしなかったはずだ。
ただ、条件に応じただけだ。
結果、相応の利益を得てその場は終わった。
もう済んだことだ。
なにもなかったと、思えばいい。

――――くそっ
サンジは自分の中の澱を掻き混ぜるように、乱暴に寝返りを打った。
静かな部屋に衣擦れの音が響いたが、ソファから覗くエースの足は変わらずにそこにあり微動だにしない。
耳を澄ませば、安らかな寝息が聞こえる。
人の気配のあるところでは眠れないと思っていた筈なのに、今のサンジにはその気配がありがたかった。
横を向いて腰を曲げれば、身体の内側に残る不快感が蘇る。
知らぬ間に冷えた指先を温めるように両手で身体を抱いて、サンジはまた目を閉じた。

何度か転寝をしてははっと目を覚まし、再びトロトロとしたまどろみを繰り返す。
そうしている内に夜は白々と明けてきた。
薄いカーテン越しに朝の光が差し込んで、今日もよい天気だなと思ったことまでは覚えている。
それから後の記憶がなく、気付いたらすでに昼近くになっていた。



「おはよう」
ソファの背もたれから顔だけ覗かせて、エースが声を掛けた。
生返事をして、ベッドに肘を着き上半身だけ起こす。
「悪い、俺ずっと寝てて・・・」
「いいっていいって、よく寝てたよ」
エースはテーブルの上に置いてあった紙袋をガサゴソと掻き混ぜ、中からパンを取り出した。
「もう起きるんなら、パン食べる?」
「あ、ああ」
ここまで来て遠慮するのも、却って無礼に当たるだろう。
サンジは毛布を跳ね除けて起き上がろうとして、動きを止めた。
昨夜全裸で寝たきりだ。
「あ、そうそう余計なお世話かと思ったけど服買って来た」
好みじゃないとごめんねと言いながら、真新しいシャツとズボンを投げて寄越す。
「下着まで買ってない、俺の貸そうか?」
「いやいい、遠慮しておく」
下着まで揃えられたら、羞恥で倒れてしまいそうだ。
サンジは毛布を中途半端に剥がし、素肌にそのままズボンを履いた。
シャツを羽織り立ってみれば、ウェストが大きくてズボンがずり下がる。
ベッドの上に畳まれた、汚れた服からベルトだけ抜き取って軽く締めた。
「お、ぴったりだね。よかった」
「ありがとう、金払う」
「ああ、あとでいいよ」
まずは飯食おうと、ずらりと並べられたパンの数にサンジは呆れた。
「なに、あんたもまだ食ってないのか?」
「ああ、俺も今起きたとこだもの」
―――今起きたところなのに、これだけのパンと着換えまで買ってきてくれたのか。
優しい嘘に気付かないふりをして、サンジは食欲がないのを誤魔化すようにパンに齧り付いた。

無理やり噛んでコーヒーで流し込む。
味など感じられなかったが、温かなものを腹の中に収めて少し身体が落ち着いた気がした。
これだけゆっくり寝ておいて、今初めてほっとできた心地になっている。
「もっと食べないと、ほらこれも」
「いやもういいよ、好きなだけ食ってくれ」
「そう?んじゃ遠慮なく」
さすがルフィの兄らしく、底なしの食欲を見せて次から次へと平らげてくれる。
見ていて実に気持ちがいい。
自分が作った料理もこんな風に食べてくれたら、どれだけ嬉しいだろうか。
そこまで考えて、サンジの胸は重く塞がれた。
俺なんかが作った料理を、喜んで食べてくれる人はいるだろうか。
なにも知らないクルーならともかく、ウソップやエースは。

エースは多分、昨日自分の身に起こったことを理解している。
わかっていて敢えて触れずに、自然体で接してくれているだけだ。
そんな気遣いはありがたいけれど、感謝する一方で苦々しく感じる気持ちもあった。
エースはまったく悪くない。
明らかな八つ当たりだと、サンジにはわかっている。



「ご馳走さん、片付けるよ」
「ん、片付けるっつったってゴミ出すくらいだろ。いいから寝てろ」
「嫌ほど寝たんだ、もういい」
エースの顔は見ずに、紙袋を畳んでゴミ箱に捨て、テーブルを拭く。
申し訳程度にベッドを整えて衣類を持った。
「ほんとに世話になった、宿代と飯と服と、こんくらいで足りるかな」
「なに、もう出て行くのか」
「ああ」
エースはソファにごろりと寝転がったまま、組んだ足首を手で玩んでいる。
そうしていると、フィギュアヘッドの上で寛ぐルフィにそっくりだ。

「ログが溜まるのは、いつだ」
「・・・明日」
「ならもう一晩泊まってけばいいじゃねえか。また宿探すのも多分大変だぜ」
サンジは胡散臭そうな目でエースを見た。
その視線を気にすることなく、エースはからりと笑う。
「俺もその方が都合いいし。宿代、折半してくれるだろ」
「―――・・・」
そう言われると、抗う理由もない。
「それにあんたの飯を食わせてもらえると、なお嬉しいなあ」
サンジは反射的に、部屋の中を見渡した。
シングルとは言え一応キッチンつきで、水周りが整えられた部屋だ。
簡単な料理を作ることは可能だろう。
だが―――
「俺の飯を、食う気か?」
「当たり前だろ。一流コックの料理を味わうなんて機会、そうそうねえぜ」
あっけらかんと言い放つエースを前にして、サンジの表情は強張ったままだ。
「・・・あんた、俺の・・・」
「ん?」
「俺の、飯なんて―――」
「食べたいに決まってるだろう!」
皆まで言わさず、言葉尻を掬い取るようにエースは身を乗り出した。
「こないだルフィとはちょっと言葉を交わしただけだったけど、とにかく飯が美味いんだって散々自慢されたんだ。今夜ぐらい、コックさんを独り占めしたっていいんじゃね?」
これも何かの縁だし。
そう言って屈託なく笑うエースの顔を殴り飛ばしたいような、抱き締めたいような。
そんな相反する感情が、サンジの中で交差した。
「・・・わかった」
「これぞ一宿一飯の恩義って奴だな」
少し違うが訂正する気にもなれず、サンジは気持ちを切り替えて今日一日をエースと共に過ごすことに決めた。





船番ではあるが昼過ぎに甲板で目覚めたゾロは、くわあと大きく欠伸をしながら両手を伸ばした。
青い空に白い雲が、その手で掴めそうなほどにくっきりと浮かんでいる。
潮風とは別に食欲をそそる匂いが漂ってきて、首をコキコキ鳴らしながら立ち上がった。

昨夜はゾロが船番だったから、用心してその前の日から船に戻ってきていた。
メリー号の時もそうだったが、船と言うものはちょっと目を離した隙に別の場所に移動していたりするから油断がならない。
そのせいで船番をすっぽかしたことになって、またナミに膨大な借金の上乗せをされてはかなわない。

慎重な作戦が功を奏して昨夜は順当に船番をしていたのに、夜になってウソップが帰ってきた。
ゾロが鍛冶屋に預けたはずの和道一文字をしっかりと抱え、蒼白な顔で戻ってきたのを見た時、さすがのゾロも驚いた。
何があったかを問えば、鍛冶屋が襲われ盗賊に刀を盗まれたのだと言う。
偶然その場に居合わせたウソップは、辛うじて刀だけを取り返すことができたと。
そして負傷した鍛冶屋を病院に連れて行くこともできたと、そう語った。
だが、その言葉にいつもの勢いも誇らしさも感じられなかった。
ただ訥々と事実だけを語っているように見せて、真実は秘められている。
そんな気がするウソップの態度にゾロも気付いてはいたが、それ以上深くは追求しなかった。
ほら吹きのウソップがヘタな嘘を労さなければならない事情があるのなら、気付かぬ振りをして放っといてやるのが人情と言うものだ。
そう判断して、あちこちに擦過傷を負ったウソップの手当てを手伝い、刀の礼だけを述べた。
けれど、ウソップの顔は晴れなかった。

そのままウソップは街へは戻らず、男部屋に入って眠ったようだ。
あまりの消沈ぶりに少し心配にはなったが、ゾロには船番という大役もある。
そのまま甲板で朝を迎え、ついでに昼も迎えていた。



「おはよう」
ゾロがキッチンに入ると、ウソップはフライ返しを持ったまま振り返り挨拶してきた。
「お早いお目覚めだな」
「まあな」
当たり前みたいにテーブルに二人分の料理が用意されていて、ゾロも席に着く。
ウソップの料理もそこそこ美味い。
凝った料理は飾り付けに時間を掛けすぎて冷めてしまったりもするが、サンジの誕生祝の時など腕を奮っていた。
「俺の料理で悪いが、食ってくれ」
「ありがとう、いただきます」
ゾロは殊勝な態度で手を合わせ、フォークを手に取る。

「お前、結局このまま船番するのか?」
折角の上陸なのに昨夜から船に残っているウソップに、ゾロが問いかける。
「ああ、一度街まで行って買い出しと飯の材料だけ買ってくるつもりだけど」
「なんなら、俺が見てるからゆっくり行ってくるといい」
ゾロの言葉に、ウソップはどんぐり眼をなお丸くした。
そうすると、白目の充血がよりはっきりとわかる。
昨夜はよく眠れなかったのだろうか。
「今日は鍛冶屋に刀を引き取りにいくつもりだったが、その必要もなくなった。他に島ですることもねえ」
「・・・そうか」
ウソップは無意識に、ゾロの腰に差した刀へと視線を移した。
やはり三本、その場所にある方がしっくりとくる。
中でも白く美しいこの刀が、この島で失われるところだった。

「なあ」
「ん?」
「サンジに、その刀のこととか、話したことあるのか?」
「あ?」
なぜここでその名前が出るのか。
唐突さに戸惑いつつ、ゾロは「ああ」と頬袋を膨らませながら応えた。
「そういや、前に話したことがあったな」
「なに、お前ら意外と仲いいのか」
「んな訳ねえだろ」
途端、ゾロは不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「ただ、刀の手入れしてる時にそんな話になっただけだ」



夜半、ゾロがゆっくりと刀を手入れする場所はラウンジが多かった。
昼間は仲間達の喧騒と料理の匂いと煙草で入り乱れた雑多な場所だが、夜更けにはもっとも静かで埃の立たない清潔な空間になる。
サンジも、ゾロが手入れを始めるとキッチンに立つのを止め、机に向かってレシピノートをまとめたりし始めた。
その間、煙草を吸うこともない。
ゾロが特に何かを言った訳でもないのに、それが彼なりの気の遣い方だったのだろう。

静かなラウンジに、ゾロが刀を扱う音とサンジのペンが滑る音だけが聞こえている。
ゾロは刀の手入れをしながら、背後の気配をずっと感じ取っていた。
時々手を止めて考えて、またペンを走らせ、時に一人でクスリと笑う。
少し猫背気味な背中、頬杖を着く筋張った手首。
組んだ足先をぶらぶらと揺らし、時折無意識にポケットを弄っては手ぶらで引き抜いている。
彼が作る料理そのもののような温かなその気配は、ゾロに安らぎを与えてくれていた。

同じ部屋にいるというだけで、なにかが満たされている。
それがなんなのか、なぜそうなるのか。
ゾロはその理由を深く考えようとはしなかった。

確かそんな折に、刀のことを話したのだと思う。
鬼徹の選び方に激怒し、雪走の最期を悼み、秋水に感嘆しながら、サンジは興味深くゾロの話を聞いていた。
ゾロも、らしくもなく饒舌だったと思う。
そして和同一文字のことを話したとき、それまでなにかと相槌を打っていたサンジが黙った。
その気配にゾロが顔を上げると、サンジは慌てて背を向けた。
まさかなと思うが、もしかしたらサンジは涙ぐんでいたのかもしれない。
こと、相手が女となると、思い出話の中であっても感情のブレが如実に表れるタイプだ。
道半ばで潰えた少女の夢を、ゾロの想いを、勝手に汲み取って感情移入してしまったのかも知れない。

―――こいつ、アホだなあ。
そんなサンジを優しいとかいい奴だとかは思わず、心底呆れながらもゾロの顔は笑っていた。
やはりどこかが温かいと、そう思いながら自分も笑顔になっていた。



「そうか、サンジはその刀の経緯を知っているのか」
独り言のようなウソップの声に、はっとして我に返る。
「クソコックが、なんだ?」
「いや、なんでもねえよ」
慌てて首を振り料理を掻き込むウソップに、ゾロは妙な奴だと思いつつもそれ以上気に留めなかった。





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