それすらも恐らくは平穏な日々 9

ここはどのあたりだ?
毎日毎日利用している最寄りの駅周辺で、ゾロは迷子になっていた。
待ち合わせは午後5時。
サンジが言うところのニノキンの前で。
バイトも予定通り終わり、乗継ぎにも失敗せず駅まで到着した筈なのに、どうした訳か見慣れない改札を出てしまった。
どうやら西口と東口を間違えたらしい。

まあ駅は一つだからぐるっと回りゃあそのうち反対側に出るだろう。
そう思って駅伝いに歩き出したはずなのに、気がつけば壁はデパートのディスプレイに変わっていて、
いつまでたっても高架下が出てこない。
ちょっと歩きすぎたかと振り返れば駅はかなり遠くなっていた。
地下に潜った方がわかりやすいかと階段を下りると、地下鉄はこちらの看板が見える。
一体、ここはどこだ?
くどいようだが、毎日利用する最寄りの駅で、ゾロは迷子になっている。




こんなことならもっかい改札通ってホームを抜けた方が早かったな。
後悔しても後の祭り。
そう思って通り抜けようと歩いているのは、地下鉄のホームである。
JRでも地下鉄でも駅の名前が同じなんだから同じだろ。
まじめにそう思って歩いているゾロは、ある意味大物かもしれない。

当てもないくせに早足でずんずん歩いていると電車が滑りこんできた。
乗る人数の倍ほど降りてくる人ごみの中で、揉み合うように男女の塊が飛び出した。
「離せってんだ。しつけえぞ!」
「何言ってるんですか、この痴漢!こちらへ来なさい!」
甲高い女の声に目を向けて、ゾロははっとした。
背の高い女が自分と変わらない背丈の男の腕を捻り上げている。
「痛えって、逃げねえから離せよ。俺は何もしてねえって。」
「あの・・・ほんとにもういいです。」
もう一人、小柄な女がおろおろしていた。
「よくありません!だからこんな男が付け上がるんです。あなたが痴漢行為をされていたのは私がちゃんと
 目撃していますから、証言できます。」
「冗談じゃねえ、誰が触るかってんだ、こんなブス!」
男の暴言に、小柄な方の女が泣きそうに顔を歪めた。
「なんですって・・・」
怒りのあまり、男を拘束する手が緩んだ。
「あなたのような人が女性を貶めて、尚且つ傷つけるなんて!」
「うっせえ!」
隙をついて男は大きく腕を振った。
眼鏡を払い落とされて、女が怯む。
その間に脱兎の如く駆け出した男を、ゾロは咄嗟に捕まえていた。
「うぎゃーっ痛エ、マジ痛ええ!」
「ぎゃあぎゃあ喚くな。往生際の悪い奴だ。」
男を引き摺りながらホームを歩くと、件の女はど近眼なのか眼鏡を探して這い蹲っている。
ゾロは男を掴んだまま見を屈めて眼鏡を拾った。
大袈裟に痛えと喚く声は無視して女の目の前に差し出す。
「ああ、ありがとうございます!」
見上げて笑った顔にしばし見蕩れる。
まるで、成長したくいなが目の前に現れたようだ。
女は眼鏡をかけてきょろきょろと周りを見回した。
「あら、あの子は・・・」
コトが大きくなって怯えたのだろう。
どさくさにまぎれて逃げてしまったようだ。
女は仕方がないといった風にため息をついて、ゾロから男の腕を掴み取ろうとする。
「こいつは俺が連れて行くぜ。」
「いえ結構です。私一人でも大丈夫ですから。」
まだ痛え痛えと泣き言を言う男は無視してし、しばし引っ張り合った。
「俺もついてった方がいいと思うぜ。被害者がいねえんじゃあんたの証言だけになっちまう。」
ゾロの言葉に納得したのか、女は渋々承諾した。
「じゃあ、今回はお言葉に甘えさせて貰います。さあ、いきますよ。」
どこまでもきびきびとした女だ。
腕っ節が良くて気が強いのもくいなとだぶる。
「私の名はたしぎです。あなたはロロノアさんですね。」
「なんで、俺の名前を・・・」
「あなたは割と有名よ。インハイで去年優勝したでしょう。」
そう言って、たしぎははじめて笑顔を見せた。











しまった。すっかり遅れちまった。
焦りながら腕時計を見る。
約束の時間を1時間は過ぎている。
もういないだろうな。

一緒に暮らしているのに待ち合わせだなんて、冷静に考えれば不毛な事をしているが、約束は約束だ。
待ってようが待っていまいが、とりあえず待ち合わせの場所には行かなくてはならない。
たしぎに途中まで案内されながらなかなか辿り着けなかったゾロは、それでもようやく
見慣れた駅前の風景を見つけた。

意外なことに、そこにサンジの姿を認める。
遠目からでも目を引く髪の色にゾロは心のどこかで安堵の息を吐いた。
派手な色彩の雑踏の中で、淡い色合いの彼はそこだけ切り取ったように際立って見えた。
サンジは苛立った風でもなく縁石に腰掛けて、同じように誰かを待つ少女と楽しげに会話している。
ああやって1時間、待っていたんだろうか。

ふと女が横を向いて花がほころぶように笑った。
待ち人が来たらしい。
軽く会釈して立ち上がる女にサンジは鼻の下を伸ばしたまま、軽く手を振って見送った。
ふにゃんとした表情を残してポケットから煙草を取り出すと、火をつける。
少し俯いた顔に、街頭の影が落ちた。
日が暮れて人工の光に照らされたサンジはどこか作り物めいていて、ゾロを訳もなく不安にさせる。
空いた隣に、若い男が座った。
馴れ馴れしく肩を近づけて、煙草をねだっているようだ。
ゾロは慌てて駆け出した。

「わりい、遅れた!」
自分でも驚くほどの大声が出て、待っていたはずのサンジもビックリしている。
「ば、遅えじゃねえかよ!」
多分怒ってやろうと思ってたのに、驚くのが先でタイミングを外したってとこか。
ゾロは大げさなほど肩で息をしてサンジの前に立つ。
「何してたんだ。てめえ。」
「・・・迷った。」
言い訳ならもうちょっとましなものをと云いかけたが、ゾロの表情が半端じゃなくまじめなので、
サンジもそれ以上言えなくなる。

「まいっか、んじゃいくぜ。」
サンジは隣の男を無視して立ち上がると、ゾロの先に立って歩き始めた。








「お前ももうちょっと着るモンに気使えよ。」
なぜか連れて来られたのは、ジーンズショップだ。
サンジが勝手にゾロを立たせてとっかえひっかえ服を当てている。
「やっぱこのタイプも似合うなー、畜生ガタイがいいから何でも合うじゃねえか。」
サンジは妙に嬉しそうだ。
ゾロは意図が掴めなくて突っ立ったまま、手近に吊るされているシャツの値札をひっくり返してみた。
――――高え・・・
近所のスーパーの特売なら1枚840円だ。
「おい、出るぞ。」
店員に聞こえないように、早口でサンジの耳に囁く。
「何で?」
「誰が買うんだこんなモン、高えじゃねえか。」
するとサンジはぐる眉をさらに顰めた。
「ったく、何セコイこと言ってんだ。そんなだからなんとかマラソンってロゴの入ったTシャツを
 後生大事に箪笥に仕舞ってたりすんだよな。」
そうだよ。
手伝った礼にって同じTシャツ何枚も貰って、大事に使ってるよ。
「手前も素材は悪かねえんだから。もうちょい気使ったら女の子が寄ってくっぜ。」
「そんなモン、放っといたって来るときゃ来る。」
「むかつくなー。」
むかつくのはこっちだ。
「金のことなんか心配すんなよ。俺が買ってやっからさ。」
サンジは能天気な顔でそう言った。
俺が買ってやる、だと。

――――パトロンがいるらしくて…

ナミの言葉が唐突に脳裏に浮かぶ。
冗談じゃねえぞ。
ゾロは踵を返して早足で店を出た。
サンジは慌てて持っていた服をその場に置いて、その後を追う。

「なんだよ、何怒ってんだよ。」
「うっせえ。」
歩道まで出てしまうと、ゾロは速度を緩めてサンジの方を向いた。
「てめえの得体の知れねえ金で、モノ買ってもらう筋合いはねえよ。」
短く言い捨てて、また前だけ見て歩き出した。
このまま置いていこうかと思ったが、後ろからついてくる気配がする。
ずんずん早足で無言のまま歩いて歩いて…
見慣れない路地まで来てしまった。

まだ後ろにはサンジの気配がする。
ゾロはぴたりと歩みを止めて、渋々後ろを振り返った。
サンジは所在無さ気にポケットに両手を突っ込んでゾロを見ている。
口元がちょっと尖って拗ねたアヒルのようだ。

「で、どこ行くんだよ。」
怒って見せた手前、ゾロは仏頂面のままサンジに凄んだ。
「は、なにが?」
「何がじゃねえよ。今日何しに来たんだよ。てめえのカップ買うためじゃねえか。」
サンジは一瞬ぽかんとした顔をして、それからあああ?と眉間に皺を寄せた。
「そういやそうだが・・・てめえなにどかどか歩いたんだよ。」
「てめえがついてくっからだろが!」
「道わかってて歩いてんのか?」
「わかる訳ねーだろ俺が!」
あまりに尊大な開き直りにサンジは二、三度口をぱくぱくさせて、それから思いっきり噴き出した。
「な、なんだてめえ、・・・すっげー態度のでかい迷子・・・?」
「うっせーな、早く案内しろよ俺を!!」
「案内って、お前どこまで歩いてくれてんだよ!」
けらけら身を折って笑うサンジに、ゾロは憮然としながらも内心ホッとしていた。
服を買ってやるといったのに突然怒り出した自分に腹を立ててもいい筈なのに、どうやらサンジは
気にしてないらしい。
だが今更謝るのも気が引けて、ゾロは益々仏頂面になる。
「言っとくが俺は、毎日利用してる駅でも迷うタチなんだ。てめえが先頭歩け!」
「わ、わかった。よおくわかった。俺が悪かった。」
ひくひく腹を引き攣らせてまだ発作が治まらないサンジは目尻に涙を浮かべている。
気を静める為か煙草を取り出し火をつけて、あーあと大きく息をした。
「言っとくけど、カップは俺が弁償するんだからな。」
そう念押しをすれば、またサンジはくすくすと笑い出した。
「わあったよ。ンじゃ俺についておいで、迷子ちゃんv」
「・・・コロス…」
けけけとだらしなく身体を揺らすサンジに肩を並べた。
身長は同じくらいだが身体の厚みが違うせいでゾロはなんとなく見下ろす気分になる。
まだ含み笑いを残したまま、サンジは横目でちらりとゾロを見て、口端に咥えた煙草を上げた。









「んー、どれにすっかな。こっちにお揃いのカフェオレボールもあんな。」
シンプルな雑貨屋でさっきからサンジは独り言を繰り返していた。
時折同意を求める独り言だからゾロはつかず離れずの距離でついていっている。
触れば壊れそうなものばかり陳列してあって、商品の間を通るだけで相当神経をすり減らしていた。
「なあ、お前どの色がいいよ。」
揃いのカップが色違いで並べあって、どれにしようか迷っているようだ。
「何で俺の好み聞くんだよ。てめえのカップだろ。」
「いや、どうせならお揃いがいいかなと…」
「なんでお揃いなんだ!」
同居しているくせに待ち合わせなんて寒いことをしておきながら、その上お揃いのカップを買う
なんて勘違いもいいとこだ。
「やっぱお前緑だよなあ。そいで俺が黄色かあ。」
独り言とも思えないほど大きな声で呟いて
「でもそう見せかけて逆にして使ってんのもいいよなあ。」
などとほざいてにかりと笑う。
これではまるでホモカップルのお買い物だ。
さっきから店員の視線が痛い。

「ふざけたことばっか言ってっと、そのカップ全部割るぞ。」
「そっか、ンじゃあやっぱりこっちのペアカップでv」
「まだ言うかあ!」
気迫だけで物を壊しそうなゾロを軽くいなして、サンジはレジに向かった。
こんな店で金を払うなんて初めての経験じゃねえかと思う。
ナミとだってこんな店は来たことがない。
金を払いながらサンジの横顔を盗み見れば、包んでくれてる店員の手元を面白そうに見つめている。
男同士で買い物に来て、臆面もなくペアのカップを買う神経は全く理解できないが、なんとなく
こいつは恋愛ごっこをしたいんじゃないかと思った。
さっきゾロの服を選んでいるときは本当に楽しそうだったし、先に店を出たときは情けない面で
追いかけてきた。

恋愛ごっこか…
確かに「ごっこ」だ。
中身が伴ってない。
例えば最初に誘いに乗っときゃよかったか?
不埒な考えが頭を過ぎって、ゾロは慌てて首を振った。
冗談じゃねえ。

「ありがとうございました。」
店員から包みを受け取って、サンジは鼻歌交じりで先に店を出た。
会社帰りのサラリーマン達が駅に向かって流れる列を逆行しながらぷらぷらと歩く。

サンジがまたメンズ物のショーウインドーの前で立ち止まった。
ゾロの顔をチラッと伺って、肩を竦めて通り過ぎる。
「俺のじゃなくて、てめえのなら見てもいいぞ。」
なんとなく、ゾロは言った。
「てめえの買い物なら、付き合ってやる。」
「いいのか。」
ぱっとサンジの顔が明るくなった。
考えてることはさっぱりわからねえが、感情は直ぐ見えるんだな。
ゾロは苦笑して、跳ねるように店に飛び込むサンジに続いた。

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