それすらも恐らくは平穏な日々 5

規則正しい包丁の音が、心地よく耳に届く。
呼び起こされる記憶は、実の母ではない。
先生の奥さんの後ろ姿だ。
くいなと二人で、朝から泥だらけで帰ってきたら、おばさんは笑って手を洗いなさいと言った。
味噌汁の匂いが台所に漂っていた。





うとうととまどろむゾロの視界に、光を吸い込んた金色が割り込んできた。
「寝てっと可愛いなあ。」
ふざけた声が聞こえる。
何度か瞬きして、ゾロは目を覚ました。
パタパタとスリッパの音がする。
ジャージを着たまま、台所に立つ後姿が見えた。
「台布巾と布巾の区別、つかねえのかよ。」
何かぶつぶつと文句を言いながらふと振り返リ、目を半眼にしたゾロに気付く。
「おはよう。」
「―――おはよう。」
仕方なく、憮然として答える。
何が嬉しくて、男と朝の挨拶をしなきゃいけないんだろう。
釈然としないまま、ゾロは立ち上がった。
「もうすぐ飯できるから、顔洗えよ。」
夕べ拾った男サンジは、鼻歌交じりで鍋をかき混ぜている。
こきこきと首を鳴らしながら、ゾロは洗面所に向かう。

タオルで顔を拭きながら戻ると、布団が綺麗にたたまれていた。
代わりに出された卓袱台に、数少ない食器が並べられている。
「お椀とか、ないのかよ。」
しょうがねえからと、代わりにマグカップに味噌汁をよそう。
「男の一人暮らしに、そんなモンいるかよ。」
そっけなく答えながらも、いい匂いに食欲をそそられた。
手を合わせて、いただきますと口に出す。
ほとんど空っぽに近い冷蔵庫の食材で、よくここまでできるもんだと感心する。
「お前んとこの冷蔵庫、なんも入ってねえのな。」
ゾロの心を見透かしたように、サンジは言った。
「味噌もいつのかわかんねえし、お玉がないのは参ったぜ。」
だから―――男所帯だって・・・
味噌汁に口をつけて、自然と言葉が滑り出す。
「お前、料理上手いな。」
「だろ?」
サンジの顔は何気に嬉しげで、にかりと笑うと白い歯がこぼれる。
目をしばたかせて、ゾロは飯をかきこんだ。
「とりあえず歯ブラシ買わねえとな、あとできたら食器も・・・」
ぶっと味噌汁を吹く。
「きったねーなあ、なんだよ。」
手早く台布巾で汚れを拭いた。
「・・・って言うか、何考えてんだてめえ。俺んちに住み着く気か?」
否定せず、サンジはふいと目線を逸らした。
「狭いけどちゃんとトイレ、風呂付きだしな。駅から遠いけど静かだし・・・。」
いや、そーじゃなくて・・・
「チャリキあれば、駅まですぐだな。」
またにこりと笑う。
その笑顔に誤魔化されるか。
「勝手に決めるな!ずうずうしいにも程がある!」
「只でとは言わないぜ、ちゃんと家賃は折半するし。」
そういう問題ではないだろーが。



「お前今、ちゃんと住んでるとこあるんだろ。」
「それなんだがな。」
いきなり深刻な顔になった。
今朝からでも表情がころころと変わる奴だ。
「実は俺、ストーカーにつきまとわれてて・・・」
―――はあ?
こいつは歩く三面記事か?
「別に被害はないし、精神的にもそうクるわけでもないんだけど・・・時々、鬱陶しくてな・・・」
もうだめだ。
こいつが何を言っても嘘臭く聞こえる。
思いっきり疑わしい目で見るゾロに、サンジは眉を上げて見せた。
「ずっととは言わないから、暫く泊めてくれよ。」
お願い、と手を合わせる。
軽く小首を傾げて見上げる面を、可愛いとは思わないぞ。
絶対に。
誰に誓うともなく、ゾロは心の中で宣言した。











「バイト行かなくていいのか?」
「昼からだ。」
思いもかけず早く目がさめてしまったので、午前中をゆっくりと過ごす。
洗濯物を干していたら、誰かがドアをノックした。

「おはようございますー。」
「あ、はーい。」
勝手にドアを開けるなよ。
「サンキュー、ウソップ。」
扉の向こうには、特徴のある長い鼻の人の良さそうな男が立っていた。
どうやらサンジの知り合いらしい。

「お邪魔します。サンジが世話になりまして。」
へこへこと頭を下げて、荷物を持って入った。
「何の真似だ、これは・・・」
呆れて仁王立ちになる俺の前を、さっさと運び入れる。
「とりあえず替えの服な。それと小物、スーパーに寄ったから食材。」
「あ、やっぱよく気がつくなあ。ウソップは。」
他人んちで勝手に荷物を広げるなよ。
しかも冷蔵庫の中、いつの間にか整理しやがって、綺麗じゃないか畜生。
「お、今日の昼は焼きそばだな。」
「喰いたかったんだー。」
自分の食いたいものを買ってきた長っ鼻は、勝手に箪笥を開けて整理しだした。
「あ、お構いなく。洗濯物干し、続けてください。」
多分こいつに言っても無駄なのだろう。
ゾロは何も見なかった事にして作業を続けた。






自分で作るより数段美味い焼きそばを食って、ゾロはバイトに出かけた。
自分の部屋にどこの馬の骨とも知れない男を二人残して出かけるのはどうかと思うが、仕方がない。
乗りかかった船と言うのか、ゾロは腹を括って後を任せた。












物心ついたときから、一人だった。
両親は事故で死んだらしく、親戚をたらい回しにされていた俺を道場の師匠夫婦が引き取ってくれた。
なんの血縁もないのに実の子と分け隔てなく育ててくれて、一人娘のくいなとはまるで本当の姉弟のようだった。
だから、本当は俺は一人じゃなかったんだと思う。
しっかりとした愛情の元で伸び伸びと育ててもらったのだ。
けれど、ある日突然くいなが死んで、俺の存在は師匠夫婦にとってかけがえのないものとなった。
今まで面倒を見てもらった恩と、くいなを喪った悲しみを慰める為にずっと側にいようと思ったけれど、
どこにでも口さがない奴はいる。
財産狙いだとか赤の他人なのにとか、余計な噂は本人の耳にも届くものだ。
俺は平気だったが、師匠夫婦が俺を思って胸を痛めているのはわかった。
だから、高校に上がると同時に、俺は家を出た。





ゾロがアパートに帰ってきたのは、夜の11時を少し回った頃だった。
部屋に明かりが付いているのを外から見ると、違和感を感じる。
ドアに鍵を入れて、ふと本当に中に奴がいるのかと思った。
昼間来ていたあの男と、家財道具を一切もってとんズラした可能性もある。
取られて困るものもないが、それはそれで厄介だろう。

耳を済ませると、中からテレビの音が聞こえる。
―――やはり、いるな。
それより自分は今、ドアを開けて「ただいま」と言うべきだろうか。
その前にノックするべきか?
人と暮らしたことが無いのでどうもわからない。
これで同棲なら話は違うのだろうが、男相手の同居である。
ゾロははしばし迷ってから、わざと乱暴に音を立てて鍵を回し、黙ってドアを開けた。





「おかえり」
テレビを見ていたアヒル頭が振り向く。
「風呂にするか?それとも飯?」
それとも寝る?とでも聞いて来そうなノリだ。
「う・・・」
ゾロは即答できなかった。
もしこの部屋にこの男がいなかったら、すみません間違えましたとドアを閉めて出て行くところだった。
もはや別人の部屋である。
出しっ放しの服や鞄はどこかに片付けられて、見覚えのない家具が増えている。
茶箪笥の中までシートが敷かれて、食器が整然と並べられていた。



「なら、先風呂行けよ。飯喰うだろ。」
サンジはいそいそと準備し始める。
ゾロは曖昧に「あー」とか「うー」とか返事して、風呂場に入った。
洗面所に目をやって更に脱力する。
コップの中に青と赤の歯ブラシが2本。
誰が見てもラブラブ状態でちょんと入れてある。
―――まあ、そっちがその気ならいいけどよ。



ゾロはもともと物事にこだわらない性質だ。
来るものも拒まず、告られたらよほどの理由がない限り、誰とでも付き合った。
その関係が長続きしないのは腑に落ちなかったが、彼女達にもそれぞれ理由はあるらしい。
サンジは最初の印象こそ最悪だったが、少なくとも今は無害というより、かなり役に立ってくれている。
甲斐甲斐しいという言葉がぴったりと来る。
男に興味はないが、あの見てくれなら、そう不自然でもないだろう。



ゾロはぬるめのシャワーを浴びて、ぱしんと顔を叩いた。
無駄に気合を入れてみる。







風呂から上がると、卓袱台の上で焼きうどんが湯気を立てていた。
「もう遅いからな。あんまり胃に負担かけるのもなんだし。」
やはり、細やかな心遣いが感じられる。
おかしい。
最初に見たこいつは一体なんだったんだ。
変態オヤジを返り討ちにして、平気でカツアゲする性悪なクソガキが、お人よし顔でゾロの前に座っている。
うどんをはふはふ喰いながら、じろりと目だけサンジに向けた。
「あの長っ鼻は、帰ったのか。」
「ああ、あれウソップってんだ。俺の幼馴染でな。俺よか1つ年下だけど、しっかりしてて世話になってる。」
世話に・・・なってる?
思わずじと目で見つめたゾロに、サンジは慌てて首を振った。
「そういう意味じゃねえぞ。兄貴みたいなもんだ。」
兄貴って、1つ下だろうが・・・とはこの際突っ込まないで置こう。




ふと思い出して、ゾロは上着のポケットから財布を取り出した。
万札を数枚、サンジに突き出す。
「何、もう家賃の時期?」
「違う。お前の携帯代だ。弁償する。」
予定外の出費は痛いが、仕方ない。
事情はどうあれ、壊したのは自分だから。
サンジは目を丸く見開いて、それからふいと顔を背けた。
長い前髪が邪魔をして、表情が見えない。
横を向いたままぼそりと呟く。
「いらねーよ。俺しばらく携帯買う予定ないし。」
「いいのか?」
こくんと頷く。
いそいそと財布にしまうゾロに、サンジがそっぽを向いたまま、小さな声で言った。
「俺、初めてなんだ。只で親切にしてもらったの。いや、もちろんウソップは別だけどよ。」
少し首を傾げてゾロに向き直った。
頬が赤い。
「なんかゾロといると安心するから、つい甘えちまうかもしれないけど、なるべく早く出るように
 するから・・・ほんのちょっとだけ、ここに置いてくれ。お願いします。」
きっちり頭を下げられた。
傍から見たらほほえましい光景だが、ゾロはゾロで気分は一気に奈落の底である。
こんなしおらしいこと言われたら・・・手が出せねえじゃねえか!





「もうおかわりいいのか?片付けるぞ。」
ゾロの心中を知ってか知らずか、サンジはニコニコ笑って片付け始める。
卓袱台の横には狭いながらも布団が二組。



しまった。
やっぱ今日も風呂で一発抜いときゃよかった―――。
後悔先に立たずが身に染みたゾロだった。

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