それすらも恐らくは平穏な日々 14

ナ〜オと猫の鳴く声がして、唐突に目を覚ました。

部屋はまだ薄暗い。
声の主はごろごろと喉を鳴らしながら、窓ガラスに身体を摺り寄せている。
ゾロは枕元の時計に目をやって飛び起きた。
もう10時に近い。

「やべ!」
やばいなんて時間じゃないが、慌てて服を着替えて部屋を飛び出した。
しとしとと、音もなく雨が降っている。







「最近じゃ珍しいわね、遅刻なんて。」
ナミのからかいの言葉にも眉を寄せるだけで答えない。
休み時間を見計らって教室に滑り込んだが、担任は取り立ててきつい注意もして来なかった。
進学も就職も控えていないゾロは事実上放任されている。
「で、お弁当もないの?慌てて、忘れちゃったの。」
憮然とした表情のまま、ゾロは売店で買ったパンに齧り付いた。
チャイムと同時に駆け込んできたルフィがあからさまに不満を言っている。
「弁当〜弁当〜サンジの弁当〜っ」
「うっせえ!」
低い声で叱咤したのに、案外響いて廻りの空気が一瞬止まった。

「おーこわっ、ご機嫌斜めなのね。喧嘩でもした?」
たいして怖がりもせず、どちらかと楽しそうにナミがつついてくる。
ルフィもゾロを怒らせた自覚はないようだ。
「ゾロ〜、サンジと喧嘩すんなよな。っつーか、あいつを放すな。」
「・・・なんだよそれ。」
一瞬ルフィの目がマジになる。
「なんとなく、あいつはお前の側にいた方がいい。お前もその方がいい。」
「・・・なんだ、それ。」
「まあ、喧嘩できるほど仲が良いってことよね。」
どこか誤解しているナミにゾロは苦々しげに舌打ちした。

「喧嘩でもねえよ。あいつが勝手に怒って出て行ったんだ。」
「出て行っちゃったの、マジで?」
「・・・わかんね。昨夜飛び出して今朝帰って来なかっただけだ。」
「じゃあ、一晩だけの家出かもしれないじゃない。」
「だから、わかんねえんだって。」
ナミとルフィに囲まれて、ゾロは渋々口を開いた。

「なーんか酔っ払って帰ってきて、自分がいると迷惑だとかなんとか言って・・・勝手にキレて、泣きながら
 飛び出したんだよ。」
「泣きながら?サンジ君、泣いたの?」
ナミが、らしくない調子っ外れな声を出した。
「ああ、なんか知んねーけどよ。」
何故か言い訳がましくなるゾロの横で、ナミは顎に手を当ててう〜んと何か考えている。

「そりゃだめだ、ゾロ、探し出せ。」
なぜか高飛車にルフィが命令する。
「ゾロがわからないまま置いとくな。自分が納得できてねえことを放っとくとサンジも可哀想だ。」
「・・・そこまでする義理はねえよ。」
「あるじゃないか、一宿一飯の恩義だ!ゾロは宿を貸してたかも知れねえけど、サンジは美味い飯を
 食わせてくれただろ。お互い様だ。義理だらけだ!」
よくわからない理屈だが、ルフィは一度言い出したら後に引かない。
「まあまあ、もしかしたら今日にでもひょっこり帰ってくるんじゃないの。そんなに焦らないで待ってたら
 いいじゃない。」
間にナミが立ってくれて漸くその場は収まった。
サンジの突飛な行動に振り回されてる立場の筈なのに、非難される形になってゾロは少々腑に落ちない。
それでも――――
もしかしたら、もう部屋に戻ってて、知らん顔して「おかえり」とか言いやがるかも知れねえな。
なんとなく、そんな気もした。













学校帰りにバイトをこなして、遅い時間に帰宅した。
すっかり街灯も切れてしまった暗い夜道からアパートを見上げれば、部屋に灯りがついていない。
ゾロはコンビニに寄ってくればよかったと、後悔した。
と、真の闇となった塀と電信柱の間に人の気配を感じて振り向く。
亡霊のような男が、そこに立っていた。




「・・・あいつはいねえぞ。」
ゾロは機嫌が悪いまま、凄みを利かせて低い声をかけた。
だが男は怯むそぶりも見せない。
ただ呆けたようにゾロの顔を凝視している。
「出てったかもしれねえ。もうここにはいねえ。とっとと失せろ。」
反論してくるなら殴るつもりで一歩前に出た。
だが男は何の感情も表さないままただゾロを見ている。

―――マジで、やばい奴なのか。
薄ら寒いモノを感じてゾロが眉を顰めると、男は口を開いた。
「…俺は、見届けたいだけだ。」
「なにを」
「あの子の幸せを。」
寒い台詞を吐いて、それでも真顔で男は視線を逸らさない。
「俺はあの子を救えなかった。無力な人間だ。なにもできねえ。ただ―――見届けたい。
 あの子が幸せになることだけを。」
「は、訳わかんね。」
ゾロはペッと唾を吐いて背を向けた。
見捨てられた負け犬が、惨めな憧れを抱いたまま拾って貰うのを待ってるような目だ。
大の大人がみっともねえ。
男は気分を害した風でもなく、また電信柱の影に身を潜めてただじっと立っている。


――――ありゃあ地縛霊だ…可愛そうに、俺が縛っちまった。

サンジの言葉が頭を過ぎる。
まったくあの阿呆め、どんだけ人を振り回せば気が済むんだ。
ゾロは腹立ちを紛らわす術もなく、乱暴に階段を上がった。



もげ落ちそうなドアノブに鍵を差し込んで、開ける。
電気をつけたら、朝出て行ったままの部屋が目の前にあった。
何か違和感を感じて、部屋中を見て廻る。
箪笥の横に置いてあったバッグ、洗面所の歯ブラシ、風呂場のシャンプーが消えていた。

「・・・畜生め。」
ゾロは無性に腹が立って、風呂にも入らずに布団を引っかぶって寝てしまった。
















サンジが居ついて以来出番のなかったアラームが、久しぶりにけたたましく鳴り響く。
ゾロはむくりと起き上がって寝ぼけ眼のまま歯を磨いた。
顔を洗って服を着替える。
冷蔵庫を開けたら賞味期限の切れた牛乳が半分残っているだけだ。
冷たいまま胃に流し込んで、学校に向かった。




「帰って、来なかったの。」
なぜかゾロより落胆した声で、ナミがつまらなそうに呟く。
「あんたたちが、喧嘩するほど仲が良かったなんてねえ。」
「だから、なにが喧嘩だかわからねえっての。ともかく荷物も消えてんだから、もうどっか行ったんだろ。」
もともと成り行きで居ついた猫みたいなもんだ。
新しい塒を見つけてそっちが気に入ったんだろう。
「それじゃ困る。俺はサンジの飯が食いたい。」
ガキ臭く言い張るルフィに、さすがにゾロもむっとした。
「ならてめーがあいつ飼えばいいだろうが、勝手に見つけて連れて帰れ!」
「どうやって見つけんだよ。ナミ、連絡先知ってっか?」
「携帯は知ってたけど、確かあんたが壊したのよね。」
ゾロはううっと詰まった。
「どうする?学校にでも電話する?」
「校門で張っとくとかな。」

ゾロは顔を上げてナミを見た。
「お前、前パトロンがどうのとか言ってたじゃねえか。そこ行ったんじゃねえのか。」
その言葉にナミは黙って首を振る。
「なんでだよ、言い切れんのか。」
「ええ、そのパトロンって人は今は塀の中よ。サンジ君が帰れるわけないわ。」
「はあ?」
ナミは、はあ…と軽く息を吐いて、制服のタイを撫でる様に直した。
しばらく逡巡してからゾロの顔を見る。
「鰐淵…って、前に贈収賄の疑いで逮捕された人、知ってる?ニュースくらい見るでしょう。」
ろくにテレビも見ないで世間に疎いゾロだが、その名前だけ走っていた。
どこぞの会社の社長だか会長だかで、別名「クロコダイル」と呼ばれる政財界の黒幕とか言われた
大物だったのに、警察にパクられたって一時世間が大騒ぎになっていたっけ。
そんな奴がサンジのパトロンだったのか?

「どうせもうすぐ保釈金積んで出て来ると思うけど、サンジ君は、鰐淵が逮捕されてから一人で住むように
 なったはずよ。」
ならば、今の時点でパトロンの元に戻った可能性はなしになる。
ゾロはふと思いついて自分の携帯を取り出した。
サンジがはじめてうちに来たとき、確かウソップとか言う奴を呼び出した筈だ。
部屋に電話はついてないから忘れていった自分の携帯を使った可能性がある。
ゾロはめったに携帯を使わない。
かかって来るのはワン切りか、登録済みの知り合いしか居ないはず。

リダイヤルを確かめて、その日かけたらしい知らない番号を探し当てた。
――――もしかしたら・・・

数度の呼び出し音の後、「はい」と男の声がした。
「もしもし。」
「あ、ゾロ?」
「なんでわかる。」
「一応登録してあるから。」
「・・・そうか。」
「あのー・・・で、なんの用でしょうか。」
「あいつ、知らねえか。」
「サンジ?知らないけど、昨日から学校にも来てないんだよ。」
「・・・そうか、他に心当たりは?」
「うーん・・・」
「あるんだな。」
「い、いいいいや、行き先に心当たりはねえよ。」
「なら何に心当たりあんだ?」
「え、えええと」
「言え!」
「あわわ・・・」
携帯を持ったまま凄み出したゾロの頭を一発はたいて、ナミが横から取り上げた。
「もしもし、今からゾロがあなたに会いに行くから、悪いけど話してやってくんない?」
「ええっ、っていうかあなた誰?」
「私はナミ。ゾロの友人よ。このままじゃ私たちも迷惑だから、なんとかゾロとサンジ君を合わせたいの。」
「でもまだ午後も授業が・・・」
「サボりなさい。」
「・・・はい。」
ウソップは小さな携帯を握り締めながら、ゾロって奴も怖いけど、ナミって人もおっかねえなと身震いした。


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