それすらも恐らくは平穏な日々 13

「まあ、せっかくだからお夕飯食べてらっしゃいな。」
奥さんが熱心に引き止めてくれる。
けどやんわりと断ってくれたのはたしぎだ。
「ダメよ叔母さん。ゾロには待ってくれてる人がいるんでしょ。」
冷やかすように笑うたしぎの後ろで、師匠が穏やかに微笑んでいる。
まるで…
まるでくいなが生きて、成長したような姿だ。
ゾロは幻のような光景に半ば見蕩れていた。


偶然出会ったくいなそっくりの女、たしぎはくいなの従姉妹だった。
ずっとアメリカで育って、大学は日本を選んだらしい。
親戚を頼って師匠の家を訪問したたしぎに、ゾロ以上に驚いたのは師匠夫妻だった。
死んだくいなが成長したようなたしぎの姿に、師匠の奥さんは泣き崩れてしまってさすがの師匠も慌てていた。
「これから4年間、こちらでお世話になるわ。」
笑うたしぎは、あの頃のくいなと変わらない頼れる姉貴みたいな雰囲気がある。
ただしくいなより、かなり間が抜けているようだが。

そんな訳で、にわか親子水入らずみたいになった師匠たちを置いて、ゾロは家路に着いた。
一緒に食卓を囲むのも悪くなかったが、多分アパートにはサンジが待っている。
ただいまと扉を開けたら咥え煙草で、でも嬉しそうな顔でお帰りと言ってくるのだ。
そう思ってゾロは急ぎ足で歩いた。


なのに―――











「遅え…」
時刻はとっくに日付を回った。
一向にサンジが帰ってくる気配はない。
一緒に暮らし始めて、ゾロが遅くなったことはあってもサンジが家にいなかったことはなかった。
こんなことは初めてだ。
―――なんか事故にでも遭ったか。
帰るに帰れない状況になったのだろうか。
携帯を持ってないから連絡を取りたくても取れないんじゃないだろうか。
ゾロはやきもきして熊のように部屋の中を歩き回った。
飯も何も食ってない。
インスタントラーメンがあるから軽く喰うことはできるが、そんな気になれないのだ。



待てよ―――
冷静に考えろ。
あいつは成り行きでこの部屋に住みついた奴だ。
いつふらりと出て行っても、おかしくはない。
別の塒を見つけて、荷物は後で取りに来るとか言って姿を消してしまっても不自然じゃあない。
奴がいつまでもこの部屋に住んでるなんて保証は、どこにもないんだ。

ゾロは食器棚の中を見た。
揃いのカップがきちんと並べておいてある。
洗面所には二人分の歯ブラシ。
タオルはこまめに取り替えられて、部屋の隅には綿埃一つ落ちてない。
あいつが、この部屋を去るときがないなんて言い切れない。
奴の気紛れ一つで俺はこの生活を失うのか。
唐突に湧き上がる焦燥感が、ゾロを急激に追い詰めた。
窓の外で小さく言い合うような声が聞こえた。
反射的に振り向いて、窓を開ける。


階段の手前、手すりに手をかけて振り向いた金色のつむじはサンジだ。
もう一人、どこかの男が縋るように絡み付いてる。
一瞬、以前見た死神みたいな男を思い出して、ゾロは部屋を飛び出した。





「だーかーら、離せってーの!俺、覚えてねーもん。」
「ねえ、もう一度だけでいいから。ね、俺の部屋いこ。もう一回だけ…」
サンジは酔っ払いみたいな男の顔にじーっと顔を近づけた。
ああ〜と素っ頓狂な声を出す。
「思い出した!俺に玩具突っ込んでイかせてばかりだったインポ野郎!!!」
大声に、ゾロが足を踏み外して階段から転げ落ちた。









「大丈夫か。」
ちょんちょんとオキシドールを塗ってやる。
シュワっと広がる白い泡は、退治された黴菌だってついこの間まで信じてた。
「痛くねーの。」
「別に。」
さして痛がりもせず、ゾロは仏頂面のままだ。
階段の上から下まで転がり落ちたのに、脛を擦りむいただけで済んだ。
つくづく丈夫な奴だと思う。
サンジも酔いがどこかに行ってしまった。
絡んでいたどこかの中年オヤジは、突然振って来たゾロに鬼みたいに睨まれて慌てて逃げていってしまった。

「なんだよ、あの野郎はよ。」
「う〜ん、前に一度寝たことある奴だと思う。あんま覚えてねー…」
「てめえは覚えてなくても、向こうはしつこく覚えてんだろが!」
なんか、ゾロが怒ってる。
サンジはしゅんと肩を落として小さくなった。

「大体こんな夜中になんてこと言ってんだ、みっともねえ。」
吐き捨てるようなゾロの言い草に、さすがのサンジもむっとする。
「みっともなくて、悪かったな。」
むかむかむか…
ゾロの言うことはもっともだが、サンジも今日は虫の居所が悪かった。
「ご近所に恥さらして悪いな。てめえも俺みてえなのが一緒に暮らしてっとなにかと具合悪いだろ。」
「…そんなことねえ。」
「ウソ付け!俺みたいなのが部屋にいると、彼女も連れ込めねえだろが!」
殆どけんか腰でサンジが怒鳴った。
ゾロが慌てて口に手を当てる。
「声抑えろ、今何時だと思ってる。」
「うっせ、てめえもはっきり言えよ。俺がいたら迷惑だって。」
「んなこと、ねえよ。」

サンジは煙草を取り出して、落ち着くように一服してから、箪笥の上に飾ってある写真立てを指指した。
「あれ、お前の彼女だろ。」
知ってるぞ。
俺は知ってるんだ。
なのに、ゾロは黙って首を振った。

「あいつは、くいなは俺の幼馴染だが…もう死んだ。」
サンジの目が驚きに見開かれる。
「ガキん時に死んだ。もう、いねえ。」
ふ、とサンジが顔を伏せた…と思ったら強烈な衝撃がゾロの後頭部を襲った。

軽い脳震盪を起こして畳に伏せる。
斜めに映った視界の中で、サンジは傾き加減にゾロを見下ろしている。
「俺は…ウソでも何でも吐いて、色んな奴を騙くらかして生きてきたけど…」
置いてきぼりを食らった子供みたいに、歪んだ泣き顔。
「嘘吐かれるんのは嫌なんだ、勝手だろうけどよ。」
ぽたりと、頬から水滴が落ちた。
「てめえに嘘吐かれるなんて、すげえ嫌だ。畜生。」


光る雫を残して、サンジの姿が戸口から消える。
ゾロはふらつく頭を押さえながら、何とか身体を起こした。

―――訳が、わからねえ。
追いかけることもせず、ゾロはサンジの消えた半開きのドアをただバカみたいに見つめていた。

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